手塚治虫、赤塚不二夫、石森章太郎、藤子不二雄など、現代の漫画を引っ張った巨匠たちが、若き日、共に住んでいた「トキワ荘」のことは、ご存じだろうと思います。しかし、彼らと寝食を共にして、漫画を描き続けた寺田ヒロオとなると、さて、どれだけの人の記憶に残っているか………。

梶井純の「トキワ荘の時代」(ちくま文庫/古書600円)は、寺田にスポットを当てつつ、トキワ荘から大きく成長していった漫画家の青春群像を描いたノンフィクションです。寺田は、50年代後半から60年代半ばにかけて、「背番号0」など少年向けスポーツ漫画で人気者になります。しかし64年、自らの意志で少年週刊誌に描くことをやめてしまい、子ども漫画の世界からは忘れられていきます。

「なぜ、寺田ヒロオはそういう選択をしたのだろう。それが、本書をつらぬくテーマである。その課題を考えていくと、誰からも愛された『テラさん』らしい、あたたかくやさしい作風をつくりあげたものはなんだったのだろうという関心とともに、かれが生きた戦後という時代に向かわざるをえない。」

1953年ごろ、出来上がったばかりのトキワ荘に手塚治虫が入居しなかったら、人々の記憶にこのアパートは残りませんでした。寺田も、その年の暮れにここに入居します。手塚や赤塚たちは、長男という立場にいたので、一本立ちを目指して必死に漫画と格闘していましたが、寺田は三男で気楽な立場にいて、どこかのんびりしていました。他の作家たちが、派手なアクション、ゲラゲラ笑わせる世界を目指していたのに、かれは「何かふんわりとした、笑いだとしても微笑するマンガ」を目指していました。

そして、物腰の柔らかい大人びた雰囲気で、トキワ荘ではなくてはならない人物へとなっていきます。藤子不二雄はこう書いています。

「危ない綱渡りのような毎日だったはずだが、精神的にはゼイタクだった。僕らに青春というものがあったとすれば、あのトキワ荘の共同生活の中で青春を共有していたのだ。」

寺田には才気走った自己中心的なところがなく、温和な人物でした。しかし、やがて訪れる空前のマンガブーム。販売増加に血道を上げる週刊少年マンガの世界で、寺田は自分のポジションをなくしていきます。派手な動きを持ち込んだ「スポーツマン佐助」を連載させたことを恥じた寺田は、60年代前半、こんな発言をしています。

「少年週刊誌ができて三〜四年してから、目に見えて内容が変わってきたんです。具体的には、えげつなく、どきつくなっていったといえばいいでしょうか。モーレツ時代へ突き進んでいくわけです。」

トキワ荘時代の他の漫画家が、大御所へと登りつめていく中で、寺田は静かに筆を折る決意をします。そして、この世界から消えていきました。

個人的には、寺田の漫画をよく読んだという記憶はありません。でも本書を読んで、あるシーンを思い出しました。それは、市川準監督作品「トキワ荘の青春」で、本木雅弘が演じたその寡黙で優しそうな人物像です。きっとそういう人だったのだなと。

メイソン・カリー著「天才たちの日課 女性編」(フィルムアート社/古書1300円)は、最初から通して読む必要はなく、知っている作家や、興味深い名前を見つけたら、そこから読んでいけばいいと思います。

創作活動に従事する女性143名が、その創作の妨げになるような日常の些細なこと、襲ってきたフラストレーション、妥協、後悔、その後に来るであろう希望を、彼女たちの言葉から記した本です。取り上げられた作家やアーテイストたちのどれ程を知っていたかというと、知らない方が遥かに多いのですが、短くまとめてあるので、こんな風に乗り越えようとしていたのかと、身近に感じることができるようになっています。

舞踏家で振付師であったピナ・バウシュは、拷問のような苦しみに襲われながら一から作品を作ることを、毎回後悔するのですが、初演の日が過ぎると次の作品を考えているのだといいます。そのパワーはどこから来るのかという問いかけに、こう答えています。

「大切なのは規律を守ること。とにかく仕事をやり続ける。そうしたら突然、なにかが湧いてくるーなにかちっぽけなものが、それがどう化けるかはわからない。でも、誰かが明かりをつけようとしているみたいに感じる。すると、また勇気が湧いてきて、仕事をやり続けられるし、またおもしろくなってくる。」

