NHKのトーク番組に小林信彦が出演していて、久々に顔を見ました。トークのお相手は音楽家の細野晴臣。彼は小林の著作「日本の喜劇人」が大好きで、ぜひ話をしたかったらしいのです。かつて細野がいたバンド「はっぴぃえんど」の盟友大滝詠一も小林のファンで、「小林旭読本 歌う大スターの伝説」という本を一緒に書いています。日本のポップスを代表する二人が小林の大ファンだったのですね。
小林は1932年、東京日本橋の和菓子屋の長男として生まれました。日本のTV黎明期、坂本九や植木等などのバラエティ番組に携わりながら小説を発表していました。私が小林の名前を知ったのは、大学生時代に愛読していた「キネマ旬報」での映画紹介でした。特に年に一度のベスト10特集では、真っ先に彼の選んだものを見て、未見のものを追いかけていました。
本書「決定版 日本の喜劇人」(新潮社/古書3000円)は、1971年雑誌「新劇」で連載がスタートしました。翌72年に単行本化され、77年に「定本 日本の喜劇人」、82年に文庫本化されます。さらに2008年には、函入り二巻本「定本 日本の喜劇人」と装いを新たに、加筆修正をし、連載開始から50年を記念して2021年に「決定版」が刊行されました。
私は二巻セット物を除いて、新しい版が出る度に読んできました。だから、今回で読むのは3回目ですが、やはり、とてつもなく面白い!喜劇人の舞台、映画、TVを詳しく論じながら、日本喜劇の通史として貴重です。私は、クレイジーキャッツ、てんぷくトリオ、そして関西で大人気だった「てなもんや三度笠」などはリアルタイムで楽しんだものです。また、藤山寛美の生の舞台は残念ながら見ていませんが、松竹新喜劇の舞台中継はTVでよく見ていました。
「渥美清はシビアな鑑賞眼の持ち主で、その眼力はそこらの<評論家>の及ぶところではなかった。同時代のコメディアンの大半を問題にしていなかったと覚しい。自分はコメディアンと呼んで欲しくない、役者なのだ、とはっきり言われたことがある。 そういう男が、文句なしに<役者>として認めていたのが藤山寛美だった。」
渥美との長い付き合いがあった小林だからこその発言です。
550ページにも及ぶ大作ですが、マニアックな記述に走ることなく、冷静に喜劇の世界を生き、去っていった人々の姿がリアルに蘇ってくる傑作です。
岩手県大槌町。東日本大震災発災時、町庁舎に残っていた町職員幹部ら数十人は、津波接近の報を受けて屋上に避難しようとしたものの、約20人が屋上に上がったところで津波が到達。町長と数十人の職員は間に合わず、庁舎を襲った津波に呑み込まれて、そのまま消息が途絶えました。
この地に生まれ育った菊池由貴子は、震災の後、たった一人で、大槌町のことだけを伝える新聞「大槌新聞」の発行をスタートさせます。発行開始から、幕を降ろすまでの10年間を振り返ったのが「私は『ひとり新聞社』」(亜紀書房/新刊1980円)です。
震災前、彼女は様々な病気に苦しめられ、ICUで二度の心肺停止に追い込まれます。なんとか危機を脱したあと、結婚と離婚を経験します。
「離婚後は夢だった獣医のかわりにになるような仕事を見つけられず、自分の存在意義を見出すこともできないまま、ただ毎日を暮らしていました。津波が来たのは、そんな頃でした。」そのときそこに居た人の津波の描写に言葉が出ません。当然ながら町は大混乱し、正確な情報が伝わらず、住民は途方にくれます。
「大槌町の情報は、町民みずからが書くべきだと思いました。町民目線で書けるのは、そこで暮らす町民しかいません。まちづくりを住民みんなで考えるためには情報が必要です。町の情報は、まずは住民が知るべきで、みんなで共有されるべきです。」
「いつか大槌の新聞を作りたい」と決心し、ここから彼女の新聞作りが始まります。新聞編集ソフトと格闘し、慣れないインタビューをこなします。そして2012年6月30日、これからの町づくりを住民とともに学ぶ新聞が創刊されます。役所が出す公報のような上から目線ではなく、住民たちの日常目線で紙面は作られていきます。
