現在店内で展開中の「ミシマ社フェア」の本命商品、安田登「三流のすすめ」(1760円)を会期中に読むことができました。

「本書がめざす人物像は『三流の人』です。三流の人になりましょう!というのが本書の主張です。」ただし、「一流」はもちろん素晴らしいし、目指すことは価値があり、それを否定してはいるわけではありません。

では、著者のいう「三流の人」とは何か?

三流人の理論と実践を、古今東西の古典などから解説していきますが、のっけから、こんな文章にぶつかります。

「いいですか。ここのところをよく覚えておいてください。三流をめざすと、なにもものになりませんせんし、ほとんどのことは役に立ちません。」

おいおい、そんな本を読むのか、と思われるかもしれませんが、コロナでこれまでの社会のあり方や生き方、働き方を木っ端微塵にされた今、これからのあるべき姿は、一流を目指すのではなく、「三流の人」なのです。

三流の人をめざすためには、「ほめられようとしない」「そしられても気にしない」というのは大事だと書かれています。会社にいる間は、昇進を重ね仕事ぶりを認められていた男性が、退職後、地域の活動やデイケアで浮いてしまうことが多々あります。

「会社の中でほめられたり、おだてられたりする機会が多かったのでしょう。会社をやめた後でもそれを期待してしまう。そうするとこういう人になってしまいます。ですから、ある年齢になったら『もう自分はほめられることはのぞまないようにしよう』と決める。かりにほめる人がいても『本心は違うんだ』と思うようにする。」

さて、本書の肝は、第四章以降にあります。四章は「三流の聖典『論語』」です。

「『論語』が三流だなんて言うと怒る人もいると思うのですが、じつは孔子こそ三流人の代表です」と著者は断言しています。ここから、「論語」やその他の中国の古典がどんどん登場してきます。

なんか、難しそう? いえいえ、そんなことは全くありません。漢字大嫌いの私が納得できたのですから、著者の教え方が巧いと言うことですね。

読み終わるのに時間がかかったのは、四章以降をゆっくりと、着実に読んだからかもしれません。

無理やり盛り上げようとキャンキャン騒ぐキャスターのTVオリンピック報道なんぞ消して(しつこく言ってますが)、中国古典の世界に入り込んでください。ミシマ社三島邦弘社長の本展挨拶文に書かれた「あら、三流って楽しいかもね」という言葉に実感が持てますよ。

 

サイエンスライターの渡辺政隆著「科学で大切なことは本と映画で学んだ」(みすず書房/古書1800円)は、新しい科学理論を生み出した科学者、その理論についての基本的な解説書なのですが、ほうぼうに話が脱線してゆくので、全く肩の凝らない読み物です。

先生は、なんせ「映画と本」ですから、ハメット、ブォネガット、ショーン・コネリー、「アナ雪」に「時をかける少女」「ガケの上のポニョ」、そして「ひょっこりひょうたん島」が登場します。もちろん、本筋のダーウィン、グールド、ドーキンス、寺田寅彦、中谷宇吉郎は、バッチリです。

「私の名前はボンド。ジェームズ・ボンド。職業は鳥類学者。1900年、フィラデルフィア生まれだが、イギリスに移住してケンブリッジ大学を卒業した。その後再びアメリカに戻り、いったんは銀行勤めをしたのだが、子どもの頃からの鳥好き、蝶好きの情熱抑えがたく、フィラデルフィア自然科学アカデミーの研究員に転じた。」

これは007映画の宣伝文句ではありません。このジェームズ・ボンドは、バードウォッチャーの間では有名な「フィールドガイド西インド諸島の鳥」(1936年)の著者です。

「007」生みの親、イアン・フレミングが勝手に主人公にジェームズ・ボンドという名前を使ってしまったのです。しかも1958年に出版された第6作「007ドクター・ノオ」ではボンドは鳥類学者となって、ジャマイカに潜入するという設定なのですからややこしい。

こういう小ネタからお話が始まるので、へぇ、そうだったんだと親しみを感じながら読み進めることができます。蛇足ながら、映画版「007ドクター・ノオ」のショーン・コネリーは鳥類学者という設定ではなかった気がします。鳥の羽より、女性ばかり追っていたはず。

数学者の岡潔(当店でもロングセラー)についても、著者は面白い話をしてくれます。1961年松竹映画「好人好日」は、偏屈だが人のいい数学者の物語で、演じるは笠智衆。この映画のモデルになったのがどうも岡潔らしい。彼は多くの奇行のある人物で、在野の研究者として長い間数学の研究に打ち込み、国外で高い評価を受け文化勲章をもらいます。

