2年前、「新聞記者」という気骨のある映画を作った藤井直人の新作「ヤクザと家族」を観てきました。

最初に書いておきますと、ヤクザと人権というテーマについては、数年前に東海TVが制作して劇場公開されたドキュメンタリー映画「ヤクザと憲法」に、そして長い間ムショに居て出所してきたら時代が変わっていた男の悲しみという設定なら深作欣二「解散式」には、及ばない甘さを感じました。

しかし、ラスト、身内同然だった男にドスで腹を抉られながら痛みと苦しみに耐える主人公のヤクザを演じた綾野剛のアップには、涙が止まりませんでした。

主人公は、荒れた少年時代を送り、チンピラヤンキーの賢治。ひょんなことから、地元のヤクザの親分が手を差し伸べて、ヤクザ社会における父子の契りを結びます。ここから、彼は親分を父と思い、尊敬し、小さな組織ではありますが、頑張って仕事をこなしていきます。そして恋人もでき、それなりに充実した日々を送ります。しかし、抗争が起こり、先輩格の若頭の身代わりで殺人罪を被り、長い間刑務所暮らしを送ることになります。

十数年後に出所。その長かった時間を、持っていたガラ携帯から、スマホに持ち変えるワンカットで表現するところは見事です。街はすっかり変わり、元の仲間たちは足を洗い、カタギになるように努力しています。そして親分は、末期ガンで明日の命もわからない有様です。さらに暴対法で、ヤクザへの締め付けは厳しくなっています。そんな時代に適応できずに、どちらを向いていいのかわからない賢治。

物語は後半、なんとか自分の人生を取り戻そうと、昔の恋人とよりを戻そうとしたり、正業につこうとしたりしますが、結局、彼が戻ってきたことで彼の周りにいた人間は次々と不幸になっていきます。

「なんで戻ってきたんや」という罵声。そして食い込むドスの痛みの中で、自分の人生で失ったものの大きさに耐えきれず、涙が溢れてきます。

1999年、2005年、2019年。その三つの時代に渡り賢治の生と死を見つめます。

好々爺の親分が時々見せる凄みが光る館ひろし、賢治の恋人役の尾野真知子、必死になって一般人になろうとしていたヤクザの市原隼人、賢治のいきつけの居酒屋の女将の寺島しのぶと、役者たちの演技はどれもシブいです。

 

 

店長日誌でよく取り上げる(つまり私のご贔屓の)作家川本三郎が平成8年に出した本を紹介します。思い返せば、本職の映画評論の本はほとんど取り上げていませんでした。

この「君美わしく」(文藝春秋/古書1500円)は、昭和世代の方には、ああ懐かしい、あんな時代あったね、とノスタルジックな気分になれます。

「女優が母であり、姉であり、恋人だった時代の美神17人が著者に語った黄金時代の日本映画と香り高い人生」と帯の宣伝文句にありますが、確かに映画が娯楽の王道だった時代に銀幕でその魅力を振りまいてい女優の姿が再現されています。

高峰秀子、八千草薫、杉村春子、山本富士子、山田五十鈴、司葉子、若尾文子、香川京子、淡島千景など、17名の女優に著者が出会い、映画撮影時の話を聞き出しています。

各女優の聞き取りの後には「追記」があって、漏れた話題やら、エピソードが載せられています。例えば、八千草薫の章では、北杜夫が以前雑誌で八千草と対談した後、書かれたものが載っています。

「八千草さんの映画でいちばん懐かしいのは、日伊合作映画『蝶々夫人』であった。いったいに外人の蝶々夫人は声量はあるがデブで、ピンカートンも愛想をつかすのではないか。八千草さんの蝶々さんは、日本娘の良さを世界に示したもので、特筆に価する」

昭和52年の「女性セブン」の対談なので、仕方ないですが、今なら「デブで」なんて文章は出せないでしょう。

山本富士子へのインタビューでは、彼女の辛い体験、すなわち”五社協定事件”から話が始まります。昭和38年、彼女はそれまでの専属だった大映映画を離れ、フリーを宣言します。しかし、専属女優制度を守りたい映画会社は、協定を結び、彼女の映画出演の道を閉ざしたのです。結果、女優生命が絶たれる危機に直面したのです。役者が作品を選ぶのが当然の現代からは、想像もつきません。しかし、このころの黄金時代の女優たちは、大なり小なり映画会社との戦いを余儀なくされていました。

