「科学的視点」をテーマに物理学者、動植物学者、数学者、そして理系の色合いのある作家などを、一作家一冊で紹介する平凡社発行の「STANDARD BOOKS」シリーズが充実しています。

寺田寅彦、野尻抱影、岡潔、中西悟堂、中谷宇吉郎、牧野富太郎、湯川秀樹、日高敏隆、串田孫一、稲垣足穂、そして星野道夫も出ています。当店では人気の方ばかりです。現在シリーズ第4期の途中まで進んでいて、24冊刊行されています。新刊で1400円(税抜)という買いやすい価格で、その人の全体像を掴むには最適です。古書でもぼちぼちと見かけるようになりましたが、寺田、牧野、湯川、野尻などは入荷しても割と早めに売れていきました。

どの本にも栞が付いていて、岡潔の本は確か松岡正剛が書いていたと記憶しています。星野道夫には平松洋子が「世界の秘密に触れる」というタイトルで、こんな文章を寄せています。

「『人生とは、何かを計画している時に起きてしまう別の出来事』星野道夫の著作をつうじて出会ってから、ずっと大切にしている言葉のひとつだ。(中略)生きていれば避けては通れない不条理や理不尽を端的に言い表し、しかも、それを引き受けようとする覚悟が感じられて惹きつけられる。」

鳥類学者中西悟堂には、動物行動学者で「京都とカラス」などでお馴染みの松原始が「鳥と共に」という素敵な文章を寄せています。新刊書店で、このシリーズを見かける度に、この栞の随筆だけは読んでいました。

もうひとつ、本の最後のページにその人物の略歴が載っているのですが、最後のコメントが面白い。岡潔はこんな感じです。

「『まだしたいことがいっぱいあるから死にたくない。だけど、もうあかん。明日あたり死んでるだろうな。』そう言った翌日、1978年三月一日永眠。」

隅々まで編集者の心意気が詰まったシリーズだと思います。「STANDARD BOOKS刊行に際して」として、次のように書かれています。「自然科学者が書いた随筆を読むと、頭が涼しくなります。科学と文学、科学と芸術を行き来しておもしろがる感性が、そこにあります。(中略)境界を越えてどこまでも行き来するには、自由でやわらかい、風とおしのよい心と『教養』が必要です。その基盤となるもの、それが『知のスタンダード』です。」

現在、当店には星野道夫、岡潔(栞の随筆は付属せず)、中西悟堂のみあります。これからも増やしていく予定です。

 

 

「森の生活」と言っても、ソローの本ではありません。「エミリー・ディキンスン詩集」や、ターシャ・テューダーの翻訳本を出してきた英米文学者内藤里永子の「森の生活」(角川/古書1300円)です。

まぁ、著者が森で生活している様子を描いた本という意味では似ていますが、内藤の場合、いかにも素敵な自然に囲まれた余裕のある日々を綴ったものではありません。

1937年生まれの彼女は、50代の頃、大切にしてきた友人、知人を一斉に亡くしました。その悲しみと絶望感から抜け出せない著者が選んだのが、浅間山を望む標高1000メートルにある奥深い森の片隅にある古い家。そこに60代半ばから10年間一人で住むことでした。隠れ住んだと言ってもいいかもしれません。しかし静かな隠遁生活と思いきや、

「二階の窓から部屋に次々に侵入してくる姿を見た。猿だった!わたしは慌てふためき、なんの思慮もなく、外へ飛び出してしまった。夕闇は迫る。この辺りに人けはないのだ。」というとんでもない体験をすることになります。

もちろんそんな日ばかりではなく、ここで自分と向き合い、少しづづこの古い家と森に救われていきます。不正脈に苦しんでいた著者は、あるとき、家全体が震えるのを感じます。明確な振動。彼女が弱り果てると、震える家。それは合図だったと彼女は解釈します。

「わたしは察することができた。人間の言葉にするならば『居マスヨ、見テイル、守ッテイル』、こう家は言っていた。『古い家のあなたを、わたしも守る』、わたしも、こう応えていた。」

自然は人間に決して優しい存在ではありません。でも、魂が迷っている時、その人の生きる道が真っ暗な時、本書で語られるように助けてくれることもあるのかもしれません。と言って、いわゆる癒し系の本かと言えば、そうではありません。

