1945年九州生まれの作家村田喜代子を読んだのは、実はこれが初めてでした。「耳の叔母」(書肆侃々房/新刊1870円)は、1987年から2006年にかけて文学雑誌に掲載された短編八つをまとめたものです。ズバリ、内容も、作品の展開も、文体も面白かった。

「雷蔵の闇」。これは、映画館に隣接している映画の看板描き屋さんの仕事場にあるトイレの話です。

「便所は土間の奥にあった。ドアを開けると中からツーンと干草に似た匂いがした。汲取り便所だがめったに使う人間がいないので、長いあいだに溜まった糞尿は古く、枯れているのだった。しゃがんで用を足していると、ぼそぼそと便所の壁のむこうから雷蔵の声が響いてきた。コンクリートの壁一枚を隔てて、場内から漏れてくるようなのだ。」

この映画館に入り浸っている中学生の「私」が見た便所。作者あとがきで、「初期の私の発想の源泉はトイレが多かった。恐れと闇と懐かしさがあの暗い穴の中には潜んでいる。」と書かれています。生まれた時から明るく清潔なトイレで用を足す世代には想像できないかもしれませんが、昔のトイレには「恐れと闇と懐かしさ」が確実に存在していました。また、映画館の巨大な看板絵も消滅してしまいましたが、スターの顔の部分部分が散らばっている仕事場は、奇妙で幻想的な場所であったはずで、そのあたりの描写は実際にその風景を知らない人にも、ググッと迫ってきます。

もう一つ、作者にとってイメージの源泉になっているのが、ケーブルカーだったそうです。「北九州は八幡の街を抱くように聳える皿倉山に、そのひしゃげた形の山電車が運行していた。学校の教室の窓から見ると、とろとろとろと寒暖計の水銀柱が伸びるように、子どもたちの眼を盗むようにして上り下りしている。」と、あとがきにあります。

本短編集の巻頭も、芥川賞を受賞した「鍋の中」直後に書かれたという「鋼索電車」です。

「ケーブルカーがひしゃげているおかげで、わたしの年中春霞のかかったような頭の中では、一種の混乱が起こるのだった。地軸の混乱、角度の混乱である。ケーブルカーを平坦な地面に置いたら、内部の座席はいったいどんなようすになるのだろう。床はどうなるか、壁はどうなるか、窓はどうなるか。」

16歳の「私」の疑問を中心にしながら、止むに止まれぬ事情で離れ離れになる姉弟の悲しみに、ケーブルカーの動きを組み込ませて物語はラストへと向かっていきます。

それぞれに短編小説の面白さを堪能できます。タイトルになっている「耳の叔母」の、奇妙でおどろおどろしい世界もオススメですが、63歳から71歳の助産婦が勤める「花蔭助産院」は、ベテランのおばあさん助産婦の姿を描いて、ソフトフォーカスのかかったカメラで撮影したポートレイトみたいな雰囲気がありました。大きな枝ぶりの桜の下で、新しい白衣を着た彼女たちが写真に収まるラストシーンは、まるで映画のようでした。

流石にご当地九州の出版社、書肆侃々房が出しただけのことがあります!

「引き潮になると水は入江に吸収されて潟湖はなくなる。汚らしい灰色の砂地が広がっているだけで、ところどころに濃い影のように海水がたまっている。水たまりでは、運がよければ蛸の赤ちゃんがみつかるかもしれないし、点々のついた橙色の蟹の古い殻や、沈没したおもちゃのボートの残骸があったりもする。潟湖には橋がかかっていて、そこから下の小さな水たまりをのぞきこむと、海水やイグサや雲の切れはしと一緒くたになった自分の姿が見える。そして夜には、ぼやけた月がひっそりと、水底に映っていることもある。」

という印象的な描写で始まるジャネット・フレイムの「潟湖 ラグーン」(白水社/古書1300円)。滑り出しの文章に魅了されて、この短編集を読みました。

ジャネット・フレイムは、ニュージーランドの作家で2004年になくなりました。大学卒業後、教師になりますが、1947年自ら精神病院に入院して統合失調症と診断されます。52年、ロボトミー手術をされそうになりますが、その時にデヴュー作である本書が、ヒューバート・チャーチ記念賞を受賞し、手術を免れます。のちにロンドンで受診し直したとき、統合失調症は誤診だったと判明しました。

この短編集には24編が収録されています。幼い時の思い出、日常の暮らしの一片を切り取ったもの、あるいは精神病院での体験や姉の死など、自伝的内容が反映された作品が並びます。

「それぞれ自分の五シリングを握りしめ、きらきらした物欲しげな目で、道や空や草や、道行く人たちを見つめました。家を持ち、自分の人生を生きている人たちを。それから、金曜日、お買い物の日というわくわくする小さな渦巻きの中でぐるぐるまわったあと、病院の生活という、死んだようによどんだ水に戻るのでした」

