現在、京都シネマにて上映中の長編アニメ「幸福路のチー」は、台湾から彗星の如く飛び出したソン・シンインが監督した作品です。彼女は、京都大学大学院で映画論を学んでいて、数年間京都に滞在していました。その時の京都での暮らしを綴ったのが「いつもひとりだった、京都での日々」(早川書房/古書1300円)です。

台湾からやってきた若い女性と、彼女の周りを去来する人たちの交流を瑞々しく綴ったエッセイです。半分観光ガイドっぽい京都暮らし本とは一線を画している、とても素敵な一冊でした。

新宿から夜行バスに乗り、京都へと向かい、早朝の京都駅八条口に降り立ちます。初めての古都の印象は、こんな風でした。

「駅の周辺はからっぽ。わたしだけ。暗くて、静かな空間。急に怖くなった。慌てて重たいスーツケースを引きずり、地下街に身を潜めた。何かに飲み込まれてしまいそうで怖かった。 地下街は明るかった。けれど、誰ひとりいない。スーツケースに座って、静かに時が過ぎるのを待つ。古都が目覚めるのを待った。」

静寂感と孤独感。この本を覆っているのは、この二つです。来日直前、彼女は親友の自殺を知ります。友人を失った悲しみと「いつもひとりだった、京都での日々」。

でもこの町と、そこに暮らすおかしくて不思議な人たちとの交流を通して、固まっていた心の中がほぐされていきます。その春風のような優しさが、文章にはあふれています。

居心地が良かったけれど、ひっそりと消えていったカラオケボックス。おばあさん一人がやっている喫茶店。そこは、なんと注文してコーヒーが1時間過ぎて、やっと出てくるお店です。店の名前は「クンパルシータ」。普通なら、二度ど来るか!と思うとことですが、行くんですね、彼女は。やがて、その店も閉じてしまいます。他には、京大吉田寮で出会った天才的ピアニストや、着物フェチの坊主とか、不思議な、そしてちょっと切ないような人たち。

「京都の銭湯が大好きだ」という彼女。銭湯で交わされる京都弁は、当初さっぱり理解できなかったのですが、距離が縮まって、ある時「お風呂あがりに冷たい牛乳を飲むのんが人生最高のことやね。これぞジャパニーズ・スタイルや」と見知らぬおばさんからプレゼントされます。残念ながら、この銭湯も店をたたむことになります。彼女にとって「この銭湯だけが、わたしが厳寒の京都を過ごした場所であり、京都弁を学び、人情の温かさを学んだ場所だということが重要なのだ。」という場所だったのです。

「しゃあないわ。何事にも賞味期限いうもんがあるしなぁ」とは銭湯のおかみさんの言葉です。深い言葉ですね。

最後に彼女はこう書いています。

「神様。京都でひとりぼっちの日々をくださって、ありがとうございます。」

来週、映画「幸福路のチー」を見にゆく予定です。

 

予告

12月11日(水)から始まる知床在住の絵本作家あかしのぶこさんの絵本展に、知床のパン屋さん「メーメーベーカリー」からパンが届きます。シュトレンも含めて20個ほどのパンは、初日のみの販売になりますのでお見逃しなく。


 

 

 

中日新聞東京本社社会部に望月 衣塑子という記者がいます。彼女の取材ぶりを追いかけた映画「新聞記者ドキュメント」は、表現の自由、あるいは国民の知る権利が、知らず知らずのうちに侵害されている現状を浮き彫りにしています。

政権へとすり寄ってゆくメデイアの中で、官邸記者会見場で、一人納得がゆくまで質問を続ける彼女の姿は孤軍奮闘としか言いようがありません。森友学園、加計学園の取材チームに参加し、前川喜平文部科学省前事務次官へのインタビュー記事などを手がけ、元TBS記者からの準強姦の被害を訴えた女性ジャーナリスト伊藤詩織へのインタビュー、取材、そして、菅義偉内閣官房長官に質問を行う姿をカメラは追いかけていきます。

