中村安希は、今、最も面白いノンフィクションを書く作家だと思っています。ブログでも「愛と憎しみの豚」「N女の研究」を書きました。今回ご紹介するのは、「もてなしとごちそう」(古書/1400円)です。

東京オリンピック招致の時、やたら「おもてなし」とか言いながら、笑い顔を振りまいていた人がいて気持ち悪かったのを覚えていますが、本当の「もてなし」は本書に出てくるように世界各地の普通の家の、普通に出る食事のことです。

それにしても著者の胃袋は凄い!チュニジア、ウガンダ、ジャマイカ、シリア、北朝鮮そしてロヒンギャ難民キャンプ(ミャンマー)まで足を伸ばし、全く知らない人からでも招待されれば出向き、たらふく食べるのです。カラー写真で紹介されていて、どれも美味しそうですが、かなり濃厚な感じです。

あとがきで、藤原辰史が著者の横顔を

「『知らないおじさんについて行ってはいけません』『声をかけてくる人には警戒してください』『国交のない行くのは自粛してください』。中村安希はこれらの旅行のイロハを守らない。見知らぬ土地の見知らぬ人からご飯に招いてもらい、それを食べ、大笑いして、深い友情を結び、お腹を壊し、熱を出し、それでも食べる。」と、語っています。

一見、自由奔放な旅をしているようですが、危機を回避する判断力と、状況を深く観察する力に支えられているのです。で、本書はめったにお目にかかれない世界の人々の食文化の紹介だけの本かと言うと、違うのです。その国のその場所に住まいを見つけ、生活し、苦労をしながら生きてきた人々の、日々を支える食事の奥深さを見つめているのです。

例えば、ロヒンギャ難民キャンプを案内してもらった難民でもある医師から、コーヒーでもと誘われます。通訳の人を含めて3人分、こちらがコーヒー代を払おうとすると、こんなところまでわざわざ来てくれたのだからご馳走させてくれ、と言われます。極貧の場所でご馳走になるなんて…..やっぱりお金を払おうと申し出ます。

「『あなたは、難民だし……..』 医師が笑い、それから穏やかに私を諭した。『難民も、人間だ』 あぁ、言うべきじゃなかったと激しい後悔に苛まれながら、おごってもらったコーヒーをすすった。粉末に加工されたコーヒーと、粉末ミルクと粉砂糖。その何でもない三つに湯を加えかき混ぜただけの一杯は、必要以上に込み入った味がした。一杯40円、三人分で120円。ゆっくり最後まで飲み干してから、重たい気持ちでグラスを返した。」

例えば、スロヴェニアで、ある家族のところに泊めてもらって口にした食事。それまでの長い長い旅の間に疲れ切っていた彼女は、毎朝ゆっくり時間をかけてその家の朝ごはんを食べさせてもらいます。

「一見するとシンプルなスロヴェニアでの食事は、しかし日を追うごとにじわりじわりと存在感を増して行った。豪華さによってではなく、こだわりによって。彼女たちの一家の食事には『良いものを食べる』ことへの静かな情熱と、『きちんと作ること』への徹底した姿勢があった。しかもそれを、ごくごく当たり前のこととして、日常のなかでさりげなくやり遂げてしまっていた。」

本の最初には地図があって、彼女が訪れた場所がわかるようになっています。その場所を確認しながら読まれることをお勧めいたします!

 

著者は京都府立大学文学部准教授。ドイツ文学の専門家です。彼がヨーロッパ、アジアを巡った時の印象を綴ったのが本書「イスタンブールで青に溺れる」(古書/1400円)なのですが、普通の旅とは違うのです。

「四十歳になった年、発達障害の診断を受けた。診断を受けなければ、人生の最後の瞬間まで『ああ横道誠さん?ちょっと変わった人でしたよね』というあたりで終わったかもしれないのに、診断を受けて障害の当事者だということがはっきりし、困惑がないと言えば嘘になる。」とあとがきに書いています。