「ベッドジャケット」という作品の一節ですが、著者の病院生活を反映しています。入院中に執筆された本書ですが、しかし特殊な環境にいる自分の疎外感や狂気を表に出すことなく、捉えた対象を冷静に、客観的に見据えて生き生きと描き出していきます。

「わあ、わあ、と私は言いました。何か言いたくて、でもほかに言うことがなかったのです。わあ、わあ。世界はおいしくて、食べ物みたいでした。丘のてっぺんでは風がどうっと吹いていて、ときどきカモたちが黒いダイヤ形になって飛んでいきました。」(「子供」より)

ここでは、世界をこんな風に瑞々しく捉えています。子供が海岸で凧あげをする様子が描かれていますが、本書の表紙写真は、このシーンでしょう。眩しくて爽やかな風が、こちらにまで吹いてきそうです。

なお、フレイムの自伝「エンジェル・アット・マイ・テーブル」は、映画「ピアノレッスン」のジェーン・カンピオン監督の手で映画化されています。彼女もニュージーランド出身です。

 

☆レティシア書房からのお知らせ  勝手ながら3/1(水)臨時休業いたします。

小川洋子最新の短編集です。(集英社/新刊1815円)ただただひれ伏すしかない、というのはちょっと大げさかもしれませんが、どの作品もう〜んと唸りながら読み終わりました。彼女の文学的境地の最高地点だと思います。

全て「舞台」がテーマにはなっていますが、没落した役者の人生とか、ステージを駆け上がる役者たちの群像とかいうような直球ど真ん中の物語はありません。動物をテーマにした「いつも彼らはどこかに」でも、ストレートに動物を主役に据えることはなく、極めて変化球的な物語で私たちを幻惑させてくれた作家ですし。

金属加工工場で働く父親を待っている幼い娘が、工場の片隅に散らばっている工具や部品を使って、バレエ「ラ・シルフィールド」を作り描く「指紋のついた羽」。歯医者で埋め込まれたブリッジから小さな生物が生まれてくる「鍾乳洞の恋」。自室で死亡した一人暮らしの女性の、ベッドの下から出てきた得体の知れないものを描く「花柄さん」など、幻想と恐怖という初期の小川洋子が持っていた世界を巧みに持ち込みながら、他人には理解できないような孤独を描き出していきます。ある種の異様な設定が、異様で終わることなく究極の美に昇華してゆくところが、彼女の真骨頂でしょう。

極め付けは、「装飾用の役者」です。金持ちの老人が広大な自宅内に建てた劇場に役者として雇われたコンパニオンを生業とする女性。しかし、女性はその舞台で演技をするのではありません。

「私は装飾用の役者でした。そこは劇場ではありましたが、正式な意味でお芝居が上演されることはありませんでした。劇場もまた、装飾です。」

「舞台の上に、いるだけでいいのです。そこで、生活するのです。」そして時たま、オーナーの老人がやってきて、いつもの席に座って舞台の上の彼女を見つめるのです。

「私の一日は全く、退屈の一言です。もっとも重要な役目が、舞台に存在すること、ただその一点なのですから、どうしようもありません。舞台のスペースは私のアパートより広いものの、ずっとそこに閉じこもっているとなれば話は別です」

グロテスクな設定なのですが、舞台をこんな風に捉えた小説って多分なかったと思います。食い入るような老人の視線、黙って舞台で生活する彼女の観られ続ける時間を静かに描いていきます。

「いけにえを運ぶ犬」の主人公の男は、偶然に行くことになった音楽会で始まったストラヴィンスキーのバレエ組曲「春の祭典」で聞こえたファゴットの音で、小さい町に来ていた「馬車の本屋」を思い出します。正確には馬ではなく、大きな犬に引かれた本屋なのですが、そこでの少年の日々。「春の祭典」の主要なモチーフの一つでもある「いけにえ」というテーマを見事に小説に仕上げた傑作だと思います。「春の祭典」を聴きながら読んでみてください。

異次元への扉を開く舞台という世界。そのライブ感の高揚と、終わった後の空虚な気持ちをもたらしてくれるような気がします。何度も繰り返しますが、傑作です!

