京都の一人出版社「灯光舎」が出していた「本のともしび」シリーズの第五弾は内田百閒です。寺田寅彦&中谷宇吉郎、田畑修一郎、中島敦、堀辰雄と、渋い昭和文学を紹介してきました。そのラストが内田百閒というのも頷けます。

本書には7編の作品が収められています。最初に登場するのが「漱石先生臨終記」で、師と仰ぐ夏目漱石の臨終の様子だけでなく、かつて岡山駅を通過する列車に乗っていた漱石の顔を一目見ようとしたことや、内田が初めて漱石に会った時の印象などがユーモアたっぷりに描かれています。

本書の撰者「古書善行堂」店主の山本さんは、「私にとって、百閒の一番の魅力はその文章だったので、百閒の書いたものであれば何を読んでも楽しめる。」と「あとがき」に書かれていますが、私も同意見です。

「長春香」にこんな文書があります。

「焼野原の中に、見当をつけて、長野の家の焼跡に起った。暑い日が眞上から、かんかん照りつけて、汗が両頬をたらたらと流れた。目がくらむ様な気がして、辺りがぼやけてきた時、焼けた灰の上に、瑕もつかずに突っ起っている一輪插を見つけて、家に持ち帰って以来、もう十一年過ぎたのである。その時は花瓶の底の上の上薬の塗ってないところは真黒焦げで、胴を握ると、手の平が熱い程、天日に焼かれたのか、火事の灰に蒸されたのか知らないが、あつくて、小石川雑司ヶ谷の家に帰っても、まだ温かった。私は、薄暗くなりかけた自分の机の上にその花瓶をおき、暖かい胴を撫でて、涙が止まらなかった。」

1923年9月1日関東を襲った大地震の数日後、長野というかつての教え子の家の焼け跡から一輪插を持ち帰り、その後も大切にしていた著者の気持ちがよく出た文章です。

一方、「昇天」という作品は、まるで夢の中をふらふらと歩いているみたいな作品で、バックグラウンドとなる風景や自然が極めて幻想的で美しく描かれています。その一方で登場する人物はリアリティ溢れるタッチで描かれていて、読者に強く迫ってきます。この作品の魅力に引き込まれたら、名作「冥土」をお勧めいたします。

山本さんは、あまり百閒を読んだことのない人にも魅力を解ってもらえれば、という思いで選書をしたと書かれています。百閒の美しさ、幻想的感覚、妖しい魅力、そしてとぼけた様なユーモアが楽しめる一冊です。

 

寺田寅彦の「どんぐり」など、素敵な装丁の本をコンスタントに出している灯光舎。灯光舎代表が、これいい本ですよ、ぜひレティシアさんでとお持ちいただいたのが、関谷啓子著「なんでもない日々、いろいろな毎日」(灯光舎/1430円)です。

著者の関谷さんは1948年鹿児島生まれ。地元の大学を卒業後23歳の時に京都に来て、高校の教師をし、退職後は短歌結社「好日」のメンバーとして活躍されています。最初灯光舎さんには、「短歌の本は売れへんで」と言ったものの、素敵なエッセイ集だったので販売を始めました。

「わたしには、この春やっと小学生になった孫がいます。額にうっすらと汗を残す寝顔を見ていたら、この子は、私には想像もつかない未来を歩いていくのだなあと思いました。そう思ったら、わたしの今までの歩いてきた日々を伝えておきたくなりました。自分の前を歩いていた人たちの足跡から自分の位置を確認できるきっかけとなるものを残しておきたくて、この本をつくりました。」

とあとがきで書かれています。

「出会った人」の章では、鶴見俊輔や中川六平との思い出が語られ、先人が伝えた言葉が書かれています。鶴見の「何かを話したり書いたりするときは、小学四年生にもわかるかどうかをその基点としなさい」「組織の中心にいないで、少し離れたところにいなさい。ブレずにそこから見えるものを大切にしなさい。」など奥深いフレーズの数々。

退職後、友人たちと読書会を始めました。どんな本を対象にしたのかが列記されていますが、この選書のセンスに惹かれます。そのまま本を仕入れて棚を作ったら、とても素敵な書架になるはず。

「今、手もとにアンドレ・ケルテスの『読む時間』という写真集がある。一九七一年に出版されたケルテスの代表的な写真集のひとつだ。世界中のあらゆる場所で、さまざまな暮らしぶりのなかで、人々が読むときに見せる瞬間をとらえている。本を読む人々自身の姿が、ひとつの物語を紡いでいるように思える。いつかこの写真集をテキストにした読書会を開きたい。」

これはとてもいい本です!当店にも洋書版(2000円)がありますが、どのページにも読書する人の物語が詰まっています。本好きの方へのプレゼントとしてもおすすめです。

読書会のことに続いて登場するのが、当店のご近所のブックカフェ「月と六ペンス」のこと。多分、このカフェについて書かれた文章の中では、ベストかもしれません。「月と六ペンス」ファンには見逃せませんよ!