著者が自然に何も求めず、繊細であり過激でワイルドな森の生態系に限りなく同化することで、大きなエネルギーを吸収したのです。その記録が綴られています。逃げ場を失った鳥が部屋の中へ入り込み、パニックになり風呂場で死を迎える。しばらく、そこに近づけなかった著者がドアを開けると今度は黒蝿の群が飛び回っている、そんな経験なども書かれています。

おびただしい数の生き物、草花とともに生き、驚き、喜び、そして「わたしに与えられた一つの生をきっちりと生き切る仕事を果たそう」と決意し、「森を出て、人々の間に戻って行こうとしている。」

現在、84歳。今も現役なのかなぁ?

池澤夏樹が、尊敬する作家石牟礼道子の声を聞くために、水俣の彼女の元へなんども通いました。その対談をまとめたのが「みっちんの声」(河出書房新社/古書1600円)です。

「私は方言を『土語』というふうには思っていません。方言を詩歌の言葉として非常に高級だと思っていて、詩(ポエム)の言葉として蘇らせたいと気がありました。それで『苦海浄土』の会話は、絶対、標準語では書かないぞと思っていました。」

池澤は、個人編集による世界文学全集(河出書房)に、唯一、日本から石牟礼の「苦海浄土」を入れました。この全集は元植民地だった国、あるいは女性の書いた作品が数多く収録されています。そのどちらもが弱い立場にいる人たちの視点です。しかし、弱さを「スローガンにしたり、アピールしたり、ひとりよがりの嘆き節にするのではなく、もう一つ深みを持たせて、相手に届くようにする。それが文学ですね」と池澤は語っています。

そして「弱者として訴えながらも、向こう側を引き込むようにして、言葉が通じる場を作らなきゃいけない。『苦海浄土』がすごいと思ったのはそこなんです。」と続けます。

「苦海浄土」は、ご承知のように水俣病に苦しむ患者と、公害を垂れ流した企業の姿をドキュメントタッチで描いた彼女の代表作です。この稀代の文学作品が出来上がるまでを中心に、二人の作家が文学について、言葉について、生きることについて縦横無尽に語り合います。私は「苦海浄土」は未読ですが、「椿の海の記」「水はみどろの宮」で彼女の豊穣な言葉にみいられました。(ブログで紹介しました)

石牟礼が亡くなる3ヶ月前までの、10年にも及ぶ交友の中から生み出されてきた言葉に、じっくり付き合ってください。彼女の素直な、飾り気のない話し方がとても印象に残ります。

 

左右社は2005年に設立された出版社です。様々なジャンルの本を出していますが、一味違う切り口が魅力です。私がこの出版社のことを知ったのは、レベッカ・ソルニットの「説教したがる男たち」でした。近年のフェミニズム関連の書籍として大きく注目された一冊で、その続編とでも言うべき「わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い」(2420円)も今回入荷しています。「知的で獰猛でウィットに富んだ、ソルニット節の真骨頂」とブレディみかこさんが帯で絶賛しています。

次に、この出版社の本に再会したのはやはりソルニット著「ウォークス歩くことの精神史」(4950円)でした。これ、人間の歩行を様々な角度からアプローチした大作で、大型書店で平積みになっていたのを覚えています。女性問題だけでなくこのような文化史的な本を書く作家なのかと、調べてみると環境問題、アメリカ史、アート関連にも多くの著作があるみたいですが、大学に属さない独立研究者です。その辺りのことも惹きつけられた要因かもしれません。

これ読みたい!と新刊書店店頭で見つけたのが、橋口幸子著「こんこん狐に誘われて」(1870円)です。詩人田村隆一の4番目の奥様の和子さんが住んでいた、稲村ケ崎の山の上の住宅に著者夫婦が間借りすることになります。文壇に詳しい人ならご存知の通り、和子さんは詩人の北村太郎と関係がありました。その北村も、この家に引っ越してきたのです。ややこしい関係とはいえ、それなりに平和で落ち着いた時間が流れていました。しかし、そこへ、別の場所で生活していた田村も戻ってくると宣言したのです…….。

詩人と著者が見つめた稲村ケ崎の暮らしと流れ行く時間を言葉にしたものですが、著者は夏葉社から「いちべついらい、田村和子さんのこと」も出しています。私はこの本が好きで以前当ブログでも紹介しました。

まだまだ紹介したい本は沢山ありますが、今回はここまでにしておきます。松田行正「RED ヒトラーのデザイン」や、重金敦之「落語の行間 日本語の了見」なども紹介したかった!!

