これは、面白かった。今の所、今年読んだ文芸書ベスト1です。

日本文学短編のアンソロジーなのですが、発行をしているのがイギリスの大手出版社ペンギン・ブックス。洋書でおなじみの大手です。アメリカの日本文学翻訳家、研究者であり、村上春樹の作品の英訳者として知られているジェイ・ルービンに編集を依頼し、彼がセレクトし、さらに村上春樹が、収録されている作品を元に、日本文学の流れを解説した序文を掲載したのが本書です。つまり、ここに収録されている作品はすでに英訳されて出版されており、今回新潮社から日本版が出たのです。(中古/2800円 左の写真が日本版、右下が洋書です。)

春樹が序文で、「もちろん誰もが知っている『定番』もいくつか収められているが、素直に言って、そうでないものの方が数としては遥かに多い。そしてまた時代的に言っても、とても古いものととても新しいものが、文字通り隣り合って収められている。」

私もほとんど読んだことのないものでしたが、面白いのは、その作品の並べ方です。通史的に時代順に並べてあるのではなく、「日本と西洋」「忠実なる戦士」「男と女」「自然と記憶」「近代的生活、その他のナンセンス」「恐怖」「災厄 天災及び人災」というタイトルで、作品が区別されています。春樹が告白していますが、選ばれた作品で彼自身が読んだのは、たった6作品。私など柴田元幸の「ケンブリッジ・サーカス」のみでした。だから、どれも非常に興味深く読みました。よく、こんな作品翻訳したなぁ〜というのも多々ありました。

全く知らない作家もいました。「母の体で、初めて砂糖に変わったのは膣だった」という書き出しで始まる澤西祐典の「砂糖で満ちてゆく」。これ、「全身性糖化症、一般に糖皮病と呼ばれるこの進行性の病では、まず、使用されない内臓部分が、続いて表皮が糖化してゆく。」病に侵された母を介護する娘の話です。シュールな介護小説で、結末がすごい。

また、広島で被爆した直後の世界を、奇妙な虫の視点で描いた青来有一の「虫」は、強烈な印象を残します。語り手が、江戸時代の隠れ切支丹の末裔という設定で、人と神とのせめぎ合いに迫っていきます。この二人は全く知りませんでした。

春樹は、序文のタイトルを「切腹からメルトダウンまで」としています。三島由紀夫の「憂国」から、直接的あるいは間接的に東日本大震災を描いた、佐伯一麦、松田青子、佐藤友哉まで網羅して、日本の文芸を俯瞰しています。英語版を読んだ人たちの心には、どんな風に日本が映ったのか大いに気になります。

 

先日ご紹介した「数学の贈り物」に続いて、う〜む、分からん。が、面白い本を読みました。池澤夏樹著「科学する心」(集英社/古書1400円)です。「生命の原理は有機物を主体とする動的平衡である。」えっ何の事?

大学で理工学部物理学科に在籍したこともある池澤は、今までも化学的テーマでエッセイや、評論を出しています。本書は季刊誌「考える人」(新潮社)、「Kotoba」(集英社)に連載されていたものを集めて、人工知能、進化論、原子力、昆虫学など、多彩な分野にわたり、「科学する心」を目覚めさせる内容です。なんのことやら、と言う箇所も多いのですが、そこは小説家だけあって、随所に「文学的まなざし」を保持しつつ、世界を考察する刺激的な書籍になっています。

「AIが人間を征服するという説の間違いはAIに意想があると仮定しているところだ。AIには生存欲がない。スイッチを切れば、あるいはもっと乱暴にプラグを引っこ抜けば消滅する。AIはそれに抵抗しない。一寸の虫にも五分の魂と言うけれど、その五分の魂の魂がない。生きていないのだから、彼らのふるまいは擬似的な生態でしかない。」

AIとはそういう存在なのだということを、簡潔に述べます。先端の科学論だけだなく、古生物学、博物学、人類の歴史、昭和天皇が生物学者として研究の中心地にしていた、吹上御苑の生物研究所まで登場してきます。森羅万象の現象に分け入りながら、今を見つめ直していきます。

