イギリスの作家、パトリック・ネスの原作「怪物はささやく」は、所謂ヤングアダルト向けの小説ですが、大人が読んでも感動します。

その小説を映画化した「怪物はささやく」は、一言で言って、人を幸せにしてくれる映画でした。観た後、ゆっくりと満ち足りた気分にさせてくれる映画でした。今年は「メッセージ」、「シーモア先生の人生相談」そして「怪物はささやく」など、幸運なことにそんな映画にたくさん出会えました。

少年が大人への一歩を踏み出し、様々なことを知るという、文章にしてしまうと実にシンプルなお話ですが、美しい映像と、主人公の少年を演じたルイス・マクドゥーガルの見事な演技力と、適切なCG技術が重なり合って、上質のファンタジー映画となりました。

両親が離婚し、死期の迫っている病気の母親と暮らし、母の看病をするためにやってくるのは少年にとって苦手な祖母。学校へ行けば虐められ、殴られる毎日。そんなコナー少年は毎夜おなじ時刻にうなされます。そこへ、大木に手足のついた怪物が現われて、今から三つの話をする、その後で、お前は自分の話を語るのだと迫るのです。

怪物はおとぎ話の形をとりながら、人は単純な存在ではないこと、人生は複雑だということを語ります。その物語を聞きながら、コナーは、様々なことを体験していきます。母との別れ、虐めた少年への激しい暴力、祖母の部屋を滅茶苦茶に破壊してしまうなど、辛くて痛い世界の終わりのような悪夢のようなことばかり。

そして最後にコナーは、自分の胸に深くしまい込んだ真実の気持ちを怪物に語り始めます。人間は誰でも、複雑に絡んだ様々の感情を持っている、単純じゃない。善とか悪とか白黒はっきりつくものではないのです。母の回復を願いながら、母の死を予想している過酷な状況にピリオドを打ちたい自分を認め、愛している母にすがりつく。つまづきながら、傷つきながら、一歩前へ進むことができた少年の姿に、熱いものがこみ上げてきます。

ラストが素敵です。自分を見失い、彷徨っていたかにみえて、実は多くの人の愛情に守られていたんだという事に気づいたコナーが微笑むのです。

ベタな話かもしれませんが、ベタなところにこそ人生の真実は宿るのです。

 

ソール・ライターという写真家をご存知だろうか。

1923年ペンシルバニア生まれ。少年時代にカメラを手にした彼は、23才の時にNYに移り、写真を撮り始めます。その後、英国版ヴォーグ、ELLE等のファッションカメラマンとして活動します。「ソール・ライターのすべて」(青幻舎2700円)は、写真家ライターの魅力をぎゅっと濃縮した一冊です。

60年代から80年代のアメリカ映画、とりわけ舞台がNYなら、作品の内容に関わらず観に行っていた時期がありました。スクリーンに映し出される街並みの魅力的だったことを、今でも記憶しています。映画監督シドニー・ポラックは「雨に濡れた」街並みを撮らせれば、誰にも負けないショットを演出した人ですが、ソール・ライターの雨のNYにも、そんな雰囲気が充満しています。哀愁と孤独が適度にミックスされた作品を見ていると、そこに写っている人物の人生を想像させてくれます。

作品集の後半に、自分の部屋で寛いだり、或は着替えをする女性のヌードが数多く収められています。部屋に射し込む光線を巧みに捉えながら、女性の柔らかな肌を浮かび上がらせ、この街で生き抜く女たちの悲しみ、人生への迷いや覚悟までも、感じさせる作家の力量は凄いとおもいました。

ライターが多感な時代を過ごした1950年代のNYロウアー・イーストサイド地区は、カウンターカルチャーが花開いて、NYアートシーンの中心でした。ライターは、この地で多くの作家、アーティストと交流しました。

しかし、「それが彼の写真にはほとんど影響を与えていないように思える。」と柴田元幸は語っています。そして、21世紀に入ってから街を撮った写真を見ても、被写体の選び方、その奥行き、大胆な構図などに全く変化がないにも関わらず、「時代遅れという印象はまったくない。保守でも、前衛でもない、『ライター流』と言うしかない姿勢が一貫しているのである。」と柴田は言います。(この本の中に「うしろからあなたの左耳をくすぐる写真」というタイトルで収録)

