美味しいお酒を一杯味わって、芳醇な香りに身も心もホッとさせてくれるような素敵な本です。著者の斉藤倫は詩人。本作は詩集ではありませんけれども、詩の紹介をメインにした中身です。
しかし、ユニークなのはこの「Poetry dogs」(新刊/講談社1760円)の構成です。こんな具合に始まります。
「『いらっしゃいませ』 グラスを、ふいている手が、ふさふさしていた。バーテンダーは犬だった。ようやくすぎゆく夏のうしろ姿が見えた、という夜に、ふらりとはいった三軒めだった。」
このバーでは、「お通し」として「詩」を出しているのです。洋酒が詰まった棚に差し込まれた詩集から、マスターが、お客の気分や、オーダーしたお酒を見て詩集をさし出すのです。その雰囲気が気に入った「ぼく」は、ここに通うようになります。そこで出される詩を巡っての会話がメインになります。「第一夜」から始まり「第十五夜」で幕を閉じるのですが、31人の詩人が紹介されます。
「ぼく」はマスターに詩に詳しいの?と問いかけます。その答えは「ただしりたいだけなのです。にんげんが、物事をどのようにとらえるかを」
そうか、詩って「物事のとらえかた、のかたち」なのか。詩の本質を言い当てているかもしれません。
「色とりどりのボトルに、本のまじった棚からマスターは一冊を選ぶ。つきだしがわりの詩。もはやそれを待ちのぞんでいたじぶんに、ちょっとおどろく。なんだか、お薬お出ししますね、という口調に似てたけど。」
と、詩にのめりこんでゆく「ぼく」。読んでるこちらも、詩集の中に入り込んでしまう。ここに登場する詩の一つ一つに、いかにもという解釈が付いた本であったならきっと退屈だったでしょう。しかし、犬のマスターと「ぼく」との控えめな会話のせいで、私たちもカウンターに並んで一杯飲むように詩を楽しむことができます。
マスターの蘊蓄が、また面白いのです。例えば、万葉集などの古い言葉を引き合いにだして、その当時は「男女かんけいなく、いとしいひとを、つま、と呼んだようですね、夫婦か、恋人かに、あまりかかわらず」
それを聞いて「いいねえ、それ。あはは。だいじなひとは、みんな、つまか。それだけ。なんてシンプルなんだろう。」
「にんげんの皆さまは、今後そうされたらいかがでしょう」とマスター。控えめなジェンダーへの提言などつぶやくのです。
詩集ってなかなか手を出しにくいという方も、こんな楽しい紹介本があるとちょっと読んでみようかなと思うかもしれません。できればこのバーに行って、マスターに感想を話したくなります。
もう一つ、マスターの蘊蓄です。
「旅路で馬をつないで、ひとやすみするための棒。それが、バーの語源といわれています」
本日の京都新聞の読書欄で、元書店員でいつもいい本を選ぶ鎌田氏が、この本を書評してました。やるな、お主。
「素晴らしい人生を送ることができるのに、なぜここに留まって、惨めでへとへとに疲れる生活を続けているのか?別の場所の上でも同じ星が瞬いているというのに」
〜ヘンリー・ディヴィッド・ソロー「ウォーデン森に生活」より
ブリス・ポルトラーノの文章と写真による「NO SIGNAL」(日経ナショナルジオグラフィック/新刊2420円)は、それまでの生活を捨て去って、大自然の中で生きるということに舵を切った10人の人生に迫ったものです。著者はフランス生まれの写真家で、自然と共に生きる人たちを世界各地に訪ねました。さすが、ナショナルジオグラフィックが出版するだけの素晴らしい写真がふんだんに使われている一冊。
登場するのは、ノルウェーの無人島で灯台守として暮らすエレナ、ギリシャの廃村で暮らすシルヴィア一家、フィンランドのツンドラで犬と共に生きるティニヤ、イランで古より伝わるペルシャ騎士の生活を固持する元大学教授アリ、モンゴルの少数民族と共にトナカイの遊牧をするアメリカ帰りのモンゴルの女性ザヤ、アメリカのユタ州で完全自給自足の生活を営むベンとキャサリン、等々です。
