谷口ジローのコミックは、若かったらその小市民的世界に辟易したかもしれませんが、年をとると、これがグググッ〜と心に染み込んできます。

私が最初に読んだのは「犬を飼う」です。昨年愛犬をなくしたので、この本を開くだけで涙が溢れてきます。谷口ジローといえば、夏目漱石を中心として明治の時代と文壇を描いた「坊ちゃんの時代」が有名ですが、これは全5巻の大河ドラマなので、読み切るにはちょっと根気が要ります。

その点、「犬を飼う そして猫を飼う」(小学館/古書750円)、「欅の木」(小学館/古書800円)、「歩く人plus」(光文社/1400円)、「遥かな町へ」(小学館/古書1200円)は、さらっと読めて、しかも心に残るものばかりです。

老夫婦が、新しく引っ越してきた家に残っていた欅の木を、一度は切ってしまおうとするのですが、この木を守っていこうと決意する「欅の木」には、市井に生きる人々の優しさが滲み出ています。感動的な盛り上がりがあるわけでもなく、日々を誠実に生きる人たちの哀歓を巧みに描いてる短編が並んでいます。多分、若い時にはわからなかった人生の真実がここにはあって、それを理解できる年齢になったということかもしれません、

「犬を飼う」で、年を取った犬のタムに、おばあちゃんが語りかけるシーンがあります。おばあちゃんは生きていても他の人の迷惑になるだけだから、早く死んでしまいたいと思っています。タムに向かって「あたしゃね、迷惑かけたくないんだよ…..。この子だってそう思っている。そう思っているんだよ。でもね、死ねないんだよ…..。なかなか……死ねないもんだよ。思うようにはね……。なかなかいかないもんだね」と語りかけます。

愛犬の一生を描きながら、私たちの死を見つめた名シーンだと思います。

ところで谷口は、2000年代からヨーロッパでの評価が高まり、フランスを中心に数々の芸術系統の賞を受賞しました。きっかけは「歩く人」や「遥かな町へ」などの翻訳版刊行でした。カルテイエの2007年と翌年の広告を複数の画家とともに担当し、本国フランスのブティックではカルティエに関する漫画の入った小冊子まで配布されています。「歩く人」は、どの物語も極端にセリフが抑えられています。だから、ヨーロッパの人に理解されやすかったのかもしれません。しかし、小津安二郎の映画が、ヨーロッパで圧倒的な人気を持っているのと同じく、谷口のマンガ世界には、日本人独特でありながら世界にも通用する自然観、死生観、人生観があり、受け入れられたのではないでしょうか。

「歩く人」の世界は、どこにでもある日常です。でも、ここにはホンモノの喜びと哀しみがあるのです。谷口ジローは2017年70歳でこの世を去りました。きっと天国で、彼の愛犬達と遊んでいることでしょう。

昨年2月、漫画家谷口ジローさんが死去されました。

彼の本を読んだのは、夏目漱石と彼の生きた明治時代を、丸ごと描いた全5巻にも及ぶ「坊ちゃんの時代」が初めてでした。多分、この本を読んでいなければ漱石も鴎外も読んでいなかったし、明治時代を身近に感じなかったでしょう。その後「犬を飼う」とか「神の犬」、「ブランカ」などに涙しました。

今回、追悼出版の意味合いを含めた「いざなうもの」(小学館/古書/900円)を手に入れました。この本には、内田百間「冥途」の中の一編「花火」を原作とする、未発表絶筆「いざなうもの」が収録されています。明確にこれだと断言できないものの得体の分からない世界にひきつけられてゆく主人公が登場する本作品は、全30枚の予定で執筆が死の直前まで行われていましたが、完成にいたりませんでした。その完成しなかった部分の下書きも含めて収録されています。

映画「2001年宇宙への旅」ラストで、ボーマン船長が未知に生命体にいざなわれて無限の彼方に旅立った如く、この漫画の主人公も、見知らぬ女性に誘われて不思議な旅に出掛けます。下書きのダイナミックな人物の動きを見ていると、まだまだ新しい表現に挑戦する作家の魂が見えてきそうです。

 

谷口は、小泉八雲を主人公にした「何処にか」という作品を書いていて、本作にも二作品収録されています。そのうち「茶碗の中」は小林正樹の映画「怪談」にも登場する話で、ご存知の方も多いと思います。また、この本にも入っている「魔法に山」は、サンショウウオと交信する兄弟の不思議な体験を描いたノスタルジックなファンタジーです。また彼はヨーロッパ、特にフランスで高い評価を受けています。「歩く人」が仏訳されて出版された時、フランスで人気の小津安二郎の映画みたいだと賞賛されたそうです。

古典の世界から、SFまで幅広く人間の様々な姿を描いてきた作家でした。残念です。