ASD(自閉スペクトラム症)と ADHD(注意欠如・多動症)とを併発した文学研究者が、一人で世界を旅して、何を見て、何を考えたかを記録したものなのです。

「ウィーンで僕は、毎日のように屋台のシュニッツェルを食べた。」シュニッツェルは、牛カツ、豚カツ、鶏カツのことです。それを「すっかり飽きてしまうまで、毎日できるだけ同じものを食べつづける。立ちながら、歩きながら、座りながら、寝転びながら食べた。 (中略) 同じものを繰り返し食べたがるという自閉スペクトラム症の特製のひとつが、僕には顕著にある。」

そんな症状を抱えながら、ヨーロッパの街を歩きまわり、美術館に足繁く通います。

「僕がマイエンフェルトで歩いている様子を想像していただきたい。ヨーロッパの田舎で、両眼の焦点が合っていない、日本人の男性が、満面の笑みを作りながら、隙だらけの身のこなしで、両方のくるぶしをコキコキ回しながら歩いてゆく姿を。僕は生きたモダンホラーなのだ。」と表現しています。体を動かすことは難度が高く、負担が大きい。さらに歩くときに、両足のくるぶしをコキコキ回すと言うこだわり行動が伴う。そんな著者の感じる世界が、重さと面白さを武器に読む者に迫ってきます。

また、彼は幼少時、母親が信じるカルト宗教のせいで、毎日のように母親から肉体的暴力を受けていました。ヨーロッパに点在する宗教的建築物を見るときも、美術史的、文学的興味を持つ一方、忌々しい過去がフラッシュバックを引き起こすと言います。そのフラッシュバックを本人は「地獄行きのタイムマシン」と呼び、宗教的建築物はどんなものでも善悪の混じり合ったものとして迫ってくるのだそうです。

様々な症状に苦しみ、軋轢や不安に耐えながらも、独特の知的なユーモアを交えながら彼は世界を描き出します。「発達障害者の旅の様子を、当事者の内側から活写した書物として、画期的なものだと言う自負もある。」

文学者である著者は、様々な文学作品を引用していて、巻末には五十冊以上の文献が掲載されています。それぞれの場面で引用された文学作品は、スリリングであり、オリジナルの作品を読んでみたいと思いました。個人的には、ハイヤーム・オマル「ルパイヤート」の強靭な文章に惹かれました。

ラジオのパーソナリティーから作家活動へ、さらに児童書専門店を開くなどマルチな活動を続ける落合恵子の新刊「わたしたち」(河出書房新社/新刊1870円)は、心揺さぶられる長編小説です。

1958年、13歳の四人の女の子たちは、素敵な校長先生に出会い成長していきます。その後、それぞれの人生を生きていきますが、四人の友情は変わりません。いつの間にか老いを痛切に感じるようになる2021年までの、彼女たちの姿が描かれます。作者の落合恵子は1945年生まれで、13歳になったのは1958年。ちょうど登場する少女たちと同じです。だからこの物語は落合の自伝的要素がかなり入っているようです。実際、その中の一人容子は、ラジオのパーソナリティーになっていきます。

彼女たちが大人になった時、真っ先にぶつかった男性優位の社会の壁、女性に対する古い考え方との軋轢など様々な壁が立ちはだかっていました。物語は、時代を行きつ戻りつしながら、彼女たちの、その時その時の悲しみ、絶望、希望、決意を簡潔な文体で描いていきます。

「人は誰でも、自分で自分になっていくのだと思う。それを、誰かのせいになんてできない。でもね、自分の望む自分になろうとしながら、なれないで藻掻いている子だっている。ちょっとした、ほんとにちょっとしたきっかけさえあればなれるのに。努力でもない、運でもない、ちょっとしたきっかけ……」

彼女たちはお互いに刺激を与えながら、自分が人生の主役であることに目覚めていきます。進歩的な考えで教育を押し進めた美智子校長先生は、彼女たちの憧れでした。先生は保護者会でアカ呼ばわりされますが、彼女は毅然と「わたくしは、アカでもアオでもミドリでもございません」と、わたしはわたしですと言い切って屈しませんでした。先生のような女性になろうとして彼女たちは自分の道を模索します。