「ちっぽけなものが湧いてくる」ことって、きっと私たちの仕事の中でもあります。

劇作家のリリアン・ヘルマンは自分の仕事を「高揚、憂鬱、希望」の順に起こる流れにのって進めると語っています。「必ずその順序なの。希望の流れは夕暮れにかけて始まる。だからそのときに、自分に言い聞かせる、今度はきっとうまく行くって」

どこかで、必ず希望がやってくることを信じることは大事な点だと思います。

その一方で、夜遅くまで仕事をし、それを部下にも強要し続けてきたデザイナーのココ・シャネルは、著者によると「シャネルは週六日働き、日曜や祝日を恐れていた。ある親友にこう打ち明けている『休みという言葉を聞くと、不安になるの』」う〜ん、こういう人の下で仕事するのは大変ですね。

かと思えば、短編小説の名手キャサリン・マンスフィールドは、自分の日記の中で「いつものことだけど、こうやってだらだら書いているうちに、私は壁を突破する。それは小川のなかにすごく大きな平たい石を投げ入れるような感じ。」と書き、生涯、休んでは書くという姿勢を保ち続けました。

この本に登場する女性たちの生きた時代も環境も様々です。中には、奴隷として生まれ性的虐待などの苦難の後に、自伝を発行するに至ったものの、南北戦争勃発で忘れられ、20世紀後半に再評価されたハリエット・ジェイコブスような人物も登場します。

彼女たちは自分のなすべきことを、自分のやり方で、試行錯誤しながら、表現者としての地位を得ました。彼女たちの対処法が、そのまま役に立つかどうかはわかりませんが、何かのヒントになるようなことはあるはずです。

★連休のお知らせ 勝手ながら4月13日(月・定休日)14日(火)臨時休業いたします

大阪谷町六丁目に隆祥館書店という、創業70年の歴史のある町の本屋さんがあります。創業者は二村善明氏。織田作之助やマルセ太郎、そして梁石日が学んだ大阪府立高津高校で高校生活を送ります。自由な校風の高校の夜学に通いながら、善明氏は母親と共に小さな本屋を始めます。そして今、この本屋さんが大きく注目され、多くの作家から愛されるようになりました。その70年の歴史を綴ったのが木村元彦「13坪の本屋の奇跡」(ころから/新刊1870円)です。

善明氏は神戸尚子さんと結婚し、家族経営で町の本屋として一生懸命働きます。しかし、小さな本屋に対して、問屋である取次会社は、差別的な配本を平然と行います。読者の元へ本当にいい本が届けられない現状に業を煮やした彼は、不公平是正の戦いを挑んでいきます。そして、勝利を得ます。まぁ、これだけでもこんな凄い書店員がおられたことに驚きますが、本当に尊敬すべきことは、実はその上にあります。

新刊本屋の凋落が激しさを増した2011年に、お客さんと作家が交流できたらと、「作家と読者の集い」を開始します。(小さな本屋に作家を呼んでくるだけでも、相当な努力が必要です。)第一回に呼ばれたのは百田尚樹氏でした、その時、彼は戦争の悲惨さを語って、戦争を繰り返してはならない趣旨の話をしたそうです。

しかしその後、この作家が慰安婦問題や南京虐殺の事実を否定する発言を繰り返したことに、善明氏は、「何だ、あの発言は!歴史に向き合わんとあかんやろ。もうあんな作家の本は売るな。」と、妻や、店で働いていた娘に言い放ちます。その後、百田はベストセラー作家の地位を確立します。周囲から、今、呼んだらお客さんが沢山来られるという意見もありましたが、それは二度とありませんでした。

売上げが下がる一方の店の現状を考えれば、店に売れっ子作家を呼べば、売上げにつながることは間違いありません。でも、善明氏はしなかった。本が単なる消費財ではなく、文化財であることを自覚していた彼に頭が下がります。

現在、お嬢さんの知子さんがお店を引き継いでいます。彼女の本への情熱は凄まじく、これと思った本は、万難を排して初回配本をもぎ取ってきます。それも、ベストセラー間違いなしの本を集めるのではなく、今読むべき本、これからの時代を見据えた本、作家の良心が溢れてている本を選び出します。そして、そういう作家を「作家と読者の集い」の招聘するのです。反原発を提唱し続けたきた科学者、小出裕章氏もその一人でした。この会の参加者は多く、近くの関西電力上本町ホールでやってしまいます。関電の施設で反原発のトークショーやるなんて、いい根性です!(彼のトークも収録されています)