彼女が執拗に官房長官に向かってゆくのに、記者会見会場はどこか冷めた雰囲気です。他社の記者の熱は感じられない。たまたま、この映画の前にWOWOWドラマ「トップリーグ」を見ました。こちらも官邸に詰める新聞記者たちを描いているのですが、政治家たちと緊密な関係を作ってネタを引きたいために、やはり沈黙を守っていました。一人、想定外の質問をした記者が、とんでもない闇に巻き込まれてゆくドラマですが、実際の会見現場もそうだったのですね。

「新聞記者ドキュメント」を監督したのは森達也。98年、オウム真理教広報副部長であった荒木浩と他のオウム信者たちを描いた『A』を劇場公開、99年にはテレビ・ドキュメンタリー「放送禁止歌」を発表。最近では、ゴーストライター騒動をテーマとする映画『Fake』を作ったドキュメンタリー映画監督です。著作も多く、かなり読んできましたが信頼に足る映像作家です。

知る権利も表現の自由も踏みにじるような政府のあり方、そして奇妙な沈黙と、本来の報道の仕事のあるべき姿が消えてしまったようなメディアの現場が、この記者の行動を通して浮き彫りにされていきます。

もう一つ、私が感じたことは映像の怖さです。質問する記者、それを阻止しようとする官邸広報室、苦々しい表情でノラリクラリと答弁する官房長官。その映像が組み立てられゆくと、最後にストップモーションで捕らえられた長官の顔が、極悪非道の悪者に見えてきます。仮に、この記者を推測と主観で質問する人物として設定し、それに苦慮する長官といったイメージで映像を組み立てると、不思議なことに、長官の顔が善意の人に見えてくる可能性があります。

映像を撮る立場によって、どうとでも変化してしまう怖さ。監督の森達也は、そのことを十分承知の上で、本作を製作しています。メディアが垂れ流す映像、言説を簡単に信じるな、という思いがあるのかもしれません。

蛇足ながら、森友学園問題の中心人物、籠池夫婦ってオモロイです。いや、思想的にも教育者としてやってきたことは全く否定しますが、二人のインタビューシーンは、もう笑えてきます。関西人の典型ですね。腹立たしい政府の答弁ばかりですが、心和ませる?二人でした。

 

 

チェ・グクヒ監督「国家が破産する日」(京都シネマ)は、韓国映画の力強さを見せてくれた傑作でした。

韓国経済が右肩上がりの成長を遂げ、国民が好景気が続くと信じていた1997年。しかし、その裏側では海外投資家が韓国から撤退を始めていました。韓国銀行の通貨政策チーム長ハンは、やがてこの国を襲う危機を予測し、政府へ報告しますが対応は後手に回り、さらには国民には公示せず秘密裏に事を運ぼうとします。それが裏目に出て国家破産の一歩手前まで加速する様を描いた映画です。

主な登場人物は4人。通貨政策チーム長ハンは、なんとかこの事態を国民に知らしめようと奮闘努力するのですが、国民の混乱を招くから非公開にするという政府首脳の姿勢の前に苦戦します。これって、福島の震災の時に原発の正確な状況を公開しなかった政府、東電、そして安全と言い続けた御用学者の発言と全く一緒です。ハンは、最後の手段として、記者会見を開いて事実を公表するのですが、どのメディアも政府への忖度で公表せず、失脚していきます。

二人目は、町工場を営むガプス。デパートからの大量注文が、それまで現金決済だったのを手形決済にされ、この経済危機でデパートは倒産して手形は紙くず同然になってしまいます。国民を蚊帳の外に置いた政府の密室政策に翻弄されて、全てを失います。いわば市民の象徴的存在で、やはり震災の時に翻弄された人々の姿とダブってきます。

三人目は、この危機を金儲けの機会と捉え、のし上がってゆく青年ユンです。常に「政府には騙されん」とむき出しの攻撃で、ひたすら金儲けに突っ走るユンが、実は映画の中で私には最も魅力的でした。損をする奴がいれば、得する奴もいるという資本主義社会を端的に描いています。