2016年に発行された石田千著「からだとはなす ことばとおどる」(白水社/古書1050円)は、彼女の著作にしては、ちょっと異質かもしれません。

「石田千の「月と菓子パン」(晶文社650円)、「屋上がえり」(筑摩書房700円)を読んだ時、著者の”良い加減”なリズム感が心地よく、エッセイ界に新しい人が出現したなと、その後も注目していました。」

と、以前のブログで書きました。日常生活の小さな変化、少しづつ表情を変えてゆく街の風景を、ゆっくりと呼吸するように味わうことができる作家として読んできました。しかし、本書はもっと私小説風というか、心象風景を言葉に託したような感じがします。各章のタイトルは「ふれる」「わたる」「ふりむく」「なおる」という具合に、動詞がひらがなで書かれています。心に思い描いていることを、そのまま言葉に変換するのはなかなか困難で、必要以上の装飾やもって回った言い方で何んとか表現しようとします。

著者は、無心の状態で、言葉をつむぎ、そのことばとおどる、のです。「ことばとおどる」楽しそうな姿が見えてきます。それにつられて、こちらも何だか気持ちが良くなってきます。ひらがなタイトルなので、イメージが固定されることなく、ふわりと浮遊した感覚になるのです。

「ひとに起こる変化は、オーケストラのようにじゃーんと始まるわけではなく、きざしといってもひたひたと、あとになって、そういえばあのころから始まっていたのかもしれないね。のこされたものどうし、ちいさな声で目を凝らし、いつかの場所を重ねてみる。

日ごとのちいさな違和が加速して、もうもどれなくなる。じっさいに生きていれば、ぱたんと変わってしまうことなんて、すくなかった。」なんて考えながら、居酒屋に入ると、隣でおじさん二人横顔が差し向かいで飲んでいる。横顔が似ていると思ったら、お互いもう孫がいる兄弟だとか。

「うれしそうに栓を抜いた。酔いは輪になって、輪になって、ちいさな店の中で、みんな笑っている。

煙をかきわけて出ると、やさしい月が出ていた。そろそろ海を見たい。」

これは「ふりむく」という章の最後です。著者はちょっとほろ酔い気分。こちらもリラックス。「やさしい月」に会いたいと思いました。

しんどい時には、ぜひこの本をおすすめです。

2020年8月26日、”I am a black woman”と発信したのは大阪なおみ選手でした。そして、翌日の準決勝試合出場を一時、辞退しました。同月23日に黒人男性ジェイコブ・ブレイクさんが警察に背後から銃撃され、重傷を負った事件が起こりました。これは明らかに警察による人種差別的殺戮であり、各地で抗議運動が勃発し、彼女もそれに答えたのです。

さらに、彼女は全米オープンテニスで、警察による暴力で死去した黒人7人の名前の入ったマスクを決勝までの7試合つけて出場したのは、ご存知だと思います。本来、試合に政治的メッセージを持ち込むことを認めない主催者側が今回は容認しました。その背後にはもちろんBLM(Black Lives Matter)運動がありました。

アメリカ全土で広がるBLM運動を、音楽と映像の面から読み解こうとしたのが藤田正「音楽と映像で読み解くブラック・ライブズ・マター」(シンコーミュージック/古書1400円)です。

「ブラック・ライブズ・マター」は、「黒人の命だって大切だ」と訳されていますが、急に登場したスローガンではありません。暴力を伴う黒人への人権侵害が起こるたびに、黒人たちは拳を振り上げ、ストリートで抗議してきたのです。

1939年、ビリーホリディの歌った「奇妙な果実」が発売されます。ご承知のように、この歌はリンチにあって、死体をぶら下げられた黒人の姿を歌ったものです。

最近では、映画「風と共に去りぬ」も「典型的差別映画」として糾弾されています。「『風と共に去りぬ』は、以前から黒人、というよりカラードと呼ばれてきた私たち有色人種を見下す気味の悪い作品ではあったが、ようやく BLM運動の熱に押されるように、あるネット配信会社では公開を控える、いや公開をするにしても映画の冒頭に注釈を付ける、という社会性を持つまでになってきた。」と著者は解説しています。

