シンプルなクレジットに続いて、カメラはクラシックな建物の中に入り込み、様々な角度から映画館内部を撮っていきます。静謐な画面が続いて、きっと良い映画だという予感が高まってきます。このオープニングから映画館がすでに廃業していて、かつてここで働いていた人が登場するのかなと思ったら、全く見当違いでした。
1980年代初頭のイギリスの静かな海辺の町マーゲイト。ヒラリーは、地元の映画館エンパイア劇場で働いています。サッチャー政権下の英国は、厳しい不況と社会不安の中にありました。そんな折、新しく映画館で働くことになった黒人青年スティーヴンは、あからさまな黒人差別がまだまだまかり通る中、知的で明るい性格で、映画館のスタッフに馴染んでいきます。やがて、ヒラリーはスティーヴンを愛するようになっていきます。建築家になる夢を諦めているスティーヴンと、心の病を持つヒラリーは、ささやかな希望を見出していきます。しかし、黒人を排斥しようとする暴動や、映画館の支配人とヒラリーの関係など、そう簡単に幸福を手にすることはできません。
では、二人は不幸せに終わるのか、というとそうではない。これからもキツイことは起こるかもしれないが、前を向いて歩ける僅かな光を見せて映画は終わるのです。映画館が人生に寄り添い、生きてゆく希望を与える。そういう意味ではエンパイア劇場自体が、もう一つの主役かもしれません。
「生命が宿る幻影だ」
これは、エンパイア劇場の堅物の映写技師が、ポツリとスティーヴンに言うセリフです。映画の魅力を語るに相応しい言葉だと思います。こちらの方がシビアでビタースイートですが、もう一つの「ニューシネマ・パラダイス」と呼びたい、いい映画でした。
どのワンカットも絶対に外せないというポジションで、撮影、美術、照明などの映像技術をフルに動員して、監督の世界を完璧にスクリーン上に投影した作品があります。例えば、キューブリックの「2001年宇宙の旅」、ヴィスコンティの「ベニスに死す」、 ベルトリッチの「暗殺者の森」そして「マクベス」を大胆に映像化した黒澤の「蜘蛛巣城」など。表現技術と描かれる世界がシンクロした時、深い感動に包まれます。
それらに比べるとスケール感は小さいかもしれませんが、私にとっては、パク・チャヌクの新作「別れる決心」もそんな一本でした。前作「オールドボーイ」では、これでもか、これでもかという過激な暴力シーンのオンパレードでしたが、本作には全くありません。監督自身が「これは大人の映画、過激なシーンは必要ない」ときっぱりと言っています。
釜山の山で起こった中年男の墜落死。主人公の刑事ヘジュンは、その妻ソレを疑います。が、彼は彼女の妖しい魅力に惑わされていきます。いわゆる”ファム・ファタール”ものです。やがて、捜査は意外な形で終結して、彼の恋も一旦は終わります。しかし数年後、ソレが再び彼の前に現れたことで、彼は理性を失いのめり込んでいくのです。
よくある物語なのですが、スマホなどの小道具を巧みに使い、凝ったカメラワークと、細部までこだわった美術などで、二人の艶めかしい関係をサスペンス風に演出していきます。部屋にいるソレを双眼鏡で監視していたヘジュンが、次のカットではうたた寝をするソレのそばにいるというシュールな演出も見事で、観客を飽きさせません。上手いなぁ〜と、何度拍手を送りたくなったことか!特に、ヘジュンがソレを取り調べるシーンは、向き合った二人のリアルな姿と、監視カメラが捉えた映像を一つの画面の中に組み合わせて、二人のちょっとした表情を捉えるシーンには唸りました。これが映画の力です。
男が女にのめり込み、女もまた…..という恋愛に溺れていく姿を、完璧に創りあげました。ラストシーンは、海の音とともに心の奥に残ります。悲しいよりも、おそろしいシーンですが、一言では説明できません。2時間18分、映画の魔力に引っ張られました。
和田誠は、新宿にあった日活名画座のポスターを、1959年から1968年まで9年間、無償で制作していました。和田誠事務所に保管されていた185枚を、時系列に沿って掲載したものが「和田誠日活名画座 ポスター集」(古書/4500円)。ポスターはB2サイズ(728✖️515ミリ)、シルクスクリーンで製作され、新宿界隈の駅や、喫茶店にはり出されました。残念ながら上映期間を過ぎたものは、すべて破棄されているので、残っているものは少ないらしいです。
最初のポスターは、「最高の名画 最低の料金40円均一」という宣伝文句に目がいきます。40円で映画一本鑑賞できた時代です。映画好きなら、和田のイラストが、どの映画のエッセンスも見事に捉えているのがお分かりだと思います。186ページの「気狂いピエロ」のJ.P.ベルモントを描いた作品は、クールでカッコいい一つですね。(「冒険者たち」のアラン・ドロンにもグッときました。)