そして最後の主人公は、韓国経済を救うためにやってくるIMF代表の理事です。IMF、国際通貨基金は、為替相場の安定を目的とした国連の機関です。加盟国の経常収支が悪化した場合などに融資を実施することで、貿易促進、加盟国の高水準の雇用と国民所得の増大、為替の安定を図る、というのが設立の趣旨なのですが、ここでは他国の経済に介入し自国にとって利益になることを画策する組織として描かれています。自国とはアメリカ合衆国のことです。 IMFがこんなことを実行するのかは、分かりません。ただ、アメリカさえ儲ければ良しの大統領トランプの影がちらつきます。

この四者を巧みに操りながら物語を進めてゆく、チェ・グクヒ監督の手腕は大したものです。二時間ほどの上映時間中、緊張の糸は切れることはありません。面白いのはラストシーンで、この危機から20年後のハン、ガプス、ユンが登場します。なるほど、人生ってこんなに変転してゆくのかと思わされます。

そして映画は、国を盲信するな、メディアの言動を疑え、自分の目で見つめろ、ということを訴えて終わります。お隣の韓国の話ですが、日本の状況も全く同じです。お前の国はどうなのだと突きつけられた映画でした。

 

大阪の動物保護施設「ARK/アニマル・レフユージュ関西」が発行する2020年のカレンダー販売中です。

壁掛けタイプ(1000円)。机上タイプ(800円)があります。売上は、全てARKにお渡しいたします。当施設に保護されている動物たちのために使われます。

 

 

 

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みなみ会館で上映中の「ボーダー」を観てきました。イラン系デンマーク人の新鋭アリ・アッバシ監督と、原作者ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト(「ぼくのエリ 200歳の少女」原作者)が、共同脚本を手掛けた本作は、カンヌ映画祭「ある部門」で見事グランプリを獲得。第54回スウェーデン・アカデミー賞で作品賞をはじめ最多6部門を受賞するなど国際的に高い評価を受けてきました。映画祭で「ショッキング過ぎる」と話題になったシーンもあるのですが、修正は一切無しで、ノーカット完全版での日本で公開されました。18歳未満はアウトです。

ポスターを見たとき、醜い容貌の女性が、自然の生き物と交流するようなファンタジーかなと思っていたのですが、見事に裏切られました。怖い映画見ても滅多に目を背けないのですが、何度か俯いていました。オカルト映画でもないし、エイリアンも登場しません。根源的な生を見せつけられたからです。

スウェーデンの税関勤務のティーナは、違法な物を持ち込む人間を嗅ぎ分ける能力を持っていて、違反者を摘発していました。臭いだけではなく、その人物の破廉恥で邪悪な隠したい感情までかぎ分けるのです。しかし、人間離れした容貌のため世間から孤立し、山の中の一軒家で暮らしていました。

ある日、彼女は勤務中に怪しい旅行者ヴォーレと出会います。同じような顔つきのヴォーレを見て本能的に何かを感じたティーナは、彼を自宅に招き、離れを宿泊先として提供します。次第にヴォーレに惹かれていくティーナ。が、彼はティーナの出生にも関わる大きな秘密を持っていたのです。

彼も彼女も、実は人間とは違う異形のものだったのです。映画は、そんな彼らの悲しい過去を描きつつ、この二人の生き方を見つめます。仲間を人体実験にされたヴォーレは、人間への憎しみに満ちていますが、それなりに人間社会で生きてきたティーナには、人間としての優しい感情があります。後半、獣なのか人間なのか判別できない様相を見せながら二人の葛藤を描いていきます。。

私たちの価値観、倫理観、偏見などを破壊しながら、化け物映画、SF 、謎解き映画、ダークファンタジーといったジャンルさえ超えて、新しい地平へと映画は進んでいきます。二人のセックスシーンは、従来の映画の概念をぶち壊してしまうほどの迫です。そりゃ「行き過ぎ」という意見もわかります。

ラスト、ティーナが同じ種族の幼児を抱きかかえて、微笑むところで幕を閉じます。人間の奥深い偏見、暴力、格差を考えると、この二人が幸せになる可能性は薄く、大きな虚しさと切なさがこみ上げ、そんな感情を持ったまま映画館を出るはめになりました。そういう意味では残酷な映画かもしれません。しかし、映画の表現力はここまで可能なのだということを、明確に示した作品でもありました。

