ペルーの先住民族アイマラ族の言葉による長編映画として話題となり、国内外で高い評価を受け、近年のペルー映画の最高作と評された「アンデスふたりぼっち」という映画を観ました。標高5000mを越える厳しい自然の中に、ポツンと建つ家に住む老夫婦が主人公で、この二人以外の人間は出てきません。

都会に出た息子が戻るのを待つ、妻パクシと夫ウィルカ。アイマラ人の伝統的生活を営み、二人はリャマと羊と暮らしていました。寒い夜を温めてくれるポンチョを織り、コカの葉を噛み、日々の糧を母なる大地のパチャママに祈るという生活です。

穏やかな気候のもとで、毛刈りをして、畑を耕す二人。まるで小津映画に登場するような老夫婦の、穏やかな日々を描いてゆくのだと思って、その牧歌的雰囲気を安心して観ていました。

しかし暫くして、この二人は何のためにここで生きているのだろう?という疑問が湧き上がってきました。こんな辺鄙な所に住む両親に、息子はとっくに愛想をつかしていて音信はありません。豊穣な土地があるわけでもなく、牧場をするには歳を取り過ぎています。物質的金銭的幸せも、精神的幸せもないここで、生きる意味って何だろう。私たちは幸せになるために生きているのに、二人にとって幸せとは何?映画は、「生きる」という本質的な意味を問い詰められているように思えました。

しかし、後半、そんな私の個人的な思いなんぞ木っ端微塵にしてしまう展開が待っていました。ある日、リャマを伴って村に買物に向かったウィルカが、途中で怪我をして動けなくなってしまいます。探しに来たパクシに救助されるのですが、身体へのダメージは大きく、その後の生活に支障をきたします。その上、飼っていた羊が全て狐に噛み殺される惨劇が起きます。ズタズタになった子羊を抱き上げて泣くパクシ。土の中に埋められる羊をカメラが真正面から捉えます。

肉がなくなり、コカの葉も在庫が無くなってしまいます。さらに、ロウソクの火が家に燃え移り全焼してしまいます。年老いた二人にはなすすべもありません。残った納屋で何とか暖をとるのですが、食べるものはありません。ウィルカも衰弱していきます。困ったパクシは、可愛がっっていたリャマを襲い、泣きながら何度もナイフを刺して、肉を取り出します。が、ウィルカは死んでしまいます。

もう、このあたりで席を立とうと思いましたが、そうはさせじという強い力が画面から送られてくるみたいに、座席に縛り付けられました。ラスト、一人雪山にむかうパクシ。姥捨山みたいなエンディング。90分ほどの映画でしたが、これほど重く、辛く、素晴らしい映画は滅多にないと思いました。

監督はオスカル・カタコラ。ペルーのプーノ県アコラ生まれ、アイマラ族出身。本作は史上初のアイマラ語映画でした。が、第二作撮影中に亡くなりました。享年34歳、本作が初の長編映画であり遺作になってしまいました。残念です。

 

 

 

イタリアで大ベストセラーになった、アルプスを舞台にした長編小説「帰れない山」(新潮社クレストブックス/古書1400円)は、読み終わった時に極上の気分に浸れる小説です。二人の少年が大人になり、それぞれの道を進んでゆくところまでを、北イタリアモンテ・ローザ山麓の自然描写を交えながら描いていきます。

「光の犬」「沈むフランシス」などの著者松家仁之が、

「揺さぶられるほどに懐かしく、せつない読書体験だった。」と帯に推薦文を書いています。

登山好きの父親に連れられて山を歩いてきたミラノ育ちの内向的な少年ペリオは、牛飼いの少年ブルーノと出会います。ペリオの、ブルーノに対する最初の印象をこんな風に描いています。

「彼が来ていることは、姿を見る前に、においでわかった。少年は、家畜小屋や干し草、凝乳、湿った土、それに薪の煙といったもののにおいをまとっていた」

森や山のことを知っているブルーノに引き込まれるように、ペリオは、この地方の自然に魅入られていきます。そして二人は親友になっていきます。渓流をわたり、大自然の匂いに包まれながら、友情を深めていきますが、その一方で、ペリオと父の間には、いつしか深い亀裂が生じます。息子には理解できない父親の人生。

少年時代は終わりを告げ、ペリオはミラノに戻り、自分の人生を模索していきます。ブルーノは、生まれた場所から離れることもできず、黙々と農作業の日々をこなしていきます。そして、青年から中年へと差し掛かった二人は再会します。