第6章「体験の物理、日常の科学」では、プラスチックについてこう語ります。

「水など自然の素材には細部がある。薄く切り出して顕微鏡で見れば細胞が見える。更に倍率を上げればもっと微細なところまで見える。プラスチックには細部はない。どこまでもただのっぺりと均質なだけ。今、我々のプラスチックへの信頼は高い。水の入ったペットボトルとパソコンを平気で一つのバッグに入れて不安に思わない。しかし、プラスチック製品はおもしろくないのだ。初めから完成されていて手を入れる余地がない。不自然であると言えないか。」

こんな感じで綴られてゆくので、少々困難な言葉に出会っても、大丈夫、読めました。難しさよりも、面白さが優った本です。

ちなみに「科学する心」という言葉は、1940年、生理学者の橋田邦彦が提唱したもの。彼は、戦前、戦中文部大臣を歴任、東條内閣の時に辞任しました。学徒動員に反対し、戦後A級戦犯として連行されようとした矢先、青酸カリを飲んで自殺。自宅玄関前で死んだ学者でした。

 

★勝手ながら、4月22(月)23日(火)連休いたします。よろしくお願いします。なお、ゴールデンウィーク中は通常通り営業いたします。(店主)

ミシマ社から出た森田真生「数学の贈り物」(新刊/1728円)を読みました……..。『「一般に、自然数のたし算とかけ算の間には、a(b +c)=ab+ac という『法則』が成り立ち、これが『分配則』と呼ばれる。」 

なんや、これ、さっぱりわからん! こらぁ、ミシマ社!お前ん所は、いつから専門書出版社になったんや!責任者、出てこんか!と本を投げつけようと思いましたが、なぜか、頭の方は読み続けようとするのです。イライラするなぁ〜と歯ぎしりしながらも読んでいくと、なんだかわからんままに、これが面白いのです。

この本、数学研究者として在野で研究を続ける著者の初の随筆集です。中学の時、古代ギリシアの数学者ユークリッドに出会い、彼の編纂した「原論」に触れます。「学校の数学で、第一巻の命題の証明を、一つずつ再現させられる授業があった。僕はこの授業が気に入って、毎週、幾何の時間が楽しみだった。」という数学少年でした。

だからと言って、この随筆集は数学に関するものではありません。一人の子供の親として、日々感じたこと、暮らしの中で気づいたことを、数学者らしい思考で書いてあります。芭蕉、道元、マルクハーン、岡潔など、多彩な人物が登場しますが、明晰な文章が読む者の心に響いてきます。いかなる権威のある機関、大学に頼ることなく、在野で研究し、発信し続けている学者の矜持があるので、(私にとっては)ややこしい数式を前にしても、この人の考えていることを知りたいと思うのかもしれません。

「自明視されていた様々な規範が、音を立てて壊れていく」のが現代だと指摘し、そんな不確定な時代を生き抜くために、「不確かな未来を恐れてパニックに陥ることは、不確かな未来は『悪い』未来であると、決めつける傲慢さの裏返しだからだ。『戸惑い(bewilderment)』は『パニック』よりも謙虚なのである。『恐ろしい未来がくる』と思考停止で叫ぶよりは、『何が起きているのかさっぱりだ』と困惑しながら、考え続けることの方が前向きだ。」という意見には、そうだ、そうだと拍手したくなりました。

最初に書いたように、すべてを理解できているとは思えませんが、う〜む、ここは手強いなと思いつつも、再度ページをめくっています。「数には、人の心の向きをそろえる働きがある。『六日後に会おう』と約束すれば、まだ来ぬ時間に向かって心が揃う。『右から二番目の椰子の木』と言えば、会話している二人の注意が、同じ木の方へ揃う。数は世界を切り分け、その切り分けに応じて、人の心の向きを揃えていくのだ。」という著者に、注目していきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

古書でそれほど高価ではなく、店に置いておきたいと思って仕入れしている画家が何人かいます。香月泰男、松本竣介、小村雪岱、熊谷守一などです。しかし、どの作家も人気が高く、価格も高騰しています。そんな中、今回「香月泰男画文集<私の地球>」(3000円)、「夫の右手」(2200円)と一緒に「香月泰男のおもちゃ箱」(新潮社/古書2200円)が入りました。