そんなある日、京都新聞社元社長の斎藤修氏から、この新聞が読みたいという手紙が届きます。氏は、活字の大きさや「です・ます調」の文章、大半がまちづくりの情報であることに、これが新聞?と驚いたそうですが、「『これでこそ大槌の新聞だ』と思い直した」のだそうです。
町はやがて復興への道を歩み始めます。しかし、震災後の苦労を共にした町長が選挙で交代し、新しい町長に変わったところから、予期しなかった方向へと進んでいきます。後半は、新しい町長の運営方針がコロコロ変化したり、疑惑が浮上したりして暗雲が立ち込めてゆく様を時系列に追いかけたノンフィクションになっています。おそらくこういう問題は、震災後、方々の村や町で起きていたと思います。
彼女は新聞を続ける理由を三つあげています。それは、「復興情報の発信」「地域課題の取り上げ」「大槌は絶対にいい町になることを言い続けること」です。最初は郷土愛なんてなかったはずなのに、いつの間にか郷土を思う気持ちに押されて、復興の最前線を見つめた一人の女性の姿が印象に残ります。政治家もマスコミも、まるで震災のことは終わったかのような態度ですが、まだ何も終わっちゃいないという事実を教えてくれる本でした。
ロシア・ポーランド文学が専門の沼野充義編著「対話で学ぶ<世界文学>連続講義」の最終第5集は「つまり、読書は冒険だ」(光文社/古書1100円)です。
この連続講義は2009年にスタートし、足かけ7年26回、ゲストを招いて対話をしたものが、全部で5冊の本になりました。対話をした作家や出版関係者は、平野啓一郎、綿矢りさ、加賀乙彦、谷川俊太郎、池澤夏樹、小川洋子、岸本佐知子等々。第5集の本作でも、巻頭を飾るのは川上弘美で、俳人の小澤實を含めて三人で、面白い文学論を展開していきます。
そして、「九年前の祈り」で芥川賞を受賞した作家であり、比較文学者の小野正嗣。
この中で沼野が、「辺境とか小さな場所とか、世界の産業や経済の中心からはだいぶ遠い、そういうところを描くこと、あるいはそういうところに徹することによって、逆に世界文学の広い地平に出ていくことがあると思うんです。それはすごく逆説的なことですが、さきほど話題になったように、作家は誰かのために書くのではなく、自分をどんどん掘っていくだけなのに、自分を掘っていったらそれがみんなのための場所になっていたということと同じかもしれない。小さな場所に徹することによって、広い文学に繋がるということについてはどう思いますか。」と問うのに対して、小野は「そういうことが起きるのが文学や芸術の不思議さ」と答えています。
海外文学の話なんか世界が広すぎて、こういうふうな対談でなければきっと退屈するのに違いないと思います。でも、沼野充義の話の持っていき方と、ゲストの知識と思想が相俟って、極めて知的な対話を楽しむことができました。
中国の比較文学者、張競との「世界文学としてのアジア文学」の中で、「随筆というのは、文字通り『筆の赴くままに』ということですね。だから最初はどこに行くかはわからない。それに対してエッセイというのは、フランス語でもともと『試み』を意味するものです。ある議論や思考を試みて、論理的に何らかの結論に到達しようとする。だから目的地を想定しているわけですね。そこが本質的に違う。」と沼野は言います。日頃、随筆とエッセイという言葉を無意識に使っていましたが、こういう違いがあるのかと知りました。
電車やカフェなどで、パラパラめくりながら読書欲が盛り上がる一冊です。ただし、ブルガリア出身の日本文学研究者のツベタナ・クリステワさんが展開する和歌、俳句、短歌を論ずる「心づくしの日本語 短詩系文学を語る」は、パラパラとは読めませんでしたが。
最終章「世界文学と愉快な仲間たち 第二部世界から日本へ」では、日本文学、日本語を研究している外国人の研究者・留学生たちが登壇します。これがとても面白い。一読をお勧めします。
今年5月「左右社」のフェアを行った時に、この出版社のことをご紹介しましたが、最新刊は、またジャンルも違えば全く世界観も異なり、ますます面白い!
