ヘェ〜藤沢周が、こんな本格的時代物を書くんだ!小説の王道を行く堂々たる出来栄えに感動しました。

私にとって藤沢作品といえば、「ブエノス・アイレス午前零時」とか、「サイゴン・ピックアップ」などのクールな感覚の現代物でした。それ以来、彼の著作は読んでいませんでした。

で、何でこの「世阿弥の最後」(河出書房新社/新刊2000円)に手を出したかというと、十年ほど前からお能を見たり、小鼓の稽古に通ったりしていることが大きいと思います。室町時代、能のスタイルを完成させた観阿弥と世阿弥親子。本書では、世阿弥が時の将軍によって72歳で佐渡島へ流刑された人生を描いています。

謡曲の詞章と和歌を織り込んだ道中風景が、読者を物語の世界へと誘い込みます。島に着いた当初は、都のことを思い出していましたが、この島の自然が彼の魂を鎮め、やがて、佐渡の人々と風物を愛するようになっていきます。彼の周りに登場する人物造形が巧みで、特に、たつ丸、了隠らの登場人物が世阿弥と関わることで物語がどんどん深くなってゆくところが読みどころです。

世阿弥が島に来た年は、極端な雨不足で稲作に大きな影響が出ていました。そのために島の権力者の命で、「雨乞い能」をするシーンの描写は、前半のハイライトでしょう。自然体で生き、移ろいゆく島の自然を愛しながら、能の深い世界を極めようとする世阿弥の姿が浮かび上がってきます。著者は佐渡島を眺めて育ち、武道を学び、能の体験もしたということですが、だからこそここまで描けるのでしょう。

佐渡に流され、恨みのうちに果てた順徳院の霊を鎮めようと、彼は新作能を書きます。

「いや…….、書かねばならぬ。順徳院の悶死するほどの悲しみを謡にして、仏にあずけ、弔うこと。それが佐渡にこの身を迎えてくださった順徳院への、せめてものご供養と、己れなりの覚悟にせねばならぬ。順徳院の成仏は、また己れの成仏でもあろうに。」

荒ぶる魂を鎮める能舞台が後半の読みどころです。やはり、ここでも荒々しい島の自然を巧みに取り込んで読者をクライマックスへと進めます。

実は、物語にはもう一人主人公がいます。それは彼の息子の元雅です。ただ、彼はすでに死んでいて、亡霊となって父の元に現れて寄り添います。生きている世阿弥と、死んでいる元雅が交錯するシーンが何度か登場しますが、それは、実体と霊が交錯する夢幻能の舞台を見ているようです。

「西行桜」を舞うクライマックスの舞台では、世阿弥に寄り添うよう元雅も舞います。しかし、

「私には元雅を抱くことができぬのだ。抱きしめようとしても、元雅が作った『隅田川』のように、黄泉路の国の我が子は腕をすり抜けていく。

幻に見えければ、あれはわが子か………、互に手に手を取り交はせば……、また消え消えとなり行けば……」

それでも、世阿弥は元雅を感じながらこの曲を舞い切ります。

格調高い文章は最後まで読者を離さずに、濃密なエンディングを迎えます。あぁ〜大長編を読んだ、という醍醐味を堪能できる作品です。

⭐️本の紹介をZOOMにてさせたいただく「フライデーブックナイト」。次回は9月17日(金)です。

⭐️北海道のネイチャーガイド安藤誠さんのトークショーを今年も開催します。

10月24日(日)19時スタート(2000円)要予約


 

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能楽師、安田登さんの「野の古典」(紀伊国屋書店/古書1400円)は約400ページの分厚い本ですが、サクサクと読むことができ、へぇ、古典ってこんなに面白いんだと再確認させてもらった一冊です。古典と聞いただけで、大嫌い!という声が返ってきそうですが、著者に言わせると

「中学生や高校生が目にする古典は、何度も何度も検閲の網を潜った、刺激の少ない、毒にも薬にもならないものです。目黒のサンマです。そりゃあ、面白くないのは当たり前です。」

だからこの本では、「毒がいっぱい、薬もいっぱい。不思議な神秘現象もあるし、魔物だって登場する。この世のことも、あの世のこともなんでもある。ちょっと危険な美的世界も描かれる。」そんな古典を紹介しているのです。