「一躍時の人になった岡をいっそう有名にしたのが、犬の散歩中の途中、長靴を履いて空中に飛び上がった写真だった。

あるいは、数学は情緒の表現であり、情操教育を怠ると国が亡びるなどの発言で注目を浴び、毎日新聞に連載して1963年に出版した随筆集『春宵十話』により、教育や文化に一言家をもつ文化人としても知られるようになった。」

門外漢には彼の数学上の業績についてさっぱりわからないが、そんな岡の奇行伝説と映画が、数学者像を定着させたのではないか、と著者は言います。

後半の「進化の話」で、「進化論」のダーウィンや、「利己的な遺伝子」でお馴染みのドーキンスが登場しますが、ここは熟読したいところ。

本書で紹介された本については、各章ごとに出版社、発行年が記載されていますので検索がしやすくなっています。

 

 

東京の本屋さんTitleの店主、辻山良雄さんのとても素敵な本、それが「小さな声、光る棚」(幻冬舎/新刊1760円)です。本書は幻冬舎のwebsite「幻冬舎plus」に連載された「本屋の時間」からセレクトされたエッセイ集です。

「まともに思えることだけやれば良い。

それは個人経営のよいところであり、その店が長く続いていくための秘訣でもある。

仕事量は増え、肉体的には勤めていたときよりもきつくなったが、それでも続けていられるのは、その小さな自由がわたしには合っていたのだろう。」

これは、名言ですね。私が大型書店に勤めていた頃は、会社の利益のためにまともじゃないこと、例えば置きたくもないヘイト本を販売せざるを得なかった経験もありました。でも、「小さな自由」を獲得した今は、書店員として、人として「まともに思えることだけやる」権利を持つことができました。

本屋として、あぁ、この気持ち一緒だな、と思った文章にも出会いました。店主のお知り合いで、いつも忙しくしている方が、店で買った本を撫ぜながら、本はいいなぁと日頃の忙しさを忘れたように呟きました。併設されているカフェでコーヒーを飲んだ後に出てきたその人の表情には少し正気が戻っていたように店主は感じました。そして、店主はこう思います。

「本屋が自分を取り戻すために役に立つのであれば、その人には気の済むまでゆっくりと過ごしてほしい。」

帰り際に「いい時間を過ごしました」と言われたことが、何度か当店でもありました。それを聞いた瞬間、店をやっていて一番幸せを感じる時なのです。

本書では、コロナで休業を余儀なくされ、その後、幾度かの緊急事態宣言下での営業についても語られています。

「社会はまた走り出そうとしている。そのことにわたしは違和感がある。いまはすこし仕事をスローにしても、もっと深く本のことを知りたい。何をのんきにやってるんだといわれようとも、自分の速さで歩きながら考える。

そうした根っこがないと、それはわたしの仕事であるとはいえない」

「自分の速さで歩きながら考える。」とても大事なことだと思います。

一昨年辻山さんにお会いした折、オリンピック期間中は閉店して、喧騒の東京から逃げるとおっしゃていた辻山さん。結局一年延びて、その計画は実行されませんでしたが、ひょっとして明日からそうされるのかな…….。

当店はせめて、オリンピッ最終日までしつこくミシマ社の本を勧めるフェアを展開して、テレビ観戦より読書!と、いい続けてみます。

辻山さんの本は「ことばの生まれる景色」(ナナロク社/古書1850円)も置いています。こちらも本当にいい本です。

 

「読書する一人の人間には二人分の価値がある」

という文章にグッときて読んだのが、カウテル・アディミ「アルジェリア、シャラ通りの小さな書店」(作品社/古書1950円)です。

幅4メートル奥行き7メートル。(うちの店とほぼ同じくらいです)アルジェリアに実在したこの小さな書店の名前は〈真の富〉といいいます。この書店を開けたのは、若干21歳のエドモンド・シャルロ。彼は書店経営と同時に出版も手がけました。昨今、出版部門を立ち上げている日本の個性的な書店の、先駆けですね。

シャルロはアルベール・カミュを世に送り出し、ここにはサン=テグジュペリやジッドらそうそうたる作家たちも集ってきました。

「1943年3月5日 ジッド、サン=テグジュペリと夕食。今後は二人ともアルジェに落ち着く。サン=テグジュペリは意気消沈しているように見えた。アメリカ軍が彼の飛行を拒否したからだ。」