甲斐みのりの「乙女の東京案内」、西川清史の「世界金玉考」。前者は、素敵なお店紹介などで抜群の感性を見せる甲斐みのりの東京案内本。見ているだけで楽しくなる本です。一方後者は、生物学、歴史、芸術、食文化等々、様々な分野を闊歩して「キンタマ」を真剣に考察した前代未聞の本です。
著者の西川清史は、なんと元文藝春秋社副社長です。なんでこの人がこの本を書いたの?
「キンタマと比べれば、あの肛門でさえ花形に思えてくるというものである。天下無双の日陰者キンタマをいささかでもエンカレッジしようと、微力ながら一冊の本を書いてみようと思い立った。」ということです。
しかし、本書をパラパラとめくってみると、著者の博覧強記に圧倒される、実に真面目な本なのです。歴史的アプローチのために著者は、多くの囚人がキンタマを蹴られて殺された小伝馬町の牢屋敷跡を見に出かけたりもします。ちなみに、この牢屋は1858年、吉田松陰が死罪になった場所でもあります。
私が最初にページを開いた場所は、「キンタマことわざ一覧」でした。「睾丸の土用干し」で吹き出しました。これ「ありえないことのたとえ」だそう。あるいは「金玉を質に置いても」は、「何をおいても。男の面目にかけて」という意味合いだとか。でも、何度も言いますが、極めて精緻に考察された本なのです。みうらじゅん先生ご推薦です!
と、こんな本の一方、今話題の写真家、南阿沙美の「ふたりたち」という写真エッセイもあります。友人、夫婦、親子、人と犬と様々な関係で結ばれた二人をフィルムにおさめながら、人生を見つめた一冊です。
「自分はひとりだなあ、という人が、さみしくならないような本を作りたかった。それは、私のためでもあった。私はひとり。この本に出てきた人もみんなひとりずつ。誰かとふたりになった時に、またおもしろい自分に出会えるように。私は、そんなふたりをひとり自分の位置から眺めて、写真を撮って、思い出す。」
いい文章です。ちょっと幸せになれる本だと思います。
左右社コーナーは、どの本も「我こそは」と自己主張しているみたいでただいま賑わっています。
「私はイラストレーションを描く時にホリゾン(水平線)をよく使います。紙の上にホリゾンを一本引くと、絵に安定感が生まれるからです。ホリゾンを引くことで、例えばコーヒーカップはちゃんとテーブルの上に載っているイメージを出せるし、花瓶なら出窓の張り出しに飾られているイメージを出せる効果があるのです。
そして、紙にホリゾンを引く時、なぜかいつも千倉の海の水平線が目に浮かぶのです。海は水平線があるから海としての存在感を表しているのだと思います。千倉の海は、私のイラストレーションの中でも脈々と息づいているのです。」安西水丸著「一本の水平線」(新刊/クレヴィス2200円)のトップページに書かれた言葉です。
安西の作品を特徴づけているホリゾンは、彼の故郷の海の水平線を描いていることがわかりました。
本書は、膨大なイラストレーションから70点を選び、彼が残した言葉を添えた作品集です。都会的で、ユーモアとノスタルジーがあり、明るいようで寂しいような作品が並んでいます。
「絵の魅力は上手い下手ではない。描いた人にしか出せない味が大切だ」
彼の絵は、この人にしか出せない味は、どの作品にも充満しています。簡単そうに見えて計算尽くされた色と構図。鮮やかな色彩で、ふわりと描かれた家の中にある様々な小物たち。ふと動きそうな気配がします。何よりも描き手が心底楽しんでいるように見えるのが素敵です。
中学校の卒業直前まで過ごした千倉の海を想い、「海」というタイトルで書かれた文章。当時の千倉はひなびた地域で、名所旧跡のなく、図書館も映画館もない文化的には何もない場所だったそうです。あるのは、海と豊かな自然だけ。でも「こうした自然以外に何もない環境が私の想像力や美意識を育んでくれたのだと思っています。」と書いています。