容子の母親は看護婦で、未婚で子供を産み一人で容子を育ててきました。母親は彼女に言います。

「知ってる?容子。 処女膜があるのはモグラと人間の女だけだって。ほんとかどうか知らないけど、生まれつきのものは宝じゃないからね。生まれてから自分で獲得したものだけが、宝だからね、覚えておいで」容子は、美智子校長先生と、同じように世間と闘ってきた母親からも多くのことを学んでいきます。

学校を卒業し、それぞれの道で何かを失い何かを獲得しながら、四人の友情は続きます。そして2021年、彼女たちに老いと死が忍び寄ってきます。作者は、時代の変化を巧みに織り交ぜながら、自身が生きて考えてきたことを物語として読ませてくれます。

容子の母は、苦労に苦労を重ねて容子を育てた戦争中のことを何度も語りながら、しかし、こうも言うのです。

「でもね、こういうことを、こんなふうに懐かしんじゃいけないんだよ。セピア色に色褪せたノスタルジーにしてしまうと、あの時代を懐かしむことになっちゃうからさ。いろいろあったけど、あれはあれでよかった、と言っていたら、ひとの心から厭戦や反戦を薄れさせちゃうんだから。あんなにつらい体験をしたんだから、私たちはしつこく覚えてなくっちゃ」

「私たちはしつこく覚えてなくっちゃ」 とても大事な言葉です。

 

 

 

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「旅に出たロバは」(幻戯書房/古書1200円)を書いた小野民樹は、1947年生まれで、大学卒業後岩波書店に入社して書籍編集者として仕事をしてきました。その後、大学で2017年まで教壇に立ち、現在は本人曰く「無職渡世」を送っています。元編集者の綴る屋久島、トカラ列島、モンゴルの草原等アジアと、そこに生きる人々を見つめた紀行エッセイが、この本です。

第1章が「古本の小道」というタイトルで、書籍編集の傍ら、歩き回った神田の古本街のことを書いているのですが、その最後をこう締めています。

「2007年1月31日、私は円満に定年退職した。勤続三十五年に、少し足りなかった。翌日、会社の受付で退職関係の書類一式を受け取って、神保町交差点に出た。町はすでによそよそしく、寒さに身を縮めていた。すずらん通りから古本街道をゆっくり一回りした。私の『世界』はこんなに小さかったのだ。一つの旅が終わった。」

屋久島をめぐる章では、「旅の図書館で、50年近く前の自分に出会った。雑誌『旅』の一九六九年十月号、『屋久島の夏』である。そのとき、私は二十歳。なんで投稿したのか、いまとなっては気分が再現できないが、はじめて活字になった原稿である。老人になった私は、自分で注釈をつけながら読んでいった。」という書き出しです。

この二十歳の時の原稿が、とてもいいのです。まだ観光化されていなかった屋久島のありのままの姿がよくわかります。その時の原稿に、年老いた今の著者の思いが挟み込まれるという体裁で綴られています。いわば、過去の屋久島への旅とでもいうべきものです。

ラオスへの旅で、面白い指摘を見つけました。ベトナム戦争が激しさを増していた60年代半ば、アメリカはラオスの山岳民族モンを組織化して、対北ベトナム攻撃部隊として送り込みます。しかし、戦争はアメリカの敗北。モン族の人々は社会主義政権下で弾圧されます。かれらの一部はアメリカへと逃げていきます。

「クリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』は、ポーランド系移民の頑固な爺さんコワルスキーと、隣のモン族の一家の物語だ。不良に小突きまわされているモンの少女を偶然救った爺さんは言う。『黄色い米食い虫め』少女は答える。『私はモンよ』『なんだってハモン』『違うモンっていったでしょう』『へえ、そんな国どこにあるんだ』『モンは国じゃない、民族なの。ミャンマー、タイ、そして私たちのラオスに住んでいる。ベトナム戦争でアメリカに協力したから、住むところを追われて、あんたの隣にいるのよ』」

私たちが、普段あまり知ることができない世界の片隅で生きる人々の姿を見せてくれる本でした。

 