2012年、トーマス・リーチはライターをテーマとした長編ドキュメンタリー映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』を製作・監督しました。残念ながら京都での上映は終了してしまいました。この写真集でその魅力を味わっていただければと思います。

 

2013年11月26日、ニューヨークで死去。

ドキュメンタリー映画「ウィーナー懲りない男の選挙ウォーズ」を観ました。アメリカの選挙選を描いたドキュメントなんですが、下手なドラマより面白く、笑えます。

主人公アンソニー・ウイーナーは、2011年当時、人気抜群の民主党議員でした。鋭いスピーチ、行動力、そしてヒラリー・クリントンの懐刀だった政治手腕に優れた美貌の妻と、すべてが揃っていました。オバマに続く次世代の民主党ホープとして注目されていましたが、ブリーフ姿の下半身写真をTwitterに投稿してしまい、それが公になってしまいます。彼には、女性と性的なメッセージや画像を送り合う〝セクスティング〟という性癖があったことが暴露、非難集中で議員辞職に追い込まれました。

しかし、この男めげません。数年後、今度はNY市長選挙に立候補!鋭いスピーチ連発するわ、路上パフォーマンスはやりまくるわ、「夫を信じます」という愛妻の言葉でおしどり夫婦を演出するわで、支持率急上昇。今度こそ、と思った瞬間、またやってしまうんですね、この男。偽名を使って、若い女性に性的な写真やら、テレフォンセックスやらを繰り返したことが暴露。もう万事休す。クールな街NY を無様な男が走り回る姿は、もう笑うしかありません。

この映画、自分のオバカな性癖で、自滅していった男の姿をメインに描いていますが、様々なアメリカの姿も画面に取り込んでいます。例えば、シモネタばかりを追いかけるメディアが、段々と市政の本筋からズレてゆく姿。視聴者に解りやすい事、喜びそうな事のみを追いかけて形成される世論って実に危険です。これはアメリカだけの問題ではなく、我が国も一緒ですね。

もう一つ、この映画は、オバカな男に付いている女性たちを見事に浮き彫りにします。妻のフーマは、ヒラリーの側近中の側近として世界中を飛び回っただけあって、冷静に事態を見つめていました。なんと、ヒラリーは、自分の大統領選挙出馬へのイメージ低下を避けるため、夫を取るか、自分を取るかを迫ったらしいです。そして、ウィーナーの選挙スタッフにいる多くの女性たち。危機回避に、こちらもやはり冷静に取り組んでゆく様が描かれています。

映画は、ウィーナーを描くとみせて、実はだらしないことなんて、とっくに知ってるわ、とでも言いたげな女性たちの仕事ぶりを描いた作品とも見えてきます。アホな男性上司に辟易している方々、必見です。

監督は二人。お一人はエリース・スタインバーグという女性。やっぱりね。

 

京都シネマで上映中の「人生タクシー」を観ました。

「人生タクシー」なんてタイトルから、車窓から窺い知る人生模様を描いた作品だなんて思うと、大間違い。もしかしたら退屈するかもしれませんが、この監督の映画人生を少しでもご存知なら、頭の中がひっくり返る映画です。

監督のジャファル・パナヒは、過去に監督した作品でイラン社会の実像を描き、国際的には評価されていますが、イラン国内では上映を禁止されています。逮捕された経験もあり、数十日間拘留されています。その時は、自身が拘置所内ハンストを実行し、そして世界中の映画作家達の尽力もあって、保釈されました。しかし、裁判所は映画製作・脚本執筆・海外旅行・インタビューを20年間禁じ、違反すれば6年間の懲役を科される可能性もある、という判決を言い渡します。

そこで、撮ったのがこの映画。タクシー運転手に扮した監督自身と乗り込んでくる奇妙な人たちのやり取りを描いたドッキリカメラみたいなドキュメンタリーなのですが、どうも乗って来る人たちは素人ではありません。役者ですね、これは。だから、ドキュメンタリーに見せかけた劇映画です。お上に、これ映画じゃないもんね、と言い張るつもりなのかも。