もし、パリやマドリードで育っていたら、ルーブル美術館やプラド美術館で、一流の絵画作品の接する機会があったはず。千倉にはその代わり、本人曰く「一流の海」があったのです。
「一流の海を見て育ったということは、パリやマドリードで一流の絵画に接して育ったのと同じ環境だと私は思っています」
安西の創作の原点は、ここにあったのか。
出版社クレヴィスは、「作品集『イラストレーター安西水丸』」「漫画『青の時代』」「漫画『完全版普通の人』」と、質の高い安西の本を出してきていますが、本書もそんな一冊になると思います。
中村安希は、今、最も面白いノンフィクションを書く作家だと思っています。ブログでも「愛と憎しみの豚」「N女の研究」を書きました。今回ご紹介するのは、「もてなしとごちそう」(古書/1400円)です。
東京オリンピック招致の時、やたら「おもてなし」とか言いながら、笑い顔を振りまいていた人がいて気持ち悪かったのを覚えていますが、本当の「もてなし」は本書に出てくるように世界各地の普通の家の、普通に出る食事のことです。
それにしても著者の胃袋は凄い!チュニジア、ウガンダ、ジャマイカ、シリア、北朝鮮そしてロヒンギャ難民キャンプ(ミャンマー)まで足を伸ばし、全く知らない人からでも招待されれば出向き、たらふく食べるのです。カラー写真で紹介されていて、どれも美味しそうですが、かなり濃厚な感じです。
あとがきで、藤原辰史が著者の横顔を
「『知らないおじさんについて行ってはいけません』『声をかけてくる人には警戒してください』『国交のない行くのは自粛してください』。中村安希はこれらの旅行のイロハを守らない。見知らぬ土地の見知らぬ人からご飯に招いてもらい、それを食べ、大笑いして、深い友情を結び、お腹を壊し、熱を出し、それでも食べる。」と、語っています。
一見、自由奔放な旅をしているようですが、危機を回避する判断力と、状況を深く観察する力に支えられているのです。で、本書はめったにお目にかかれない世界の人々の食文化の紹介だけの本かと言うと、違うのです。その国のその場所に住まいを見つけ、生活し、苦労をしながら生きてきた人々の、日々を支える食事の奥深さを見つめているのです。
例えば、ロヒンギャ難民キャンプを案内してもらった難民でもある医師から、コーヒーでもと誘われます。通訳の人を含めて3人分、こちらがコーヒー代を払おうとすると、こんなところまでわざわざ来てくれたのだからご馳走させてくれ、と言われます。極貧の場所でご馳走になるなんて…..やっぱりお金を払おうと申し出ます。
「『あなたは、難民だし……..』 医師が笑い、それから穏やかに私を諭した。『難民も、人間だ』 あぁ、言うべきじゃなかったと激しい後悔に苛まれながら、おごってもらったコーヒーをすすった。粉末に加工されたコーヒーと、粉末ミルクと粉砂糖。その何でもない三つに湯を加えかき混ぜただけの一杯は、必要以上に込み入った味がした。一杯40円、三人分で120円。ゆっくり最後まで飲み干してから、重たい気持ちでグラスを返した。」
例えば、スロヴェニアで、ある家族のところに泊めてもらって口にした食事。それまでの長い長い旅の間に疲れ切っていた彼女は、毎朝ゆっくり時間をかけてその家の朝ごはんを食べさせてもらいます。
「一見するとシンプルなスロヴェニアでの食事は、しかし日を追うごとにじわりじわりと存在感を増して行った。豪華さによってではなく、こだわりによって。彼女たちの一家の食事には『良いものを食べる』ことへの静かな情熱と、『きちんと作ること』への徹底した姿勢があった。しかもそれを、ごくごく当たり前のこととして、日常のなかでさりげなくやり遂げてしまっていた。」
本の最初には地図があって、彼女が訪れた場所がわかるようになっています。その場所を確認しながら読まれることをお勧めいたします!