「朝陽はグレノンの山頂を照らしているものの、窪地までは届いておらず、湖はまだ夜の気品を保ったままだった。夜の闇と朝の薄明かりのあわいに空があるかのように。僕は、自分がなぜ山から遠ざかっていたのか思い出せなかった。山への情熱が冷めていたあいだ、なにに夢中になっていたのかも。けれど、毎朝一人で山に登っているうちに、少しずつ山と和解できていくような気がした。」

亡くなった父親が、ペリオに残してくれた、半ば崩壊した山の家。そこをブルーノと修繕してゆくうちに父の生き方を理解してゆくようになります。

父と息子の関係、男同士の友情、そして少年が大人へと成長してゆく姿を、クラシカルな手法で、しかも野生的な描写も残しながら語ってゆきます。正統派、直球ど真ん中の作品です。

「僕にはやはり二人の父がいたのだと思った。一人はミラノという都会で二十年間一緒に暮らしたものの、その後の十年はすっかり疎遠になっていた、他人同然の父。もう一人は山にいるときの父で、僕はその姿を垣間見ることしかなかったけれども、それでも都会にいるときの父よりは良く知っていた。僕の一歩後ろから山道を登り、氷河をこよなく愛する父。その山の父が、廃墟のあった土地を僕に遺し、新しい家を建てろと言っている。ならば…..、と僕は心に決めた。都会の父との確執は忘れ、山の父を記憶にとどめるために、託された仕事をやり遂げようではないか。」

物語は終盤、過酷な運命が待ち構えているブルーノの人生へと向かいますが、山の民ブルーノらしいと納得です。山を通じて二人の人生を描く傑作でした。これ、いい役者で映画になって欲しいものです。きっと号泣します。

 

 

 

 

カメラを網にして昆虫採集をする「虫撮り」。グラフィックデザイナー菊池千賀子さんの写真展のタイトルです。菊池さんが、仕事とは別に写真を撮り始めて最初に「ハマった」のは水滴だそうです。

「雨上がりに植物や花についた丸い水玉を面白い!可愛い!と見つめていると色々なものに出会います。水滴を狙ってシャッターを切った写真に、想像もしていなかったものが写っていることがあって、そのなかに虫たちがいました。」(個展挨拶文より)

川崎市にお住いの菊池さんは、都会のごく身近にいる虫たちをカメラに収め、虫や花に興味を持ち、名前を調べていくうち彼らと友だちになっていきます。虫カゴならぬ写真に採集された虫たちは、今生きてる瞬間を全身で楽しんでいるように見えます。

黄色の花(ルドベキア・タカオ)を撮っていたとき気配を感じて見たら、同じ色の「アズチグモ」を捉えたという奇跡の一枚のタイトルは「あ・・・」です(写真・上)。菊池さんの嬉しい驚きが、そのまま伝わってきます。もちろん、この難しい花の名前は調べたのだそうです。名前がわかると、人でも街でも急に親しみが持てますよね。そして、下の写真のタイトルは「俺の背中」。ラミーカミキリの美しい背中の模様を見てやってください!自慢気なラミーさんのポーズが愛らしい。

これらの虫たちのサイズ感がわかる小さな額も並んでいます(各1000円)。実に小さいのですが、そんな彼らを見つけて、じっとファインダーを覗く菊池さんの幸せそうな様子を想像すると、こちらも嬉しくなってきます。蒸し暑い夏に、小さな虫と可愛い花の素晴らしい世界をご覧ください。(女房)

「わたしの昆虫採集 虫撮り」菊池千賀子写真展8月17日(水)〜28日(日)13:00〜19:00 月火定休日

 

 

 

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新しくできた出版社kanoaからミロコマチコの新作「あっちの耳、こっちの耳」(3520円)が発売されました。

「あっちの耳」は、東北の人たちから聞いた野生動物にまつわる物語、「こっちの耳」は、その同じ物語を動物に立って作家が創作したお話。じゃばら式で、表に人間目線、裏に動物目線のお話が表裏一体になっています。「カモシカのおはなし」「クマのおはなし」「ウサギのおはなし」「とりのおはなし」「ヘビのおはなし」「コウモリのおはなし」の六つの話が、それぞれ一枚の紙に収まり、16㎝×13cmほどのサイズですが、じゃばら式なのでずずっ〜と広げると1メートル以上にもなり、6話が一箱に入っているユニークなスタイルの絵本になっています。