次に紹介するのは、昭和56年に文庫として発売された「3人がいっぱい」(新潮社文庫/ 古書800円)の第二集です。もともと「小説新潮」に1976年から79年にかけて連載されたものを文庫化したものです。42名の選者が、おっ!と思わせる人3人を選び出して、イラスト化したものです。文章は選者が描き、和田が見事なまでにその人物の特徴をつかんだ作品を書いています。寺山修司、青島幸男、小沢昭一、筒井康隆、落合恵子、向田邦子等々、選者も曲者揃いで、楽しいとことです。(第1集も出ています)
もう一冊、入荷しました。「五・七・五交遊録」(白水社/古書2100円)ですが、俳句を専門にしている人の本ではありません。曰く「俳句をおかずに思い出ばなしのご飯を召し上がっていただく、というようなものだと思ってください。」著者が親交を結んできた多くの人々に贈った俳句と、その人へのオマージュを書き添えたハートウォーミングな一冊です。
「月冴ゆる大河に小舟出しにけり」
これ、三谷幸喜がNHK大河ドラマ「新撰組!」の脚本の準備を始めた頃の気持ちを詠んだものです。「初めて大河ドラマに挑む心境はこんなかな、と思って詠みましたが、本人は小舟じゃなく大舟のつもりだったかもしれません。」とユーモアを加えた解説も楽しいところです。
「本を読む人の歩みや春に雪」これ、いいなぁと思いました。
レイ・ブラッドベリの「華氏451」を映画化したF・トリュフォーのラストシーンから一句を作り、映画評論家の山田宏一に贈った作品です。
1923年、アイルランドのイニシェリン島が舞台の映画です。この島、商店が一軒だけ、工場もなければ娯楽施設もありません。島の人々が行く所といえば、たった一軒あるパブだけ。折しも、アイルランドでは内戦が勃発していて、遠くの方で砲声が聞こえて来ます。
島に住むパードリックは、2時に開店するパブに行くぐらいしか楽しみがありません。そこには、長年の親友コルムがいて、いつも馬鹿話をしていました。が、ある日、急にコルムが絶交宣言!します。はぁ?何で…….?理由を聞いても教えてくれず、それどころか、おれに話しかけたら自分の指を切り落とす!と言うのです。そして、本当に親指を切り落とし、パードリックの玄関に投げつけてしまいます。
なに、この関係?どんよりと垂れ下がるような分厚い雲、吹き上げる風、寒々しく荒々しいアイルランドの自然の中に、私たちは放り込まれて混乱して、突き進む男同志のいさかいの行き着く先を凝視することになります。
コルムは、残りの人生を意義あるものにする、だから馬鹿話は辞めた、お前とは絶交だ、というのですが、ずいぶんと極端な話です。頑迷なコルムに、徐々にパードリックの方も正常でいられなくなってきます。コルムあんたやりすぎやで、と画面に向かって言いたくなるのですが、状況は痛ましい方へと進んでいきます。さらに片手の指を全部(!)切り落とすコルム。悲惨といえば悲惨なのですが、ちょっと引いてみると、喜劇にも見えてくるのです。他人の悲劇は距離を置くと喜劇に見えると言われるのは、こういうことなのかと思います。
深刻さと滑稽さが同居する映画とでも言えます。私自身はとても面白く観ました。今年のアメリカの映画賞「ゴールデングローブ賞」をミュージカル、コメディ部門で受賞しています。
蛇足ながら、動物好き、特に愛犬家にはぜひご覧いただきたい。映画のポスターで、コルムの側に寄り添う愛犬が、名演技?です。
「パーフェクト・ドライバー」は、カッコいい!強い!と言うしかないヒロインの映画でした。主演は、数年前に大ヒットした韓国映画「パラサイト半地下の家族」に家族の一員として出ていたパク・ソダム。
車両整備や販売を手がける小さな会社に勤めるウナ(パク・ソダム)は、指定の場所へ時間通りに、人でも物でも運ぶ「特送」ドライバーです。大金を隠した金庫の鍵を、父親から託された少年ソウォンを車に乗せたことから、闇の組織に追いかけ回され、車をとっかえひっかえしながら、逃げ回る破目に。
見せ場はもちろん、カーチェイス。映画冒頭の30分は、これ以上のカーチェイスシーンはない程のスリルです。アクセルを踏み込んだ時のウナの表情が、カッコいい。アメリカ映画だと、派手な衝突やら大爆発など、これでもかこれでもかと物量で迫ってくるのですが、こちらは狭い路地や駐車場などを舞台に、切れ味最高のカーアクションを見せてくれます。さらに、追っ手から逃げるために、咄嗟にウナが繰り出すサバイバル技術を随所で見せてくれます。
あ!これはあの映画のパクリだ、というシーンが沢山出てきます。少年との絆の話は、名作「グロリア」や、少女と暗殺者の逃避行を扱った「レオン」を彷彿とさせます。悪徳警官やら国家の情報機関が登場するお話も、定石通りです。どんどんパクって、結果的に魅力的なオリジナルを作ってゆくという韓国映画人の心意気に、拍手!