延々、この乗客達との会話を、助手席に設置されたカメラが追いかけるだけの映画です。私も何度か、ウトウトしかけましたが、退屈はしませんでした。

後半、姪っ子が乗ってきます。彼女は学校で短編映画を撮りなさいという課題を与えられ、車内でもカメラを回します。とある横町で、ゴミを漁る少年が、路上に落ちていた財布を盗んでいるところを撮影します。学校は、「現実を撮りなさい」しかし、「醜い現実はだめです」と表現に制限しています。で、彼女は少年がお財布を持ち主に返すところを撮って美談の現実を撮るべく、少年に指示します。しかし、少年は去っていきます。映画上映できない!と彼女は罵声を浴びせます。

偽の現実を撮ろうとする彼女のカメラのファインダーを、タクシーのカメラが撮り続けるという不思議なシーンです。お上好みのフェイクな現実を撮る、リアルな現実。一見、活気のある街並みなのですが、自由のない国。

翻って、キナ臭い法律ばっかり作って、国民の目に蓋をして、でも言う通りしていれば、幸せな一生間違い無しと迫る我が国のお上。反対を表明した途端締め付けてくる国も、また似たり寄ったりの国家なのかもしれません。さて、そんな情けないこの国に、ジャファル・パナヒみたいな気骨ある表現者が現れるのでしょうか?

蛇足ながら、、この映画はイランでは上映禁止。映像を収めたUSBを箱に入れて国外の持ち出し、支援者の努力で作品として公開されました。穏やかそうな表情で運転する、このおっさん只者ではありません。

 

京都シネマで朝、一回上映の名画リレー(京都シネマ会員は500円!)作品「アイ・イン・ザ・スカイ世界一安全な戦場」を観てきました。ポリティカルサスペンスの傑作で、一秒も画面から目を離せない映画です。現代の戦争の一断面を、サスペンスいっぱいに描いただけの映画かというと、そうではないところが妙味です。

舞台は現代のナイロビ。その上空6000mを飛ぶ無人偵察機ドローンの「空からの目」が、テロリストの動向を探っています。凶悪なテロリストたちが、大規模な自爆テロを実行しようとしていることをつきとめ、その隠れ家をドローン搭載のミサイルを使用して爆撃しようと英国、アメリカの軍人たちは動きます。ところが、そのテロリストのアジト前で、近くに住む少女がパンを売っている。この少女を犠牲にして、爆撃を敢行するのか否かを巡り、軍部と政治家の熾烈な駆け引きが始まります。

即時爆撃を主張するイギリス軍のキャサリン大佐と、少女を巻き込むことに逡巡して、英米政治家が、法的責任を巡ってタライ回しを始めます。この辺りのやり取りを、映画は極めて冷静に描いていきます。大義なき戦争を始めておいて、少女1人の命の重さも今更ないだろうと思うのですが、その矛盾を抱えたまま映画はどんどん進みます。

この軍人も政治家も、戦場から遠く離れた場所で、ドローンから映し出される映像だけを見て判断しています。「世界一安全な戦場」というサブタイトルそのままです。私たち観客も、この映像を凝視しながら、無意味な戦争への参加を余儀なくされます。

椅子に坐って、空調の完備された空間にいる軍人、政治家たちの中で、実際にドローン搭載ミサイルの引き金を引くアメリカの軍人が悲惨です。目の前に広がる惨劇を目にした彼が、おそらく精神に変調をきたし、普通の人生から逸脱してゆくことを予感させる様な表情でスクリーンから消えていきます。もちろん、この少女にも未来はありません。

殺戮の実感を伴わない現代の戦争の、ゾッとする姿を垣間みたような作品でした。

 

サスペンス映画の巨匠、アルフレッド・ヒッチコックの個人的ベスト3は、「北北西に進路と取れ」、「鳥」そして「サイコ」ですね。「鳥」も「サイコ」もほらほら、出るぞ〜キャー!コワイ〜的な映画なのですが、そこへゆくまでの描写で、ヒロインを付けねらうスケベ根性丸出しのカメラ演出が傑出しています。

例えば「鳥」でヒロインが、ちょいと気になる男の家をふいに訪ねるシーン。金髪がフワリフワリと揺れる後ろ姿を執拗に追いかけます。そのカメラの動きが、妙に卑猥です。「サイコ」は、もうのっけから、安っぽいホテルで情事に耽った後の二人を覗き見するようにカメラが室内をなめ回します。主演のアンソニー・パーキンスが、自分が経営するモーテルに泊ったヒロインの下着姿を壁の穴から、やはり覗き見するシーンも、これまたドキドキするいやらしさです。