確かに「東海道中膝栗毛」など、現代語では書けないぐらい卑猥で、下品なもので、オリジナルの言葉で読むのがベストでしょう。

本書では、「古事記」「万葉集」「論語」「伊勢物語」「源氏物語」「平家物語」「奥の細道」など、ザ・古典というものがたくさん紹介されています。難しそう、なんて引かないで読んでみてください。できれば音読で読むよう著者も勧めていますが、なかなかいいです。ふぅ〜んそうだったのかと思うようなエピソードも、全体に散りばめられています。

各章の終わりには、原本で読むならこれを、という読書案内が付いています。なんとここで紹介されている古典は、ほぼ文庫で読めるんですよ。「それにしても、これだけ多くの古典が入手し易い形で、しかも原文付きで書店に並んでいる国というのは、実はとても珍しいのです。」だそうです。

もちろん、本業の能についても書かれていますが、「能そのものに眠くなるような仕掛けがある」と、最初にあります。確かに、能舞台をみていると眠くなることがあります。「能は眠りの芸術です。」とまで言われているので、ちょっと安心しました。

「半分起きて半分寝ている半覚半睡の意識状態になると、通常受け入れられないような不思議なことも受け入れられるようになり、それによって幻影を見ることすらできるようになります。夢と現のあわいで遊びながら『妄想力』を全開させるーそれが能なのです。」

とにかくめっぽう面白い古典案内です。様々な形で伝承されている浦島太郎伝説が、実は極めてアダルト的小説だということ。これを読んだ平安貴族の脳裏には、浦島と乙姫の激しい性行為の姿が浮かんだのは間違いなかったはずで、ポルノ目的の物語でした。ところが明治期に、子供には読ませられないとアダルトシーンを全てカットして残したという事実も初めて知りました。

因みに楽しい装画は、漫画家のしりあがり寿さんです。

 

 

 

 

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観世会館に「黒塚」を見に行きました。安達ヶ原の鬼伝説がもとになっている曲で、以前、先代の市川猿之助で歌舞伎を観て、その美しさと幻想的な舞台、そしてラスト、ロックミュージカル並みの外連味たっぷりの演技と音楽に圧倒されたので、オリジナルを前から観たいと思っていました。

巡礼の旅に出た熊野那智の山伏とその一行は、安達ヶ原で、老婆の住む粗末な小屋に一夜の宿を借りることになります。前半は老婆が自らの苦しい身の上を嘆きながら、糸を繰ります。夜も更けてきて、老婆は「留守中、決して私の寝所を覗かないでください」と頼み、山伏たちのために薪を取りに出かけます。

しかし、この老婆に不信感を覚えた山伏に仕える下男が、密かに寝所を覗くと、そこには大量の死体が積み上げられていたのです。下男の知らせで山伏は、この老婆が鬼だったことを知り、追いかけてきた鬼女に変身した老婆と対峙することになります。山伏は珠数を擦って鬼女の怒りを静めてゆくというお話です。

静かに去ってゆく老婆が、ふと立ち止まり「寝所を見ないで」と山伏に言うところが、おお〜怖わ〜です。ハリウッドのオカルト映画の比ではありません。そして、舞台に設えられた庵を山伏が覗くと、死体の山!、といっても舞台には死体なんぞありません。あるように見せるのが能の面白さ。なんだ、これ!と騒ぐ山伏の不安に同調するように、お囃子の音が一気に緊張感を高めていきます。あの「ジョーズ」で鮫が出る時に鳴る音楽みたいです。

ついに、鬼との対決。パワー全開のお囃子のサウンドと、一糸乱れぬ謡いが、興奮度をアップさせます。追い詰めた鬼が逆襲に転じた時、山伏はなんとマイケル・ジャクソンばりにムーン・ウォーカーで、後ろ向きに舞台を駆け抜けます。さらに、山伏たちが体をくねらせて鬼に立ちむかう場面、えっ?こんなダンサブルな場面って、能にあったの?と驚ろきました。もう、ストリートダンスそこのけの迫力でした。こんなかっこいい音楽と舞台を、室町時代に作っていたんですね。