☆年始年末の営業ご案内 12月30日(金)〜1月10(火)休業。 

12/27(火)は営業いたします。

渋い文芸本シリーズ「本のともしび」を発行している地元の新興出版社灯光舎の最新刊は、中島敦です。1909年生まれ、42年に亡くなりました。本書の作品を選書した「古書善行堂」店主山本善行さんは、あとがきで、この作家をこんな風に評価しています。

「書き残された作品の世界は、それぞれ今も特別な輝きを放ち続けている。中島敦の作品は、梶井基次郎の作品と共に、日本文学の可能性を感じさせる数少ないものだと思う。この二人の作家は、その日本語の豊かさ、独特なユーモア、ものや人や自然を見る眼の鋭さは、どのような時代がきてもその価値を失わない域に達していると思う。」

「独特なユーモア、ものや人や自然を見る眼の鋭さ」は、確かに中島の特質だと思います。南洋パラオに派遣されていた時に書いた一連のものに、その特質は色濃く出ています。

本作には、南洋ものの「マリヤン」、「幸福」と教師時代の経験をもとにした「かめれおん日記」が収録されています。

「マリヤンの容貌が、島民の眼から見て美しいかどうか、之も私は知らない。醜いことだけはあるまい。少しも日本がかった所が無く、又西洋がかった所も無い。」マリヤンという女性と、パラオにいる研究者Hと著者の三人の交流を描いています。

「髪の毛が余り縮れてもおらず、鼻の頭がすっかり潰れてもおらぬので、此の男の醜貌は衆人のひん笑の的となっていた。おまけに唇が薄く、顔色にも見事な黒檀の様な艶が無いことは、この男の醜さを一層甚だしいものにしていた。」という島一番の貧しい男の夢物語を描いた「幸福」。どちらの作品もユーモアと詩的精神にあふれています。

その一方で「かめれおん日記」は、著者自身を投影した教師の、心の内奥に入ってゆく私小説的展開で、前述の2作とは全く色合いが異なります。生徒から預かったカメレオンが衰弱してゆく姿と、著者の心の葛藤と苦痛を描きこむ、こちらも見事な短編です。

 

●レティシア書房からのお知らせ  12月27日(月)は、平常営業いたします。

                 12/28(火)〜1/4(火)休業いたします。


 

 

京都の一人出版社「灯光舎」が寺田寅彦、中谷宇吉郎の「どんぐり」に続いて「本のともしび」シリーズ第二弾として発売したのが、田畑修一郎「石ころ路」(1870円)です。

田畑修一郎ってどういう人ですか? 私も注文する時に尋ねたのですが、あんまりというか、ほとんど知られていない作家です。1903年島根県に生まれ、早稲田大学文学部に入学するも、中退します。1933年「鳥羽家の子供」を発表し、芥川賞の候補になりその後の活躍が期待されましたが、43年盛岡市で取材中に体調を壊し、心臓麻痺で亡くなります。享年41歳でした。

私小説系の作家になるのであんまり好きになれないジャンルの人だなぁ〜と思いつつ読み始めましたが、最初に収録されている「木椅子の上で」の出だしが良いのです。

「私は今日もその場所へやって来た。夏になってから、暑い日盛りを私はここで半日か時にはまる一日過ごすのが日課のようになっていた。

そこは公園のはずれにある廣い雑木林で、その中を舗装道路が走っているのだが、たったそれだけのことで路のこちら側へは一日中殆ど誰もやって来ないのであった。所々に赤松だの杉だのがずば抜けて高く立っている、その下方はいたる所地面から溢れ出たような灌木や雑草の茂みで、その上には絶えず葉洩れ陽が斑らにきらきらしていた。私が勝手に自分の場所にきめたのは大きな杉の木の根元で、そこには地面に足を打ちこんだ造りつけの長い木椅子があった。私は時には子供を連れて、時には一人で、公園のプールで泳いだ後をこの木椅子に寝ころんで、午睡をしたりぽかんと枝の間から透いて見える夏至の輝きを眺めたりするのである。」