著者は京都府立大学文学部准教授。ドイツ文学の専門家です。彼がヨーロッパ、アジアを巡った時の印象を綴ったのが本書「イスタンブールで青に溺れる」(古書/1400円)なのですが、普通の旅とは違うのです。
「四十歳になった年、発達障害の診断を受けた。診断を受けなければ、人生の最後の瞬間まで『ああ横道誠さん?ちょっと変わった人でしたよね』というあたりで終わったかもしれないのに、診断を受けて障害の当事者だということがはっきりし、困惑がないと言えば嘘になる。」とあとがきに書いています。
ASD(自閉スペクトラム症)と ADHD(注意欠如・多動症)とを併発した文学研究者が、一人で世界を旅して、何を見て、何を考えたかを記録したものなのです。
「ウィーンで僕は、毎日のように屋台のシュニッツェルを食べた。」シュニッツェルは、牛カツ、豚カツ、鶏カツのことです。それを「すっかり飽きてしまうまで、毎日できるだけ同じものを食べつづける。立ちながら、歩きながら、座りながら、寝転びながら食べた。 (中略) 同じものを繰り返し食べたがるという自閉スペクトラム症の特製のひとつが、僕には顕著にある。」
そんな症状を抱えながら、ヨーロッパの街を歩きまわり、美術館に足繁く通います。
「僕がマイエンフェルトで歩いている様子を想像していただきたい。ヨーロッパの田舎で、両眼の焦点が合っていない、日本人の男性が、満面の笑みを作りながら、隙だらけの身のこなしで、両方のくるぶしをコキコキ回しながら歩いてゆく姿を。僕は生きたモダンホラーなのだ。」と表現しています。体を動かすことは難度が高く、負担が大きい。さらに歩くときに、両足のくるぶしをコキコキ回すと言うこだわり行動が伴う。そんな著者の感じる世界が、重さと面白さを武器に読む者に迫ってきます。
また、彼は幼少時、母親が信じるカルト宗教のせいで、毎日のように母親から肉体的暴力を受けていました。ヨーロッパに点在する宗教的建築物を見るときも、美術史的、文学的興味を持つ一方、忌々しい過去がフラッシュバックを引き起こすと言います。そのフラッシュバックを本人は「地獄行きのタイムマシン」と呼び、宗教的建築物はどんなものでも善悪の混じり合ったものとして迫ってくるのだそうです。
様々な症状に苦しみ、軋轢や不安に耐えながらも、独特の知的なユーモアを交えながら彼は世界を描き出します。「発達障害者の旅の様子を、当事者の内側から活写した書物として、画期的なものだと言う自負もある。」
文学者である著者は、様々な文学作品を引用していて、巻末には五十冊以上の文献が掲載されています。それぞれの場面で引用された文学作品は、スリリングであり、オリジナルの作品を読んでみたいと思いました。個人的には、ハイヤーム・オマル「ルパイヤート」の強靭な文章に惹かれました。
ラジオのパーソナリティーから作家活動へ、さらに児童書専門店を開くなどマルチな活動を続ける落合恵子の新刊「わたしたち」(河出書房新社/新刊1870円)は、心揺さぶられる長編小説です。
1958年、13歳の四人の女の子たちは、素敵な校長先生に出会い成長していきます。その後、それぞれの人生を生きていきますが、四人の友情は変わりません。いつの間にか老いを痛切に感じるようになる2021年までの、彼女たちの姿が描かれます。作者の落合恵子は1945年生まれで、13歳になったのは1958年。ちょうど登場する少女たちと同じです。だからこの物語は落合の自伝的要素がかなり入っているようです。実際、その中の一人容子は、ラジオのパーソナリティーになっていきます。
彼女たちが大人になった時、真っ先にぶつかった男性優位の社会の壁、女性に対する古い考え方との軋轢など様々な壁が立ちはだかっていました。物語は、時代を行きつ戻りつしながら、彼女たちの、その時その時の悲しみ、絶望、希望、決意を簡潔な文体で描いていきます。