なぜこの名画が?と思うかもしれませんが、原作との比較も含めて詳細に論じられています。それほどにアメリカでの人種差別問題は深刻です。本書では、ビリー・ホリディに始まり、ブルース、ソウル、ラップカルチャー、と変遷してゆく黒人音楽の歌い手たちが、それぞれの歌に込めた怒り悲しみを紐解いていきます。

さらに、アメリカによるカラード差別として日本への極端な蔑視があったことを、一曲の歌を例示して解説しています。

それは1958年ワンダ・ジャクソンが歌った「フジヤマ・ママ」です。「歌詞がえらく問題なのだ」と著者は言います。「あたし、ヒロシマにもナガサキにも行ったことがあるの。それと同じこと、あんたにしたげよ〜か?」と凄みのある声で迫ってきます。「それと同じこと、あんたにしたげよ〜か」って、日本に落とされた原爆みたいにあなたを破壊してやろうか?と歌っているのです。「『汚らしいジャップ』をこっぱみじんにした後のアメリカ国民の高揚感がこれほどまでに『明るく』表現された歌は他にないだろう。」

さらに、驚くべきことに同年この歌は日本語に翻訳され、雪村いずみが歌って大ヒットしているのです。「日本人って(BLM運動などに関わるアメリカ人たちのようには)、歴史に激しくないのだと思います。」という著者の言葉はズキンと迫ってきます。

そう思えばなおさら、大阪なおみのとった行動は素晴らしい。森喜朗的おっさん思考しか持たない連中が、スポーツに政治を持ち込むなんてとコソコソ言い合っているのが聴こえそうですが、そんなの無視して彼女には”黒人女性”としてさらに前進して欲しいものです。そして、私はどう行動するべきか、を考えなければなりません。

 

 

 

コイケ龍一「アフリカノオト」(河出書房/古書1000円)は、引っ込み思案で、将来何を目的に生きていけばいいか皆目見当がつかず悶々としていた青年が、ある日、太鼓の音に惹かれ、単身アフリカに太鼓を学びにゆく自伝的ノンフィクションです。

太鼓の音に魅力を感じていた時、著者はテレビで東アフリカの音楽家フクウェ・ザウォセさんの番組に出会います。

「世界には、あんなにのびのび音楽をやっている人もいるんだ。その生活のすべてが、のんきで、楽しそうで、自由だった。」

そして、無謀にも一人でアフリカへと旅立つのです。しかし、アフリカへの幻影は儚くも崩れ去ります。アフリカ =マサイ族の勇者というイメージがありますが、彼らとて生活があります。世界中の人々がマサイの生活を見ようと会いにきます。そこに、貨幣経済が忍び込み、マサイの中にお金が入ってきます。著者曰く「自国に帰って、『マサイに会った』と自慢する為だけに会いに来るのだ」というのが現状です。

しかし、少しづつアフリカの風土に人々に順応し、そして自分のことを深く掘り下げていきます。

スワヒリ語で、「カマ・ムング・アキペンダ」という言葉があります。これ、別れ際に発する言葉なのですが、その意味は「もし神様が望んだらまた会おう」ということです。「この、のうてんきな考え方が、彼らをのんびり守っているような気がする」と著者は書いています。日本とは真逆のその生き方の中で、太鼓を習い、貧しい暮らしをする家族と共にご飯を食べ、アフリカとは何かということを考えていきます。

これは自分探し、あるいは、自分磨きの旅とは違い、全く知らない文化と風土の中で、世界を知ってゆく旅なのです。マラリアにかかって死ぬ一歩手前になったり、金を巻き上げられたりと散々な目に会いながらも、太鼓を学び、叩き、旅を続けていきます。これこそ旅だなと思いました。

現在は、帰国して岡山で暮らし、「薪でご飯を炊いたり、お米を作ったり、カリンバを作ったり、畑仕事をしたりしながら演奏活動を続けている」のだそうです。そして、このほんのラストにはこう書かれています

「 ザウォセさんが大事にしてきた『暮らしが音楽を生み出す』という生活を軸に、僕も暮しの中から音楽を奏でていたいと思う。」

 