「カラスの教科書」「カラスと京都」など、嫌われ者のカラスの本で人気の動物行動学者松原始。「カラス学者の回想録 京都・京大・百万遍」(旅するミシン店/新刊1650円)は、著者が京都大学で過ごした、1990年代から2000年代初頭にかけての百万遍界隈をスケッチした本です。

その時代の京都を案内する黒い猫の「ヒャクマンベンくん」とハシブトガラスの「イマデガワくん」の二人は、植木ななせのイラストで、この二人がとても面白い!そして、随所に登場する手書き地図。百万遍交差点の地図には、今はなきレブン書房も載っています。私が昔勤務していたレコードショップ「優里奈レコード銀閣寺店」もちゃんと地図(P34)の中に描かれていました。懐かしい!

ところで京大生にとって、百万遍から今出川通りを西に進み、河原町通りを越えたら、そこは「アウェイ」なのだそうです。南側は京都御所で、北側は同志社女子中学校・高等学校・同志社女子大学・同志社大学と続くエリア。

「鴨川を越えた河原町通から烏丸通までの区間は、同志社の支配地域なのである。」そして、烏丸通りまで来ると「京都大学に通う学生にとって、河原町より向こうはすでにアウェイなのだ。のみならず、そこには私学の女子中、女子高、女子大という難敵までいる。大体はこの時点で討ち死にだ。ここを通り越して烏丸まで来たら異世界である。」

こんな感覚は当時だけのものではないらしく、当店に来る同志社の学生さんは逆に、百万遍より向こうには足を踏み入れないと語っていました。

著者が過ごした時代の京大の学生の雰囲気、たむろしていた飲み屋のことなどが、ユーモアとノスタルジーが微妙にブレンドされて描きこまれています。私は大学は京都ではありませんでしたが、京大西部講堂に、ライブやら映画を見に行っていたので、この界隈の雰囲気を懐かしく感じましたね。

大学の校風についても、東大なんかに比べると恐ろしく放任主義だっただったらしい(今はどうか知りませんが)。学会発表でも、東大の学生はスキがなくきちんとツボを押さえている。しかし、京大は八方破れで無手勝流だとか。

「これはどちらが良いというのではなく、研究のスタイルやポリシーの違い、つまりは校風の違いとしか言いようがないのだろう。天才的な偉人も輩出するが、それに数倍するアホ学生も排出する、そんな大学かもしれなかった。」

京都大学のことを紹介しながら、街のあまり知られていない路地を案内してくれるユニークな京都本です。著者自身が体験した論文発表の顛末を描いた「論文と友人たち」は、論文完成までの凄まじい日々を描いているのですが、笑えます。面白い!

 

 

 

なんて素敵なタイトルなんでしょうか! 川内有緒が散骨をテーマにした「晴れたら空に骨をまいて」(ポプラ社/古書1050円)。皆さんはどうお考えでしょうか。死んだ後、お墓に入りたいですか?それとも一部だけでも好きだった場所に散骨して欲しいですか? 私は散骨派です。

本書には、親しい友人や家族を見送った五組の人々が登場します。この人たちの共通点は、世界のどこかに遺骨を撒いたという一点です。

著者の母親の友人の畠中さん。旅行好きで世界を飛び回っていた夫を亡くし、「土の中に入れてしまうのは可哀そうじゃない?あれだけ旅が好きな人だったんだもの。」と散骨を決意します。

「『自分らしく生きる』という言葉が叫ばれるようになって久しいが、その人生には必ず『死』という終わりがある。そこで彼女は、さらにその人らしく自由な形式で見送ってあげようと考えたのだ。そうすれば、戸籍上は終わってしまった人生でも、穏やかに故人の物語は続いていくー」と著者は考えます。人生観や、生き方や仕事は違えども、ここに出てくる人たちも同じ想いを持っていたのだと思います。