因みに山本富士子は大阪船場の綿花問屋のお嬢さんで、戦後、京都府立第一高等女学校(現、鴨折高校)で学んだ関西人です。小津安二郎の「彼岸花」では、浪花千栄子扮する母親と老舗の京都の旅館を切り盛りする役で、ネイティヴな京都弁でのやりとりが、とても印象的でした。

決して難しい役者論ではなく、著者が憧れた女優さんたちに会って、ドキドキしながら会話を楽しむ風な本なので、登場する彼女たちの映画が見たくなってきます。

一つ残念だったのは、京マチ子がなかったことです。著者のご贔屓ではなかったのかな……

 

 

こんなおじさんとは、ナザレ生まれのパレスチナ人監督エリア・スレイマンの新作「天国にちがいない」の主人公です。

不思議な味わいのある映画でした。監督自身が主演して、このおじさんを演じるのですが、ほとんど口を開きません。会話に障害がある訳ではないのですが、他の登場人物は普通に喋るのに、なぜか彼だけが喋りません。ちょっとはにかんだような、困ったような、微笑んでいるような視線でこちらを見ているのです。

おじさんがどんな人物なのか全くわかりません。え?そんな映画退屈じゃないの?と思いきや、彼が見つめるパレスチナの街角や、旅するパリ、NYの街並みに立っている姿を見ていると、不思議に心地よい感じになってきます。穏やかな春風を受けて、鶯の鳴き声なんかを聞いている時の穏やかさと似ているような。

で、このおじさんは何をしているかというと、実は映画監督なのです。だから、監督自身が新作の資金集めにパリ、NYの映画会社に赴くというのがストーリーなのです。でも、そんなことよりも、彼が見る風景を私たちが楽しめることが、この映画の面白さです。

スレイマン監督は現代のチャップリンと評価されているようですが、こんなシーンがありました。監督がPCで作業をしている時、窓から小鳥が入ってきて、彼の邪魔をします。それを何度か、遠ざけようとするのですが、何度やっても鳥はPC に乗ってきます。その繰り返しが、チャップリンのコメディーを思い出させました。なんともユーモアがあっていいのです。

資金が得られなくて故郷に戻ってきた彼が、クラブで踊り狂う若者たちを見つめるところで映画は終わります。まぁ、いいか、なんとかなるか〜、でもちょっとどこか寂しげな顔つきが、心に残る映画でした。

 

 

 

 

 

イ・ビョンホン主演の政治サスペンス映画「KCIA南山の部長たち」。1979年10月26日、大統領直属の諜報機関KCIAで権力を掌握する立場にいたキム部長が、パク大統領を暗殺しました。本来、大統領に忠誠を誓うべき機関の首たる者が、よりによって大統領を殺すに至る二人の確執を追っていきます。

パク・チョンヒは、1961年の軍事クーデターで権力を手中に収め、63年から79年まで大統領として君臨しました。彼の政策で、韓国は高度経済成長を実現、先進国の仲間入りを果たしましたが、その一方で民主化運動を弾圧していきました。キム部長は、パク大統領と共に軍事クーデターを起こした仲間でした。

映画では、この二人が共に革命を乗り越えてきたことを思わせるセリフが登場します。しかし、日本滞在中の金大中氏の拉致を KCIAに命じるなどの強硬な政策を進め、独裁者への道をひた走る中、パクとキムの間に亀裂が生まれ、またキム自身も新たな権力闘争打開策もないまま、暗殺という強硬手段へ突き進みます。

実在の事件を、どちらか一方に加担することなくクールに、しかもきっちりサスペンス映画として観客を飽きさせない、退屈させないという力技は昨今の韓国映画の強みです。主演の イ・ビョンホは若い頃、ピカピカの2枚目スターでしたが、すっかり渋くなって本作では冷静沈着なKCIAの部長を演じています。最後のパクの暗殺シーンは、かなりの迫力です。そして、エンディング。普通は静かな曲が鳴って余韻に浸るのですが、恐ろしくパーカッシブで交響曲みたいな壮大な曲が流れます。

最後まで飽きさせない第一級のサスペンス映画であり、韓国の現代史を考える機会にもなる作品でした。

韓国映画「チャンシルさんには福が多いね」(京都シネマで上映中)は、今年初めて劇場で見た映画です。(巣ごもりで、もっぱらDVDでしたので)