いかにも強い女という印象からほど遠いようなパク・ソダムが、ハンドルを握った途端に見せるクールビューティな姿を見逃さないでください。
あっという間の1時間50分です。
クリント・イーストウッドが監督した「ミリオンダラーベイビー」は女性ボクサーが主人公の傑出した映画でした。陰影のある画面、若いボクサーと年老いたトレーナーのドラマが静かに進み、やがて深刻な安楽死のテーマへと向かう、隅々まで丁寧に作られた作品でした。女性のボクサーを描いて、これほど深い感動を誘う作品はもうないだろうな、と思っていたところ………。三宅唱監督作品「ケイコ 目を澄ませて」(アップリング京都上映中)が登場しました。
聴覚に障害のある実在の女子プロボクサーがモデル。障害を乗り越えて栄光を掴み取る感動の物語か、という警戒は無用です。ホテルの客室係で生活費を稼ぎながら、古ぼけたジムで黙々とトレーニングするケイコの日々を、ストイックに描いていきます。映画には、音楽がありません。しかし、そのかわり様々な音が聞こえてきます。特にジムから聞こえてくる音、例えばサンドバッグを打つ音、ステップを踏む靴の音、パンチを繰り出す音。そんな音を聴きながら、私たちはひたすらケイコの日常に付き合います。
ケイコを育てたジムは経営が難しくなり、会長(三浦友和が実にシブい!!)は閉鎖を決めます。将来の見通しの全く見えないケイコは、葛藤を抱え込みます。しかし、映画は彼女の心の中には踏み込みません。多くを語らないケイコの本心は、私たちにも、いや彼女自身にも理解できていないかもしれません。
このジムでの最後の試合に彼女は出場します。しかし、残念ながら判定負け。その翌日、朝のトレーニングをするかどうか迷っている時、建築作業服を着た女性が寄ってきて、どうもと挨拶します。よく見ると試合の相手でした。彼女も建築現場で働きながら、ボクシングを続けているのです。きつい状態でやっているのは自分だけではないと知って、ケイコはふと微笑みます。そして土手に上がり、走り出します。
一人で生きてはいないことを実感した彼女は、職場でも私生活でも少しずつ心を開いていくように予感させます。ケイコが、今後もボクシングを続けるのかどうかわかりません。映画はやはり距離をおいた所から見つめるだけ。でも、それまでほとんど怒ったような彼女の顔が、ほころんでいくのが眩しいラストでした。何と言っても主演の岸井ゆきのに圧倒されました。
岡山県真庭市を拠点にして、農業をしながら映画製作を続ける山崎樹一郎の長編映画第三作「やまぶき」は多くの人に観てもらいたい傑作です。
監督の地元真庭市を舞台に、ここに生きる人々の姿を描きます。韓国で乗馬競技の花形選手だったチャンスは、父の倒産で多額の借金を抱えて真庭市にたどり着き、ベトナム人労働者とともに砕石場で働いています。真面目な働きぶりを認められて、社員昇格の道が開けます。恋人と、彼女の連れ子の小さな娘とともに慎ましい生活をしていましたが、ちょっとは楽できそうと思った矢先、不幸な事故に巻き込まれ、解雇されてしまいます。
もう一人の主人公、山吹は地元の高校に通っています。ジャーナリストだった母は他界し、刑事の父と二人で暮らしていますが、父娘には全くと言っていいほどコミュニケーションはありません。ふとしたことから、街頭で行われれていたサイレントスタンディングに参加します。「戦争反対」「沖縄に基地はいらない」等の看板を作って、ただ黙って立っているだけの運動です。
ただ真庭市という地方都市に住んでいるというだけで、全く接点のない二人の人生が、知らぬ間に静かに交錯し始めます。半日陰の場所に静かに咲く花「山吹」をモチーフにして、日の当たらない所で生きざるを得ない人々の、時として崩れ落ちそうになる人生を、映画は16ミリフィルムの独特の画像で、淡々と描いていきます。
格差や海外からくる労働者への差別的扱いなどの、極めて政治的テーマが見え隠れしますが、映画の中で一言も声高に叫ぶことはありません。ここで監督が見つめるのは人間の尊厳です。ボロボロになりながらも、また歩み出すその姿を静かに見つめます。