 

さて、「とりのおはなし」は、こんな風に始まります。

「あれは、何年まえかの夏だったかな。実家の庭にちっちゃい池があるんだけど、うちのじいちゃんとばあちゃんがそこでペリカンを見たっていうんだよね。わたしと母は、いや、それはないでしょうって言ったんだけど、」という、「むかしむかし、ある所で」みたいな感じで進みます。この話はオチが面白くて、ペリカンと思しき鳥は、実は池にいた金魚を丸呑みしてしまって、喉が膨らんだシロサギで、じいちゃんたちはそれをペリカンと間違えたみたいなのです。ミロコマチコは、おそろしく喉が膨らんだシロサギを描きこんでいて、思わず笑ってしまいました。

その裏側で展開するのは「赤いくちばし」という、著者の創作したシロサギ側から見た絵物語です。シロサギのおばあちゃんが、孫の鳥たちに同じ出来事の顛末を話しています。両面ともミロコマチコの鮮烈な色彩感覚の絵をふんだんに見ることができます。

6話全て楽しめるのですが、私は、「クマのおはなし」が最高でした。森林調査をしていた人が、森の中でばったりとクマの子に出くわします。「子グマは1メートルくらいの大きさで、木の根っこにまえ足をかけてこちらをじっ…..と見ている。」

近くにきっと母グマがいるはずだと思ってあたりを見回しますが、発見できません。ミロコマチコの描く、深い草むらの奥でこちらを見つめている母グマの顔がなんとも魅力的。全体をグリーン系で整えた世界に対して、裏のクマ目線の「ふしぎないきもの」では、クマから見た不思議な人間といういきものが、赤を基調にして描かれています。

紙芝居が始まるようなワクワク感に包まれます。動物を見た人たちの語り口は素朴で心地良く、画面から飛び出しそうなミロコマチコの躍動感あふれる絵が素晴らしい。オススメです。

 

帯広発の雑誌「スロウ」最新71号の巻頭特集は「白樺が拓く、森と人の日々」(クナウマガジン/新刊990円)です。北海道を代表する樹木である白樺と人々の物語です。

特集記事を読んで、次のページを開けたら、「絵本作家あかしのぶこさんと考えるおはなしの可能性」という記事が目に飛び込みました。

あかしさんは、現在は知床斜里町で暮らしている京都出身の絵本作家で、福音館から何冊か絵本を出されています(全て絶版)。当店では展覧会を今まで二度開催し、今年9月21日(水)〜10月2日(日)には、新作絵本「あなほりくまさん」の原画展をしていただくことが決定しています。小さい時から動物が好きで、絵を描くことが好きだった彼女は、知床の自然に魅了され、斜里町へ移住。この地で生きる動物たちを主人公にして数々の絵本を出されました。

取材した山口翠さんは、こう書いています。

「あかしさんが絵本の中で綴る文章は、動物の視点から書かれたものがほとんどだ。だからなのか、読んでいるうち、だんだんと自分の感情が動物に重なってくる。たとえば、初めて巣の外へ出るフクロウのひなが主人公のおはなしでは、初めて目にする外の世界へのおっかなびっくりとした気持ちを。母の帰りを待つ兄弟ウサギを主人公にしたおはなしでは、草むらの中でじっと隠れている時のドキドキ感を一緒になって味わう。そんな風に、気づいたら彼らの視線から同じ世界を見ているのだ。」

熊の視線になって、フクロウの視線にもなって、知床の森の奥深さを体験する。その楽しさを味わってほしいと思います

旭山動物園・新ヒグマ舎に展示予定の、約3m✖️1.5m「ヒグマ絵巻」を描くあかしさんの姿も載っています。

☆あかしのぶこ新作絵本「あなほりくまさん」の原画展は レティシア書房2022年9月21日(水)〜10月2日(日)の予定です。お楽しみに。

「『杜』とは この場所を『傷めず 穢さず大事に使わせてください』と 人が森の神に誓って 紐を張った場」

これは、環境再生医矢野智徳さんの仕事を追いかけた、前田せつ子監督のドキュメンタリー映画「杜人」(アップリンク京都にて上映中)の最後に出てくる言葉です。「環境再生医」って聞きなれない名称ですが、傷んだ樹木や森、庭を治し再生させてゆく仕事です。

芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久は、寺の境内にある樹齢450年の桜が元気をなくしたのを機に、矢野にその原因と修復を依頼します。

「漢方では気血の流れとして人体を捉えるが、矢野さんも大地をそんな風に捉えているようだった。気血が滞れば凝り、固まり、病むように、大地も空気と水の流れを回復してあげないと病んで死んでしまう。」という彼の仕事を眺めてきました。土木工事などで無慙に分断された水脈を再生するために、重機を操り、刈り取った草木や持参した木炭なども土中に投入しながら、植物とその周囲の大地を蘇生させていくのです。

風が大地を吹き抜けてゆくように、枝を刈り、イノシシのように穴を掘り続けて、水を通していきます。

「草は根こそぎ刈るから反発していっそう暴れる」、「虫たちは葉っぱを食べて空気の通りを良くしてくれている」

彼は大地が呼吸している真実を人々に伝えていきます。

「土砂崩れは大地の深呼吸。息を塞がれた自然の最後の抵抗」

その声に耳を傾けようと、今日はこの現場、明日はあの現場と若いスタッフを引き連れて飛び回るその姿を、映画は大きな共感を持って描いていきます。

「すべての生き物たちは、自分の生活に見合った、この役割分担を担っている、いまの時代の人だけが、この環境を支えるのではなく、阻害してしまっている」とは、映画終盤での言葉です。コンクリートで固めた大地の上に超高層のマンションやビルを建て、より便利により快適に、という生活を求め続ける私たちの生き方が、いかに大地との共生に反していることか。

人間の目線だけでなく、植物の目線、動物の目線、そしてその背後に広がる地球目線で世界を見直すことの意義を教えてくれる素敵な映画です。最近は滅多に映画のパンフを買わない私が、つい買ってしまいました。完全収録のシナリオと本作品を支持する多くの女性たちの文章を熟読しました。しばらくの間店に置いておきますので、興味のある方はお申し出ください。

 

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文芸書や、エッセイ・評論を続けて読んでいると、荒唐無稽で奇怪な小説を読みたくなります。手にしたのは、荻原浩「楽園の真下」(文春文庫/古書500円)。

たしか荻原浩って、「明日の記憶」の著者だったよなと思って確認したらそうでした。これは、渡辺謙主演で映画になりましたが、五十歳で若年性アルツハイマーと診断された男の人生を描いて山本周五郎賞を受賞しました。いわば本格派の小説家が手がけたパニックホラー小説が「楽園の真下」です。

めちゃくちゃ面白かった!

志手島と呼ばれる島は、2年間で14人の自殺者が出て週刊誌でもちょっとした記事になっていました。そんな島で今度は、巨大カマキリが出現したという情報が駆け巡ります。それが本当なのかどうか知るためにフリーライターの藤間は現地に飛びます。そこで見た数十センチのカマキリ。え?なんでそんな巨大な虫が発生するの?藤間は現地にある志手島野生生物研究センターの秋村と調査を始めます。

カマキリの調査と同時に、自殺者のほぼ全てが湖への飛び込み自殺だったことも判明。さらに出た自殺者の体から、ニョロニョロと出てきた寄生虫。それがまた長い寄生虫なんです。阿鼻叫喚の場面ですね。この手の場面が苦手な方には耐えられないかも……….。

やがて、数十センチだったカマキリはさらに人間並みに大きくなり、カマで人の体をえぐりだします。もうかなり怖いんですが、先を読みたいという欲望に火がつきます。

一気にラストまで読みましたが、構成力の巧みさが際立っていました。だいたいこういうお話は、最後に群れをなして襲ってきたカマキリ軍団に自衛隊が集中砲火して全滅というものが多いのですが、これは違うのです。研究センターに閉じ込められた二人は応援も呼べず武器もない状況下、巨大カマキリがジワリジワリ近寄ってくるのです。映画「エイリアン」の第1作の怖さに似ています。

そして、ラストはハッピーエンディングではなく、ちょっと不気味な終わり方なのです。こちらはヒッチコック監督の「鳥」みたい。

秋村が、人間は他の生物を犠牲にして生きる動物であることを分かった上で、藤間にこう言います。

「そのどうしようもない身勝手さを自覚しておこうとは思ってる。いちばんどうしようもないのは、その身勝手さがわかってなくて、自分の夢物語を動物や他の人間に押しつけることだよ。くまのプーさんに頭を齧られなくちゃ目が覚めないんだろうね」