本書の最後には、「作家と読者の集い」の2019年までの記録が載っていますが、錚々たるメンバーです。大きな書店ではなく、わずか13坪の本屋が続けているのです。知子さんの見識の深さと実行力、そして熱意と愛情が、多くの人々の支持を獲得しているのです。その姿勢を見ていると、本屋は本を売るのではなく、信頼を売るのだという言葉がリアルに迫ってきます。

ちなみに、彼女は元シンクロナイズドスイミングの選手で、アジアで多くの選手を育てた井村雅代氏の薫陶を受けています。「作家と読者の集い」での、お二人のトークが収録されていますので、ぜひお読みください。「選手の限界を決めるのは、選手個人ではなく、コーチの私だ」なんて言葉には迫力があります。

 

 

 

 

 

 

阿久津隆の読書日記第二弾「読書の日記 本づくりスープとパン 重力の虹」(NUMABOOKS2035円)は、なんと厚さ5cm強のハードカバーです。著者は、18年にも同社から「読書日記」(2750円)を出しています。通読できるものなら、読んでみな、みたいな挑戦的な本ですが、面白い作家を取り上げています。

今回は、武田百合子、植本一子、多和田葉子、島尾敏雄、トマス・ピンチョ、エリック・ホッファーなど多彩な顔ぶれです。その中に、前にブログでも紹介した柴崎友香の団地小説「千の扉」が取り上げられていました。紹介の出だしが面白い。こうです。

「壊滅的に暇な日になった。もう何時間もひとりきりでいる。だから柴崎友香を読み始めた。」

暇だから=柴崎友香って、いいですね。あの小説、最後まで静けさが染み入る物語だったので、誰もいない店内で読むには適したチョイスです。

普通の読書日記スタイルの本なら、読んだ順に本火ついて書かれています。でも、この著者の場合、前作もそうでしたが、読書の合間に起こる、日常の様々な出来事や、個人的用事などがインサートされています。「千の扉」でも、体の調子が悪くなったり、歯医者に行ったり、プロ野球観戦に熱中したり、友達の結婚披露宴に行ったり、ipadを買ったりと、著者の日常に付き合わされます。そこが、面白く、ダラダラ読んでいくと心地よくなってくるから不思議です。

ところで、著者は”本の読める店”というコンセプトの店「fuzke」を、東京で営んでいます。カフェ&ランチのお店みたいで、HPを眺めていると「静かな時間をお過ごしいただけます」とか「ゆっくりゆっくりお過ごしいただけます」といった文句に出会います。何やらうちのご近所の「月と六ペンス」みたいな場所ですね。

「0時半ごろ布団に入り『重力の虹』を読み始めた。1944年のイギリスが舞台。バナナの話が延々と繰り出されていた。かっこいい。」

ええっ〜そうか!あの本が??ピンチョの傑作と、高い評価ですが、私はダメでした。早々に放り投げました。でも、「夜、『犬が星見た』を読み始める。のっけからいい」というのには賛成です。

電車の中では読むのには不便ですが、寝床でダラダラ読むにはいいかも。しかし、分厚いなぁ〜枕代わりになるかも………。

 

先日、堀田善衛の本を購入されたお客様と、少し話をしていた時に新書で「堀田善衛を読む」が出てますよ、と教えてもらいました。今頃何故堀田の本が、しかも幅広い客層を相手にした新書で、出るんだろうと不思議に思い、取り寄せました。(集英社新書/古書500円)

サブタイトルに「世界を知り抜くための羅針盤」とあります。5人の作家・映画監督と、堀田との関わりを語ったインタビューで構成されています。その5人とは、池澤夏樹、吉岡忍、鹿島茂、大高保二郎、そして宮崎駿です。

堀田は、1918年、富山県高岡市生まれの小説家・評論家です。52年発表の「広場の孤独」で芥川賞を受賞しました。55年、日中戦争時代に起こった南京事件を中国人の視線で描いた「時間」を発表。翌年、アジア作家会議出席のためインドを訪問し、「インドで考えたこと」にまとめます。これ以後、諸外国をしばしば訪問して日本文学の国際的な知名度を高めるために活躍しました。