長年支えてきた監督が急死し、映画製作者としての仕事をなくした40代の女性プロデユーサーのチャンシル。映画製作一筋に頑張ってきて、気がつくと家族もなく、恋人もいない。仕事の依頼もなくなり、変わり者の老婆が大家をする家に一間を借りて住む羽目に。

監督は1976年生まれのキム・チョヒ。パリ第一大学で映画理論を専攻して、短編を何本か撮り、長編第一作が今回の作品です。ことさら気負うことなく、次の一歩を踏み出そうとする女性の姿を、正統派の演出とオフビートとをうまく使い分けながら描いていきます。

小津安二郎のファンなのか、タイトルバックは小津映画そっくりです。好きになり始めた男性と二人で居酒屋で飲んでいるシーンで、あ、小津映画だ!と思った瞬間、なんと「私たち小津映画みたいですね。」みたいな会話を交わすのです。これには笑ってしまいました。

でもこの映画は、そんな映画ファン向けのマニアックなものではありません。あくまでも、チャンシルという人生半ばを過ぎた女性が、どう幸せを見つけてゆくのかを描いています。決して、劇的な展開がある訳ではありません。折角できそうになった恋人ともダメになってしまい、落ち込む日々。振られたチャンシルが、バスの中で泣くのですが、そのシーンがとてもいいのです。演じたカン・マルグムが見事です。

まさに小津映画みたいに、カメラは無駄に動かさず、静かに彼女を見つめます。ラストは一歩を踏み出そうとするチャンシルで終わります。後味のとてもいい映画でした。新年早々福をもらった気分です。

また、才能のある若手の監督が出てきました。次回作が楽しみです。

 

 

「オズの魔法使い」というミュージカル映画は誰もがご存知のはず。主演のジュディ・ガーランドは、1940年〜50年代のハリウッドを代表する、アメリカで一番といっていいほど有名なミュージカル俳優でした。

 

しかし、晩年は悲惨で、アルコールと薬物の中毒、神経症の悪化が彼女を苦しめていました。何度目かの離婚で、二人の子供の親権争いも抱えていました。60年代後半、起死回生のコンサートをロンドンで行い、喝采を浴びます。しかし、滞在先のホテルで睡眠薬の過剰摂取で死亡。まだ47才の若さでした。

映画「ジュディ」は、そのロンドン公演の彼女の人生最後の輝きを描いています。アメリカでは、もう忘れられた存在であった彼女は、ロンドンにある大きなバーの舞台に立ちます。呂律の回らないぐらい酒を飲んでいても、舞台に立ち、スポットライトを浴びると見事な歌いっぷりで観衆を沸かせます。これで、往年の輝きを取り戻せるかと思ったのもつかの間、遅刻をした挙句、べろんべろんで舞台に出て、観客から酒ビンを投げつけられ、罵声を浴びてしまいます。

さらに映画の中で何度も挿入される、子役だった頃の過酷な仕事の思い出が、今もなお彼女を苦しめます。当時のハリウッドでは、児童虐待といっていい仕打ちがまかり通っていたようです。

けれども、公演を打ち切られた最後の最後に、一瞬の輝きを取り戻し、名曲「虹のかなたに」を歌いあげます。ジュディを演じたレネー・ゼルウィガーは、本作品でアカデミー主演女優賞を獲得。お見事でした。

映画から60年代当時、英国では同性愛は犯罪だったことを知りました。彼女の熱烈なファンが、前の公演の時は、服役中で行けなかったとジュディに告げるシーンがありました。彼とパートナーが、最後の舞台で感極まって歌えなくなった舞台のジュディを助けるところは、感動的です。実際、ジュディは早くから同性愛に対して理解があったのは事実です。今も「レインボウ・フラッグ」が同性愛解放運動のシンボルとして使われますが、これは「オズの魔法使い」で「彼女が「虹の彼方に」を歌ったことに由来してるそうです。

ところで、DVDには特典として主演のレネー・ゼルウィガーのインタビューが収録されていました。「今、望んでいるものは?」という質問に、彼女はにっこり微笑んで、「平和」と答えました。こんな質問には、俳優としてのキャリアアップなどを述べる人が多いと思うのですが、気負った雰囲気もなく素直に出てきた言葉に、素敵な人だなぁと思いました。

休日はすっかり巣ごもり生活ですが、こんな時こそ見逃した映画を楽しんでいます。

 