能にしろ、歌舞伎にしろ、どうしようもなく眠たくなる場面があります。その時は、迷わず寝ることです。きっと、起きろ!ここやで!と舞台が呼んでくれます。そこだけ観てればいいのです。その内に、だんだん起きている時間が長くなってくるものです。この舞台でも、老婆の身の上が語られる場面は寝てしまいました。

 

♫トーク&ライブのお知らせ  

7月13日(土)18時30分より 『澤口たまみ(語り)石澤由男(ベース)ライブ』

今年1月、当店で行われた「宮沢賢治愛のうた」(澤口たまみ著)出版記念イベントのお二人のトーク&ライブが再びやってきます。澤口たまみがさんが岩手のイントネーションで賢治作品を朗読。ベーシスト石澤由男が伴奏を添えます。 朗読作品は、岩手の自然を見つめ、野原や林からおはなしを貰ってきたという「鹿おどりのはじまり」他を予定。

●18時受付開始  18時30分より (2000円)ご予約ください。

                     075−212−1772(レティシア書房)


 

         

「たたって葵上を打擲した後も、それで六条御息所の心が晴れたのではない。それどころか、嫉妬に狂って、葵上を殴る自分の姿が、鏡に映ってはっと気づく。ああ、なんて醜いおのれだろう。こうして、彼女は、ますます深く暗い絶望の淵に沈んで行きながら、破れ車に乗って消えて行くのである。」

葵上への嫉妬を抑えられない六条御息所が、生霊となる能の名作「葵上」の解説です。嫉妬に駆られて怒りを爆発させたものの、自己嫌悪で愕然とするなんて、よくある事。それを「葵上」という物語の中で読み解いていきます。

「能」の解説本って、読んでいて面白いものって少ない気がします。「林望が能を読む」(青土社/古書1200円)は、著者が最初に書いているように「能の筋書きを書いたものではない。役者の秘事口伝なんてものを喋々したものでもない。ましてや、役者の演技評のようなものではさらにない。」という一冊です。物語に入り込み、いかにして読み解いていけばよいかを述べたものです。物語を解体して、その奥にあるものを引っ張り出すことがメインになっているので、能のことを知らなくても、結構面白く読めます。

例えば、自分は醜女だと信じている葛城の神が登場する「葛城」。彼女は、醜く呪われた姿を恥じながら、屈折した心情を舞いで表現していきます。けれども、観客から見ていると彼女が付けている面は、決して醜いものではなく、美しいものです。自分の容姿への引け目というのは、他人から見た欠点と一致するものではありません。ひょっとして、この女神の苦悩は、誰の心にも潜むコンプレックスを象徴しているのではないか。そして、こう言います。

「神の出る曲を、自分たちとは関係のない世界の話だと思ってはいけない。むしろ、能は、いつだって神や鬼の姿や心を借りて、私たちに普遍の『なにごとか』を語りかける芸術なのだ」

能は、古くさい伝統芸能だと思っている方も多いかもしれません。けれども、「能楽堂という建物は無いものと思ってください。青空のもと、きらきらする水面に、不思議の橋が浮かんでいる。空中の橋である。そういう超常的空間が、目前に出現している。そこに、この世のものでない『モノ』が現われる。能を観る、というのは、そういう経験なのである」という林の言葉から、想像力をフル回転させて鑑賞する、どうやらもっと自由なものらしいのです。

この世のものでない『モノ』との出会いを求めて、ちょっと能楽堂に出掛けるのも面白いかもしれません。

本日、昼から店は女房にまかせて観世会館へ行きました。私の小鼓の曽和尚靖先生が出演されている公演です。

本日のメイン演目は「船弁慶」。海路西国に逃れる義経一行に、源氏に滅ぼされた平家の武将、平知盛の亡霊が襲いかかるという、ハリウッドなら3DでSF映画にしそうなお話です。(写真は本日の舞台ではありません)

ご存知とは思いますが、能舞台の音楽を担当するのは小鼓、大鼓、太鼓、横笛の四人の囃子方そして地謡と呼ばれる歌い手です。楽器はどれもメロディーを演奏しません。かろうじて横笛がそのパートですが、これも殆ど同じフレーズの繰り返しです。地謡を担当する数人も、ひたすら地を這うような抑揚のない歌い方です。