こんな文章を目にすると、その情景が浮かび上がってきます。

シャルロはアルジェリア生まれのフランス人。小説は彼のメモを辿りつつ、ちっぽけな書店が大きな歴史の渦に翻弄されてゆく姿を描いていきます。

ご存知のように、アルジェリアはフランス領でした。第二次大戦をフランス側で戦いますが、やがて独立運動が起こります。本書でも触れられていますが、運動の過程で起こる大量虐殺があり、現代の戦争の歴史そのもののが凝縮されような国で〈真の富〉書店はこう宣言します。

「地中海的な概念を持つ友情の場所  言語や宗教の区別なく、地中海をめぐるあらゆる国々の作家や読者を呼び寄せる、ここの、この大地の、この海の人々を呼び寄せる場所。そして何よりも、偏狭なアルジェリア主義者に反対する。それを超越して進むこと!」

面白いのは、小説の構成です。シャルロのメモを中心にして、書店に長く住み込み守ってきたアラブの老人アブダラーの物語に、この書店の解体に来た現代青年リヤドの物語が絡んできます。最初はまごつきましたが、激烈な歴史を生き抜いてきた過去と現代がクロスしていきます。

アルジェリアだけではなく、我が国でも書店が激減しています。この本を読んでいると、書店とはいかなる存在なのか?と思いを巡らしてしまいました。人と本が出会い、その出会いが広がってゆく場所。そんな場所が少なくならないような世界であってほしいものです。

本作の著者カウテル・アディミは、アルジェリア出身の女性作家で、本作が長編3作目です。「アルジェリア生まれのフランスで一般にあまり知られていない出版社の事業を掘り起こし、仮構の手帳を創造して彼の半生を生き生きと描き上げた」ことが高い評価になったと、訳者があとがきで書いています。同感です。

様々なジャンルで活躍する安田登は、下掛宝生流能楽師です。「見えないものを探す旅」(亜紀書房/新刊書/1650円)は、古典文学、能楽などを、今を生きる私たちの目の前に表出させて、生きることを考えるヒントを提示してくれます。

「姥捨」という能は、主役(能楽ではシテと呼ばれる)は姥捨山に捨てられた老女です。孤独を受け入れ、夜空に光る月を友として暮らしています。そんな老婆のところに立ち寄った旅人の前で、「胡蝶の舞を戯れ舞い、ついに月と一体化して山気の中に昇華する」のです。

「かつて日本人は、孤独の中で一体化するすべを知っていた。それは、姥捨山に捨てられた老女という、絶対の孤独者であってすらだ。そして、それは芸能として長きに亘って人々に、老いとは何か、孤独とは何かという問いかけを投げかけていた。それは孤独の芸能、能だからできたことではなかっただろうか。

現代人である私たちは、そこから何を学び、未来に向けて何を提示することができるだろうか。」

 

本書は、「旅」「夢と鬼神 夏目漱石と三島由紀夫」「神々と非在 古事記と松尾芭蕉」「能の中の中国」そして「日常の向こう側」に分かれています。タイトルだけ見れば、文学評論、古典芸能評論っぽい感じを持たれるかもしれませんが、能の演目なんて知らなくても、著者がその世界へと連れて行ってくれます。

ところで、著者は能でいうワキ(シテに対して)役者です。能の舞台では、ワキだけが亡霊に出会えるのです。その理由を「ワキは、『分く』を語源とする『境界にいる人物』だからだ。この世とあの世、生者と死者との境界にいる。」と解説しています。

「ワキには、本来出会うことができないあの世とこの世とを『ここ』で出会わせてしまう力もある。だからこそ、能の観客も、ワキの目を通じてあの世を見ることができるのだ。」

不思議な芸能ですね。

この世とあの世の境界にいる「ワキ」は、安田がよく使う「あはい」という言葉とも重なっています。「あはい」は、例えばお盆という時のようにあの世とこの世の接点で、それは、「間」とは違い、少し重なった「糊代」のようなもの。建築でいえば縁側みたいに外と内を緩やかに繋ぐような。生活の中でいえば、「門掃き」のように、自分の家の前だけでなく隣家の前も少しだけ掃除するような。または「掛詞」のように意味を重ねて使うような。

日本にはそういう「あはい」の文化がもともとあることを、能楽や古典から引っ張ってきて、その面白さを平易に伝えてくれます。

 

 

 

 

