長谷川濬(1906〜1973)という人物をご存知の方は、動物文学に、或はロシア文学に詳しい方か、先の大戦で日本が満州に作った映画会社、満州映画協会に詳しい方ではないでしょうか。

函館新聞の主筆だった長谷川の父には、四人の息子がいました。長男海太郎はアメリカ放浪後、帰国して小説家としてデビューして、多くの作品を発表しています。次男の長谷川 潾二郎は、パリ遊学後、風景画や静物画で独自の画風を作り上げた洋画家です(写真右・猫の絵が有名な画家)。三番目が長谷川濬で、その下の弟が長谷川四郎、「シベリヤ物語」等の作品で戦後の日本文学の一翼を担い、また黒澤明がロシアで監督した「デルスウザーラ」の原作の翻訳でも知られた作家です。

それぞれ文学、美術のジャンルで名をなした兄弟の中に長谷川濬はいました。彼の戦前から戦時中の満州での活動、そして結核に苦しんだ戦後を追いかけたノンフィクションが、大島幹雄の「満州浪漫」(藤原書店1200円)です。ズバリ、面白いの一言につきる一冊です。

若い日の初恋や人妻との恋愛事件を経て、右翼の大物大川周明のバックアップで、満州に渡り満州映画協会に入社しました。この頃に動物文学の最高峰、誇り高い一頭のシベリア虎の物語を描いたバイコフの「偉大なる王」を翻訳し、戦前のベストセラーになりましたが、敗戦後、満州国の崩壊で、帰国まで地獄の日々を味わいます。戦後は、ロシア語通訳などをしながら、大物のプロモーター神彰(有吉佐和子の元夫)と共に、ドン・コサック楽団を招聘し大成功を収めるも、結核の再発で入退院を繰り返し、73年67歳の生涯を閉じます。

文学者として詩人として、満州、そしてロシア国境で彼が見続けていた夢とは一体何だったのだろうか。バイコフに出会って「偉大なる王」の翻訳に情熱を傾ける日々は、文学者の一途な姿でした。しかし、敗戦直後、満州映画協会のドン天粕正彦の最後を看取り、敗走の最中、幼い娘が自分の腕の中で高熱のため死亡するという経験ののち、帰ったきた日本での戦後の暮らしに幸せはあったのか。娘、道代の死をこう書いています。

「道代は満州の街路でー遠方の広場に苦力が一杯群がって何か朝飯をたべていた。熱いかゆか………。白い湯気が昇っていた。道代は私の腕の中で安堵したものの如く、熱いままに自ら気が抜けて行くように息絶えて行った。そして私の腕にぐったりと横たわった。」

詩人としてロシア文学者として、大陸を彷徨い苦闘した長谷川濬の、130冊にのぼる自筆ノートが存在します。著者の大島はそのノートを丹念に読み込み、彼の生涯を見事に浮き上がらせていきます。並々ならぬ力量ですが、著者の本職はなんとサーカスのプロモーターだとか。これもまた面白い。