これは、私たちも自覚しておかねばならないことです。

「『セニョール、ミシラゴだ。チューパ・サングレのミシラゴだ。』 当時、ミシラゴという言葉は知らなかったが、 チューパ・サングレ(血を吸う)と聞いてその意味がつかめた。木戸や屋根の隙間から吸血コウモリが侵入してきたのだ。」

絶対に、こんな場所には旅したくはありません。さらに川には毒ヘビがうようよ。

写真家の高野潤著「風のアンデス」(学研/古書1050円)は、タイトル通り、アンデスを高原、高地、谷間、辺境、そしてアマゾン上流地帯に分けて、著者の旅の体験談を一冊にまとめたものです。

辺境への旅をしたいと思ったことはありませんが、その割にこういう本は読んできました。地球上には未知の世界が数多く存在することを教えてくれるのです。

「パタゴニアは空虚な風だけの世界、ここは風の砂漠かと思いはじめた。気持ちがすさみ、底なしの寂しさに包まれる。連日、地面をはうような横なぐりの雨にテントが襲われるため、フライシートの効果もなく床内部までびしょ濡れになる」

かと思えば、「ソンダ(猛暑による温度上昇で生まれる暴風)も生まれるほどの高温乾燥の猛暑である。ひとりで叫んで驚いたが、煙草の火先が触れただけで、頭からかぶっていたタオルがくすぶりかけ、同時に炎を上げて燃えはじめた。」

などと、超過酷な自然に向き合い、死ぬ一歩手前まで行った体験が語られます。予想のできない自然現象、不気味な毒ヘビや、猛獣と出会う危険。さらにはとんでもないエネルギーが押し寄せてくる鉄砲水、はたまた直撃されたら即死間違いなしの大きな岩石の落下など、危険、危険の旅。

なんでこんな旅に出かけるの?と逆に聞きたくなってきます。

あとがきで著者は「野生動物、雷、その怖さに怯えたかと思うと、予想もしていなかった牛が現れて不安感を与える。さらに、風や水の恐怖が待ち受けている。一転して、アマゾンに出かければ、そこには得体の知れない別種の危険や困難がひそんでいる。」

しかし、著者はこの怖さを感じつづけることが、自然の中で過ごそうとするためには、もっとも大切なことだと言います。自然に対して謙虚になれるというのです。

私のような都市生活者にとって、自然は優しさであり癒しの拠り所です。しかし、そうではない自然の方が沢山あるという事実。そして、ひょっとしたら、今騒がれている異常気象や、自然破壊の爪痕は、こんな所にこそ存在し、広がっているのではないかという、当たって欲しくない予想を感じる一冊でした。

 

 

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動物写真家の宮崎学を初めて知ったのは、野生動物の死体が、虫や小動物、そして多くの動物たちによって食べられて、骨だけになってゆく姿を撮影した写真でした。ご本人は「動物写真家」と呼ばれることを嫌い「自然界の報道写真家」と自称されているそうです。

動物を主体に撮影する他の写真家と大きく異なるのは、自分で開発した赤外線センサーとカメラを組み合わせた撮影機で動物を撮影するところです。

小原真史が宮崎との対談を元にして文章を構成した「森の探偵」(亜紀書房/古書1600円)は、いわば宮崎版森の自然界調査報告書です。方々に仕掛けられたカメラが捉えた写真を分析して、変容する自然の世界を私たちに教えてくれます。

「今は全国各地で20台くらい稼動しているから、それだけ優秀な助手がいるようなものかもしれないね。」

24時間、365日、カメラに反応するものがあればシャッターが切られるというスタイルは、当初は批判もされたと本書で語っています。

多くの作品が収録されていますが、驚くべきことは動物たちは、私たちが思っている以上に賢いという事実です。例えば、高速道路にかかっている高架橋の下に鹿が集まってくるところがあります。これ、道路上にまかれる凍結防止剤の主成分になっている塩化ナトリウムや塩化カルシウムという人口の塩を食べにきているのです。山中では貴重な塩分を、摂取できるのです。(その写真もあります)そして、人間が動物たちに与えることになってしまった塩が自然環境を変えていく可能性についても書かれています。

