「たたって葵上を打擲した後も、それで六条御息所の心が晴れたのではない。それどころか、嫉妬に狂って、葵上を殴る自分の姿が、鏡に映ってはっと気づく。ああ、なんて醜いおのれだろう。こうして、彼女は、ますます深く暗い絶望の淵に沈んで行きながら、破れ車に乗って消えて行くのである。」

葵上への嫉妬を抑えられない六条御息所が、生霊となる能の名作「葵上」の解説です。嫉妬に駆られて怒りを爆発させたものの、自己嫌悪で愕然とするなんて、よくある事。それを「葵上」という物語の中で読み解いていきます。

「能」の解説本って、読んでいて面白いものって少ない気がします。「林望が能を読む」(青土社/古書1200円)は、著者が最初に書いているように「能の筋書きを書いたものではない。役者の秘事口伝なんてものを喋々したものでもない。ましてや、役者の演技評のようなものではさらにない。」という一冊です。物語に入り込み、いかにして読み解いていけばよいかを述べたものです。物語を解体して、その奥にあるものを引っ張り出すことがメインになっているので、能のことを知らなくても、結構面白く読めます。

例えば、自分は醜女だと信じている葛城の神が登場する「葛城」。彼女は、醜く呪われた姿を恥じながら、屈折した心情を舞いで表現していきます。けれども、観客から見ていると彼女が付けている面は、決して醜いものではなく、美しいものです。自分の容姿への引け目というのは、他人から見た欠点と一致するものではありません。ひょっとして、この女神の苦悩は、誰の心にも潜むコンプレックスを象徴しているのではないか。そして、こう言います。

「神の出る曲を、自分たちとは関係のない世界の話だと思ってはいけない。むしろ、能は、いつだって神や鬼の姿や心を借りて、私たちに普遍の『なにごとか』を語りかける芸術なのだ」

能は、古くさい伝統芸能だと思っている方も多いかもしれません。けれども、「能楽堂という建物は無いものと思ってください。青空のもと、きらきらする水面に、不思議の橋が浮かんでいる。空中の橋である。そういう超常的空間が、目前に出現している。そこに、この世のものでない『モノ』が現われる。能を観る、というのは、そういう経験なのである」という林の言葉から、想像力をフル回転させて鑑賞する、どうやらもっと自由なものらしいのです。

この世のものでない『モノ』との出会いを求めて、ちょっと能楽堂に出掛けるのも面白いかもしれません。

本日、昼から店は女房にまかせて観世会館へ行きました。私の小鼓の曽和尚靖先生が出演されている公演です。

本日のメイン演目は「船弁慶」。海路西国に逃れる義経一行に、源氏に滅ぼされた平家の武将、平知盛の亡霊が襲いかかるという、ハリウッドなら3DでSF映画にしそうなお話です。(写真は本日の舞台ではありません)

ご存知とは思いますが、能舞台の音楽を担当するのは小鼓、大鼓、太鼓、横笛の四人の囃子方そして地謡と呼ばれる歌い手です。楽器はどれもメロディーを演奏しません。かろうじて横笛がそのパートですが、これも殆ど同じフレーズの繰り返しです。地謡を担当する数人も、ひたすら地を這うような抑揚のない歌い方です。

舞台は後半、躍り出た亡霊と義経とのバトルへと突入します。もちろん、囃子方はここぞとばかりに、激しく打ち鳴らし、地謡も盛り立てます。そして主役の亡霊は長刀を振り回してダイナミックな舞いを披露します。鞭の如くしなる手が叩く鼓の音で、観客の気持ちもヒートアップしていきます。しかし、舞台を構成する演者たちは感情を押さえ込み、淡々と演奏し、そのまま終わります。カーテンコールもなきゃ、挨拶もない、無愛想な舞台です。すべての演者が去った後の舞台は、何も無かったのように冷え冷えとした雰囲気に包まれます。

ロックにしろ、クラシックにしろ、ラストで盛り上がる時は、演奏者も、観客も一気に絶頂へと向かいます。「ノリノリ」の気分という、あれですね。しかし、能舞台では、観客は緊張感から解放されて、最高の気分にさせてもらえるのに演者はクールです。数百年前に決められたとおりの音を出し、発声することがすべてです。ジャズのようなアドリブもないし、オペラのごとく会場が震えるような迫力の歌声もありません。

お稽古で、これはいい、ええ感じと思って打っていると、大抵し師匠のダメだしです。自分のリズムで打つな!とお叱りの声が飛んできます。

それでも、感動させるって、変わった芸能です。何の表情もない能面が、あ、泣いている、怒っていると見えてしまう瞬間があるなんてのも不思議です。

先生はあと一つ、観世流本家の観世清和氏と、歌舞伎や映画でも有名な「勧進帳」を「一調」という形式で演奏されました。これは、演目の一部を謡一人と打楽器奏者一人で上演する形です。静かに打ち、謡い始めたお二人が、緊張感を高めて、殺気が支配する舞台を作っていきます。こちらも研ぎ澄まされて行くというのでしょうか。成る程、能が武士の教養だったことが理解できます。(写真は一調の舞台です。本日のものではありません)

 

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朝から観世会館へ、お師匠出演の舞台を観に来ました。

演目は「小督」。金春禅竹作の、平家物語から採録したお話で、こんな具合です。

小督の局は、高倉帝の深い寵愛を受けていましたが、平清盛の娘徳子が帝の中宮となったので、清盛の権勢をはばかって宮中を去り、姿を隠してしまいます。日夜嘆いていた高倉帝は小督が嵯峨野のあたりにいるという噂を聞いて、早速捜し出す勅命を弾正大弼仲国に出します。彼は、嵯峨野の小督の隠れ家にやって来る。仲国は名月の嵯峨野を馬で馳せめぐりますが、ただ片折戸をしたところというだけが目当てなので、捜しあぐねています。やがて法輪寺のあたりで、かすかに琴の音が聞こえてくるので、耳をすますと「想夫恋」の曲です。その音をたよりにして、局の隠れ家を尋ねあて、帝の御文を渡し、返事を請います。小督は帝の思召しに感泣する。

とまぁ、こんな話を1時間20分ぐらいにまとめてあります。 お話がよくわからなくても、地謡の、特にラストちかくの、この台詞辺りから一気にノセル?感じとか、仲国の男舞とか、小気味好い大鼓と小鼓とのコラボとか、後見が、どどっと舞台途中で出て来て、嵯峨野の門を置いて、今までは嵯峨野でも何でもなかった舞台が、嵯峨野の隠れ家になってしまい(観客にはそう想像しなさいと強要してます)、仲国が門をくぐると、また後見が出て来て、門を片付け、ハイ家の中ですから、そう想像して下さいと言わんばかりに立ち去るという、能独特の早変わり舞台とか、能の面白さがよく出た作品です。

ところで、先日、京大のフランス文学教授、生島僚一の「蜃気楼」(76年岩波書店 初版900円)を見つけました。「大阪と京都の『丸善』」なんて本好きにはたまらんエッセイと一緒に能に関するエッセイが数編収まっています。能は退屈だからこそ、美しいというパラドックスから始まり、こう言い切っています

お能はごく単一な、わずかな美しいものを、ちょっと我々に見せてくれるものである。ちょっと、だから一層美しい。人間の美を観る目の弱さをよく心得て、美の押し売りをしない

美しいものを観る目を過信して貪欲になると、何も見えてこなくなるのかもしれません。


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