スティーブン・レベロ著「アルフレッド・ヒッチコック&メイキング・オブ・サイコ」(百夜書房/初版1300円)は、世にいうサイコスリラーの原点になった「サイコ」が公開に至るまでを詳細に追っかけたノンフィクションです。そして、これはそのまま、ハリウッドの映画資本家に映画監督が、いかに知恵を駆使して、自分の映画を作り上げるかという苦闘の物語でもあります。

この映画で話題となった、風呂場で女性が刃物で惨殺されるシーンについての記述を読むと、いかにこのシーンに心血を注いでいたのかが理解できます。僅か45秒の殺人シーンですが、全世界が凍り付いたのも当然です。

このシーンを巡って、映倫がやれ乳首が見えただの、乳房が見えただのと難癖をつけて撮り直しを迫っています。しかし、当時のスタッフは「ヒッチコックは裸を見せるのではなく、裸を匂わせたがっていました。」とこの本で証言しています。結局ヒッチコックはのらりくらりの映倫の追求をかわして、そのまま使用しました。本には、風呂場のシーンも含めて多くのシーンが収録されていますので、それを見ながらお読みください。

ヒッチコックの映画は、その後の多くの作品に影響を与えていきます。「JAWS」は「鳥」の、「ローズマリーの赤ちゃん」は「サイコ」の影響下にあることは明らかです。映画だけでなく、日頃何気なく見ているTVのサスペンスものも、お手本は彼の映画です。まだ、「サイコ」未見の方は、是非見て下さい。そうすれば、あ、これ「サイコ」のパクリだ!と思わず口にでる場面に出会うはずです。

俳優イーサン・ホークが、監督した「シーモアさんと、大人のための人生相談」(京都シネマにて5日まで)は、良いドキュメンタリー映画です。

シーモアさんって?

シーモア・バーンスタイン、1927年生まれのピアニストです。ピアニストとして世界的名声を得た50代半ばで引退し、89歳の現在までNYのマンションで一人暮らしをしながら、ピアノ教師として多くの生徒に教えています。シーモアさんが「人生とは」などと、延々しゃべる野暮な映画ではありませんので、ご心配なく。

マンションのピアノに向かうシーモアさん、いいなぁ〜この部屋。豪華ではないのですが、きちんと片付けられた家財道具、間接照明で浮かび上がる壁に掛けられたアート。コンパクトで清潔そうな台所。優しく、深く人の心にはいってくるピアノの音は、こんな部屋での暮らしが醸し出しているんだ。静かな夜空、ゆっくりと波が満ち欠けする海辺が与えるような、リラクゼーションと同じものかもしれません。

監督のイーサン・ホークは、人生の折り返し点に立ち、役者として、クリエイーターとして、ハリウッドで生きることに行き詰まりを感じ、悶々としていたそうです。彼がシーモアさんに出会い、いかに生きるかを知り、シーモアさんの素晴らしさを多くの人に知ってほしいという思いで映画を制作しました。魑魅魍魎が跋扈するアメリカ映画界にいながら、真面目で誠実な彼の姿勢が伝わってきます。

真剣に一つのことを極めようとしている人の言葉と、シーモアさんが紡ぎ出すゆったりとしたピアノの一つ、一つの音を味わってもらいたいものです。音楽と共に生きる、こんなにも豊かな世界があるのだと。

「夜空の星座が普遍的秩序を目で確認できる証拠ならば、音楽は普遍的秩序を耳で確認できる証拠と言える。音楽を通じて、我々も星のように永遠の存在になれる。音楽は悩み多き世に調和しつつ、語りかける。孤独や不満をかき消しながら。音楽は心の奥にある普遍的真理、つまり感情や思考の底にある真理に気づかせてくれる手段なのだ。」

と文章にすると堅苦しいのですが、シーモアさんは、ゆっくりとした口調で微笑みながら語りかけてくれます。

圧巻はラスト、35年ぶりに開かれた小ホールでのコンサート。ピアノの向こうにはNYの街並みが見える所で、シューマンの「幻想曲」を弾くところでしょう。(6月に発売されるDVDには、そのフルバージョンが収録されているとか)心が解放される瞬間です。クラシックをあまり聴かない人も大丈夫。ひたすらシーモアさんの滋味豊かなピアノの世界を楽しんで下さい。