池澤夏樹は、彼の積極的国際性に注目しています。堀田の家は、羽振りの良い廻船問屋でした。外国人との交流も頻繁で、国際的感覚を若い時から育てていました。池澤はこう指摘します。

「語学は才能もあるけれども、そこに向かっていこうとする開かれた積極性、国際性、それを最初から装備して出てきた。その結果が後にアジア・アフリカ作家会議での活躍や、『インドで考えたこと』になり、それからベ平連で脱走兵をかくまうというところにいく。こういう開き方を持って世を渡った作家が他にいたかというと、ちょっと思い当たらない。」

面白かったのは宮崎駿と堀田との関係です。宮崎は最も尊敬する作家として堀田の名前を挙げており、彼の文学世界に非常な影響を受けていると言っています。宮崎はある時、堀田から彼の『方丈記私記』の映画化を打診されます。

「『方丈記私記』が何とか映画にならないかと、とにかく考えています。それには、実は知らなければいけないことや、ひょっとしたらこれは映画になるかとか、ここが骨になるかなとか、そういうふうに探してはいますけれども、なかなか実現には至っていません」

ここに登場する「方丈記私記」(筑摩書房/古書1250円)は、堀田の代表作の一つで、「要するに方丈記一巻が自分の経験となり、かつ自分の魂に刻みつけて行ったものを記そうとしているにすぎない。」と語っている通り、堀田自身の戦争体験を踏まえつつ、方丈記を読み、鴨長明の心の内側へと入ってゆく文学です。

なぜ、何度もこの古典を読み返すのかと自問した時の彼の答えはこうです。

「それは、やはり戦争そのものであり、また戦禍に遭遇してわれわれ日本人民の処し方、精神的、内面的な処し方についての考察に、何か根源的に貸してくれるものがここにある、またその処し方を解き明かすためのよすがとなるものがる、と感じたからであった。」

戦争体験と、海外で見聞きした多くの体験が元になって、強固な思想を文学に落とし込んで行った堀田の文学は、池澤が言うように「社会と歴史と自分の想像力から生まれてくる文学というのは役に立つ、それからやっぱり面白い」のです。

この新書をお読みになって、興味を持たれたら、堀田の著書をぜひ。

★フリー雑誌「 S&N」最新号入荷しています。数に限りがありますので、お早めにどうぞ

 

 

 

 

「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽へ行ける!と民衆と共に踊り念仏を踊った鎌倉時代の僧、一遍上人。彼の生涯を描いた栗原康「死してなお踊れ」(河出文庫/古書500円)なんて、本をなぜ読んだか。

私は、一遍上人に全く興味はありませんでした。しかし著者の栗原康は、最近注目している政治学者です。最初に読んだのは、tabaブックスから出た「はたらかないで、たらふく食べたい」(1870円)で、過激に突っ走る社会論として、面白かったのです。この著者が一遍上人を描くことに、とても興味ありました。で、読んでみると、もうこれがパンクな世界。

「さけべ、うたえ、おどれ、あそべ。おのれの魂をふるわせろ。だまされねえぞ、鎌倉幕府。したがわねえぞ、戦争動員。念仏をうたい、浄土をたのしめ。しあわせの歌をうたうということは、あらゆる支配にツバをはきかけるということだ。捨てろ、捨てろ、捨てろ。いけ、いけ、往け、往け。壊してさわいで、燃やしてあばれろ。国土じゃねえよ、浄土だよ」

と踊り念仏を描いています。宗教学者が読んだら、なんと下品な言い回し、知性がない!とか攻撃されそうですが、このガンガン進んでゆくタッチで、一気に読みきりました。伊予国いちばんの名門豪族河野氏に生まれた一遍ですが、家も名誉も財産も捨てて、全国を踊り狂って行脚した人生を、やはり、ハイになって踊りまくっているような文体で描いた栗原の文章が素晴らしい。「うたえ念仏、極楽往生。ナムナムナムナム。ノドがさけるまでさけびつくせ。」とアジテーションみたいな文章があちこちで踊っていますが、著者はその一方で冷静に一遍を見つめています。

「ひとが念仏をとなえて仏になるんじゃない。念仏がひとを仏にするのだ。」

自分の限界を歌い続けると、しかも大勢でやっていると、自分の声かどうか判断できなくなり、トランス状態の中で、思考停止。頭の中は空っぽになる。その時、その声は仏が発したものになる。