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1988年、一本のフランス映画が公開されました。リュック・ベンソン監督の「グレートブルー」です。社会と相容れない青年が、素潜りで海中深く潜っていき、そこでイルカに出会うという物語。ところが、全く鳴かず飛ばずで打切りとなりました。

まず、1988年『Le Grand Bleu』が フランス国内で最初に上映されます。フランス公開版132分。その後、海外向け編集版で仏公開版より12分短い『THE BIG BLUE』が公開。これが日本初上陸です。

その後、監督自ら編集したLe Grand Bleu/VERSION LONGUE』長尺版(168分) が出来上がります。フランスでは数十分短いバージョンで公開されますが、日本では『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』の邦題で劇場公開されます。このあたりから、若い世代に支持されていき圧倒的人気を作り出します。そして、さらにその10年後の1998年、10ans Le Grand Bleu/VERSION ORIGINALE』(132分) が作品生誕10周年を記念してフランスでリバイバル上映、それが日本に入り、『グラン・ブルー/オリジナル・バージョン』として劇場公開されます。

愛する妻ジョアンナの制止を振り切って嵐の海に飛び込み、深海でイルカに出会うラストには納得できないものもありましたが、青年の生き方や心情が支持されました。

10周年を記念したパンフレット”10ans  LE GRAND BLEU”(古書1000円)は、なんと100ページにもわたるボリュームで、一冊の本みたいな仕上がりになっています。色彩学の大学教授による「青」の考察あり、主人公のモデルになった素潜りダイバー、ジャック・マイヨールを取り上げ、潜水生理学の教授による「閉息潜水の生理学」に関する考察あり、果ては水産庁研究員による「イルカ語辞書のつくりかた」と続いていきます。

作家の谷村志穂が、「そもそも人はなぜ潜るのか。彼らはなぜ潜るのか。海の中にどんどん沈んでいきたい生理はどこに宿るものなのか」と、憧れを持って書いています。

映画ラストでジョアンナは、海に向かうジャックに”Go and see my love”というセリフを言います。海底のどこに、愛があるのか?

谷村は「そう言うしかないものな、とも思うのだが、切なくてタフな、この映画を象徴する女からの台詞だと思う。そう言われたジャックはきっと、あの冷たい暗い海になかで、はじめての安らぎと出会うのだろう。ベッソンはそんな強い女が好きだ。まるで君たちが強くいてくれなくては愛は育めないのだと訴えているかのように」と、このセリフへの思いを書いています。

初公開から10年、バージョンを変えながら公開され続けたこの映画は、多くの若い世代を引きつけました。彼らが、社会の中にあって安らぎを見つけられなくなったという象徴かもわかりません。

 

今年、最も画面の隅々まで澄み切った映画に出会いました。トルコと国境を接するジョージアから届いた「聖なる泉の少女」(京都シネマにて上映中)です。

トルコとの国境アチャラ地方の山深い村で、ひっそりと暮らす父と娘ナーメが主人公です。村には人々の心身の傷を癒してきた聖なる泉があり、先祖代々、泉を守り水による治療を行ってきました。儀礼を行う父親は老い、三人の息子は皆ここを離れ、それぞれ違う生活を送っています。父親は一家の使命を娘のナーメに継がせようとしているのですが、他の娘のように自由に生きることに憧れているナーメは、思い悩みます。一方で川の上流に水力発電所が建設され、少しずつ、山の水に影響を及ぼしていています。そして二人は泉の変化に気づき始めますが…….。という物語らしい。

“らしい”というのは、極端にセリフが少なく、おそらくそうだろうと推察するしかないのです。

霧に包まれた森と湖、美しく奥深い自然、そして暗闇に浮かび上がる質素な家。それらをザザ・ハルヴァシ監督は、澄み切った画像で切り取っていきます。これは、撮影機材やフィルムの力ではなく、この国の美しさが染み込んでいる、監督の力量によるものではないでしょうか。

限りなく静謐な世界に描かれる、太古から語り継がれた不思議な物語。人と自然の神秘的な関係に、吸い込まれていきます。そしてもう一つ、この映画で大事なのが水の音です。ポタリ、ポタリ、或いはサラサラと、様々な音色で聞こえてきます。だから眠気を誘われるかもしれませんが、それもまた気分の良いものです。未知の国から届いた映像美を堪能してください。