舞台は後半、躍り出た亡霊と義経とのバトルへと突入します。もちろん、囃子方はここぞとばかりに、激しく打ち鳴らし、地謡も盛り立てます。そして主役の亡霊は長刀を振り回してダイナミックな舞いを披露します。鞭の如くしなる手が叩く鼓の音で、観客の気持ちもヒートアップしていきます。しかし、舞台を構成する演者たちは感情を押さえ込み、淡々と演奏し、そのまま終わります。カーテンコールもなきゃ、挨拶もない、無愛想な舞台です。すべての演者が去った後の舞台は、何も無かったのように冷え冷えとした雰囲気に包まれます。

ロックにしろ、クラシックにしろ、ラストで盛り上がる時は、演奏者も、観客も一気に絶頂へと向かいます。「ノリノリ」の気分という、あれですね。しかし、能舞台では、観客は緊張感から解放されて、最高の気分にさせてもらえるのに演者はクールです。数百年前に決められたとおりの音を出し、発声することがすべてです。ジャズのようなアドリブもないし、オペラのごとく会場が震えるような迫力の歌声もありません。

お稽古で、これはいい、ええ感じと思って打っていると、大抵し師匠のダメだしです。自分のリズムで打つな!とお叱りの声が飛んできます。

それでも、感動させるって、変わった芸能です。何の表情もない能面が、あ、泣いている、怒っていると見えてしまう瞬間があるなんてのも不思議です。

先生はあと一つ、観世流本家の観世清和氏と、歌舞伎や映画でも有名な「勧進帳」を「一調」という形式で演奏されました。これは、演目の一部を謡一人と打楽器奏者一人で上演する形です。静かに打ち、謡い始めたお二人が、緊張感を高めて、殺気が支配する舞台を作っていきます。こちらも研ぎ澄まされて行くというのでしょうか。成る程、能が武士の教養だったことが理解できます。(写真は一調の舞台です。本日のものではありません)

 

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朝から観世会館へ、お師匠出演の舞台を観に来ました。

演目は「小督」。金春禅竹作の、平家物語から採録したお話で、こんな具合です。

小督の局は、高倉帝の深い寵愛を受けていましたが、平清盛の娘徳子が帝の中宮となったので、清盛の権勢をはばかって宮中を去り、姿を隠してしまいます。日夜嘆いていた高倉帝は小督が嵯峨野のあたりにいるという噂を聞いて、早速捜し出す勅命を弾正大弼仲国に出します。彼は、嵯峨野の小督の隠れ家にやって来る。仲国は名月の嵯峨野を馬で馳せめぐりますが、ただ片折戸をしたところというだけが目当てなので、捜しあぐねています。やがて法輪寺のあたりで、かすかに琴の音が聞こえてくるので、耳をすますと「想夫恋」の曲です。その音をたよりにして、局の隠れ家を尋ねあて、帝の御文を渡し、返事を請います。小督は帝の思召しに感泣する。

とまぁ、こんな話を1時間20分ぐらいにまとめてあります。 お話がよくわからなくても、地謡の、特にラストちかくの、この台詞辺りから一気にノセル?感じとか、仲国の男舞とか、小気味好い大鼓と小鼓とのコラボとか、後見が、どどっと舞台途中で出て来て、嵯峨野の門を置いて、今までは嵯峨野でも何でもなかった舞台が、嵯峨野の隠れ家になってしまい(観客にはそう想像しなさいと強要してます)、仲国が門をくぐると、また後見が出て来て、門を片付け、ハイ家の中ですから、そう想像して下さいと言わんばかりに立ち去るという、能独特の早変わり舞台とか、能の面白さがよく出た作品です。

ところで、先日、京大のフランス文学教授、生島僚一の「蜃気楼」(76年岩波書店 初版900円)を見つけました。「大阪と京都の『丸善』」なんて本好きにはたまらんエッセイと一緒に能に関するエッセイが数編収まっています。能は退屈だからこそ、美しいというパラドックスから始まり、こう言い切っています

お能はごく単一な、わずかな美しいものを、ちょっと我々に見せてくれるものである。ちょっと、だから一層美しい。人間の美を観る目の弱さをよく心得て、美の押し売りをしない

美しいものを観る目を過信して貪欲になると、何も見えてこなくなるのかもしれません。


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