「グリコ・森永事件」は、1984年3月にグリコ社長を誘拐、身代金を要求した事件を発端に、同社に対して脅迫や放火を起こした事件です。その後、森永やハウス食品など、大手食品企業を脅迫。現金の引き渡しには次々と指定場所を変更して捜査陣を撹乱し、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れませんでした。さらに同年、小売店に青酸入りの菓子を置き、全国に不安が広がりました。結局、犯人は逮捕されずに、事件は時効を迎えました。

この事件を元にしたのが、塩田武士「罪の声」(講談社文庫/古書300円)で、当ブログで8月に紹介しています。2016年の「週刊文春」ミステリーベスト10第1位、山田風太郎賞受賞、本屋大賞第3位と高い評価を得て、私も面白い!の一言に尽きると書いていました。

多くの人物が登場し、時代をまたがって進む長編小説だったので、2時間そこそこの映画では筋を追いかけているだけで、面白くないだろうと、映画の方は公開されても見向きもしませんでした。

ところが、見に行かれた方の「良かった!」という声もあり、脚本を担当した野木亜希子が切れ者だという噂も聞いて、ちょっと見てみようと思い立ちました。

いや〜パーフェクトな出来、私の中では今年の日本映画のベスト1でした。噂通りに野木の脚本が申し分ない出来で、多くの登場人物を見事に捌き、ストーリーを追いかけるだけの事件ものにしていないのです。

新聞記者の阿久津(小栗旬)と、家族の犯罪に悩む仕立て屋の曽根(星野源)が、事件の核心に迫って行く様を地道に描きながら、登場人物全ての人生の悲しみを語っていきます。主演二人の人気俳優以外は、割合地味な実力派の役者を揃え、リアルに徹しているところも巧みでした。

最初は阿久津の接近に距離を置いていた曽根が、徐々に関係を深めて行く辺りの描き方は、よくアメリカ映画のモチーフになっている、男二人もののロードムービーのような演出がされていて大いに楽しめました。

ミステリーだけに詳しくストーリーを語れないのですが、ラストを締める宇崎竜童、梶芽衣子の芝居で、あぁ〜、ここは泣くだろうなと思っていると、やはり劇場全体もそんな感じになっていましたね。

若いあなたがこの映画を見たら、よく出来た話ね、で終わるかもしれません。しかし、真面目に生きて、それなりに苦しいこと、悲しいことを経験して歳を重ねてきた方が見たら、宇崎や梶の顔に刻まれた皺のアップにも泣けてくるかもしれません。犯罪映画とはいえ、彼らの皺一本一本に染み込んだ悲しみが心にしみます。

でも、私が最も泣けたのは、きっとそんなラストシーンだろうと予測していた通りの展開で、エンディングに見せた小栗旬の笑顔でした。この笑顔に会いに、もう一度劇場に出かけようかな〜。

舞台の一つが京都なので、地元人には、あ〜!あんなところでロケしていたのか!と見つけるのも楽しい。オススメです。

 

以前このブログで同監督の「さよなら人類」をご紹介しました。その時、「この映画がなぁ〜、と多くの人が思うかもわかりません。ストーリーのある様な、ない様な、主人公がいる様な、いない様な映画ですから。(途中で席を立った方もおられました)」と書きました。初めて観たアンダーソン作品の第一印象ですが、結局、なんて素敵な映画だったんだ!と、いい気持ちで帰宅しました。

新作「ホモ・サピエンスの涙」も、やはりストーリーはなく、しかも登場人物も関連がない。時代も年代も異なる人々が織りなす、悲劇ような喜劇のようなお話の数々でした。構図、色彩、美術に至るまで徹底して監督がこだわった全33シーンが、それぞれワンカットで作り上げられています。観ているうちに、ちょっと眠たくなって、うつらうつらしてるとなんだかとても気分良くなってくるのです。あぁ〜、ずっとこのまま観ていたい、っていう感覚。

以前TVで、能楽師の方が「本当にいい舞台は、観客を眠たくさせる。でも完全に寝てしまうのではなく、起きているのか、寝ているのかわからない状態で、幻想のかなたの物語に入りこませる」と、いうようなことを話されていたことを思い出しました。

俳優で映画監督でもある斎藤工は、アンダーソン監督を「静止画に挑んだ映像作家だ」とコメントしています。極めて絵画的な画面を凝視していくうちに登場人物に同化していき、一瞬の人生の切なさ、苦さ、愛おしさみたいなものを受けとるのです。映画を観るというより、監督が作り上げた静謐な空間を一緒に漂う体験をする、といったらいいでしょうか。