「客死」とは、旅先で死ぬことです。大好きだったヨーロッパへの、長期間の一人旅の途中の父親を旅先で亡くした堀田家。父親が亡くなったのはチェコスロバキア。とにかく、一家で飛び立ちます。ドタバタの一週間がスタートします。家族は、父が好きだったチェコスロバキアの空に彼を返してあげようと、日本に連れて帰らず火葬しますが、そこで過ごした時間を、悲しいとか思い出したくないとは、思っていません。火葬場でのドタバタなど笑うに笑えない状況。でも、「本当に、人生は美しい映画のようにはいかない。時として、現実は想像を超えるほど滑稽なものなのだ。」と著者が指摘するように、堀田家の人々は悲しみと笑いを同時に体験しながら、父親を異国の地に返したのです。

さて、最後に登場するのは、京都在住の装丁家矢萩多聞さんです。11歳の多聞さんが、日本の学校に息苦しさを感じて、両親や従姉妹とインドへ渡ったのは有名な話です。インドへ渡った最初の頃、不思議な日本人に出会います。その上野一公さんと矢萩家の長い交際が始まり、その物語は矢萩一家の懐の深さを教えてくれます。残念ながら上野さんは病に倒れ、戻らぬ人となります。日本での葬儀の後、多聞さんはインドへ戻り、散骨をします。

「ロウソクが好きだった上野さんのために、お線香をありったけ焚き、ジャスミンの花をたくさん川面に浮かべた。川は花びらで一面の黄色に染まった。 手のひらからさらりと離れたひと掴みの遺骨は、泥の川に混ざると、ゆるやかな流れとともに消えた。後には黄色の花びらだけが浮いていた。」

想いが溢れるような文章です。

文藝春秋社の編集者として、村上春樹、須賀敦子、丸谷才一、星野道夫らに関わった湯川豊は、釣り人として日本各地の河を渡り歩いてきました。彼とイワナの長い付き合いをまとめたのが「夜明けの森、夕暮れの谷」(マガジンハウス/古書950円)です。

釣りに興味のない人にこそ読んでほしい、心にしみるエッセイ集です。何よりも生命の輝きあふれる森や谷、そして川の姿が生き生きと描かれています。エッセイというより素敵な短編小説集みたいです。

「流れのなかには生命の気配がみち、深い静寂がそれを包んでいる。気の遠くなるような静けさのなかにあって、僕は流れを見すえ、ロッドを振った。ラインがなめらかに空を切ってのびていくのに、自分のなかですべての動きがとまって、自分が静けさの一部に融けこんでいるようだった。」

そして始まるイワナとの対話。簡潔な文章が、季節に応じて変化する渓流の自然を描いていきます。読んでいて心が落ち着くとは、こんな文章のことです。ざわついた環境で読んでいても静謐な場所へと誘ってくれます。

「フライ・フィッシングは、淋しくならずに孤独でいることができる、この世で唯一の場所だ、とロバート・トレーヴァーはいった。ミシガン州最高裁判事にして作家、風貌は俳優のジョン・ウェインにそっくりだったこの男の言葉にはうなずくしかない。ただ、唯一の場所かどうか知らないにしても。そしてつけ加えることがあるとすれば、フライ・フィッシングは友人と一緒にいても、なお孤独でいることができる場所でもある。」

やはりフライ・フィッシングを趣味とされる当店のお客様が、孤独を楽しむ唯一の方法と言っておられたのを思い出します。

「僕は大食いの女性に会うと、なぜかこの世界にわずかな希望の灯を認めたような気分になり、気を許してしまう癖があるらしい。」これ、偶然に、渓谷で出会った日本全国を自転車で旅しているリカという女性の物語です。ひょんなことから、二人は釣りを楽しみ、「夜、僕とリカは小さな焚火をはさんで向かい会っていた」というのです。別に何かが起こるわけではありません。でも、とても豊な時間がそこには流れていました。

湯川には「星野道夫 風の行方を追って」(新潮社/古書1100円)という著書があります。星野

を巡って、自然と生命、人間への愛を見事に語っています。その原点はこの「夜明けの森、夕暮れの谷」にあったのではないでしょうか。

ここでいう暗い時代とは、日本が無謀な戦争へと突入した時代。最も精神の抑圧された1930年から45年の「暗い時代」に「精神の自由」を掲げて戦った人々を描いたノンフィクションです。(亜紀書房/古書1400円)