「自分の口から、仏の声がはねあがっていく。うれしい、たのしい、きもちいい。いま、この場で、仏になったということを体感している。心が躍動し、もっともっと念仏に駆り立てられていく。」

解説で武田砂鉄が「栗原の文体は踊り狂っている。こんな評伝がありなのか、と眉間にしわを寄せる偉い人もいるのだろう。でも、そんなこと、栗原は、ホント、どうでもいいと思っている。踊っちゃえばそれでいいと思っている。」と書いています。

アナーキーな文体の果てにある、無念という思想、何ものにも囚われない視点は、何事もひとを数値化したがる今の社会を生き抜く武器になると思います。劇薬のような本ですが、当たり障りのない自己啓発本、生き方本なんぞ、木っ端微塵にする力を持っています。

「オレが死んだあとのことをいっておく。葬儀はいらない。わが屍を野に捨て、獣にほどこすべし。」

これが一遍の遺言でした。

因みに、著者が一遍上人に興味を持ったのは、六波羅蜜寺で、一遍が尊敬する空也上人像を見て、衝撃を受けたからだとか。店頭には、関東大震災直後、急速に不寛容な社会へとむかう時代、女相撲とアナキストの遭遇を描いた映画「菊とギロチン」を栗原が評伝小説にした「菊とギロチン」(tabaブックス2420円)も置いています。

 

赤坂憲雄著「ナウシカ考」(岩波書店1500円)は、読むのに苦労した一冊でした。マンガ版「風の谷のナウシカ」の深遠な世界を学究的考察で読み解いてゆくもので、同時進行で持っていた漫画を再、再読しました。かなり時間がかかりましたが、いやぁ〜最後まで読んでよかった!と、自分に向かって拍手してしまいました。

ご承知のように「風の谷のナウシカ」は、マンガ版と映画版では、全く違うものです。全7巻のマンガ版の最初の3巻をコンパクトに、ナウシカの物語としてまとめ上げたのが映画版です。それに反してマンガ版は、民族の興亡史とも言える長い長い物語です。映画を見てからこちらを読んだ時、その読みにくさに戸惑いました。単純に正義と悪の二項対立で進む世界ではなく、複雑な民族抗争が絡んできます。

「ナウシカはたんなる受け身のヒロインではない。それはすでに、二千年の時のかなたにあっても、積極的に、みずからの運命を切り開いてゆくヒロインだったのである。」

と著者は言います。そんな彼女の進む道は、血まみれの悲惨で残酷な世界でした。異界の人々との出会いと別れを重ねていきながら、彼女の魂は彷徨い、傷ついていきます。著者は、ナウシカの変遷とそこに込められた宮崎の思想を丁寧に読み解いていきます。世界を覆う闇とは何か、終末とは何か、破滅とは何を意味するのか、といった「風の谷のナウシカ」思想の根本部分を理解するために用意された数々の著書を引用しながら、進んでいきます。全部が全部、ちゃんと理解できたかといえば、否です。でも、原作が持つ世界の深さと、宮崎の思想の原点を知ることができる一冊に違いありません。

「わたしね、世界の秘密を知るために、永い旅をしてきたの」というナウシカのセリフが最終巻にあります。

そのセリフを、著者は「ナウシカの旅が、黙示録的な終末世界を舞台とした、まさしく黙示録的な旅であったことを、まっすぐに示していたのではなかったか」と受け止めています。

本書を書きあげるために、25年にもわたって「風の谷のナウシカ」に付き合ってきたと告白していますが、それだけの重みがあります。マンガ版「風の谷のナウシカ」まだ未読の方は、これを機会に、本書を手元においてぜひお読みください。

蛇足ながら、読み終わって付けていた付箋を外すと、机の上が付箋の山になってしまいました。

「『言葉』が暴走する時代の処世術」(集英社新書/古書600円)などと題した対談集が面白くないわけがない!と断言できる一冊です。他人に自分の言葉がわかってもらえないことに悩むアナタには、必読の新書ですぞ。

ソーシャルネットワーク等のネット上のコミュニケーションは便利な反面、危険が伴います。山極先生は「対面して話すときに必ずついてまわるはずの、言葉に託された状況とか、感情とかが削ぎ落とされてしまう。あくまでもテキストデータとして伝わってきた情報だから、ただそれを読むだけだと、どうしても読み手が勝手に意味を付け加えてしまう。」と指摘します。