見終わった時、どこか日本の、例えば墨絵とか俳句、或いは能楽の世界に似ていると思いました。ストイックに切り詰めて、表現したいことを全て表現せずに、その奥に深い世界を秘めるという芸術に通じるものがありました。日本的な幽玄の世界が、ここにもあるのかもしれません。

 

 

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俳優のオダギリジョーが、初監督に挑戦した「ある船頭の話」(みなみ会館にて上映中)を観ました。傑作でした。俳優の監督作品って、洋の東西を問わず地味な世界を描いているものが多いのですが、これもまたしっかり地味でした。が、ともかく美しい。昨今の映画でも群を抜く出来栄えでした。

美しい緑豊かな山あいに流れる川。船頭のトイチ(柄本明)は、質素な小屋に一人で住み、村と町を繋ぐための川の渡しを生業にしていました。渡し舟には様々な事情を持つ人たちが乗ってきます。日々、舟を漕ぎ、慎ましく静かな生活を送っていました。しかし、川上で煉瓦造りの大きな橋の建設が始まります。村人は橋ができれば便利になると期待しているのですが、トイチにとっては死活問題にもなりかねない状況です。
そんな折、川から死人同然で一人の少女が流れてきます。トイチは少女を連れて帰り、元気になるまでと、一緒に暮らし始めます。
少女の存在はトイチの生活に潤いを与えてくれるのですが、物語はとんでもない結末へと向かって静かに動き出します。

映画は、この山あいに流れる川の表情を見事に映し出します。空の青さ、森の瑞々しい緑、水の透明感、さざ波が、息を飲むような美しさです。撮影は、古今東西数々の名作を担当しているクリストファー・ドイル。そして、風のささやき、川の流れる音、遠くで聞こえる橋工事現場の音などを捉えた録音の技術。ゆっくり、ゆっくりと流れてゆく時間に身を委ねる至福が、この映画にはあります。

ここにはクマこそ登場しませんが、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を読んでいる時に感じる、人と自然の結びつきの切なさが蘇ってきました。年老いた猟師(扮するのは細野晴臣)が、死んだら遺体を山に返して欲しいと遺言を残し、猟師の息子と船頭が、山深い所にある大きな樹の下に置いてくるシーンがあり、余計に「なめとこ山の熊」を思い出してしまいました。

オダギリジョー監督が『ある船頭の話』を構想したのは10年前。中国、モンゴルなどの辺境の地でたくましく生きる人々の姿に心動かされて、脚本を執筆したそうです。

「便利なものが増えていく一方で、消えていくものがある。我々はその美しさや大切な何かを簡単に手放してしまうが、それらは二度と戻ってこない。お金や時間が支配するこの社会で本当の幸せを見失ってはいないだろうか…、その時に感じていた気分や感覚を投影しています。」と語っています。

新しくなったみなみ会館に初めて入りましたが、シンプルでいい映画館です。音響設備が良く、この映画のように音に徹底的に拘った作品には最適の場所です。一生、心に残りそうな作品です。ぜひ劇場で観てゆったりとした時間を過ごしてください。映像ソフトで観るのは、お勧めできません。

戦場で傷つけた左目に、真っ黒のアイパッチを付け、ウォッカロックを飲みながら、タバコスパスパで戦場を渡り歩く女性ジャーナリストの生涯を描いた「プライベイト・ウォー」を観に行きました。

英国サンデー・タイムズ紙の特派員として、世界中の戦地に赴き、レバノン内戦や湾岸戦争、チェチェン紛争、東ティモール紛争などを取材してきた女性記者、メリー・コルヴィン。スリランカ内戦で左目を失明し、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみながらも、黒の眼帯をトレードマークに世界を駆け巡りますが、2012年、シリアで砲撃を受けて命を落としました。