これは、香月泰男の立体作品というか、手作り玩具を野外に持ち出し大森忠が撮影をし、そこに谷川俊太郎が詩を添えたコラボ作品集です。

「絵はどこまで描いても満足とは言えぬが、玩具では威張りたい」とは画家の言葉ですが、木やブリキで制作した人形や、動物が、もう生き生きとしています。ブリキの牛が草叢にいる所を撮影した作品には、谷川のこんな詩が付いています。

「ヒトだけだ 不平に不満に不幸 自分を不の字で飾り立てるのは」

雑草を見つめる牛の口元から、静かなため息が聞こえてきそうです。木やブリキで作られた人形たちの様々なスタイルを写した「散歩に行く」の中で、帰ってきた一対の人形とそれを迎える一体に「帰れるのは幸せだ どんな小さな部屋にでも 誰ひとり待っていなくても たとえ土の下 雲の上でも 帰れるのは 幸せだ」という詩が添えられています。人形たちも楽しそうです。

また、「『おもちゃ』の思い出」と題した、香月と妻婦美子さんそれぞれのエッセイも入っています。「この部屋は私たち夫婦が晩年を過そうと思い設計した仕事場に接した四畳半の室であるが、昨今は物置の様相を呈している」と画家は書いてますが、いやいや、この部屋がまたなかなかいいのです。夫婦の愛情が感じられる、いつまでも座っていたくなるような場所。こんな場所から、人形たちが生まれているのを見ると、彼らが幸せそうなのも納得できます。

星新一のショートショートを紹介しながら、彼が予測した未来をエッセイ風にまとめた最相葉月著「あのころの未来」(新潮社/古書800円)は、科学と私たちの関係を考えるには、最適の一冊です。

星新一の本って、そんなに熱心に読んではいませんでした。彼の作品の装画を担当していた真鍋博に魅かれて、本を買った記憶があります。

でも、最相葉月が選び出した星の作品を読み、彼が数十年前に、肝臓移植、クローン、ロボット、ネット社会、キャッシュレスのカード社会を描いていたと驚きました。脳死という状態を受け入れた私たちにとって、ぞっとするのが、星の「これからの出来事」を取上げた「脳のなかの私」という章です。

大事故で、両足切断を余儀なくされた男が病室で目覚めます。「それにしても足の裏がかゆいな。女性にかいてほしいと頼むと、少し間があって、その事故で『おれ』は両足を切断されたと知らされた。錯覚が起こるのは医学的によく知られていることだという。」

これ、幻肢と呼ばれる現象で、大脳皮質に記憶された身体感覚によるもので、失う前の記憶、脳の仕業による現象です。小説では、実は男が切り取られたのは足だけだはありませんでした。腸も、心臓も、痛くなってきたはずのこめかみも全てないことを知ります。おれは生きているのか、そう錯覚しているだけなのか、薄らいでゆく意識の中で男は、いや、生きていると思い続けます。その横でこんな会話が描かれます。

「病室では電線につながれたまま溶液に浮いた脳を囲み、女医と担当医が話をしている。『生きる意欲があります。私たちも、やりがいがありますね』 別な部門では、男のからだの残された細胞をもとに臓器や筋肉や皮膚が再生中だったー」

生死の境界が限りなくぼやけていく時代だけでなく、高度な再生医療の果てに行き着く人間の姿まで見つめていたのです。最相は、「ブタ臓器を拒絶反応が起こらないよう遺伝子操作し、人間に移植する異種移植の研究も行われている」と指摘しています。

「どこまでもすげかえ可能になる人間の欲望の果てはなんだろうか。脳だけは死守するのか。」という疑問をもとに、2050年版の「これからの出来事」を、最後に書いています。シュールでおぞましいけれども、現実になりそうな結末です。

私たちのこれからの未来を、そして生きるということを、星新一の作品を読みながら見つめる一冊です。

星と名コンビと称され、『悪魔のいる天国』のように、版が変わるごとに新たなイラストを提供する程の親密な関係だったイラストレータ真鍋博が星の小説のために描いた挿絵をセレクトした「真鍋博のプラネタリウム」(新潮文庫/古書800円)もこの機会にぜひどうぞ。昭和58年発行の文庫。もちろん、絶版です。