先ずは、写真を見てみましょう!よくもまぁこんな所で生きてるなぁ〜と驚いたり、共に暮らす動物たちの姿に見入ったりと、私は何度もページを繰りました。電気もガスも水道もない場所で、自分の力で生きてゆくなんてことは都会の人間には無理、と思ってしまいます。
でも、パタゴニアで夫と息子と共に牧畜を営むスカイは、こんなことを言います。
「都会に行くたびに、とてつもなく虚しさを覚えます。そして、自分がいかに自然やこの人生とつながっているかにも気づきます。鶏の鳴き声や鳥の歌声が聞こえない場所で暮らすなんて、私には理解できません」
また、ユタ州で自給自足生活を送るベンは「森の中を25キロ歩いても空腹を感じないのに、一日じゅうパソコンの前にいると腹が減るってどういうこと? まったくナンセンスな話ですよね!僕たちの体はどうしていいかわからず、怒っています。本来、一日じゅうパソコンの前に座って過ごすようにはできていないんです」と。
だからといって、彼らが現代文明を拒否しているのではありません。「むしろ現代社会が提供するテクノロジーを思慮深く活用するものだと証明している」と著者は、その印象を書いています。
何かを捨て何かを得る、というシンプルな考え方に対して、何もかも得る、という方向へ私たちは向かっています。だから息苦しいし、疲れるのかもしれません。随所にアメリカの思想家ヘンリー・ディヴィッド・ソローの言葉を散りばめた本書を読みながら、一歩留まって、自分の暮らしを支えるものを見直すのもいいと思います。
例えば、こんなシーンを想像できるだろうか。繁華街のど真ん中、多くの人が歩いている路上で、犬がどこからかゲットしてきた骨にむしゃぶりついている。観光客でごった返す京都駅のコンコースで犬が寝ている。あるいは、大通りの交差点を大きな犬が渡ろうとしている。
日本では、すぐに警察が来て犬を連れて行き、最悪の場合処分されるかもしれません。ところが、トルコの首都イスタンブールはそうではないのです。この都市の犬の殺処分は0。過去にはかなりの数の犬が殺処分されていたのですが、市民の猛抗議で中止。2021年には動物福祉のためという名目で、野良猫や犬を収容する法案が検討されましたが、こちらもやはり猛抗議で取りやめられ、現在野良犬たちは自由気まままに暮らしています。
ドキュメンタリー映画「ストレイ 犬が見た世界」(アップリンクで上映中)は、ほぼ、犬の視線で街中を行き来する彼らを描きます。独立心の強いゼイティン、フレンドリーなナザール、愛らしい子犬カルタルの三匹を中心に、彼らが見つめているトルコ社会の片隅を、覗くことになります。学校も行かず、昼間からシンナーを吸っている少年たち、あるいはシリアからやってきた難民。彼らは行くあてもなく、路上に眠り、配給される食事で飢えをしのぐ明日をもわからない日々を送っています。そんな、彼らにも犬は寄り添います。
しかし、この街の住人全てが犬に愛情を持っているわけではありません。傘で追い立てられたり、放水されたり、交通事故で命を落とす危険もあります。とはいえ基本的に彼らは自由です。そして、その自由はイスタンブールの人々との間で認められているのです。
きちんと食事をもらえるわけでもないので、腹を空かすこともあるかもしれませんが、この街で人と共に暮らすメンバーなのです。そうして生きてきたし、これからも生きてゆくよ、という犬たちの声が聞こえてきそうです。
コーランの声にワンちゃんが同調するように歌うラストシーンには感動しました。
トリュフは、高価で貴重な食材として知られています。北イタリアピエモンテ州の森奥深くに、人の手によって栽培されたこともなく、自然に育っている<白いトリュフ>があるのだそうです。そして、その貴重なトリュフがどこに生えているのかを知っているのは、数人の老人と彼らの愛犬だけです。多くのバイヤーやら料理関係者が押し寄せ、札ビラをきってその場所や探し方を求めてくるのですが、老人たちは頑として教えません。
そんな古老と愛犬たちの日常を描いたドキュメンタリー映画「白いトリュフの宿る森」」(京都シネマにて上映中)は、まるで古い西洋絵画を見ているような気分にさせてくれる素敵な映画でした。