画家の竹下夢二、文化学院創設者の西村伊作(黒川創が「きれいな風貌」と言うタイトルで伊作の自伝を出しています)などの、政治家、学者、文化人など8人が登場します。

京都に絡んだ人物が三人。1934年「フランソワ喫茶室」を開いた立野正一、二人目は、1936年に反ファシズムを標榜した文化新聞「土曜日」を発行した斎藤雷太郎。この二人については以前ブログ上で書いたことがあります。

そして今回ご紹介したいのは、三人目の山本宣治です。

「山本宣治一人孤塁を守る。だが僕は淋しくない。背後には多くの大衆がいるから」

そう宣言して、1929年に治安維持法改悪に反対したために、右翼に殺された国会議員です。もともと造園家を目指し、若き日にカナダに留学し、帰国後生物学者を目指します。同志社大学講師をやりながら性科学を研究し、女性の権利擁護としての「産児制限運動」に関わっていきました。

山本は明治22年(1889年)京都に生まれます。両親は当時、新京極で「ワンプライスショップ」と言う小売店を始めていました。ハイカラな家庭に育った彼は、留学後、同志社大学と京都帝国大学の講師に迎えられるが、大学内での研究にとどまらず、性教育の啓蒙活動に乗り出します。「性教育」などと言う考えはもちろんその当時はなく、避妊には無理解で、子どもはたくさん産み、たくさん死ぬという多産多死の時代でした。彼は、避妊方法を知らないための多産多死が大きな社会問題だと確信し、避妊と言う女性権利のために奔走し産児制限運動に加担していきます。

「産児制限は彼にとって、あくまで『無産階級の生活防衛闘争』であり、『産む、産まないは自分で決める』と言う『市民的自由の獲得運動』なのであった。」

性について無知なまま結婚したり、遊郭等で性病に感染した夫から妻にうつるという悲劇や、避妊の知識が無いため沢山産んでも育てられない無残な状況が後を絶ちませんでした。しかしこの運動は、避妊は国力を弱体化するという批判にさらされました。議員になった後も各地を飛び回り、自説を展開していきますが、元巡査の右翼の男に殺されてしまいます。

「彼の生涯をたどる時、思想や運動の自由が、どのようにして息の根を止められていくのか、その手口がよくわかる。だが、山宣(彼の愛称)のような政治家はいまいるだろうか。政治的には無欲なのに、時代の中で政治家に押し出され、専門用語を声高にしゃべらず、いつも大衆のわかる比喩を用い、過激に跳ね上がらず、しかし原則的で妥協せず、常に弱いものの見方であった山本宣治。」

と、森まゆみは書いています。こんな人が京都から出たことを知っただけでも、この本を読んだ甲斐がありました。

 

以前ブログで紹介したチベット奥地にあるツアンポー峡谷の探検記録「空白の五マイル」の著者、角幡唯介の「狩の思考法」(ASAHIECOBOOKS/新刊1760円)は、彼の極地冒険の記録ではありません。

「本書はシオラパルクの人びとと接するなかで、私が感じとった彼らの思想や世界観を、可能な限り言葉におきかえたものだ。」と、あとがきに書いています。

シオラパルクはグリーンランドにある村で、著者の探検のベースキャンプになっている場所です。ここから、犬ぞりで凍りつくベーリング海峡を超えてカナダ側に入り、途中で狩りをしつつ、さらに北を目指すという探検を企画していました。

カナダ入国の許可も取ってさぁ出発、というところで、グリーンランドでも発生したコロナによって入国を拒否され、この冒険は中止。そこで、ここに腰を落ち着け、シオラパルクの人びとの狩猟生活を見つめ、自分にとって狩りとは何かを考えます。その思索の道程をまとめたものなので、危機また危機の冒険話はありません。

最終章「死んだ動物の眼」では、ハンターが獲物を撃ち殺す時の”負い目”をこんな風に考察しています。著者は、北極の旅で初めて一頭の麝香牛を撃ち殺し、その場で解体を始めた時、少し離れた場所にいた仲間の牛達の視線に負い目を感じたことがあり、そのことをずっと考えていたというのです。