臨床哲学者、鷲田清一の「濃霧の中の方向感覚」(晶文社/中古1400円)を、やっと読み上げました。最近では、最も時間を要した一冊でした。何度も読み返して、自分の頭に入れるのに時間がかかったのです。

現在、京都市立芸術大学学長の著者が、大阪大学に在籍していた1998年に「臨床哲学」という全国唯一の講座を始めました。「哲学を、孤独な思考としてではなく人々の対話として実行すること。哲学の作業をなにかある理論(あるいは解釈)としてではなく、さまざなな現場の人たちの智慧やふるまいから学びとる。そう、人びとのなかに『哲学』を発見する、そんなプロジェクトとしてやりなおすこと。」を主眼にしています。

著者にとって「哲学とは本来、じぶんたちが日常使っている言葉を一つひとつ丹念に吟味するなかで、論理的な推理を可能にする基礎的な概念として練りなおそうとするものだ。その意味では哲学的思考は人びとが使う日常言語という海を泳ぎ渉る。が、近代日本の哲学はそのもっとも重要な過程を省略し、輸入した概念をだれも口のしたことのない造語で翻訳したり、仏教用語をあてたりしながら、語りだされてきた。抽象する作業を省いた抽象語で組み立てられてきた。その結果、哲学が一階の生活の場ではついに始まらず、二階の書斎でのいとなみに終わるという無残である。」という認識です。

哲学を、もっと身近な存在にする。危機の時代、あるいは先の読めない時代に生きる私たちが進めべき方向を知り、ますます複雑化する社会の圧力に耐えうる知的体力を保つための言葉を探し出すのが、この本です。社会、政治、文化、教育、震災等の項目で、それぞれに論じられています。

「戦争や原発事故は、いまある社会の秩序がいつでも崩れうることを教える。ひとがいつ難民となるやもしれないと教える。そんな時にあってもしかと生き延びてゆくために、わたしたちが身につけておかねばならない能力とは何か。そこから学びとることを考えなおす時期に、いまわたしたちはいる」。だからこそ、道に迷わないような、方向感覚を見つけておこうという考えに異議はありません。

TVやマスコミの欺瞞に満ちた論調に惑わされることなく、地に足がついた生き方を模索するのは絶好の一冊です。

 

「おじさんの哲学」(原書房/古書1200円)の著者永江朗さんは、「みんな『叔父さん』を必要としている。『父』ほど権威主義的で抑圧的ではなく、かといって『兄』よりも少し頼りになる大人のアドバイスを必要としている」と書いています。

権威をふりかざす父でも、距離が近すぎの「兄」でもない「叔父さん」という存在が、どんな時代にも警鐘を鳴らしてきたという事実を、20人以上の作家の文章で明らかにしていきます。

永江さんは、1958年生まれの60歳。私とはほぼ同世代。だから、今の言論界で「叔父さん」的存在として内田樹、高橋源一郎、橋本治を並べたのを見て「同感、同感」と思いました。

「おじさんはときどき非常識なことをいいます。おじさんは常識にとらわれない。そこがお父さんとの大きな違いです。お父さんは常識的なことしかいわない。常識を押しつけるのがお父さんであり、お父さんは常識を体現している。」

著者は、内田樹の「先生はえらい」をベースにして、おじさんの非常識さを解説していきます。この3人の作家に縁のない方には、ちょっと読みづらいかもしれません。

最近の高橋源一郎の小説は、読み切るのがしんどいのですが、論評や、政治的発言には、説得力があるので、できる限り目を通しています。世の中を見つめる「目の確かさ」を信用しています。そして、橋本治。著者は「いまの世の中の見かた、さらに人生についてもひとことふたこと。でも、いっていることがよくわかんないこともある」とも書いています。

そういえば「いっていることがよくわかんないこともある」っていう橋本の文章にぶつかることがあります。「ああでもなく、こうでもなく」という感じで、こちらが困惑することもあるのですが、やはり世界を見る目はしっかりしています。

この三人に始まって、山口昌男、鷲田清一、植草甚一、伊丹十三、山口瞳、田中小実昌、片岡義男、天野祐吉、谷川俊太郎、小田実、鶴見俊輔などが登場してきます。彼らの本に接した方ならどんな具合に論評しているのか、気になるはず。知的刺激に満ちた一冊です。逆に、こんな人たち知らんわ〜という方には、みんな変な叔父さんだから、面白そう、読んでみようと思っていただければいいですね。