犬を扱った映画の中で、個人的にベスト3に入ると思います。
「イヌはヒトを信じ、人もイヌを信じる。上も下もなく特別な相棒になれたとき、白いトリュフを手にする。この上なく尊くて、この上なく芳香な映画」これは動物写真家岩合光昭さんの映画へのコメントです。
主従の関係ではなく、ここに生きる生活者同士の関係。犬のハーネスにカメラを付けて、一目散にトリュフのある場所目指して突っ走るシーンの迫力は、ぜひ映画館で体験してほしいものでした。枯葉を蹴る音、荒々しい息遣い、必死に土を掘る前足の動き。初めて見る映像でした。
連れ合いを亡くしたのか、生涯独身を通しているのか、一人暮らしの老人たちは孤独です。その側で主人を見守る愛犬。使い古された家具、食器、そして服。まるでフェルメールの絵のような美しさです。
「神の贈り物であるトリュフ。人間と犬はこれほど一つになれるのだ。共に食べ、暮らし、神化したトリュフを求めて山を歩く。巡礼者のような犬と人間の営み。人間と森の幸福に耳を澄ませろ。この映画は、観る者に小さな声でそれを教えてくれている。」こちらは、料理研究家の土井善晴の言葉です。
絶対に大切なその場所を教えない彼らに、愛犬を毒殺して困らそうとする危険も迫ってきます。けれど、毎日彼らは飄々とした風情で深い森へと入っていきます。世界は全く違うのですが、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を思い出しました。
マグナム/ MAGUNUMは、ロバート・キャパ、エリオット・アーウィットらトップカメラマンが所属した写真家集団です。 そのMAGUNUMの写真家たちが撮影した犬の写真集「MAGUNUM DOGS」(日経ナショナル・ジオグラフィック社/新刊2310円)が出ました。
表紙を飾るのは、イブ・アーノルドが1958年に撮影した一枚。おそらく、スクールバスの中で、生徒と同乗した誰かの飼い犬でしょう。なんか、歌声が聞こえてきそうな楽しい作品ではありませんか。ベトナム戦争も泥沼にならず、豊かで平和なアメリカの幸福な日。
本書は「都会の犬たち」「一等賞」「海辺にて」「素顔拝見」「犬の生活」と5章に分かれています。それぞれの時代、それぞれの場所で、人々と共に暮らす犬たちの素敵な表情が、一流のカメラマンによって捉えられています。犬への愛情に、美的センス、カメラ技術が巧みに重なり、優れた表現になっています。単に犬のかわいいポートレイト集になっていないところがMAGUNUMですね。
日本の久保田博二の作品もありました。都会の四つ角を曲がる軽自動車の後部座席から身を乗り出して、咆哮している大型犬。おぉ〜、気持ちいい〜と言っているみたい。
「素顔拝見」では、オードリー・ヘップバーンやマリリン・モンロー、ジェイムズ・ディーンら往年のハリウッド俳優と愛犬の素敵なショットも収録されています。グレゴリー・ペックに撫でられている白い犬の信頼しきった気持ち良さそうな表情、オードリーと愛犬の無邪気なふれあい。表の世界ではあまり見せない俳優たちの、何気ない一瞬です。あるいは、ジャズシンガービリーホリディの足元に佇む小さな犬。真っ黒のパンツスーツ、片手にタバコ。孤高のジャズシンガーらしい姿を捉えた作品です。
「『ありふれた場所におもしろさを発見するのが写真だ….何を見るかではなく、どう見るかがとても重要になる』エリオット・アーウィット」
店内には、 MAGUNUMの全貌を捉えた「MAGUNUM/ MAGUNUM」(洋書/3000円)、ここに所属する写真家がハリウッドを撮した「MAGUNUM CINEMA」(キネマ旬報社/5000円)も置いています。この写真家集団を知るには最適の一冊です。
頭の中が180度ぐるりと回転して、世界観が変わるような本に出会いました。濱野ちひろ著「聖なるズー」(集英社/古書1400円)。2017年度開高健ノンフィクション賞を受賞しました。