「負い目をもたらすのは、獲物としてねらわれた動物たちの目である。動物の目をのぞきこむことで、私の視点は動物の視点に転換され、逆に動物の目で自分の行為を凝視する。視点が転換することにより、そこからおのずと生じてくる動物の側からのおのれの行為の告発。虚ろになった眼から消えてしまった魂が発する、お前にはそれをやる権利があるのか、との問いかけ。殺しの負い目が意味するのは、これだ。死んだ動物の眼は、私自身の眼となり、私の内側をのぞきこみ、私の生の正当性そのものをぐらぐらゆさぶるのだ。」

農業もできず、樹木もほとんど生えず、道具を作る資源と言えば動物の骨と皮ぐらいしかない厳寒の北極圏で生きる人びとから彼は多くを学びます。その時、その場の状況に合わせて、臨機応変に自分の頭で考え行動する。他人の知識や情報は鵜呑みにしない。

「つまるところ人生とは判断と行為の集積だ。その判断と行為がほかでもない自分の内部から生じるわけだから、彼らには自分の生を自分でつくりあげているという感覚が強い。それが生き方や世界観に誇りを持たせるのだろう。自分の頭で考えることが、存在することそのものなのである。」

「自分の頭で考えること」。ネット時代に生きる私たちが忘れがちな事実を突きつけられる一冊です。

蛇足ながら、本書を発行しているのはアサヒビールでお馴染みにアサヒグループホールディングス。環境問題、自然、農等のいい本を出しています。全く知りませんでした。

赤祖父俊一という名前をご存知でしょうか。

オーロラの研究者です。「ドクター・アカソフは、アラスカで最も有名な日本人よ。アラスカを旅する日本人なら、知ってなきゃダメよ」と言われたのは、ノンフィクション作家の廣川まさき。彼女がアラスカにいる赤祖父先生の研究室まで押しかけて、オーロラについての個人授業を受けた様子を一冊の本にしたのが、「ビッグショット・オーロラ」(小学館/古書1050円)です。

オーロラって、ただ見る分には、綺麗!幻想的!とウットリなのですが、解説となると物理学やら天文学の理論が入り込んできて、あぁ〜難しい!!!という気分になるところ、本書はそんな心配を一掃してくれます。 大笑いした箇所もいくつかありました。著者のノリの良さで、どんどん読ませてくれて、しかもオーロラの科学的お勉強もそこそこできてしまいます。

「マイナス40度の世界に身を置くと、外気にさらされている肌は、無数の針に刺されたように痛み、息をする度に、鼻の中の粘膜が一瞬でピリリと凍る。」

そんな状況下で彼女は、撮影用に購入したカメラを携えてオーロラの観測を開始します。しかし大体マイナス40度での使用なんて想定外。なんとか撮影が終わって、彼女が居候している友人の室内がこれまた問題?

「アラスカでは、基本的に家の中ではTシャツで過ごし、暖かい部屋でアイスクリームを食べるというのが、一般的な冬の過ごし方であるから、ストーブは蒸気機関車の罐のようにカッカしている。」

外はマイナス40度、家の中は30度というのだから、その温度差は70度。人間はサウナに飛び込む感じでいいですが、カメラはそうはいかない。さて、著者はどうしたか? そんなトライ&トライの数々がユーモアたっぷりに描かれています。

オーロラの素人同然の著者が、世界的科学者にトンチンカンな質問を浴びせますが、赤祖父先生は、嫌な顔をせず、丁寧に説明してゆくのです。その説明を著者がかみ砕いて書いているので、私のような素人読者もスラスラと読んでいけます。

「科学は全て、基本が大事。その基本というのは、小学校で習う理科なんだよ」

とは赤祖父先生の言葉です。膨大なデータを処理し、高度な科学式で宇宙を読み解く先生ですが、基本はここなんですね。子供の頃の理科への好奇心を持ち続けることなのです。

この先生の言葉を、著者は「最も子供に届けたい言葉だと、強く思った」のです。そして彼女もあくなき好奇心を持っていたからこそ、マイナス40度も平気だったんですね!