「人は誰でも、自分で自分になっていくのだと思う。それを、誰かのせいになんてできない。でもね、自分の望む自分になろうとしながら、なれないで藻掻いている子だっている。ちょっとした、ほんとにちょっとしたきっかけさえあればなれるのに。努力でもない、運でもない、ちょっとしたきっかけ……」
彼女たちはお互いに刺激を与えながら、自分が人生の主役であることに目覚めていきます。進歩的な考えで教育を押し進めた美智子校長先生は、彼女たちの憧れでした。先生は保護者会でアカ呼ばわりされますが、彼女は毅然と「わたくしは、アカでもアオでもミドリでもございません」と、わたしはわたしですと言い切って屈しませんでした。先生のような女性になろうとして彼女たちは自分の道を模索します。
容子の母親は看護婦で、未婚で子供を産み一人で容子を育ててきました。母親は彼女に言います。
「知ってる?容子。 処女膜があるのはモグラと人間の女だけだって。ほんとかどうか知らないけど、生まれつきのものは宝じゃないからね。生まれてから自分で獲得したものだけが、宝だからね、覚えておいで」容子は、美智子校長先生と、同じように世間と闘ってきた母親からも多くのことを学んでいきます。
学校を卒業し、それぞれの道で何かを失い何かを獲得しながら、四人の友情は続きます。そして2021年、彼女たちに老いと死が忍び寄ってきます。作者は、時代の変化を巧みに織り交ぜながら、自身が生きて考えてきたことを物語として読ませてくれます。
容子の母は、苦労に苦労を重ねて容子を育てた戦争中のことを何度も語りながら、しかし、こうも言うのです。
「でもね、こういうことを、こんなふうに懐かしんじゃいけないんだよ。セピア色に色褪せたノスタルジーにしてしまうと、あの時代を懐かしむことになっちゃうからさ。いろいろあったけど、あれはあれでよかった、と言っていたら、ひとの心から厭戦や反戦を薄れさせちゃうんだから。あんなにつらい体験をしたんだから、私たちはしつこく覚えてなくっちゃ」
「私たちはしつこく覚えてなくっちゃ」 とても大事な言葉です。
「旅に出たロバは」(幻戯書房/古書1200円)を書いた小野民樹は、1947年生まれで、大学卒業後岩波書店に入社して書籍編集者として仕事をしてきました。その後、大学で2017年まで教壇に立ち、現在は本人曰く「無職渡世」を送っています。元編集者の綴る屋久島、トカラ列島、モンゴルの草原等アジアと、そこに生きる人々を見つめた紀行エッセイが、この本です。
第1章が「古本の小道」というタイトルで、書籍編集の傍ら、歩き回った神田の古本街のことを書いているのですが、その最後をこう締めています。
「2007年1月31日、私は円満に定年退職した。勤続三十五年に、少し足りなかった。翌日、会社の受付で退職関係の書類一式を受け取って、神保町交差点に出た。町はすでによそよそしく、寒さに身を縮めていた。すずらん通りから古本街道をゆっくり一回りした。私の『世界』はこんなに小さかったのだ。一つの旅が終わった。」
屋久島をめぐる章では、「旅の図書館で、50年近く前の自分に出会った。雑誌『旅』の一九六九年十月号、『屋久島の夏』である。そのとき、私は二十歳。なんで投稿したのか、いまとなっては気分が再現できないが、はじめて活字になった原稿である。老人になった私は、自分で注釈をつけながら読んでいった。」という書き出しです。
この二十歳の時の原稿が、とてもいいのです。まだ観光化されていなかった屋久島のありのままの姿がよくわかります。その時の原稿に、年老いた今の著者の思いが挟み込まれるという体裁で綴られています。いわば、過去の屋久島への旅とでもいうべきものです。