政治家の名前は、オードリー・タン。35歳という史上最年少の若さで台湾のデジタル担当大臣に就任した天才です。でも、それ以上に、2020年台湾の新型コロナ対策で、自国の薬局などで販売されているマスク在庫がリアルタイムで確認できるアプリを導入し、瞬く間に全国民にマスクを配布したことで有名です。

そのオードリーがインタビューの形で、若い世代に向けて、これからの社会に通用する考え方を書いたのが「自由への手紙」(講談社/新刊1540円)です。本書は「格差から自由になる」「不安から自由になる」「ジェンダーから自由になる」「デフォルトから自由になる」「仕事から自由になる」という4章からなっています。各章ごとに、具体的な対応、考え方が述べられています。一読して、この人の頭の柔らかさには脱帽します。そして、キャパシティーの広さに驚かされます。

こんな文章があります。「私には、思春期が2回ありました。」どういうことか?

「2度目の思春期は、24歳のとき。ホルモン剤を服用し、女性として思春期入りすることを自分で決めた時で、それは2年ほど続きました。

こうして2回目の思春期を経験したのち、『男か女か』という二者択一的な考え方が、私の中から消えました。」

この人物がコロナ対策を仕切るのです。台湾における感染予防対策の成功要因を問われた時に、オードリーはこう答えています。

「速やかに、オープンに、公平に楽しくやることが大切です。」

「楽しく」??つまりこういうことです。全国民にマスクを配布した時、白色のマスクが不足して、ピンク色のマスクを配りました。それを付けて登校すれば、ピンクのマスクでは学校でいじめられると男の子の親から連絡がありました。その時に、オードリーが取った政策は、というと、担当各部署の官僚や政治家がTVに出るときは、全員ピンクのマスク着用に切り替えたのです。大臣以下全員ピンクのマスクで登場したので、全くいじめられることなく、クラスで一番クールな少年へとなったのです。

これ、日本でできます? そんな事を提案する官僚もいなければ、OKと即断する大臣もいないでしょう。過去から続いてきた、あるいはお上が決めた「正しさ」なんかに合わす必要など全くない、というオードリーの哲学が、随所に出てきます。オードリーの速射砲的な実行力もさることながら、その施策を実現させる台湾政界の柔軟さを羨ましく思いました。

思春期を二回体験した人物を政策のトップに据えるなんて、頭の枯れたジイさんが集まっている国では想像さえできませんね。

この写真は、ジャズアルバム”WE INSIST!”のジャケです。カフェのカウンターに座ってこちらを振り返る黒人三人。ちょっと迷惑そうな顔の白人のウェイターを後方に配しています。レコーディングされたのは1960年8月末。同年の2月に、北カロライナ州グリーンズボロで起こった黒人学生の座り込み運動など、黒人差別への抵抗運動の盛り上がりを受けて、アルバムのリーダー、マックス・ローチ(ドラムス)は公民権運動に関わっていた詩人/歌手のオスカー・ブラウンJrの詩を取り上げて、白人による人種差別に抵抗したこのレコードを録音しました。

推測ですが、ジャケットに写っているカフェは、白人専用の店舗で、そこに黒人がどかっと座ったものだから、ウェイターが至極迷惑そうな顔をしているのではないか。中身も過激で、寝る前に聴くジャズには適しませんが、私の大好きな一枚です。今、店にあるのはアナログ盤(1000円)で、ライナーノートは植草甚一が書いています。

黒人音楽家たちが受けた差別や偏見については、5月にブログで紹介した「歌と映像で読み解くブラック・ライブズ・マター」(1400円)をお読みください。また、本書でも大きく取り上げられているビリー・ホリディについては、油井正一&大橋巨泉訳による「奇妙な果実」(晶文社/古書1300円)もあります。今月末から、ビリー・ホリディのドキュメンタリー映画「ビリー」も上映されるようです。

もう一冊、ブラックミュージックの本を取り上げます。ピーター・バラカン著「新版 魂(ソウル)のゆくえ」(ARTES/新刊1980円)。ここでは、ソウルミュージックの今日までの歩みを、448曲のプレイリストを加えて紹介しています。

 

「これは専門家のための本でもなく、ソウルの教科書でもありません。ソウルミュージックとともに何かがなくなった、と僕自身はこの頃ずっと感じていて、その何かは一体どんなものか、その正体をちょっと考えてみたい、そう思ってこの本を書きました。」

最初に出たのは30年前。それが新版として蘇りました。バラカンの本は、どれもおススメです。

 