チャンスは地獄めぐりのような人生から、ラストで、彼が最初に手放した馬にたどり着きます。馬を引くチャンスの表情と嗚咽、そしてささやかな希望を込めた微笑みに、どれだけこちらは救われたことか。映画館には数名しか観客がいなくて残念でした。
蛇足ながら、フジTV系列で放送されている「エルピス」(今、気に入っているドラマです)の脚本家の渡辺あやさんが、本作品を気に入り、監督とトークショーをやりました。その内容が映画のHP に収録されています。
話題の映画「ラム」を、京都シネマで再上映していたので観てきました。観終わってすぐの感想をタイトルにしました。
とにかく観たことのない映画でした。舞台はアイスランド、荒涼たる大自然が映し出されます。どんより曇った空、吹き付ける風、容赦無く降る雪。日本とは全く違う自然の光景に目を奪われます。
そんな土地で羊飼いとして生計を立てているイングヴァルとマリアの夫婦が主人公です。ある日、羊の出産に立ち会った二人が取りあげたもの、それは頭は羊で下半身は人間という理解不能の生き物でした。映画は、見せる、見せないの駆け引きを巧みに使って、観客を画面に引きつけます。
夫婦は、さして驚きもせず、また恐怖も感じることなく、この生き物をアダと名付けて育てていきます。下手をすれば、グロテスクな怪奇映画になるところを回避して、静かに夫婦の子育てを描いていきます。
夫婦は以前に幼子を亡くしていました。おそらく二人は、子供が帰ってきたという気持ちだったのでしょう。アダは育っていきます。やがて歩くようになり、服を着て外にも出ていきます。ここを訪れた夫の弟に、これは何だ?と問われた時に、イングヴァルは「小さな幸せ」だと答えます。
ローアングルで草原をヨチヨチ歩くアダを捉えた後ろ姿は、可愛らしさに満ちています。しかし、アダを生んだ母ヒツジが、しつこく寄ってくることに我慢しきれなくなったマリアは、母親を撃ち殺し、死体を埋めてしまうあたりから、大きな悲劇へと向かっていきます。
アダが大きくなった時どうするのか、夫婦がこの世を去ったとき、人にもなれず、羊にも戻れないアダはひとりで生きていけるのか。
そしてラスト、マリアは夫もアダも失います。でも、アダは死んだわけではありません。そうか、こういう幕切れか。これしか、ないだろうなアダが生きて行くには……。
吹き付ける風の中で、呆然と立ち尽くすマリアのアップで映画は終わります。辛い….。しばらく、席を立てませんでした。アイスランドが生み出した傑作です。
セクハラ報道後、すっかり見かけなくなった香川照之ですが、「宮松と山下」(京都アップリングで上映中)は、香川の実力を遺憾なく発揮した映画でした。
「新しい手法が生む新しい映像体験」を標榜して立ち上がった監督集団「5月」は、NHK教育番組「ピタゴラススイッチ」の監修やCMデイレクターを務める佐藤雅彦と、NHKドラマ演出家として活躍してきた関友太郎、メディアデザインを手がけ多方面で活動する平瀬謙太郎の3人のチームです。過去に2本の短編映画を制作しましたが、長編映画はこれが初めて。劇場映画で複数の監督が演出するのは、極めて珍しいケースです。
香川が演じるのはエキストラ俳優の宮松。日替わりどころか、分刻みで端役を演じる日々を、カメラが追いかけます。エキストラ俳優の映画のはずが、派手な殺陣で始まるトップシーンに、あれ?違う映画かな?と思ってしまいそうなぐらい、きっちり作られています。物語が進むに従って、何度かエキストラシーンが挿入されるのですが、日々を生きる宮松なのか、それとも役者の彼自身なのか迷うところが、面白いスタイルです。
実は、宮松は記憶が全くありません。過去、どこで何をしていたのか、家族はいたのか、何も思い出せないのです。ひたすら毎日殺され続け、毎日渡される脚本の数ページに書かれている主人公ではない人生を演じているのです。そんな時、彼をTVで見た元同僚がやってきます。同僚によると宮松はタクシー運転手だったらしい。妹がいて、今は夫と暮らしていることを知ります。意を決して宮松は妹に会いにいきます。妹は、宮松も暮らしていた実家に住んでいました。