 

 

 

シンガー&ソングライターの矢野顕子って、こんなに宇宙好きだったのか。「宇宙に行くことは地球を知ること」(光文社新書/古書650円)を読んで分かりました。

対談の相手は、スペースX社の新型宇宙船クールドラゴンで宇宙へ飛びだす予定の野口聡一です。宇宙滞在日数177日を誇る宇宙飛行士。NASAの宇宙に関する情報を、細かくチェックしてツイッターで発信しているほどの矢野にとっては、待ってました!の対談です。「わたしはうんと歳をとってから宇宙に強い興味を持った。大人だって、特に大人の女性だって宇宙が知りたい」という彼女は、質問やら意見をどんどん言って、野口との対話を深めていきます。

野口は船外活動に出る瞬間をこう表現しています。

「エアロックで空気を抜いていくにつれて、最初はシューシューと聞こえていた音が徐々に小さくなってきます。ゼロ気圧になるとほとんど音は聞こえません。危険な領域に入ったことが本能的に分かります。不気味なほどの寒さと静けさ、増してゆく緊張感。エアロックの中は、もはや宇宙です。」

そして、船外へ。400キロメートル下の地球がみえます。その時彼が感じたのは、「地球に落っこちそう!」という恐怖でした。

そんな空間で対峙する地球が放つ眩しさに圧倒されながら、彼は死の世界にいることを感じていました。「宇宙空間に出た途端、『ここは生き物の存在を許さない世界である』『何かあったら死しかない』ことが、理屈抜きにわかります。」

宇宙服の指の先に死の世界がある。それに対して、矢野は「絶対的な孤独こそ、宇宙へ出たものものだけが味わう特権なのかもしれません。」と答えています。

この対談には難しい言葉や、宇宙物理学の理論などは全く登場しません。でも、ミーハーちっくにもならず、SF映画的展開にもならずに進んでゆくのは、この二人のパーソナリティーに拠るところが大きいと思います。きちんとした哲学を備えた二人だからこそできた対談です。

「宇宙空間の黒は『何もない黒』なんです。それは光の反射ではありません。行った光が永遠に戻ってこない。吸い込まれてしまうような黒。『漆黒』というと色のようですが、色ではない。『絶対的な闇」といったらいいでしょうか」

という野口の表現がとても印象に残りました。

 

中国の現代美術作家、蔡 國強(さい・こっきょう)。火薬の爆発による絵画制作、パフォーマンスを行う作家です。あの北京オリンピック開会式のド派手な花火アートを覚えておられる方も多いと思います。

その蔡 國強には、強力な日本人パートナーが、それもアートの世界とは地球と月ぐらいかけ離れたおっちゃんがいたことを知っている人は少ないと思います。私も、川内有緒著「空をゆく巨人」(集英社・古書/14

00円)を読むまで知りませんでした。福島県いわき市の志賀忠重さん。カー用品などの販売で成功を収め小さな会社を経営する、正真正銘のおっちゃんです。二人がどうして結びつき、世界のアートシーンに飛び出していったかを描いたノンフィクションです。

とてつもなく面白い。事実は小説より奇なり、とはこの事です。人間って凄いなぁ。信頼しあえることの幸せを、これほど感じさせてくれる本はありません。

スタジオジブリの鈴木敏夫氏が絶賛しているのですが、なるほどと思いました。つまり、蔡 國強も志賀忠重も、鈴木敏夫も困難な状況や苦労の連続の場に直面しても、それを楽しめる人種なのです。

80年代後半、蔡と志賀の二人は出会い、数々の作品を生み出しました。蔡がラフ案を出し、志賀とその仲間がそれを具現化するという、不思議なコンビです。その最大のものが「いわき回廊美術館」です。東日本大震災の後に作られた、入場無料、営業時間は「夜明けから日没まで」という”良い加減”な野外施設。

著者が、この美術館へ取材に行った時、志賀は冒険家のサポートで北極に行った経験を話します。冒険への憧れを抱き「生まれ変わったら冒険家になりたいんですよ。」という著者に対して、志賀はこう言うのです。