地獄のような戦場を再現しながら、映画は、世界にその姿を知らせようとした彼女を、決して英雄として描いていません。私たちは、なぜ殺し合いをするのかという永遠の命題を突きつけてきます。そして、子供、女性、一般市民が虐殺される様を見つめていきます。決して後味のいい映画ではありませんが、たとえ、宗教上の問題や、国境の問題などがあるにせよ、私たちは戦争をしてはいけないのだと改めて認識させてくれる映画でした。監督は「ラッカは静かに虐殺されている」で、シリアの悲劇をドキュメンタリー映画として制作したマシュー・ハイネマン。今度はドラマで戦争の悲惨さを描き出しました。

もう一人、戦争をしてはいけないことを最後まで言い続けた映画人がいます。菅原文太です。坂本俊夫著「おてんとうさんに申し訳ない」(現代書館/古書1400円)という彼の自伝の最後「文太の思い」という章に詳しく書かれています。

彼は、俳優として忙しい日々を送っていた頃から、少しずつ社会との関わりを深めていきます。日本の食料自給率を考えると、これからは農業こそ最も重要な産業にしていかねばという意識が、彼を農業生産法人会社「おひさまファーム竜土自然農園」を2009年に山梨県に設立させ、有機無農薬農業へと向かわせます。2011年の東日本大震災以降は、反原発、脱原発を推進する活動を始め、ドナルド・キーン、瀬戸内寂聴、赤川次郎らと「自然エネルギー推進会議」の発起人になります。

そして、戦争中の悲惨な体験が風化されてゆく現状に対して、こう発言しています。

「いまの総理大臣こそが『戦争は、誰が、どんな理由で起こそうとも間違っている』と言わなければならない。『日本は二度と戦争をしない。手助けであろうが絶対にしてはいけない』と率先して示さなければいかんのに、いま逆の現象が起きている」

戦争経験者ならではの、昨今の危機感の表れです。彼は、行動で示すために沖縄辺野古へと向かい、基地反対闘争を支援し、沖縄知事選の応援役も買って出ます。沖縄出身ではないのに、ここまで行動する根底には「やっぱり日本人として恥ずかしい気持ちがあるんですよ。いいかげん、何らかの決着をつけなきゃいけないのに、何も変わらない」という思いがあったからです。

この本は、文太の俳優人生を丸ごと描いているのですが、最後は役者としてではなく、社会と真剣に関わった一市民として亡くなった彼の姿で終わります。彼の思いを、私たちみんながそれぞれの立場で、繋いでゆくべきだと思います。

 

 


アンドリュー・ワイエスという画家をご存知でしょうか?

戦前から戦後にかけてのアメリカ東部の田舎に生きる人々を、鉛筆、水彩、などで詩情豊かに描きました。柔らかい画調で描かれたような世界が、映画「ゴールデン・リバー」のラスト5分間に登場します。長い旅から戻ってきた二人の兄弟を迎え入れる老いた母親。久々に浴びるお風呂、ベッドに寝転ぶと、柔らかい日差しの向こうから吹き込んでくるそよ風。地上の天国のような情景です。でも、そんなシーンは5分間のみです。

ヨーロッパで多くの映画賞を受賞してきたフランス人監督、ジャック・オーディアール初の西部劇「ゴールデン・リバー」は、西部劇のスタイルをとっていますが、多面的な面白さを見せてくれる作品でした。

先ず、撃ち合いシーンにカタルシスも、格好良さも全くありません。主人公は、殺し屋稼業の兄弟。シスターズ家の「シスターズブラザー」です。ゴールドラッシュ真っ盛りの時代、特殊な薬品を使って、砂金を見つける方法を知っている化学者を追いかけ、その方法を奪って抹殺することが与えられたミッションです。西へ、西へと向かってゆくのですが、その道中の描き方がユニークです。寝込んでいびきをかいていた兄の口に大きな蜘蛛が入り込み、飲み込んでしまい、次の日、顔がむくみ、悪寒と白熱で苦しむ兄イーライ。初めて、歯磨き粉を買い、楽しそうに歯を磨くおとぼけぶりもあります。また、山中で夜を明かした時、熊が乗ってきた馬に襲いかかってきます、熊を撃ち殺したものの、馬の頭部に傷が残り、ハエがたかり傷が悪化し死んでしまいます。可愛がっていたイーライは、死体を前にして呆然とします。

あっちへふらふら、こっちへふらふらと無為な日々、果てのない殺し合いが続いていきます。やっと見つけた化学者でしたが、砂金に目がくらみ、山分けを条件に砂金掘りに協力します。はは〜ん、この連中が仲間割れを起こして殺し合いをして映画は、その業の深さと人間の愚かさを描いてエンド、と、ある程度映画を見てきた者なら予測しますが、大外れです!