このあたりから、映画は不気味な雰囲気を醸し出します。いや別に、恐怖を誘うような演出やら音楽というのではなく、カメラがひたすら実家を見つめ、宮松が所在無げに座っているだけなのですが。
そして、とあることで彼は記憶を取り戻すのですが……..。さて何があったのか、これは言えません。過去に、妹の夫から突きつけられた言葉が、心の奥に食い込んでいました。あれは真実だったんだろうか、いや違うはずだ。茫洋としたままタバコを手にする香川の表情から目を離すことができません。そして、地元に引っ越しする段取りになっていたのに、急遽この地を離れ、またエキストラ稼業に戻ります。時代劇の扮装をしてロケに向かうバスの中で、微笑みを浮かべる微妙なアップで映画は終わります。この微笑みは何?見る人に様々な想像をさせるラストシーンです。
単独で映画を引っ張る香川の実力を堪能しました。
スタジオジブリ名プロデューサーの鈴木敏夫は、膨大な量の本を所蔵し、読書量も並外れています。今年京都文博で開催された「鈴木敏夫とジブリ展」で、その蔵書を見ることができました。
「読書道楽」(新刊/筑摩書房2200円)では、展覧会に先立ち、彼の心に残った本のこと、作家との出会い、読書した当時の状況など、読書から人生、時代論へと発展したロングインタビュー(全15時間)が行われました。展覧会は、このインタビューをもとに構成されたそうですが、そこに入りきれなかったエピソードを中心に作られました。
「時代ごとに夢中になった作家は何人かいるなと思ったんです。加藤周一さんはもちろん、堀田善衛さんもそう。 年代順に言えば、石坂洋次郎、寺山修司、野坂昭如、深沢七郎、山本周五郎、宮本常一、池澤夏樹、渡辺京二…….まああげだしたらきりがないけれど、小説家もいれば評論家もいる。 それから忘れちゃいけないのが漫画ですよね。ぼくら団塊の世代は大人になっても漫画を読み続けた最初の世代といわれていて、たとえば、大学時代はちばてつやさんの『あしたのジョー』からすごく影響を受けた。」
と、自分の読書体験を総括していますが、なるほど骨のある作家が並んでいます。「明日のジョー」は、私も読んでいましたが、そんなにのめりこんだ記憶はありません。どちらかと言えば、「サイボーグ009」などを熱心に読んだものです。
鈴木も「SFに夢中になるのって、ぼくらより一世代下ですよね。」と言っていました。そして、続けて、自分たちがヒーローものの第一世代であり、それは「月光仮面」だったと言います。1958年〜9年にかけて民放で放送されたTVドラマです。
大学時代、学生運動が盛んないわゆる「政治の季節」の真っ只中。そんな時に、三島由紀夫が結成した左翼に対する軍事的組織「楯の会」に勧誘された話も面白いし、三島の「潮騒」を、「ジブリで映画化しようと真剣に考えたしね。舞台となる歌島をアニメできちんと描いてみたいと思って。」と振り返っています。ジブリ版「潮騒」って見たかったなぁ〜。
第6章「我々はどこへ行くのか」で、彼は自身の引退について興味深い発言をしています。
「最大の失敗は、『風立ちぬ』ですよ。ぼくが宮さん(注:宮崎駿の事)を説得してつくってもらったんですけど、それは戦争の問題さえ片付ければ、宮さんはもうつくらないだろうと思った」
つまり『風立ちぬ』は、宮崎駿の引退映画であり、自分自身の引退にもなるはずだった。ところが中途半端になってしまった。ここで引退して、好きな本を思う存分読むはずだった鈴木のプランは頓挫しました。
「ひとつは重慶爆撃の問題ですよね。、もうひとつはファンタジーなんですよね。『風立ちぬ』にはその要素が少ないでしょう。そうすると、つくり終えたあとで、やっぱりファンタジーをやりたくなったんです。」
確かに0式戦闘機生みの親を主人公にしたこの長編アニメは、割り切れない部分が多々あったように思いました。本のこと、作家のこと、映画のことなどを縦横無尽に語り続ける鈴木敏夫の魅力満載の本です。