情景が映画を見ているように立ち上がってくる、こんな文章で始まります。この公園のベンチで寝ころぶことが仕事?となっている私のお話です。つげ義春の漫画の主人公のように無為な人物です。物語らしいことは、何も起きません。しかし、人生の虚しさ、孤独が文章の奥から漂って来て、そのあたりが昔のフランス映画っぽい感じです。

本書には三作品収録されています。最後の作品「あの路この路」は、人生の幸せ度0、悲惨度100の作品です。そんな小説、何が面白いの?と思われるかもしれません。

「葬式を出すと、お牧はがっくりとなった。借銭続きでもはや店も仕舞うと、身體の調子が悪いので、一時しのぎの裏町の、これもお牧に劣らず無一物の子供だけはうようよしている家の一間を借りたが、そこに入るなり寝ついてしまった。誰も介抱するものはいなかった。」

希望なんてどこにもない世界ですが、読んでいるとなぜか”心地よくなってくる”のです。それは作家の力、文章の力に依るのではないでしょうか。悲惨であればあるほど、その世界に絡め止められてしまう。文学の魅力かもしれません。

 

 

 

新しい出版社「灯光舎」を主催する面高悠さん、「恵文社一乗寺店」に勤務する涌上昌輝さん、「待賢ブックセンター」オーナー鳥居貴彦さん、「ba hutte」オーナー清野龍さんという、それぞれ本に携わっている地元京都の四人の日々を”交換日記”スタイルで小冊子にした「16日間の日記29日間の日記」(たぶんたぶん倶楽部/新刊700円)が面白い!

2020.4.27~5.12 、同年7.3~7.31、四人が順番に書いた日記を載せただけの本なのですが、ほっこりします。

清野さんは「この交換日記は僕の背中を今も押す。日常を見つめる視点の獲得、アウトプットはインプットであり、パスを出したらボールが返ってくる感覚であり(パスは自分がボールを保持していたら一生返ってこない)なによりもいま生きている、この感覚を四人で残した。」と書いていますが、「なによりも今生きている」その四人の日々の息遣いが伝わってきます。

「号泣する子を右手で抱き、左手には三輪車、さらにもう一本の手で払込用紙を持ち、残った手でATMを操作する。口座の残高は見ない。」と書くのは、父親業に(楽しみつつ)悪戦苦闘しながら、お店を回転させる鳥居さん。或いは、「八時半起き。みたらし団子で朝食。職場の短縮営業が始まってからは一日があっという間。」と、コロナ以降の変則営業に戸惑いながらも、書店にでる涌上さん(この人の食べ物の記述は楽しい)。と、何気ない日々、でもちょっとづつ変化している季節の感覚が、等身大の飾らない言葉で書かれていて、読んでいるとなんだか気分よくなってきて、自転車に乗って少し出かけようかという気分にさせてもらいました。

「エレファントカシマシの『今宵の月のように』をお供にバスに揺られて街へいく。」という書き出しは「灯光舎」の面高悠さんです。この出版社は「あるテーマをめぐって、 さまざまな著述家や芸術家に自由なまなざしで作品を表現してもらい、それらをひとつの封筒にパッケージ(&(アンパサンド))してお届けする」小雑誌「アンパサンド」を出しています。

「本」の枠を超えて(あらゆる枠にとらわれずに)、伝えたい、考えてみたい、表現したいという思いを大切にしながら、読者の思考にちょっとした刺激を与えるコンテンツを発信していきたいと思います。」という視点で出されている「アンパサンド」の二号も入荷しました。

「アンパサンド」発売記念展を、コロナ感染拡大で途中で終了せざるを得ませんでした。展覧会のために色々作っていただいたのに残念でした。この小雑誌は6号まで出ます。そのうち「アンパサンド」展のリベンジをしてみたいと思っています。

4月1日店長日誌に書いた「アンパサンド私的なるものへ第1集」刊行を記念して、版元の灯光舎と、本誌を編集した間奈美子さんが発行するインディペンデントプレス「空中線書局」のコラボによる展示会が本日より始まりました。

 

