俳優のオダギリジョーが、初監督に挑戦した「ある船頭の話」(みなみ会館にて上映中)を観ました。傑作でした。俳優の監督作品って、洋の東西を問わず地味な世界を描いているものが多いのですが、これもまたしっかり地味でした。が、ともかく美しい。昨今の映画でも群を抜く出来栄えでした。

美しい緑豊かな山あいに流れる川。船頭のトイチ(柄本明)は、質素な小屋に一人で住み、村と町を繋ぐための川の渡しを生業にしていました。渡し舟には様々な事情を持つ人たちが乗ってきます。日々、舟を漕ぎ、慎ましく静かな生活を送っていました。しかし、川上で煉瓦造りの大きな橋の建設が始まります。村人は橋ができれば便利になると期待しているのですが、トイチにとっては死活問題にもなりかねない状況です。
そんな折、川から死人同然で一人の少女が流れてきます。トイチは少女を連れて帰り、元気になるまでと、一緒に暮らし始めます。
少女の存在はトイチの生活に潤いを与えてくれるのですが、物語はとんでもない結末へと向かって静かに動き出します。

映画は、この山あいに流れる川の表情を見事に映し出します。空の青さ、森の瑞々しい緑、水の透明感、さざ波が、息を飲むような美しさです。撮影は、古今東西数々の名作を担当しているクリストファー・ドイル。そして、風のささやき、川の流れる音、遠くで聞こえる橋工事現場の音などを捉えた録音の技術。ゆっくり、ゆっくりと流れてゆく時間に身を委ねる至福が、この映画にはあります。

ここにはクマこそ登場しませんが、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を読んでいる時に感じる、人と自然の結びつきの切なさが蘇ってきました。年老いた猟師(扮するのは細野晴臣)が、死んだら遺体を山に返して欲しいと遺言を残し、猟師の息子と船頭が、山深い所にある大きな樹の下に置いてくるシーンがあり、余計に「なめとこ山の熊」を思い出してしまいました。

オダギリジョー監督が『ある船頭の話』を構想したのは10年前。中国、モンゴルなどの辺境の地でたくましく生きる人々の姿に心動かされて、脚本を執筆したそうです。

「便利なものが増えていく一方で、消えていくものがある。我々はその美しさや大切な何かを簡単に手放してしまうが、それらは二度と戻ってこない。お金や時間が支配するこの社会で本当の幸せを見失ってはいないだろうか…、その時に感じていた気分や感覚を投影しています。」と語っています。

新しくなったみなみ会館に初めて入りましたが、シンプルでいい映画館です。音響設備が良く、この映画のように音に徹底的に拘った作品には最適の場所です。一生、心に残りそうな作品です。ぜひ劇場で観てゆったりとした時間を過ごしてください。映像ソフトで観るのは、お勧めできません。

戦場で傷つけた左目に、真っ黒のアイパッチを付け、ウォッカロックを飲みながら、タバコスパスパで戦場を渡り歩く女性ジャーナリストの生涯を描いた「プライベイト・ウォー」を観に行きました。

英国サンデー・タイムズ紙の特派員として、世界中の戦地に赴き、レバノン内戦や湾岸戦争、チェチェン紛争、東ティモール紛争などを取材してきた女性記者、メリー・コルヴィン。スリランカ内戦で左目を失明し、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しみながらも、黒の眼帯をトレードマークに世界を駆け巡りますが、2012年、シリアで砲撃を受けて命を落としました。

地獄のような戦場を再現しながら、映画は、世界にその姿を知らせようとした彼女を、決して英雄として描いていません。私たちは、なぜ殺し合いをするのかという永遠の命題を突きつけてきます。そして、子供、女性、一般市民が虐殺される様を見つめていきます。決して後味のいい映画ではありませんが、たとえ、宗教上の問題や、国境の問題などがあるにせよ、私たちは戦争をしてはいけないのだと改めて認識させてくれる映画でした。監督は「ラッカは静かに虐殺されている」で、シリアの悲劇をドキュメンタリー映画として制作したマシュー・ハイネマン。今度はドラマで戦争の悲惨さを描き出しました。