 

 

熊本にある橙書店店主、田尻久子さんの新刊「みぎわに立って」(里山社/新刊2052円)は、優しさに満ちた一冊です。書店を営みながら、日々の景色の移ろい、自然が見せる様々な表情、ご近所さんや、お客さんとの何気ない会話など、西日本新聞に連載されたコラムをまとめたものです。

ジャズのスタンダードナンバーに「ジェントルレイン」という曲があります。歌詞の内容はさておき、田尻さんの文章は、「ジェントルレイン」「優しい雨」というイメージなのです。憂鬱な雨が優しく見える瞬間、彼女はそれを見つけます。

「雨の本屋は気持ちがいい。本が雑音を吸収して雨音だけが響き、いつもより言葉と親しくなれた気がする。今日は、終日雨だった。みな気持ち良さそうに本をさわっていた。」

少し憂鬱な気分の日とか、なんとなく下を向いてしまう時に、この本を開けることをおすめします。幸せって、ちょっとした事で簡単になれる、豊かな時間を過ごすことができるんだ、という真理がここにはあります。地震を経験して、店を新しくして、町の人たちとゆっくりと生きて行く著者の姿が見えるようです。

この書店、店に糠床があります。「ある日、糠を混ぜていたらお客さんが入ってきた。糠床って魔法の箱見たいよねえ、入れたら何でもおいしくなって。カウンターの中を覗いて、心の底から感心するようにおっしゃる。理屈を説明するよりも、魔法ということにしておいたほうが、なんだか美しい気がした。」

お客さんと店主が、店の中で糠床を覗いている光景って、不思議だけど楽しそうです。或いは、店内に蜂が入ってきて、殺虫剤などという無粋なものを使わずに、なんとか店の外へ出そうと努力していると、常連さんが、すっと帽子で外へと誘導されたのを見て、「ほんのつかの間のことで、手際のよさにうっとりとしてしまった。」などと書いてあると、いいなぁ〜、この店と思ってしまいます。

お日様と心地よい風が通り抜け、青空に浮かぶお月様が微笑む店なんて言ってしまうと、なんかメルヘンチックですが、この店に立ち寄った人たちが、ちょっと幸せな気分を持って帰る場所なのです。人を幸せにする場所が、本屋の原点なのかもしれません。

橙書店は、熊本地震の後、それまでの長屋からビルの二階に移転しました。「外観の面影はまったくない。でも、見知らぬ場所にはしたくなかった。大切なものはすべて持っていくつもりで作った。モノも、言葉も、気持ちも。常連さんは、何年も前からここにあるみたいと言ってくださる。 どうやら、変わらず馴染みの場所であるようだ。」

店主とお客様が一緒に作っていくそんな店を、私もめざしたいと思っています。

この本を出した里山社は、女性一人で頑張っている出版社です。いい本を出してくれました。今後も応援します!

 

 

今年、と言ってもまだ二ヶ月ほど過ぎただけですが、想像力全開させてくれて世界の果てまで連れて行ってくれた本に出会いました。中野美代子「あたまの漂流」(岩波書店/古書1800円)です。

「このあたまが年がら年じゅう漂流していて、よるべない木の葉ぶねのようなものだが、それだけに漂流譚や漂着譚が好きである。本書もそのあたりから。最も、そのあとどこへ漂流するものか、さあ、それはわからない。」

と最初に書かれているように、この本は、孤島に置き去りにされた者、世界の果て或は前人未到の山の彼方へと分け入った者たち、そして国境を越えて新しい文化に出会い、己を変革していった者たちで溢れかえっています。全22章、とんでもない輩や学究の虫たちのオンパレードです。著者は「西遊記」の研究をライフワークにしている北海道大学の元教授です。

イギリスが世界の海洋を支配していた頃、刑罰として島に置き去りにする罰が存在しました。置き去りにされた人たちの運命は過酷なのですが、「極度に受動的に悲劇につき落とされたかれらのサヴァイバル・ゲームは、孤島なるがゆえに観客ゼロであるにもかかわらず、孤島という閉じられた空間がそのまま舞台と構造的に似ていることがあって、陸上の『観客』から見てみごとな『物語』となるのである」

