和田誠は1959年から68年までの9年間、デザイン会社ライト・パブリシティに勤務していました。タウン誌の老舗「銀座百点」編集長から「和田さんがライト・パブリシティに務めていた60年代は、銀座がとても面白かった時期です。そこで、銀座の思い出を書いてくれませんか」と依頼を受け、執筆を開始。二年に渡った連載を一冊にまとめたのが「銀座界隈ドキドキの日々」(文藝春秋/古書1050円)です。

1959年、和田は23歳。広告デザイン会社の草分け的存在だったライト・パブリシティに入社します。ここで様々なデザインの仕事を通して、現在の和田誠ワールドを形成してゆくのですが、おどろくべきは、この会社在籍時代に作った交友関係です。業界内のお付き合いもさることながら、それ以外のところで、どんどんと広がっていきます。

例えば、ジャズが好きだった和田は、京都でのジャズコンサートの企画をやります。その時、司会を落語家にという案が持ち上がり、この企画にからんでいた作家の都筑道夫が一人の若手落語家を紹介します。それが柳家小えん。京都でのコンサートで、彼はソツのない司会をこなし、和田と大いに飲み語り、それから一年。和田のもとに彼から真打披露の案内状がきます。立川談志です。

61年、篠山紀信がライト・パブリシティに入社してきます。優れた写真テクニックを持っていたものの、超生意気な青年で、フツーはカメラマン助手からスタートするのに、オレはいやだ、最初から一本立ちすると主張して、社内でも軋轢を生んでいました。和田は、そんな彼と飲み、彼のユーモア抜群のセンスを気に入り、親交を深めて生涯の友となります。

ところで、方々で衝突する篠山のようなオトコを入社させたのは「お主、やるな」という篠山の気合いに惚れた会社の判断だったとか。今ならあり得ない採用ですね。

こんな風に、和田は多くの、才能溢れる人物たちとの知遇を得て、社内、社外で様々な仕事を引き受けていきます。彼がぐんぐん伸びてゆく様、青春時代を読むことができます。

こんなこともあったそうです。

ジャズピアニストであり作曲家、アレンジャーとしても活躍していた友人の八木 正生の家に行った時のこと。そこに高倉健がいました。しかも八木のピアノを伴奏にして歌をうたっていました。曲は「網走番外地」。八木はこの映画の音楽担当であり、主題歌のレコーディングのために、八木の家で練習していたところに、和田は遭遇したのです。

日本を代表するイラストレーターの、輝かしい若き日の軌跡をたどりながら、60年代の様々なカルチャーシーンの断片を浮き上がらせる本でもあります。

76年封切りの映画「君よ憤怒の河を渡れ」を観に行ったときのこと。健さんではなく、原田芳雄の刑事役が観たかったからですが、映画の中で、健さんが中野良子扮する牧場の娘との洞窟で濡れ場シーンがあるではないですか! で、それが「下手」の一言でした。

この人、こういう女性とからむシーンとなるとホントに下手です。自ら「不器用」と言ってましたが、ホント。でも健さんの凄い所は、それを逆手に取って、寡黙で、信義を重んじ、筋を通す男という日本的美学を自らに引き寄せたことでしょう。

任侠映画から、遺作に至るまでひたすら、そういう日本的美学を200数十本もの出演作で再生し続けた、希有な役者です。

健さんの任侠映画には、一時心酔していました。悪徳やくざの横暴に、堪忍袋の緒が切れて適地に乗り込むというワンパターンで大量生産されたプログラムピクチャーでした。特に、池部良扮する「風間重吉」と二人で殴り込みにいく道行きあたりから一気に盛り上がります。そして、血しぶきが飛ぶ修羅場となります。

私には道行き〜殴り込みで、健さんは、背負っていた義理とか、人情とか、恩義とかそういうものを一つ、一つ脱ぎ捨てていった様に見えました。そして、背中に彫られた唐獅子牡丹の刺青を晒した瞬間、極めて変な日本語ですが、「修行僧の如く無私の心で殺戮に邁進した」のではないでしょうか。彼の身体の一部みたいに宙を舞う長ドスの冷たい無機質な光、そのものみたいでした。だから、カタルシスはありませんでした。

彼の任侠映画は、公開当時、全共闘世代に圧倒的支持を受けていました。理不尽な権力に武力闘争を挑む自分たちを投影していたのかもしれません。今はもうない伝説の映画館「京一会館」オールナイトで、道行きのシーンに、拍手と、「異議なし!」と叫ぶ声が、心情的には理解できました。

ただし、その後「仁義なき闘い」をオールナイトで観た時に、学生や、ブルーワーカーの人達と一緒に、劇中で展開される人間の小賢しさや、権力闘争に翻弄されるドタバタに大笑いしていた時の方が、ずっとリアルな体験として忘れられません。

とはいえ、健さんは、やはり私には特別な存在でした。

長い間お疲れさまでした。合掌

 

 

 

 

 

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新聞を広げた時、「高倉健、文化勲章授章」の記事。

ひえぇぇぇぇぇ〜、な、なんで、今更、信じられへん、と否定的言葉が速射砲で、出てまいりました。そして、私にはこの俳優は「過去の人」だったことに気づきました。

前にこのブログにも書いた伝説の映画館「京一会館」。オールナイトで観た健さんの「唐獅子牡丹」シリーズは、学生運動盛んな頃で、京大の強面のお兄さん達が、健さんの「死んでもらうぜ」の台詞に「意義なし」、「そうだ!」と大合唱していた異様な雰囲気につられて、私も同じように声あげてました。(ライブ劇場みたいな雰囲気でした)

その後も追いかけて、健さんの居住まいの正しさと、所作の美しさに惚れ込みました。しかし、ある時、義理人情という規範だけを拠り所にして、お前は悪、お前は善なんて決めるのは、どうなんかなぁ〜と当然ながら疑問を持ちます。そんな時、深作欣二作品「解散式」で、渡辺文雄扮する親分が、こう言います。

「義理人情なんて親分が子分を好きに動かす道具じゃねえか」

ここで、健さんが体現してきた古風な任侠精神は全否定されます。そして、そんなもん、くだんねぇ!と飛び出して来た菅原文太が体現した欲望のままに生きる男の方が、高度成長時代になりふり構わず、突っ走る企業戦士の姿にも似て説得力がありました。文太はその後、上から目線のすべてを破壊していきます。それは、健さんにはマネ出来ませんでした。事実、健さんはいわゆる実録ヤクザ路線映画に、一本も出ていません。唯一それに近かった「神戸国際ギャング」(東映ではなく日活で、さらに「実録阿部定」を監督していた田中登という耽美派監督というのも異色)では、どうも居場所が悪く、共演の文太や、先日亡くなった夏八木勲たちのギラギラ感に押されまくっていました、

そんな健さんに、倉本聰は、もういいんじゃないと「冬の華」を書き、結果、見事に高倉健を「過去の人」として美しく送りだしました。

それ以降、私にとって健さんは、ただの人になり、魅力を感じることがなくなりました。個人的にわがままを言えば、「冬の華」のラストのように消えて、ある時代に燦然と輝やいた伝説の人でいて欲しかったですね。

店には、彼の本は置いていませんが、「神戸国際ギャング」や、在日朝鮮人差別を盛り込んだ「京阪神殺しの軍団」等、めったに評論されない作品ばかりを論じた松田修「映像の無頼たち」(劇書房1000円)があります。力のこもった、お薦めの一冊です。

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