太田光は、頭の回転が早く思考も明晰。本書でも巧みな話術を駆使して様々な側面から言葉について、疑問を山極先生にぶつけると、それに先生が対応してゆくスリリングな展開が最後まで続くので、あっというまに読めました。

第3章「ケンカの目的は和解にある」で、太田が「昨今の言葉の応酬は、何でも勝ち負けに持って行こうとしている。いわゆるディベートですね。」という、対話とディベートの差異についてからスタートします。人間はいつから相手を徹底的にやっつけるようになったのか、という疑問に対する先生の答えはこうです。

「言葉のせいだと思うんです。比喩というテクニックを人間は考え出してしまった。比喩とは、相手をまるで人間ではないかのように見立てる言葉でもあるわけです。」

「このゴキブリ野郎」とか「豚のように薄汚れた奴」とか、人間を動物や昆虫の一種みたいにカテゴライズして、徹底的に攻撃してしまう。

太田は「人間は言葉で考える生き物だから、比喩なんてものを考え出したために、人間を人間とも思わなくなったと。俺も、言葉を使って商売する身だから、言葉の恐ろしさのことはいつも考えています。」

この辺りの太田の対応は、言葉の力を自覚している彼ならではないかと思います。

言葉以外で何かをつたえる手段として、日本には型があると先生は提起します。曰く「茶道、華道など『道』というでしょう。そこには作法があり、型がある。この場合の型とは、言葉を使わずに何かを伝える仕組みなんです。」という発言に対して、太田が演劇をやっていた頃を振り返り、役作りに感情が大切だという考えが間違っていたことを述べていきます。

名優の演技論書を読んでみると、「大切なのは『感情』なんかじゃなくて『型』なんだと、しつこいぐらいに書いている。要するにお前の感情なんて、お前だけのものなんだから、そんなちっぽけなものを優先させるなと、そんなことをしたら、芝居全体が壊れてしまうというんです。」

太田は、能や狂言や文楽などを引き合いにして、おめんをかぶったり、人形に演技させることで、役者から表情を奪っているのは、お前の表情など不要ということなのだと結論付け、「型に則ってきちんと動けば、感情は自然にそこに入り込むものだ」と言います。それに対して「深い話だね。確かに、型の本質を言い得ているように思います」と、先生。

そんな「深い話」が、そこここに散らばっていて、二人の対話を聞きながら、なるほどなぁ〜と合槌を何度も打ってしまいました。

蛇足ながら、お二人ともiphoneは持ってらっしゃらない。私と一緒です。

 

 

 

 

 

 

 

古谷田菜月の「神前酔狂宴」(河出書房新社/.古書1200円)を読み始めた時は、どこから面白くなるのか見当がつきませんでした。しかしこの特殊な物語世界に洗脳され、脳内を撹乱されて、ズズッとのめり込み、そこから一気に読みきりました。

物語の中心となるのは、明治期の軍神をまつった神社併設の結婚披露宴会場。ここで派遣社員として働く、浜野と梶という青年が主人公です。給料分の仕事をやればいいや、とやる気のなかった浜野でしたが、ある日「新郎新婦の愚かしさ、披露宴の滑稽さを限界まで高めることこそ我が使命と考えるようになり、全力で働くようになった。」のです。

神前結婚の披露宴という特殊な職場の環境を生きる人々や、別の神社から会場を乗っ取ろうと乗り込んでくる倉地と、浜野の確執も描かれ、仕事小説としてのスタイルを見せつつ、物語はどこへ向かうのかわからんままに、どんどん進んでいきます。二人の青年の青春物語であり、お仕事小説でもあり、披露宴という茶番を笑い飛ばすかのような喜劇小説というように、多面的な側面を垣間見せながら、読者は、超忙しい式場内を浜野たちと疾走してゆく羽目になります。

結婚披露宴が「伝統主義による女性差別」と「商業主義による男性差別」に満ちた滑稽な儀式だと気付きながらも、浜野はその茶番劇に全精力を傾けて仕事をするうちに、社内で出世していきます。そんな時、「“自分の本心”と結婚式を挙げたい」と希望する松本千帆子という不思議な女性がやってきます。え?どんな結婚式?? 新郎はいません。??もうこの辺で私の脳はショート寸前です。