 

東山彰良。1968年台湾生まれ。幼少の時に広島に移住し、日本で暮らし始める。2002年「ダート・オン・ザ・ラン」で第1回「このミステリーがすごい!」で大賞を受賞。これは私も読みましたが、とてつもなく面白かった記憶が残っています。その後も推理ものでヒットを飛ばして、15年「流」で直木賞を受賞し、純文学の方へも進出してきました。東山の初めての短編集「どの口が愛を語るんだ」(講談社/古書1200円)は、かなりニューウェイブな作品が並んでいます。

「猿を焼く」は、象徴的なタイトルかなぁと思って読んでいると、本当に少年たちが猿を焼くシーンが登場します。苺農家をやろうと一念発起した都会暮らしの両親と九州に移住した少年が主人公で、意地の悪いクラスメイトや、主人公の少年を殴ったあと団地から飛び降り九死に一生を得た不良、全く未来を信じていない少女などが登場します。

九州の疲弊した田舎町の退屈な日々に埋もれそうになりながら足掻く少年に、重苦しい現実がのしかかり、少女をおもちゃみたいに扱うヤクザ崩れの男の飼っていた猿を殴り殺し、火を付けてしまう。出口の見えない閉塞感に、押し潰れそうになる少年の儚く淡い心情を描いていきます。大島渚や羽仁進の往年の映画を思い出すような、ザラッとした感覚が私は好きです。

「政府が同性婚の合法化を認めた時、立法院のまえに集まった数百人の支持者たちは腹の底から歓声をあげた」で始まる「恋は鳩(はと)のように」では、台湾に住む同性カップルが描かれます。。同性婚の合法化に喜ぶアンディと、彼が愛する詩人で、「地下室」というペンネームで呼ばれる中年男との恋模様を描いていきます。

「地下室はうれしくないの?ぼくたちは結婚できるようになったんだよ」と喜びを隠しきれないアンディに対して「この状況をどう理解していいのか、まだよくわからないだけだよ」と冷めた感じを崩さない地下室。二人の恋愛感情の絡み合いと、地下室を取り巻く人々を描く作品です。艶かしいけれど、クールな雰囲気を持つ作品です。

「無垢と無情」はゾンビが蔓延(はびこ)る世界で、生き延びた者たちのオンラインミーティングが繰り広げられ、感染した家族を殺すべきか、殺して自分も死ぬべきか、それとも生きる覚悟を持つべきなのか、極限状態の人々のむき出しの感情が炸裂する作品です。両親と妹を「バットで二度ずつ殴りつけ、家の外に押し出してドアに鍵をかけた。」主人公の将来に光はないと思って読んでいたのですが、ラストはそうではないんです。後味がいい作品でした。

最も短い「イッツ・プリティ・ニューヨーク」は、他の三編とは全く違い、ウエルメイドなアメリカ映画を観た気分になります。「第一志望ではない人生?いいじゃないか!」そんなラストの台詞がピッタリの作品で、ちょっと口笛を吹きたくなりますね。

私は、時代小説を読まない。めったやたらと漢字が連なる名前の人物たちが、大挙登場すると頭の中が大混乱して、誰が誰の配下なのかも解らなくなるからです。

しかし、「化物蠟燭」(朝日新聞社/古書1200円)は、面白かった。まず、短編であること。偉そうな武士が登場しないこと。ちょっと怪奇小説風の趣向があること。何より、江戸前の落語家がイキのいい声で、江戸の市井に生きる男たちや女たちのことを語ってくれているような世界が展開していきます。

「夜番」に登場する、お冴という酒場を営む年増の女性が「ちょいとね、頼まれごとをしてほしいのさ」と主人公の乙次に言いよるあたりは、女形の上手かった今は亡き桂歌丸師匠に語って欲しかった。乙次や、嫉妬で殺された平蔵の亡霊も、イキな江戸言葉なのです。

「そりゃあ、恨んでも恨み切れやせん。けど死んでまで構う奴でもねぇんです。己のうまく行かないことを他人になすりつけるような奴は、うっちゃっておいてもどうせろくなことにならねぇ」

とは、職場の人間の妬みで殺された平蔵の台詞。ポンポンと飛び出す小気味よい会話が堪能できる一編です。

この短編集には、江戸の町を生きる様々な職人たちが登場します。彼らが聞く事になる、この世とあの世の境目にいるものたちの声。それは、恨みであったり、悲しみであったり、色々です。そんな彼らの思いを何とかしてやろうと東奔西走する職人たちと、彼らを支える逞しく明るい女房たち。

「『わっちも下手なこたぁできねぇな。どっかで目が光っているのだ』神妙な気持ちで言うと、そうだよ。しっかりやらないと、先人が怒って出てくるよ』両手を幽霊のようにぶらりと前で垂らして見せてから、お甲は『嫌だ、この人、真っ青になってるよ』と、弾かれたように笑い、そそくさと次の牡丹餅に手を伸ばした』」

という「化物蠟燭」に登場する影絵師の富右治と、その女房お甲の会話など、これなんか立川談志師匠の声で聞きたいものです。「お後はよろしいようで」と言う声が聞こえてきそうです。