小川洋子最新の短編集です。(集英社/新刊1815円)ただただひれ伏すしかない、というのはちょっと大げさかもしれませんが、どの作品もう〜んと唸りながら読み終わりました。彼女の文学的境地の最高地点だと思います。

全て「舞台」がテーマにはなっていますが、没落した役者の人生とか、ステージを駆け上がる役者たちの群像とかいうような直球ど真ん中の物語はありません。動物をテーマにした「いつも彼らはどこかに」でも、ストレートに動物を主役に据えることはなく、極めて変化球的な物語で私たちを幻惑させてくれた作家ですし。

金属加工工場で働く父親を待っている幼い娘が、工場の片隅に散らばっている工具や部品を使って、バレエ「ラ・シルフィールド」を作り描く「指紋のついた羽」。歯医者で埋め込まれたブリッジから小さな生物が生まれてくる「鍾乳洞の恋」。自室で死亡した一人暮らしの女性の、ベッドの下から出てきた得体の知れないものを描く「花柄さん」など、幻想と恐怖という初期の小川洋子が持っていた世界を巧みに持ち込みながら、他人には理解できないような孤独を描き出していきます。ある種の異様な設定が、異様で終わることなく究極の美に昇華してゆくところが、彼女の真骨頂でしょう。

極め付けは、「装飾用の役者」です。金持ちの老人が広大な自宅内に建てた劇場に役者として雇われたコンパニオンを生業とする女性。しかし、女性はその舞台で演技をするのではありません。

「私は装飾用の役者でした。そこは劇場ではありましたが、正式な意味でお芝居が上演されることはありませんでした。劇場もまた、装飾です。」

「舞台の上に、いるだけでいいのです。そこで、生活するのです。」そして時たま、オーナーの老人がやってきて、いつもの席に座って舞台の上の彼女を見つめるのです。

「私の一日は全く、退屈の一言です。もっとも重要な役目が、舞台に存在すること、ただその一点なのですから、どうしようもありません。舞台のスペースは私のアパートより広いものの、ずっとそこに閉じこもっているとなれば話は別です」

グロテスクな設定なのですが、舞台をこんな風に捉えた小説って多分なかったと思います。食い入るような老人の視線、黙って舞台で生活する彼女の観られ続ける時間を静かに描いていきます。

「いけにえを運ぶ犬」の主人公の男は、偶然に行くことになった音楽会で始まったストラヴィンスキーのバレエ組曲「春の祭典」で聞こえたファゴットの音で、小さい町に来ていた「馬車の本屋」を思い出します。正確には馬ではなく、大きな犬に引かれた本屋なのですが、そこでの少年の日々。「春の祭典」の主要なモチーフの一つでもある「いけにえ」というテーマを見事に小説に仕上げた傑作だと思います。「春の祭典」を聴きながら読んでみてください。

異次元への扉を開く舞台という世界。そのライブ感の高揚と、終わった後の空虚な気持ちをもたらしてくれるような気がします。何度も繰り返しますが、傑作です!

 

「新章パリ・オペラ座 特別なシーズンの始まり」(京都シネマにて上映中)は観客の鳴り響く「拍手」の音に、涙が溢れたドキュメンタリーでした。

2022年、バレエの殿堂パリ・オペラ座は、世界中の劇場がそうであったようにコロナ禍で閉鎖を余儀なくされます。映画はここから始まります。三ヶ月の自宅待機の後、同年6月15日にやっとレッスンが再開されます。

「1日休めば自分が気づき、2日休めば教師が気づく。3日休めば観客が気づく」という言葉がバレエ界にあります。多くの時間を割いて、そう人生の全てをかけて練習に明け暮れているダンサーにとって、満足に練習できなかった数ヶ月の後に始まった練習は大きな試練だったことでしょう。

けれども、また踊れる!という喜びに満ちたダンサー達の様々な表情をカメラが見事に捉えていきます。ぐんぐんと熱を帯びてゆくレッスン場。ヌレエフが振り付けた、極めて難易度の高い「ラ・バヤデール」の公演に向けて厳しいレッスンをこなしていきます。

しかし、再び感染拡大に伴い、開幕直前に公演中止という決定がなされ、たった一度だけ、無観客での舞台を配信するという形で上演されました。いつもならカーテンコールの際、ダンサー達は舞台から観客席に向かって深々と頭を下げて大きな拍手に包まれるのですが、無観客のため拍手は全くありません。およそ舞台に上がる表現者達にとって、観客の拍手こそがすべてのエネルギーの源なのです。それが全く聞こえない、終演後の空虚な舞台裏の空気感をカメラはじっと見つめます。

コロナが少し落ち着き、再び再開したパリ・オペラ座で上演されたのは「ロミオとジュエット」。ファンも待ちに待った舞台、もちろん満席です。ラストの万来の拍手。これほど素敵な拍手を見た、いや聴いた記憶はありません。拍手こそすべて。舞台を作るのは表現者と、そして観客なのだという真実を再認識させてくれました。コロナ禍が長引く今、舞台を愛するすべての人に捧げられた映画でした。

 

☆レティシア書房からのお知らせ

9月11日(日)〜15日(木)休業いたします。よろしくお願いいたします。