竹倉史人「土偶を読む」(晶文社/古書1550円)は、とにかく、とことん面白い本です。

みなさんご存知の、宇宙人みたいな縄文時代の遮光器土偶。これを著者は、本書の最後でこう結論づけます。

「遮光器土偶は サトイモの精霊像であり、その紡錘形に膨らんだ四肢はサトイモをかたどっていた」

サトイモ? 驚きの結論ですが、もちろん当てずっぽうで書いているわけはありません。縄文時代に数多く作られた土偶。その正体をめぐっては「妊娠女性説」「地母神説」など多くの説が出ていますが、確証はありません。著者は、土偶の形態を具体的に分析するイコノロジー研究の手法に、植物学、環境文化史などのデータを加味して、新しい土偶論を展開していきます。

340ページ余りの大作ですが、研究書風の難しさは全くなく、推理小説を読むようなスリリングな展開に時間を忘れました。

そしてこの本の良いのは、始まって4ページで、ズバリ著者の考えをこう言うところです。

「土偶は縄文人の姿を象っているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。植物の姿をかたどっているのである。」

これを、様々な形態の土偶を観察しながら、実証してゆくのです。あいつが犯人だ。その証拠はこれとこれ、みたいな方法です。ちなみに著者は、遮光器土偶のレプリカを購入し、「数日間は、私は嬉しくてベッドで一緒に眠ったほどです。」(25Pにその土偶の写真あり)

著者はなぜ、土偶と植物を結びつけたのか? 「植物栽培」にまつわる神話と儀礼に注目します。「ヨーロッパであればムギ、アジアであればイネ、南米であればトウモロコシやイモが主食として栽培されてきたが、こうした植物を植え、育成し、収穫して食用に供する人々は、それぞれの農事暦に沿って当該の植物霊を祭祀する儀礼を古代より行ってきたのである。」

縄文時代、広範囲な食用植物の資源利用が存在していたにも関わらず、植物利用に伴う儀礼が行われていた痕跡が縄文遺跡から全く発見されていません。ここから、著者のコペルニクス的展開がスタートします。いや、痕跡がないのではない。私たちが気づいていないだけなのだ。

「縄文遺跡からはすでに大量の植物霊祭祀の痕跡が発見されており、それは土偶に他ならない」

と言う著者のシナリオに沿って、本書はスリリングに進んでいきます。各種土偶の写真や、実証データなどの配置も巧みに、読者を飽きさせない工夫が随所にあります。現代人が縄文人の気持ちを、超音速並みのスピードで知ることができる画期的な本でした。

「これまで男性たちによって独占的に形成されきた『職業としての学問』では土偶の謎は解けなかった」と、現在の学界を皮肉る最終章の「土偶の解読を終えて」も面白いですよ。

 

 

 

 

 

 

文化人類学者西江雅之の「異郷日記」(青土舎/古書1900円)を読みました。西江は、子供の時から、昆虫や鳥、小動物に憧れていました。飼育するのではなく、そんな動物になりたいと本気で思っていたそうです。しかし、どう頑張ってもスズメや蟻になれないことが分かり、10代の頃には挫折感のようなものを味わったそうです。(不思議な人ですね)

「二十代に入って初めて耳にした”文化人類学”などという学問に関係するようになったのは、動物になろうとした少年時代の”諦め”感に原因があるのであって、人間好きだからというわけではない。」(へそ曲がりかも)

文化人類学を学ぶ中で、研究のための調査目的で多くの国を訪れるようになりますが、観光目的ではないだけに、普通では行けない場所にも入って行きました。そんな海外での体験、学んだことをまとめたのが本書です。私はこの手の本にはすぐに手を出すタイプで、世界の広さを知るには最適だと思っています。ニューギニア、ザンジバル、バリ島、マレーシア、ソマリア等々が登場します。

文化人類学の研究本ではありません。何度も言いますが、世界は広いという認識を再確認するための旅の本です。

現在はタンザニア共和国に属している、東インド洋上にあるザンジバル諸島で見た日本の車について、面白いことを伝えてくれます。

「ザンジバルの町には、日本の車が非常に多い。日本製のというだけではない。日本で走っている時のままの姿、すなわち、日本語で書かれた会社名、商店名、番地、等々が車体に残されたままの車が、途切れることなく走っているのだ」(日本では考えられません)

なぜか? ここでは車泥棒が多発していて、車に書かれてある複雑なデザインや文字を記憶しておけば、転売されていても自分の車かどうか即座に判断できるからだそうです。「メデイカルスポーツプラザ 会員募集中」と書かれたバンの写真に仰天しました。