で、テーマは何かというと「動物との性愛」、正確に言えば主に犬をパートナーとしてセックスを含めた生活をしている人の物語です。え?犬とのセックス?? 気持ち悪い、不愉快、などの言葉が飛んできそうですね。実際ヨーロッパの国々では法律に禁止と明文化されていますし、旧約聖書でも犯してばならないと記されています。
私も最初は読むことを躊躇しました。しかし、プロローグを読んで変わりました。著者は1977年生まれ。大学卒業後様々な雑誌に寄稿を始め、その一方、パートナーの暴力に悩まされていて、長い間もがき苦しんでいました。なんとかその地獄から脱出したいけれど、正面から向き合えないでいたと言います。「しかしそれでもなお心にわだかまり続けるのは、愛とセックスが絡まり合いながら人を変え、人を傷つけ、人を食い尽くすことがあるということがあるということと、それを私は捉え直さなければならないという思いだった。」
そして、京都大学大学院に入学。文化人類学におけるセクシャリティ研究を始めることを決心しました。30代の終わりの再スタートでした。そこで、動物性愛のことを知ります。
ただでさえ変態扱いされかねないのに、私はそうだなんてカミングアウトする人なんていないと思っていたところ、世界で唯一ドイツにだけ、動物性愛者による団体「ゼータ」の存在を知ります。ゼータの主な活動目的は、動物性愛への理解促進、動物虐待防止への取り組みなど、とHPには書かれています。
著者は会のメンバーと連絡を取り始めます。しかしドイツは世界で最も動物保護運動の盛んな国であり、そういう団体からは「ゼータ」はアブノーマル!と攻撃を受けていたりするので、信用してもらうまでかなりの努力が必要でした。
長い時間をかけて丁寧に彼らに接してゆくに従って、彼らが決してアブノーマルでもなければ、変態でもない事実を知っていきます。彼らは動物をレイプするように獣姦をする人たちではなく、対等のパートナーとして暮らしているのだと言います。最初は半信半疑だった彼女も、ドイツに行き、その生活スタイルに理解を深めていきます。
メンバーの一人ミヒャエルと接して、著者はこう考えを変えていきます。
「実際に会うまで、私は動物とセックスするという人々をどこかで恐れていたし、もしも暴虐的な性欲を動物に向ける人々だったらどうしよう、という不安も確かに持っていた。しかし、ミヒャエルはどうやらそのような人ではない。自分のセックスに苦しんできた経験がきっと彼にもあるのだろうと想像できた。」
本書は、多くのズー(動物性愛者の愛称)たちに出会い、話を聞き、ともに生活して、人間とは何か、性とは何かを問い直してゆく著者の長い旅の記録です。
「彼らに出会って、私は変わっただろうか。私が抱えてきたセックスの傷が、彼らと過ごした日々によって癒えたとは、私には言えない。だが、少なくとも私はひとつの段階を終えたと思う。怒りや苦しみから目を逸らすことはもうない。私はいま、性暴力の経験者として『カミングアウト』をしている。それは自分の過去を受け止め、現在から未来へと繋ぐ作業だ。傷は癒えなくてもいいのかもしれない。傷は傷としてそこにあることで、他者を理解するための鍵となることもあるのだから。」
偏見を捨て、知らない世界に飛び込み、自らの再生の道筋を見つけた女性の物語として読んでいただきたい傑作です。
ジョン・バーニンガム&ヘレン・オクセンバリー(絵)、ビル・サラマン(文)、谷川俊太郎(訳)による絵本「パイロットマイルズ」(BL出版/新刊1650円)は、犬が主役の絵本ですが、いやぁ〜、これはラストでジーンジーンときます。でも、決して犬好きの人ためだけに描かれた本ではありません。
年老いた犬のマイルズは足を悪くしていて、あんまり遊ばなくなったことを心配した飼い主のノーマン。お隣の発明好きのハディさんが作ってくれた飛行機は、コックピットが小さいのでラッセルテリアのマイルズにぴったりでした。昼も夜も、マイルズは大好きな飛行機に乗って飛び続けます。小さなプロペラ機が、月明かりの夜空を飛ぶシーンは、とても美しく、しかしどこか孤独を感じます。