松本千帆子は付き合っていた男性がいたのですが、結婚話が出たところで別れた過去があります。彼女の話を聞いた結婚式場のスタッフがこんなことを浜野に言います。

「よくわかんないですよね。人でもなく、物でもない。確かなものと結婚したいって。自分自身というのとも違って……..。本心と、って言ったかな。自分の本心と、連れ添っていきたい。そんなふうに言ってました。」

後半は、この女性の申し出を受けた浜野が「ねえ、やろうよ、その婚礼!」と宣言し、神社も式場も巻き込んで、一気呵成に実行してゆくところがクライマックスになります。

この小説、すべての人におすすめしません。現に、書評を読んでいても、よくわからんという意見と、大絶賛という意見が交互に出ていました。でも、全く違う文学体験をしてみたい方には強くお勧めします。私は最後のページで、上手い!と思わず拍手してしましました。

 

★連休のお知らせ 1/20(月) 1/21(火)連休いたします

★1/22(水)〜2/2(日) レティシア書房冬の古本市プレ企画「こんな本が揃いました」

★2/3(月)2/4(火)古本市準備のため連休いたします

★2/5(水)〜2/16(日) 恒例女性店主による『冬の古本市』を開催します。今年も神戸・大阪・岐阜・東京・御殿場・京都などの女性店主の選書です。ぜひお立ち寄りください。

 

フリーの森林ジャーナリスト、田中淳夫の著書「森は怪しいワンダーランド』(新泉社/古書1200円)は、著者が世界各地の森林で体験した不思議な出来事やとんでもないトラブルに巻き込まれた体験、そして、今、普通に流布している森林に関する常識の本当の姿が書き綴られています。

ソロモン諸島にあるシンボ島でのこと。深夜聞こえてくる祭りのような音に、ひょいとテントから顔出すと、誰もいない。「何もなかった。生ぬるい風は吹いているが、光も音も聞こえない。黒々とした森が広がっているだけだ。祭りどころか、人っ子一人歩いていない。太った月だけが深夜の村に陰翳をつけていた。」

精霊だった……?そんな体験からお話は始まります。森林で生きる民族と暮らす中で、そこに息づく伝説や神話を聴いたり、自らその渦中に入ったりして、こう考えます。

「彼らのような自然の中で暮らす民族は、伝説と現実の経験談の区別が判然としないことを、私はニューギニアだけでなく各地で経験している。だが近代教育が行われる過程で、そうした世界は科学的に否定されてゆくのだ」

また、ボルネオの奥地では、自分自身どう判断していいのかわからない現場に立ち尽くします。テレビをつけると「美川憲一と研ナオコの歌謡ショーが始まったのである。ボルネオ奥地で『かもめはかもめ〜』と聴く、この違和感。しかし、思わず聞きほれてしまう私がそこにいたのだった」

第2章「遭難から見えてくる森の正体」は、まさに映画「インディージョーンズ」の世界です。テントの上の木の葉を食べる多くの虫が、糞をして、それが「テントをたたいて雨の音に聞こえるなんて」虫嫌いの人なら卒倒しかねません。それでも著者は、秘宝を求めてジャングル奥地に踏み込むジョーンズ教授よろしく、森の奥地へと入っていきます。

笑ったのは、勝手知ったる生駒山でのこと。「斜面を登る途中で滑り落ちた。沢に足を突っ込んだ。一瞬、悲鳴が口を突いた足元は濡れて泥だらけになった。遭難…….という文字が脳裏に浮かんだ。」その時、携帯のメールに着信が入ります。「娘からだった『帰りにキャベツ買ってきて』」さらに「玉ねぎと牛乳も買ってきて」と…….。なんとか無事下山し、娘さんの買い物も部終了したとか。やれやれでしたね。

第3章では、常識として受け入れている森の現象の本質を見抜いていきます、例えば森林セラピー。「森林浴」「森林療法」「森林セラピー」という言葉の裏に潜む、トンデモ科学とごまかし。その姿を読者に示して、「森林散策が心地よいことは、誰もが感じる経験則だ。しかし、トンデモ科学の装いを施して、トンチンカンな期待だけが膨らまされているのが森林セラピーではないか。」と結論づけています。

森という大きな存在を、様々な角度から教えてくれる格好の一冊です。アウトドア派必読!