『「いんや、川内さん」とじっと私を見つめて、「一歩踏み出したら、それは冒険なんでねえの?川内さんはもう冒険してんだよ』

著者は38歳で国際公務員を辞めて、フリーランスになりました。それまでのキャリアを放棄し、安定した収入を手放し、しかも娘が生まれたばかり。

「そっか、もう冒険をしていたのか。 ふいに涙がこみあげてきて、ポロリとこぼれた。志賀のひと言には、既定のレールから外れた人生をまるごと肯定するような優しさがあった。」

ここから、志賀の魅力に、そして困難なパフォーマンスを次々と繰り広げる蔡という男の人間の大きさに、魅入られていきます。もっと知りたい、もっと側で見ていたい、そんな溢れ出るような感情が350ページにも及ぶこの本の隅々にまで詰め込まれています。

鈴木敏夫みたいに2日間で読み終えることはできませんでしが、とても幸せな時間を、この本に与えてもらいました。人間の度量の深さや優しさを改めて認識した本でした。2018年の「開高健ノンフィクション賞」を受賞したのも当然だと思います。

写真左が志賀忠重、右が蔡 國強です。

 

 

木ノ戸昌幸「まともがゆれる」(朝日出版社 / 古書1200円)を読もうと思ったのは、この本の最後に載っている稲垣えみ子(アフロヘアの元朝日新聞記者)の寄稿「救う人、救われる人」に書かれているこんな文章に出会ったからです。

「愛が地球を救うんじゃなくて ダメが地球を救う」

元々、胡散臭かったTV番組「愛が地球を救う」を茶化しているところが面白く、ところで、文章に登場する「ダメ」って何のことよと、読み始めました。著者は地元京都で活躍されている方だったんですね。

木ノ戸さんは立命館大学卒業後、紆余曲折を経て、2006年京都上賀茂に NPO法人「スィング」を設立されました。ここでは、障害を持つ人、持たない人三十人ほどが働いています。芸術創作活動をする「オレたちひょうげん族」、全身ブルーの戦隊ヒーローに扮して清掃活動を行う「ゴミコロリン」、特殊な記憶力を持つ人たちの京都人力交通案内「アナタの行き先、教えます」隊、等々柔軟な思考で様々な活動をしています。

本書は、障害者の現場を捉えた本でもありませんし、その啓蒙の本でもありません。この法人を立ち上げるなかで、今の世の生きづらさを斜めから見て、既存の価値観を揺さぶる本です。この法人のモットーに「ギリギリアウトを狙う」というのがあります。

始業時間はバラバラ、眠くなれば昼寝もOK、理由なく休みをとることも大丈夫。これは、「知らぬ間に僕たちの内面に巣食ってしまった窮屈な許容範囲の、ちょっと外側に勇気を持って足を踏み入れ自己規制を解除し続けることで、かつてアウトだったものが少しづつセーフに変わってゆき、『普通』や『まとも』や『当たり前』の領域が、言い換えれば『生きやすさ』の幅が広がってゆく」ことにつながってゆくことになるのです。

スィングには、様々な人たちが出入りします。親の年金でキャバクラへ通い、自己嫌悪で引きこもっていたMさん。「何だ、大人がそんな弱気で。もっとしゃんとしろ」と世間はそう見ます。しかし、そうなのか?、そりゃ、生きていくには強さは必要だが、裏側には必ず弱さもあります。

「ひたすら強さばかりを求める社会を僕は憎む。勉強が、仕事が、要領よくできなければ落伍者なのだろうか?恋愛が、人付き合いが、うまくできないと負け組なのだろうか?毎日は、人生は、楽しまなければ意味がないのだろうか?いい大人が『助けて』と、もう『ダメ』と両手を上げ、子供のように泣きわめいてはいけないのだろうか?

強い自分こそが他者に、そして社会に認められる価値があると教えられ、互いに強さばかりを見せ合い、そんな自分を失うことに怯え続けなければならないこの社会に、一体誰が安心して身を委ねることができるだろう。」

「スィング」に集まる人々の言動を通して、コチコチに固まった我々の固定観念を、あれ?これオカシイよね、と、立ち止まらせてくれる力をこの本は持っています。

ところで、当店でこの法人のフリーぺーパーを扱っていることを思い出しました。あの時来ていた人が著者だったのかも……..お見逸れしていました。「SWINGING」という冊子ですが、今も置いています。