「まもなくマイルズは さんぽに いかなくなった。たべものも ほしがらなくなった。 とぶことさえ やめてしまった。なにか かんがえているようだった。 あるひ マイルズは ねどこから よろめきでて いえから でていった。」
マイルズは、飛行機のところへと向かいます。ノーマンが優しくコックピットに乗せてやると、エンジンがかかり、滑走を始めます。操縦しているマイルズの横顔が見開きで大きく描かれているのですが、彼の表情がなんともいいのです。喜んでいるわけでもなく、悲しんでいるわけでもなく、むしろ無表情で、どこかストイックな顔つきで操縦桿を引き上げます。
自分の命の終わりを知ったマイルズは、自ら向こうの世界へと旅立っていったのでしょう。
「マイルズは とんだ、これまでになくとおく。」
「ノーマンは てを ふった。ひこうきが みえなくなるまで ふりつづけた。ゆっくり ノーマンは うちへ かえった。さよなら マイルズ」
2019年に亡くなったジョン・バーニンガムが残した絵と構想を元にして、妻のヘレン・オクセンバリーが描き、ジョンの旧友ビル・サラマンがストーリーを仕上げました。いつか必ず訪れる大切な人との永遠の別れを、マイルズという一匹の犬に託して描き上げた心に残る絵本でした。
さて、映画館が頑張って安全対策をとっていることがわかり、こちらも久々の京都シネマ。理想の農場をつくるために奮闘する夫婦のドキュメント「ビッグ・リトル・ファーム」を観てきました。
野生動物のカメラマン、映画製作者として活躍していたジョン・チェスター(本作の監督)と、妻で料理家のモリーは、殺処分寸前で保護した愛犬のトッドと都会で暮らしていました。が、トッドの鳴き声が原因でアパートを追い出されてしまいます。愛犬のため、そして、本当に体にいい食べ物を育てるため、郊外へと移り住むことを決心します。
しかし、購入した200エーカー(東京ドーム約17個分らしい)の土地は荒れ果てた農地でした。
彼らは、有機農法を基本とした自然と共生する農場作りのため、ノウハウを持っている人をインターネットで探し出し、アラン・ヨークを雇い入れ、彼を師匠と仰ぎ、土地の改良を開始します。映画は、彼らの農場作りの第一歩から撮影されています。植物も生えていなかった土地が、豚、牛、羊、鶏など多くの家畜たちとともに少しずつ良くなっていき、やがて野生の生き物たちも集まってきます。ここでは、植物も、農産物も、家畜も野生動物も、全てが手を取り合いながら、一つの生態系を形成してゆくことを目的とされています。見るも無残だった土地が、美しい風景へと変貌していきます。
しかし、自然はそう簡単な相手ではありません。害虫の発生、家畜を狙うコヨーテ等々、農場の存続を脅かす問題が次々に襲ってきます。ある日、ジョンは農場内に侵入したコヨーテを撃ち殺します。死んだコヨーテの表情を真正面から捉えたとき、ジョンはコヨーテは無用の存在だったのか、と自らに問いかけます。
そうではなかったのです。そのことを、後半映画は語っていきます。コヨーテも生態系の中で、生きる目的が存在したのです。野ネズミに散々、農作物や果物を食い荒らされて頭を抱えたこともありましたが、やがて農場にはフクロウや猛禽類が住み着くようになり、野ネズミを捕食してくれるのです。しかも、その野ネズミにさえ生きる目的を自然は用意していたのです。全ては、つながって回ってゆく、その大きな自然の流れを、美しい映像が見せてくれる90分です。
オリジナルタイトルは”The Biggest LittleFarm” ”The Biggest”は、最も大きな生態系を回している地球であり、”Little”は、その大きな生態系のほんの一部を再生した農場という意味だと、私は思いました。
1925年。ベーリング海峡を挟んでシベリア目前のアラスカの北西端に位置する小さな町ノーム。その町にとんでもない疫病が、襲いかかろうとしていました。ジフテリアです。
この病気に対抗できる唯一の手段は「ジフテリア抗毒素血清」なのですが、運悪く、町の診療所にある血清は期限切れでした。さらに、厳寒の悪天候で、港は氷結し、接岸不可能。視界ゼロで飛行機に輸送も出来ないという八方ふさがりの状況。
