「政治の原語はギリシアの都市、つまり、我々が住んでいる町といふ意味の言葉から転化したもので、経済の語源は家といふギリシア語である。そしてこれでも解る通り、炉返の幸福をしっかり掴んでいなければ、政治も経済も健全な発達を遂げるものではないし、この基礎的な感情を忘れてどんなに文化人的に利いた風なことを言ってもどうにもならない。先ず炉返の幸福、である。」

吉田健一のエッセイ「乞食王子」に入っている「炉返の幸福」の一節で、坪内祐三著「考える人」(新潮文庫300円)の「吉田健一」の章に収録されています。

坪内は、吉田の文章から、こう考えます。

「政治、経済というと大問題のような感じがします。しかしその政治、経済という言葉の向こうに都市や家という言葉を垣間見ると、それが一気に実質を持って迫ります。その上での炉返の幸福なのです」

朝日新聞社発行の雑誌「考える人」の中で連載されていた『考える人』というエッセイをまとめたのが、この本です。

坪内が「考える人」として取り上げたのが、小林秀雄、田中小実昌、中野重治、武田百合子、唐木順三、神谷美恵子、長谷川四郎、森有正、深代惇郎、幸田文、植草甚一、吉田健一、吉行淳之介、須賀敦子、福田恆存の論壇、文壇の大御所です。坪内は、これらの作家たちの作品論や人となりを解説しているのではありません。端的に言えば、彼らの思考が、どういう経路を辿るのか、を思考しているのです。取り上げた人物の著書を熟読し、それぞれの文章の中に、彼らの思考のベースを探してゆくスリリングな評論集です。

何が良いと言って、この本は難しくないのです。この手の評論集には、数ページ読んだだけで退屈になるものも多いのですが、一人20数ページの分量で、簡潔にまとめられています。最初に、何故吉田の文章を紹介したかと言うと、彼の著書の持ってまわった表現方法に何度も挫折した苦い経験があったからで、こんなに簡潔に社会を見つめていたのが理解できて、ここから吉田の世界に再度挑戦したくなったからです。

そういう意味で、本読み人としての坪内を信頼しています。新刊が出れば、取りあえず買ってます。彼が中学一年だった1972年をひとつの時代を「『はじまりのおわり』であり『おわりのはじまり』でもある」と捉えて、この時代を丸ごと裸にしようとした「一九七二」(文藝春秋1000円)は、彼の傑作だと確信しています。これを読むと、72年が政治、経済は言うに及ばす、文化、エンタメの分野まで目まぐるしい新陳代謝を起こしていたことが理解できます。

 

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定期的に刊行されている雑誌で、個人的に気になるものがあります。

「Coyote/コヨーテ」(スイッチパブリッシング)、「MONKEY」(スイッチパブリッシング)、「考える人」(新潮社)、「Kotoba」(集英社)等々です。どの雑誌も200ページ以上のボリューム満点で、びっしりと活字で埋まっています。読破はなかなかです。

「考える人 2015年冬号」(600円)の特集は「山極寿一さんと考える家族ってなんだ?」というテーマで、山極先生のロングインタビューが掲載されています。ゴリラ研究の第一人者で、現京大総長が、人にはどうして家族が必要だったのかを語ります。この中に150人という数字が登場しますが、これが面白い。ぜひ、お読み下さい。

翻訳家の柴田元幸責任編集が売りの「MONKEY」は、海外小説好きにはたまらん一冊ですが、海外の小説に縁遠い方でも、特集次第では結構楽しめます。

例えば2014年夏秋号は「こわい絵本」(600円)という特集です。いくつかの作品が載っていますが、ブライアン・エヴンソンの「本と女の子」は、「こわい」というよりは、「悲しい」お話です。柴田さんと穂村弘の「怖い絵本はよい絵本」という対談で、二人が「こわい絵本」をどんどん紹介していて、この特集を参考に集めてみるのも、楽しいかもしれません。

2015年夏秋号の「音楽の聞こえる話」(600円)は、音楽にまつわる小説がメインですが、音楽そのものを描いたものではありません。この特集では、海外の作家だけでなく、柴崎友香、小川洋子、松田青子らの作品も登場します。どれも、短篇ならではの魅力に溢れた作品ばかりです。松田の「天使と電子」の奇妙なタッチも、読む者をきっちりと作家の世界に引っ張ってゆく小川の「少年少女」も、ともに素敵な小品ですが、柴崎の「バックグラウンドミュージック」に引き込まれました。

ラストで、ヒロインの弟が、昨日と今日の自分の違いについて、むかし中学時代の先生から、聞いたことを語ります。

「昨日より確実に一日死ぬ日が近づいたってことや。棺桶に入る日が一日近くなったんや。」

弟の話を聴きながら、遠くをみつめる姉。この小品、もっとストーリーを膨らまして映画にしても面白かもしれません。

 

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京大総長で、霊長類学者、山極寿一さんのロングインタビュー「人にはどうして家族が必要なのでしょう」が読みたいために「考える人2015年冬号」(新潮社)を買いました。インタビューは当然面白かったのですが、この号の中に、松山巖×ジョルジョ・アミトラーノの対談「須賀敦子の愛した本、出会った人々」が掲載されていました。

 現イタリア文化会館館長のジョルジョさんが、70年代末に、須賀敦子が翻訳した「日本現代文学選」という古い本に出会います。漱石、鴎外、鏡花、太宰、谷崎、川端、一葉等々が、原作の素晴らしさを損なう事なく、イタリア語の細かなニュアンスが巧みに使われて、名訳だったそうです。日本の文学を深く愛し、ヨーロッパの人達にもわかってもらえるように細心の注意を払いながらの翻訳でした。

彼女には「遠い朝の本たち」(筑摩書房700円)という書物との幸せな出会いを綴った著作があります。凡庸な書評なんぞ足下にも及ばない、文学を、言葉を愛した一人の女性の大きな世界が広がる傑作エッセイで、私も何度か読み返しました。言葉にゆっくり、ゆっくりと揺られてリラックスできるとでも言えばよいでしょうか。

お父さんから、少女向けの「平家物語」をプレゼントされた時の事を書いた「父ゆずり」には、本との出会いが、とんでもなく楽しい事だったことが描かれています。

「父は、そのとき、私に、この本は本文も大切だが、さし絵がいいのだ、というようなことを、言った。小村 雪岱という画家の名が、それ以来、私にとって、忘れられない名前になった。 雪岱、という漢字が読めるようになって、 雪岱がえらい日本画家だということも、その本でおぼえたのだった。表紙に使った日本紙が、手のなかですこしづつケバだって行くのも、なにかこのもしい本だった。」

書物とそれに関わる人達と、彼女の人生が交錯するなかで見えてくる翳りと光を描ききった一冊です。

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