ラオスへの旅で、面白い指摘を見つけました。ベトナム戦争が激しさを増していた60年代半ば、アメリカはラオスの山岳民族モンを組織化して、対北ベトナム攻撃部隊として送り込みます。しかし、戦争はアメリカの敗北。モン族の人々は社会主義政権下で弾圧されます。かれらの一部はアメリカへと逃げていきます。
「クリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』は、ポーランド系移民の頑固な爺さんコワルスキーと、隣のモン族の一家の物語だ。不良に小突きまわされているモンの少女を偶然救った爺さんは言う。『黄色い米食い虫め』少女は答える。『私はモンよ』『なんだってハモン』『違うモンっていったでしょう』『へえ、そんな国どこにあるんだ』『モンは国じゃない、民族なの。ミャンマー、タイ、そして私たちのラオスに住んでいる。ベトナム戦争でアメリカに協力したから、住むところを追われて、あんたの隣にいるのよ』」
私たちが、普段あまり知ることができない世界の片隅で生きる人々の姿を見せてくれる本でした。
「カラスの教科書」「カラスと京都」など、嫌われ者のカラスの本で人気の動物行動学者松原始。「カラス学者の回想録 京都・京大・百万遍」(旅するミシン店/新刊1650円)は、著者が京都大学で過ごした、1990年代から2000年代初頭にかけての百万遍界隈をスケッチした本です。
その時代の京都を案内する黒い猫の「ヒャクマンベンくん」とハシブトガラスの「イマデガワくん」の二人は、植木ななせのイラストで、この二人がとても面白い!そして、随所に登場する手書き地図。百万遍交差点の地図には、今はなきレブン書房も載っています。私が昔勤務していたレコードショップ「優里奈レコード銀閣寺店」もちゃんと地図(P34)の中に描かれていました。懐かしい!
ところで京大生にとって、百万遍から今出川通りを西に進み、河原町通りを越えたら、そこは「アウェイ」なのだそうです。南側は京都御所で、北側は同志社女子中学校・高等学校・同志社女子大学・同志社大学と続くエリア。
「鴨川を越えた河原町通から烏丸通までの区間は、同志社の支配地域なのである。」そして、烏丸通りまで来ると「京都大学に通う学生にとって、河原町より向こうはすでにアウェイなのだ。のみならず、そこには私学の女子中、女子高、女子大という難敵までいる。大体はこの時点で討ち死にだ。ここを通り越して烏丸まで来たら異世界である。」
こんな感覚は当時だけのものではないらしく、当店に来る同志社の学生さんは逆に、百万遍より向こうには足を踏み入れないと語っていました。
著者が過ごした時代の京大の学生の雰囲気、たむろしていた飲み屋のことなどが、ユーモアとノスタルジーが微妙にブレンドされて描きこまれています。私は大学は京都ではありませんでしたが、京大西部講堂に、ライブやら映画を見に行っていたので、この界隈の雰囲気を懐かしく感じましたね。
大学の校風についても、東大なんかに比べると恐ろしく放任主義だっただったらしい(今はどうか知りませんが)。学会発表でも、東大の学生はスキがなくきちんとツボを押さえている。しかし、京大は八方破れで無手勝流だとか。
「これはどちらが良いというのではなく、研究のスタイルやポリシーの違い、つまりは校風の違いとしか言いようがないのだろう。天才的な偉人も輩出するが、それに数倍するアホ学生も排出する、そんな大学かもしれなかった。」
京都大学のことを紹介しながら、街のあまり知られていない路地を案内してくれるユニークな京都本です。著者自身が体験した論文発表の顛末を描いた「論文と友人たち」は、論文完成までの凄まじい日々を描いているのですが、笑えます。面白い!