たった一つ、残された手段は犬ぞりによる血清搬送だけ。そして、様々な思惑はあるものの、立上がった30人の猛者たちと犬が、氷点下50度の危険極まりない氷原の疾走を開始する。もう、ここまででスペクタクル感動映画のオープニングみたいですね。これ、ゲイ・ソールズベリー&レニー・ソールズベリーによるノンフィクション「ユーコンの疾走」(光文社文庫450円)なのです。真っ白な氷原を疾駆する犬ぞりの写真は表紙に使用されていますが、犬好きには、涙ものです。
血清を運んだ距離はというと、本の中に載っている地図を見ると、気が遠くなります。このコース最大の難所、強風と生き物のように絶えず変化する氷に満ちたノートン灣を突っきって行く「氷の工場」はクライマックスです。
「気がつけば、彼は白い世界に取り囲まれていた。ホワイトアウトだ。前方に見えていたはずの水平線は、嵐の吹き荒れる曇空と、ブルーベリーヒルズの無限に続く白い僚線との間に飲み込まれてしまった。」
という状況下、この地を熟知している犬たちがひたすら走り続けていきます。空輸による血清搬送に期待していた州知事は、こう新聞に語っています。
「航空機は可能なときに飛び立つが、犬たちは可能であれ不可能であれトレイルへ飛び出していく。彼等にはただ敬服するのみである」
しかし、その後のテクノロジーの開発で、いかなる天候下でも飛行機による救出が可能になり、犬たちによる搬送は伝説になりました。この本のラストが素敵です。当時の搬送に加わった犬ぞりドライバーで最後の生き残りエドガー・ノルナーが99年1月この世を去ります。その数年前、通信社のインタビューにこう答えています。
「人助けがしたかった、ただそれだけのことさ」
なんか、渋い役者ばかりで、全編アラスカロケといった形で映像化していただきたいものです。
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我が家の愛犬マロンが、昨日の朝消えました・・・って、あんな大きい犬が??
いつもの様に朝の散歩だよ、と犬小屋を覗いたところ影も形もありません。え???・・・外に出たのか?しかし、ドアには鍵がかかっています。狭い庭や犬小屋の毛布をめくってさがしてもいない!女房も私も、えっ?えっ?で、段々とパニック状態です。
そこへ、お隣さんから、マロンちゃんが狭い通路に入り込んで動けなくなっているとの通報を受けました。家の裏にある細い空間を通って、前へ前へ進む内に戻れなくなっていたのです(通路の奥で詰まったって感じ)。この通路は、もう一匹の細めの犬ラッキーが時々遊びにいく道。バラの生垣もあり、人が行き来する幅もない上、奥で行き止まりになっているし、まさか大きなマロンが入り込むとは思いませんでした。
だけどなんで、こんな狭い所に??
そう言えば、前夜半、雷が轟いていました。多分、その音にビックリして逃げ込んだのかもしれません。犬が雷の音を苦手にしているのは、佐々木倫子の「動物のお医者さん」の主人公のチョビの受難で知っていましたが、我が家の犬もどうやらそうだったのですね。(普段は何かと怖がりのラッキーの方は、雷は大丈夫だったみたい。)
なんとか助け出さねばなりません。こんな時、火事場の馬鹿力ってホントにあるんですね。普段なら、絶対に登れないような壁をよじ上りました。その上をマロンの頭の方までほふく前進して、鼻面を少し蹴り、ご近所の方にマロンの後方からシャッター棒を首輪にひっかけて引っ張ってもらい、なんとか抜け出させました。一時は、消防に連絡までして大騒ぎになりましたが、出動に至らず事なきを得ました。ご近所のお仕事中のみなさま、月曜日の朝からお騒がせして申し訳ありませんでした。
ああいう状態の時って、異常に喉が乾くんですね。それにしても、普段使用しないような筋肉の使い方をしたので、もう今日は肩も、腕も、腰も痛んでます。マロンはというと、いつから細い通路にはさまっていたのか判りませんが、背中が濡れていたものの、そのあと元気にお散歩して、あとは爆睡。暢気な犬です。