もう一人、戦争をしてはいけないことを最後まで言い続けた映画人がいます。菅原文太です。坂本俊夫著「おてんとうさんに申し訳ない」(現代書館/古書1400円)という彼の自伝の最後「文太の思い」という章に詳しく書かれています。

彼は、俳優として忙しい日々を送っていた頃から、少しずつ社会との関わりを深めていきます。日本の食料自給率を考えると、これからは農業こそ最も重要な産業にしていかねばという意識が、彼を農業生産法人会社「おひさまファーム竜土自然農園」を2009年に山梨県に設立させ、有機無農薬農業へと向かわせます。2011年の東日本大震災以降は、反原発、脱原発を推進する活動を始め、ドナルド・キーン、瀬戸内寂聴、赤川次郎らと「自然エネルギー推進会議」の発起人になります。

そして、戦争中の悲惨な体験が風化されてゆく現状に対して、こう発言しています。

「いまの総理大臣こそが『戦争は、誰が、どんな理由で起こそうとも間違っている』と言わなければならない。『日本は二度と戦争をしない。手助けであろうが絶対にしてはいけない』と率先して示さなければいかんのに、いま逆の現象が起きている」

戦争経験者ならではの、昨今の危機感の表れです。彼は、行動で示すために沖縄辺野古へと向かい、基地反対闘争を支援し、沖縄知事選の応援役も買って出ます。沖縄出身ではないのに、ここまで行動する根底には「やっぱり日本人として恥ずかしい気持ちがあるんですよ。いいかげん、何らかの決着をつけなきゃいけないのに、何も変わらない」という思いがあったからです。

この本は、文太の俳優人生を丸ごと描いているのですが、最後は役者としてではなく、社会と真剣に関わった一市民として亡くなった彼の姿で終わります。彼の思いを、私たちみんながそれぞれの立場で、繋いでゆくべきだと思います。

 

 


アンドリュー・ワイエスという画家をご存知でしょうか?

戦前から戦後にかけてのアメリカ東部の田舎に生きる人々を、鉛筆、水彩、などで詩情豊かに描きました。柔らかい画調で描かれたような世界が、映画「ゴールデン・リバー」のラスト5分間に登場します。長い旅から戻ってきた二人の兄弟を迎え入れる老いた母親。久々に浴びるお風呂、ベッドに寝転ぶと、柔らかい日差しの向こうから吹き込んでくるそよ風。地上の天国のような情景です。でも、そんなシーンは5分間のみです。

ヨーロッパで多くの映画賞を受賞してきたフランス人監督、ジャック・オーディアール初の西部劇「ゴールデン・リバー」は、西部劇のスタイルをとっていますが、多面的な面白さを見せてくれる作品でした。

先ず、撃ち合いシーンにカタルシスも、格好良さも全くありません。主人公は、殺し屋稼業の兄弟。シスターズ家の「シスターズブラザー」です。ゴールドラッシュ真っ盛りの時代、特殊な薬品を使って、砂金を見つける方法を知っている化学者を追いかけ、その方法を奪って抹殺することが与えられたミッションです。西へ、西へと向かってゆくのですが、その道中の描き方がユニークです。寝込んでいびきをかいていた兄の口に大きな蜘蛛が入り込み、飲み込んでしまい、次の日、顔がむくみ、悪寒と白熱で苦しむ兄イーライ。初めて、歯磨き粉を買い、楽しそうに歯を磨くおとぼけぶりもあります。また、山中で夜を明かした時、熊が乗ってきた馬に襲いかかってきます、熊を撃ち殺したものの、馬の頭部に傷が残り、ハエがたかり傷が悪化し死んでしまいます。可愛がっていたイーライは、死体を前にして呆然とします。

あっちへふらふら、こっちへふらふらと無為な日々、果てのない殺し合いが続いていきます。やっと見つけた化学者でしたが、砂金に目がくらみ、山分けを条件に砂金掘りに協力します。はは〜ん、この連中が仲間割れを起こして殺し合いをして映画は、その業の深さと人間の愚かさを描いてエンド、と、ある程度映画を見てきた者なら予測しますが、大外れです!