エンディングの彼の台詞が素晴らしい!!漫画家のさそうあきらが「あんな言葉を残して僕は死にたい」には100%同感です。GW、映画を見に行く予定のある方にはラインナップに入れて欲しい一本です。

 

★勝手ながら、5/8(月)、9(火)連休いたします。

 

京都シネマで上映中の「マン・ダウン」という映画を観てきました。

アフガニスタンに派遣された、海兵隊の兵士の帰国後が描かれているのですが、彼のホームタウンが廃墟と化して、愛する子どもと妻が行方不明。彼らを探す物語かと思ったら、全く違っていました。実験精神溢れる映画でした。

物語が多重に進行していきます。廃墟に立つ兵士のシーン、海兵隊に入り戦地へ赴くシーン、戦地での上官の彼に対する査問シーン、そして、パトロールに出かけた先で起こった彼が体験したシーンが、ほぼ同時に進行していきます。各シーンの画調を、巧みに変化させているところが監督の技です。

兵士には、小学校低学年の子どもと妻がいます。二人を残して、派遣された戦地でゲリラに襲われます。その時、銃撃してきた所を目がけて、滅茶苦茶に銃弾を放ちます。敵が隠れていたと思われる毛布を取り上げたら、なんとそこには、小さな子どもと母親が、血だらけで死んでいました。この事件と、さらに現場で死亡した親友の隠された過去を知ったことで、恐怖体験が彼の心に深い傷を与え、PTSDという精神疾患にかかってしまいます。

そして、帰国、しかし、何故か故郷は廃墟、人っ子一人いません。何故?という疑問などお構いなしに映画は進みます。

今まで、戦争で受けたPTSDに苦しむ兵士の姿は、多くの映画で描かれてきました。その殆どは、役者の身体表現で伝えられてきました。しかし、「マン・ダウン」は違います。この廃墟は、主人公の脳に植え付けられた世界なのです。現実の彼の故郷では、市民が普通に暮らしているのに、彼には、そこが終末を迎えたゴーストタウンにしか映りません。そして、ここで彼がやることは、行方不明の彼の息子(実際には息子は普通に日常生活を送っています)を探し出すことなのでした。

息子が、誘拐されて囚われの身となっていると思いこんだ彼は、助け出そうと激しい銃撃戦を展開します。しかし、それは息子を無理矢理連れ出そうとしている男の妻が、恐怖におののいて警察に連絡したからです。主人公にとっては、愛する子どものための闘いなのですが、実際は警察相手に撃ち合いをするという、凶暴な男でしかないのです。当然、ラストが幸せにクローズするわけないのはお分かりでしょう。

観客はPTSDに苛まれる世界を、彼と共に生きることを余儀なくされるという手法で、戦争の傷跡を追体験することになります。映画自体にやや強引さもありますが、前代未聞の表現方法です。

そして、ラスト、こんなテロップが流れます。

「戦地から帰還した兵士の5人に1人がPTSDに悩み、20万人以上がホームレスとなり、11人に1人が自殺未遂をしている」

戦争とは、かくも自国民を傷つけるということを「最強の空母を派遣した!」とか「潜水艦もいるぞ!」とか自慢げな大統領も、ミサイル撃つぞ!と息巻く主席も、一体ご存知なのだろうかと思ってしまいます。

映画館には、たった4人しかいませんでいたが、勿体ない、こんな映画があったなんて!(28日まで上映されています。)

 

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ミア・ハンセン=ラブ監督、イザベル・ユベール主演の「未来よ、こんにちわ」は、のっけから驚かされるフランス映画でした。

ユベール演じる高校の哲学教師が学校に行くと、学生がストライキ中。フランスの労働政策への不満をぶつける学生達の間をすり抜けて先生が登校します。でも、学校側が学生たちを弾圧するでもなく、ましてや警察なんてどこにもいません。そんな事もありますね、みたいな感じで授業開始。とても、今の我が国では考えられません。

または、この教師の娘が父親と会話するシーン。喋りにくそうにしている娘にむかって、父親が「妊娠か?」と問いかけます。そうではない、と答える娘に「じゃあ何だ?」。娘は「お父さん、浮気しているでしょう。その女性かお母さんかどちらか選択して」とズバリ斬り込みます。