もちろん、そんな面白い話ばかりではありません。西洋史に暗い影を落とす奴隷制度のことも何度か出てきます。そして「逃亡奴隷」の存在も知りました。

「ギアナでは、アフリカ系住民のうち、奴隷解放の時代が訪れてから自由の身となった人々とは別に、自力で逃亡し、自由を得た人々がいた。”逃亡奴隷”と呼ばれる人々である。初期の逃亡奴隷の中には、自分たちが積み込まれている奴隷船を集団で乗っ取り、未知の土地に上陸し、奥地に逃げ込んで生き延びた人々がいた。連れて行かれた先の農園で、仲間と共謀して逃亡に成功した人々もいた。例えてみれば、三百年以上も長い歳月にわたって “フィリピンのルパング島の小野田さん”と同様の生活をしてきた人々がいるということになる。」

題名も内容もおおかた忘れましたが、カッコいい黒人奴隷が暴動を先導して白人を倒す映画を観た記憶があります。それって作り話だと思っていましたが、そうでもなかったみたいです。

コロナのおかげで海外を旅することが難しい日々が続いていますが、そんな時こそこの本をお勧めします。濃密な旅をしたような気分になりますよ。

少し前に、今年のベスト1だ!とブログに書いた呉明益の「複眼人」に次いで、彼の「自転車泥棒」(文藝春秋/古書1700円)を読みました。400ページ余りの長編です。タイトルから、同名の昔のイタリア映画を思い出された方もおられるかもしれません。あの映画のように、これも自転車を盗まれた父と子の物語です。失踪した父とともに消えた父の自転車を巡って、息子は、自分の故郷の台湾から時代を遡って戦時下の東南アジアのジャングルへとさすらいの旅を続けるという物語です。

「複眼人」もそうでしたが、こちらも壮大なスケールで展開する小説です。

「父がペダルを踏む力は、明らかに力不足だった。身長はもう同じぐらいなのに、無理やり荷台に乗せられ、おまけにぜえぜえと苦しげな息づかいを間近に聴かされるのはあまりに気恥ずかしかった。」

そんな思い出のある自転車と父の失踪を巡って、これでもかこれでもかと過剰なくらい人物が登場してきます。例えて言えば、大きな川へ流れ込んでゆく小さな川が何本もあって、それらがひとつになって大きな海に向かってゆくのを見ているような感じです。

翻訳の天野健太郎は「厳戒令が解除され、政権交代がなされたあとの文学的テーマは『批判』や『純化』ではもはや物足らず、純文学であっても『普通におもしろい』小説を求められるようになった新世紀の台湾人作家のなかで、呉は質・量ともにその先頭を走っている。」と書いています。その評価は「自転車泥棒」「複眼人」そして短編集「歩道橋の魔術師」を読んで、なるほどと納得しました。(現在、日本で翻訳されているのはこの三作だけです)

本書における大きな川は、百年にもわたる主人公の家族史です。そこに台湾原住民族の報道写真家、蝶の貼り絵工芸を生業にする女性、戦死した日本兵の霊と交流をする老兵、戦中のマレー半島で展開された「銀輪部隊」(自転車部隊)の決死の行軍、ミャンマーで日本軍に接収され、国民党によって中国に連れて行かれ、最後は台湾に渡って台北動物園で生涯を終えたゾウのリンワンの物語などが、支流となって流れ込み、そして最後は父の自転車に向かって収束して行きます。

天野は「この小説は自転車などの『もの』にまつわる壮麗なエピソードとディテールから幕開く物語だ。」と語っていますが、テープレコーダー、手紙、蝶の貼り絵等々が決め細く描かれています。そんな中で、自転車好きの私がいいなぁと思った文章がありました。

「いい職人が細やかな調整をして締めたネジには、集中力が宿っています。ガタつきや異音を防ぐために、ネジは必ず適切なトルクで締められなければならない。このとき工具を通じて、彼らの力が自転車のなかへ移される。そしてたぶん、数十年ものあいだ自転車に留まっている。解体するとき、ぼくはその力を感じることがあります。」

これは登場人物の一人、自転車マニアのナツさんの言葉です。

登場人物たちの人生を追体験して、彼らの幸福や不幸に心震わせたり、過酷な運命に抗うことなく孤独に進んでゆく森の象たちに涙したりしながら、大きな物語を読み終えた充実感でいっぱいになる傑作です。

今年の秋には新作が出るみたいです。今、一番読みたい小説家です。

 

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