ラスト、だだ広い草原を走る道でエンストした車から降りてきたおっちゃん。なすすべもなく、周りを見渡し、車の中を覗き込む。聞こえてくるのは風の音と鳥の声だけ。大変な状態なのに笑えてきて、人生ってこんなもんだなぁ〜ホヨヨン〜と、またちょっと幸せな気分で劇場を後にしました。ぜひ映画館で観てください。

 

 

沖田修一監督作品「おらおらでひとりいぐも」(京都シネマにて上映中)は、老いも若きも観てほしい映画です。一人暮らしのおばあちゃんの映画ですと言ってしまうと、なんだか暗そうなんて思うかもしれませんが、大丈夫。笑えます。でも、老人を茶化しているわけでもなく、しっかりと見つめています。

1964年東京オリンピックの年。東北生まれの桃子さんは、お見合い結婚を投げ捨て、東京へと向かいます。そこで見染めた男性と結ばれ、子供も二人授かりました。それから55年。夫に先立たれ、子供とも疎遠になり、外出するのは病院と図書館で本を借りる時ぐらい。ひとりで暮らす家は、いつも静かでした。

突然、3人の男が現れます。実は彼らは桃子さんの心の声が人の形となって現れたのです。ワイワイガヤガヤと雑談したり、家の中で踊ったりと、何かと騒がしいのですが、実際には見えない人たちなので当然なのですがふっと消えたりします。そうしてまた、静かな空間で、いつもの生活に戻ります。

映画は、この3人との交流と、桃子さんが回想する若い時の自分の姿を交互に織り交ぜながら、老いた彼女に寄り添います。「老い」と「孤独」というテーマを沖田監督は、大胆で、そして軽妙洒脱に仕上げていきます。

前作「モリのいる場所」でも、老人画家、熊谷守一を描いた沖田監督は、とんでもなくユニークな手法で、私たちが否応もなく向き合う孤独と老いを見つめ、それでも一人で自由に生きてゆくんだという心意気を描きました。映画後半、森を散歩する桃子さんが、まるで森と会話するように、ゆっくりと歩みながら、ひとりで生きてゆく心持ちを高めているところは感動的です。

桃子さんを演じた田中裕子が絶品でした。

1973年8月、ストックホルムで発生した「銀行強盗人質立てこもり事件」における人質解放後の捜査で、人質が警察に銃を向けるなど犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていたことが判明しました。また、解放後も人質が犯人をかばい、警察に非協力的な証言を行ったこともありました。本来ならばありえないような人質と犯人が親密になる状況を「ストックホルム症候群」と呼ぶようになり、その後もハイジャック事件などで、見られるようになりました。

この言葉の語源となった立てこもり事件を映画化したのが、「ストックホルム・ケース」(京都シネマにて上映中)です。犯罪映画というものの、正統派のサスペンスものではありません。いや、笑ってしまうような作り方です。

アメリカ人丸出しの格好で銀行に押し入ったラースは、行員3人を人質にして、犯罪仲間の釈放と逃亡資金を要求します。逃亡用の車を手配する時に、「マックィーンの『ブリット』で彼が乗っていた車を用意しろ」とかいう辺りから、もうメチャクチャです。やがて、事態は膠着して、長期戦に突入していきます。最初は恐怖だけだった女性行員のビアンカとの間に不思議な共感が生まれていきます。

怖いのか、不真面目なのかわからん強盗を演じるイーサン・ホークの演技が面白いです。B・ディランの「明日は遠く」をハモリながら強盗に押し入り、突入した警官を抑え込むや否や、お前も歌え!と脅迫、歌わすという無茶ぶりですが、本当のところ悪人ではないのかもしれません。

後半は、金庫室に閉じ込められた犯人と人質との会話が主になっていきます。そして、あろうことか、ラースとビアンカは結ばれてしまうのです。映画の最初に「事実を元にした物語」というクレジットが出ますが、さすがにこれはフィクションではないかしら。

ラスト、当然ラースたちは逮捕されてしまいます。一方のビアンカは、浜辺で子供と遊ぶ夫を虚ろな視線で見つめています。愛する家族のもとに戻れて幸せなはずなのに、なぜかそうとは見えない表情で幕。彼女が何を思っているのか、映画は何も語ることなく終わります。ヨーロッパ映画らしいエンディングです。

 

★四条河原町にある書店「京都メリーゴーランド」で、昨日より「ミシマ社のヒミツ展」が始まりました。当店でされた時とは一味も二味も違う展覧会です。