映画は、そんな事こんな事おかまいなく、テンポ良く進行していきます。哲学教師どうしの熟年離婚になってしまった女性は、夫の告白に唖然としながらも、淡々とした雰囲気で生活を続けます。別れ話を持ち出した後、夫が贈った花束を、何よこれ!と捨てるシーンにだけ、感情が爆発しますが。

老いて、少し認知症のある母親と主人公の確執だけでも、一本映画になりそうな展開なのですが、これまた、淡々と描いていきます。そういうことも、こういう事もあるのよね、と時の流れを受け入れて生きる一人の女性を描いていきます。ラストもフランス映画的なエンディング。出会いがあり、別れが来て、今日が終わり、明日が始まる、私の人生にも、アナタの人生にも。だから、頑張りましょうなんて野暮なことも言いません。名曲が彩りをそえてエンドマーク。

突き放すわけでもなく、べったり寄り添うわけでもなく、人が生きるのは、こんなもんよ、目の前の一つ一つを、その時々に、自分の頭で考え選んでいく。おひとりさまは自然な事、でも愛しい私だけの人生、をスケッチ風に描いた映画です。

社会学者の上野千鶴子は、この映画をこう評価していました。「ひとりの孤独と充実を内に、初老の女が草原に立ち尽くす風景は心に刻まれる」と。

 

監督のミア・ハンセン=ラブは81年パリ生まれ。両親共哲学の先生だったとか。多分に自伝的要素も入っているかもしれません。

★レティシア書房臨時休業のお知らせ 4月17日(月)18日(火)連休いたします。

売れ行き急上昇中(といっても小さな店ですんで、そんなに冊数は多くない)の2冊、つばた英子、しゅういちご夫婦の「ときをためる暮し」「ふたりからひとり」(どちらも自然食品通信社1944円)が、「人生フルーツ」というタイトルでドキュメンタリー映画として今月末に京都シネマで公開されます。この本については、以前に店長日誌にて取り上げましたが、「暮らす」ということの理念が平易な文章で語られている、どの世代にもお薦めできる中身です。

一方、帯広発のミニプレス「スロウ」最新号(905円)にも、つばたさん夫妻と同じように、日々の暮しを丁寧に紡いで生きる歓びを見出している宮本さん夫妻が紹介されています。

札幌で暮らしていたご夫婦が、子供たちの独立を切っ掛けに、田舎暮らしを考え始めたのが2003年。それから試行錯誤の後、なんとログハウスを自分で建ててしまったのです。そして、畑をやりながら、二人で質素だけれども、豊かな暮しを楽しんでおられます。面白かったのは、付箋がベタベタと貼付けられた図鑑類の写真です。ご主人曰く、引っ越してきた時は、山菜の名前も、キノコの種類も、ましてや野鳥の名前なんかも全く知らなかったとか。この記事を書いた記者はこう想像しています。

「すっかりボロボロになった何冊もの図鑑にはたくさんの付箋が貼られていて、いろいろな書き込みがされていた。動植物の名前をひとつづつ知ることも、大きな楽しみになっていることだろう。」と。

スマホ、ネットではなく、紙に図鑑というところが嬉しいですね。鳥の図鑑には、その鳥が庭に訪れた日時が書かれていて、使い込まれた図鑑の写真には親しみを感じました。

創刊50号を迎える「スロウ」は内容盛り沢山で、すべて紹介したいぐらいですが、興味深い記事をご紹介します。それは、「たねたね交換会」です。

野菜の産地は気にするものの、それらの種の産地は気にしないでいいのか、という疑問から始まった交換会は、種の物々交換の場であるばかりでなく、食に対する価値観を分かち合う場所になっています。ルーツを探れば海外からの輸入種であったり、農薬付けだったりする事もあるとか。本来、百姓という言葉には「百の仕事ができる」という意味があり、農家は種取りができて当たり前でした。しかし、今は種苗会社がその仕事をしていて、農家は外されています。だからこそ、種から選び、自分たち育てたいものを作ることで、本当に安全なもの、本当に美味しいものが出来上がる。そんな価値観を持った人達が情報を共有し、より広いネットワークを形成することを目的にしています。

「スロウ」は北海道発信の情報誌ですが、しっかりと暮らしを見つめた本で、誰が読んでも納得がいくと思います。

 

★レティシア書房臨時休業のお知らせ 4月17日(月)18日(火)連休いたします。