ただし、日本の島流しと違うのは、わが国の辺境に位置する島々は「お上」の支配地であり、人の匂いのする場所なのに、イギリス等のヨーロッパ諸国のそれは、人の手の及ばない絶海の果てであるというのです。成る程と深く頷きました。

島の話だけに終始しているわけではありません。万里の頂上を巡り、タージ・マハルを見つめ、「西遊記」でお馴染みの玄奘法師のインドへの旅を追体験し、果てはチベットにあると言われる楽園シャングリ・ラにまで目を向ける。因みに「シャングリ・ラ」というチベット語には、「理想郷」なんて意味は全くなく、「shanとは『肉屋』、griとは『ナイフ』、そしてlaとは『山道』または『峠』のことであるから、さしずめ『肉切包丁峠』とでも訳せば良いか。」と著者は指摘しています。それが、どうして白人にとって御都合主義的理想郷になっていったのか、興味深い論考が続きます。

考古学、地理学、歴史学等のアカデミックな内容を色濃く含みながら、読者を飽きさせない文筆力と想像力に押されて一気に読みました。しかしこの本、出版された時の値段が3400円+税。高い!60歳を超えた私なんぞ、映画3本見れるお値段です。値段以上に充実した内容とはいえ、版元さんももうちょっと考慮すべきでした。是非古本でお読みいただき、南海の孤島にお出かけください。PCや携帯で地図を見ながらお読みになることをお勧めします。

 

生物学者の福岡伸一著「ナチュラリスト」(新潮社/古書950円)は、彼が生命の本質を知るための長い学問的旅路で知った、ナチュラリストたちの「ひたむきさと好奇心を知ってもらいたい」という思いを本にしたものです。

「ナチュラリストであることは喜びです。世界の美しさと精妙さに気づくことは、心を豊かにしてくれます。そして何かを学ぶことは自分を自由にしてくれます」

先ず彼が紹介するのはドリトル先生です。動物と自由に話せるドリトル先生の持っている「好ましさの本質」を福岡ハカセはこう分析しています。

「ドリトル先生は、すべてのことに公平な人でした。最初の最初からフェアであり、フェアでありつづけた人でした。この『公平』こそが博物学の基本かもしれません。つまり、他の生物を人間の視点から有用、無用というふうにわけへだてしません。生きとし生けるもの公平に扱うのです。」

初めて自然の美しさ、巧妙さ、大きさに触れた時の、はっとする喜びは謙虚です。しかし、成長すると共に、自分の思考を整理し、制度化していき、最初のピュアな気持ちは抑えられていきます。ドリトル先生は、大人になってもそんな気持ちを忘れずに、全てをフェアに見つめる人物なのです。

「生物学者は、新種を見つけ出すことを、『新種を発見する』とは言わない。新種を『書く』と言う。新種を見つけることは、新種を書くこと。見つけ、名づけ、みつめること。」であり、名づけるという行為を通して、言葉が世界と結びつけられ、世界はひとつひとつ記述されていきます。ところが、ドリトル先生は違うのです。名付けて、見つめるのではなく、その相手の語る言葉に耳を澄まして、彼らの言葉を吸い上げてきたのです、それがドリトル先生の物語なのです。

ドリトル先生の物語をきっかけにして、ナチュラリストとは何かというテーマへと向かい、福岡ハカセが、あ、この人ナチュラリストだ!と思った方がどんどん登場してきます。その語り口は、穏やかで、相手へのリスペクトに満ちたものです。もちろん専門的な話も出てきますが、素直に理解できます。そして、最後で福岡ハカセは驚くべき発言をします。

「そろそろ私は分子生物学者をやめるときかもしれない。そして、私がほんとうに好きだったはずの生物学者にもどるときがきたのかもしれないと感じた。いまからでも本来のナチュラリストに戻ることができるだろうか。」

なんと研究室をたたみ、学生を送り出し、全く違う学部へと移っていきました。この本、実は福岡ハカセの人生の一大転換点を捉えた読み物なのでした。面白い!