前のブログで「一つひとつの美術や著述、それぞれの作家の仕事をより見澄ますことができる雑誌の編集の形態はないだろうか。テーマが精彩をもって浮かび上がるような編集の仕方はないだろうか。新しく立ち上げられた出版社『灯光舎』のフラッグシップとなるような雑誌との話を受けて、『アンパサンド』と名付けたこの袋入りの小雑誌を計画した。」という趣旨のもと、様々なジャンルで活躍する作家が、「詩的なるものへ」というテーマに沿った作品を作り上げ、一つの袋に入れた第一号が届けられたと紹介しました。そこで、創刊号に封筒にパッケージされた作品を、開けて展示という形でご覧いただくことになりました。改めてそのスタイルの面白さを楽しんでいただければと思います。

今回の展示では、「空中線書局」刊行の本も一緒に並べました。

「遥かに鉄塔そびえる草原に架空線が続く『 Fatherland/ファザーランド』。そこを舞台とする作品」が並びました。Biblio Antenna6「メルヒェノルガン『ピンクの助』、Biblio Antenn7「Fatherland Jamboree II『ファナテイック・エイメン』」、Biblio Antenna8「書割誌『スコーラ・カイロス」、そしてLibrini4「Haik『ファザーランド・ハイキング2」。(限定300部・限定300部記番サイン入り)

製本、紙質、フォント、判型に至る造本のあらゆる細部まで緻密に構成された本が、言葉の魔術を繰り広げていきます。言葉と言葉がモンタージュされ、あるいはモンタージュされずに飛び出してくるようです。

なんかようわからん、と思われる方も、先ずは、言葉の海にダイブしてみてはいかがでしょうか。

会期中に「アンパサンド私的なるものへ第1集」「空中線書局」の本をお買い上げの方に、野中ユリ著小冊子「空中線書局 未生響さんとの出会い」をプレゼントします。

 

 

★コロナウイルス感染拡大の状況を考えて、営業時間短縮・休業もあり得ます。変更情報はHPで告知いたしますので宜しくお願いいたします。

★4月28日〜5月10日に開催予定の「Setti Handmade」(バッグと雑貨)展は、中止になりました。楽しみにしていてくださったお客様、すでにDMをお配りした方々には、大変ご迷惑をおかけしますが、ご了承くださいませ。

 

 

2019年6月京都で出版活動を開始した灯光舎。その第一弾は柳沢英輔著「ベトナムの大地にゴングが響く」(2970円)でした。

ゴングという楽器ご存知ですか?古くから東南アジアに伝わる打楽器です。著者は、ベトナムの少数民族の村々を訪れ、ゴング文化の世界を調査し成果をまとめあげました。

そして、灯光舎第二弾が出ました。封筒でお届けする小雑誌「アンパサンド」(2530円)です。今回のテーマは「詩的なるものへ」。その第一号が刊行されました。こもテーマを2年ほどかけて、全6号でアプローチします。何それ?という(私もわからない)方のために、シリーズの編集責任者の間奈美子さんの文です。

「一つひとつの美術や著述、それぞれの作家の仕事をより見澄ますことができる雑誌の編集の形態はないだろうか。テーマが精彩をもって浮かび上がるような編集の仕方はないだろうか。新しく立ち上げられた出版社『灯光舎』のフラッグシップとなるような雑誌との話を受けて、『アンパサンド』と名付けたこの袋入りの小雑誌を計画した。」

というわけで、様々なジャンルで活躍する作家が、「詩的なるものへ」というテーマに沿った作品を作り上げ、一つの袋に入れた第一号が届けられました。「詩的なるものって、別に詩人じゃなくても誰もが感受するものなんです。」と間さんはいうのですが、分かるようなわからないような「詩的なるもの」が6人のユニークな視点で提示されています。

灯光舎社長面高悠さんは「書き手が気楽に表現できる舞台、そして読者も気楽にページをめくるような小雑誌を作りたい。そういう思いがあった。厳然たる主張を世に問うものではなく、言葉通りの『小さな雑誌』という気楽さ、感じて、施工するきっかけぐらいになれば」と控えめな言い方をされていますが、いやいや、エキサイティングな企画じゃありませんか!

袋から出てくる様々なパッケージ、表現形態の作品が六つ。例えば、封書に入った遠い場所からの手紙は、手に取ったあなた(わたし)へ語りかけられています。また、見事な回文の詩が、美しい字体で綴られています。それぞれ違う手触りを楽しめる福袋のようです。頭で考え、それを言葉に変換し、最適な印刷方法を探し出す。その楽しさと工夫が詰まっています。ひとつお願いがあるとすれば、高齢者には字が小さくて読みづらいのがあるので、デザイン性を優先しつつもなんとかなりませんかね。