前述した、動物の死体が他の動物によって食べられてゆく写真も何点か掲載されています。見事としか言いようのない流れで、死体は骨だけになり、土へと帰っていきます。

「その季節に最も活動が盛んになる生物が登場しては、死体を餌として処理していきます。さっきも言ったように、肉食動物たちに持ち去られて骨髄までしゃぶり尽くされてほうぼうに分散された骨は、最終的に行動範囲の狭いノネズミや小動物たちのカルシウム源になり、徐々に土に還っていく。」

続けて宮崎は日本人の死生観をこう解釈します。

「死が次の生の出発点にもなっているから、自然の中の死というのは、物質的に終息することなく、別の生へと連綿と引き継がれていくことになる。そのことが小高い山や森に登って祖霊となり、やがて神となるという日本人の死生観にも反映されているのではないでしょうか。」

生きて、死に、そして土に還り、何もなくなる。その当たり前の事実を動物たちの生と死を通して理解する一冊です。

「肉親が火葬された際の灰を見たときに強烈な虚しさと哀しさに襲われたのですが、もしかしたらそれは、人間が一挙に物質的な終息を迎えてしまうことへの憤りだったのかもしれません。僕も死ぬときにはやはり自然に戻りたい。できればいきなり『さようなら』という火葬ではなくゆっくりと土に還る土葬とか山の中での野垂れ死にがいいなぁ。」

宮崎が半世紀をかけて撮り続けてきた作品を見ながら、彼の言葉に耳を傾けているとむべなるかなと思ってしまいます。

余談ですが、日本で「エコロジー」という言葉を最初に使ったのが誰だったかご存知でしたか?南方熊楠だったことを本書で初めて知りました。

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作家、画家、建築家、そしてミュージシャンと様々な顔を持つ坂口恭平の「土になる」(文藝春秋/新刊1870円)は、とても、とても素敵な本だ。読んだ後、深呼吸して、空を見上げたくなります。

ふとしたキッカケで始めた畑の生活、90日余の記録です。初心者の著者が、農園主のヒダカサンの助言を得て、どんどん畑にのめり込んでゆく様子が、細かく書かれています。

「畑の土作り、そして苗を植える。そこからしばらくは待たなくてはいけない。待ち遠しい、待ち焦がれる、嫌な時間だけと言うわけではない、期待も大きく膨らんでいる。待ち、待たせ、待たされる。時計で測った時間ではない時間が生まれる。落ち着かなさが少しずつ楽しみに移っていく。そうやって自分を待たせることができるようになっていく。」

著者は長い間躁鬱病に苦しんできました。2009年から毎月通院し、10年が過ぎました。それが畑を始めてから通院も服薬もやめます。土と触れることで体が楽になってきたのです。出来た野菜を収穫し自宅で料理して食べること、そして畑で仲良くなった野良猫ノラジョーンズとの交流を通して、立ち直ってゆくのです。田園風景をみて描き始めたパステル画も大きく作用しているはずです。

「土を触りながら、僕は自分の中の言葉にならないもの、聞こえにくい声にも耳を傾けることができているんじゃないかと思う。それが安心につながっているんだと思う。」

「野菜と話せるとは思わない。でも野菜や土にもまたそれぞれの言語があり、僕は知らず知らずのうちのその言語を体得してきているような気がする。土の中の状態、水の状態、葉っぱの状態、実の状態、種の状態、草たちの状態、そんなことたちが、わかる、というのとも違うのだけど、感じる、確かに僕は感じているので、次に何をすればいいのかってことが、無意識で見えているような気がする。」

畑にくる様々な生き物たち、雨、土、そしてその先に続く地球の大きさ。豊かな時間と空間を著者は体感していきます。そして、畑やノラジョーンズが、病を治すという概念から解き放ち、自分の気持ちを穏やかにさせてくれたのです。

著者が描いたパステル画集「Water」(左右社/新刊3300円)、「Pastel」(左右社/新刊3300円)を開くと、とても幸せな気持ちになってきます。著者の目に飛び込んできた風景を、あざやかなタッチで描いています。

「この山の麓で暮らしてきた、多くの人間たちと同じように、僕もここで生きている。彼らは屍となって、土に帰った。僕も土にかえるんだなあと思った。いずれ土にかえる僕が目にした風景を、明日パステル画としてあらわにすることが不思議で、それは花みたいなものか、花のような気持ちになったのは初めてだった。

人間が絵を描く。描かれた絵は僕という茎の先に咲いた花のようだと思った。」

本書を読みながらパステル画の作品集を見ると、その素晴らしさがよくわかります。