特殊な薬品を川に流すと、不思議なことに砂金が光るのです。そのことに狂喜した連中は、なんと薬を全部川にぶちまけるのです。この薬品には、人間の肌には良くないものを含んでいたのでしょう。皮膚は血だらけになり、苦しみ出し、のたうち廻って死んでしまいます。なんとか、難を逃れた兄弟でしたが、弟チャーリーは、腕がボロボロになっていて、そのままでは毒素が全体に回るので、飛び込んだ医者の家で、ノコギリで腕を切断します。最初、ギコギコという音がしていたので、何かなと画面を凝視すると弟の腕……。

地獄のような旅を描いた作品ですが、ラストに登場するのが、アンドリュー・ワイエス的世界です。兄弟には天国のような穏やかな時間が流れます。観客も救われた気分です。

作家の乃南アサは、この映画を評価して「すぐ傍まで文明が押し寄せている西部開拓時代に、あえて荒野を目指す兄弟の姿は、そのまま欲望と理性、未開と文明とを象徴している。」
さすが、美味い表現です。
蛇足ながらワイエスの作品集、”ANDREW WYETH”(洋書3000円)が店にあります。
いい作品が並んでいますよ。

 

フランス映画「北の果ての小さい村で」(京都シネマにて上映中)は、物語のようでもありドキュメンタリーのようでもあり、不思議な、でも豊かな気分にしてくれる映画でした。舞台はグリーンランド。と聞いて、グリーンランドの場所が頭に浮かぶ人は少ないかもしれません。北極海に面した北の国で、1721年から1953年までデンマークの植民地でした。現在は、デンマークの一地方と同格の地位となり、学校教育や医療など様々な面で近代化が推し進められ、1979年内政自治権を獲得。デンマークからの独立をめざし自立性を高めている地域です。

この地域の中でも北に位置するチニツキラークという人口80人気足らずの村に、母国のデンマークで家業を継ぐことから逃げて新しいことをしたいと思っている、新任教師アンダースが赴任してきます。意気込んで赴任したものの、グリーンランド語を喋る子供達と意思疎通ができず、よそ者として村人たちから疎んじられます。ヨーロッパの文化を持ち込もうとして、土着の文化とぶつかり、そこからアンダースが彼らを受け入れ、共に生きる様子を描いてゆくのですが、大きな特徴があります。

それは、ほぼ出演者が、ホンモノ。役者ではありません。アンダースはじめ、イヌイットたちも現地の人たちです。狩りの仕方を孫に教える老人も、漁師になることを夢見る少年も、ホンモノです。リアルとノンフィクションを組み合わせて映画を作るのは至難の技術です。ドラマ部分とドキュメント部分に温度差が出ると、映画のリズムも狂ってきます。監督のサミュエル・コラルデの長期に渡る撮影が生きています。

この映画は、青年教師が淡々とイヌイットの狩猟文化へと心を寄せて、受け入れる様を描いていきます。起承転結のはっきりしたドラマではないので、ぐぐっーと感動することはありません。しかし、アザラシを解体するシーン、美味しいそうに食べる人たちの様子、青年が犬ぞりをなんとか乗りこなそうとするシーン、そして、狩人たちが子連れのシロクマに遭遇するシーン、ラストに青年がイヌイットの子供をカヤックに乗せて海原に漕ぎした時、嬉しそうに「鯨だ」というシーンなど、作り物ではないが故に深く心に残ります。

電気は送られているが、水道はなく、買物ができる町までも遠く、医療設備もままならないチニツキラーク。「豊かな自然」なんていうような言葉では簡単には括れません。けれども、人も、犬も、クマも、アザラシも、地球と共に生き、そして大地へ戻ってゆくことを実感する場所であることは間違いありません。

星野道夫をリスペクトする貴方なら、観ておいて損はしません。