特殊な薬品を川に流すと、不思議なことに砂金が光るのです。そのことに狂喜した連中は、なんと薬を全部川にぶちまけるのです。この薬品には、人間の肌には良くないものを含んでいたのでしょう。皮膚は血だらけになり、苦しみ出し、のたうち廻って死んでしまいます。なんとか、難を逃れた兄弟でしたが、弟チャーリーは、腕がボロボロになっていて、そのままでは毒素が全体に回るので、飛び込んだ医者の家で、ノコギリで腕を切断します。最初、ギコギコという音がしていたので、何かなと画面を凝視すると弟の腕……。

地獄のような旅を描いた作品ですが、ラストに登場するのが、アンドリュー・ワイエス的世界です。兄弟には天国のような穏やかな時間が流れます。観客も救われた気分です。

作家の乃南アサは、この映画を評価して「すぐ傍まで文明が押し寄せている西部開拓時代に、あえて荒野を目指す兄弟の姿は、そのまま欲望と理性、未開と文明とを象徴している。」
さすが、美味い表現です。
蛇足ながらワイエスの作品集、”ANDREW WYETH”(洋書3000円)が店にあります。
いい作品が並んでいますよ。

 

フランス映画「北の果ての小さい村で」(京都シネマにて上映中)は、物語のようでもありドキュメンタリーのようでもあり、不思議な、でも豊かな気分にしてくれる映画でした。舞台はグリーンランド。と聞いて、グリーンランドの場所が頭に浮かぶ人は少ないかもしれません。北極海に面した北の国で、1721年から1953年までデンマークの植民地でした。現在は、デンマークの一地方と同格の地位となり、学校教育や医療など様々な面で近代化が推し進められ、1979年内政自治権を獲得。デンマークからの独立をめざし自立性を高めている地域です。

この地域の中でも北に位置するチニツキラークという人口80人気足らずの村に、母国のデンマークで家業を継ぐことから逃げて新しいことをしたいと思っている、新任教師アンダースが赴任してきます。意気込んで赴任したものの、グリーンランド語を喋る子供達と意思疎通ができず、よそ者として村人たちから疎んじられます。ヨーロッパの文化を持ち込もうとして、土着の文化とぶつかり、そこからアンダースが彼らを受け入れ、共に生きる様子を描いてゆくのですが、大きな特徴があります。

それは、ほぼ出演者が、ホンモノ。役者ではありません。アンダースはじめ、イヌイットたちも現地の人たちです。狩りの仕方を孫に教える老人も、漁師になることを夢見る少年も、ホンモノです。リアルとノンフィクションを組み合わせて映画を作るのは至難の技術です。ドラマ部分とドキュメント部分に温度差が出ると、映画のリズムも狂ってきます。監督のサミュエル・コラルデの長期に渡る撮影が生きています。

この映画は、青年教師が淡々とイヌイットの狩猟文化へと心を寄せて、受け入れる様を描いていきます。起承転結のはっきりしたドラマではないので、ぐぐっーと感動することはありません。しかし、アザラシを解体するシーン、美味しいそうに食べる人たちの様子、青年が犬ぞりをなんとか乗りこなそうとするシーン、そして、狩人たちが子連れのシロクマに遭遇するシーン、ラストに青年がイヌイットの子供をカヤックに乗せて海原に漕ぎした時、嬉しそうに「鯨だ」というシーンなど、作り物ではないが故に深く心に残ります。

電気は送られているが、水道はなく、買物ができる町までも遠く、医療設備もままならないチニツキラーク。「豊かな自然」なんていうような言葉では簡単には括れません。けれども、人も、犬も、クマも、アザラシも、地球と共に生き、そして大地へ戻ってゆくことを実感する場所であることは間違いありません。

星野道夫をリスペクトする貴方なら、観ておいて損はしません。

本日ご紹介するのは、「文学的香り」どころか、「文学作品」そのものを映画にした「長いお別れ」です。中島京子の原作は、当ブログで紹介しました。認知症になって、日々記憶を失ってゆく父親と、彼を見つめる妻と二人の娘の人生を描いた原作通りの映画化でした。

監督・脚本は、初めての長編商業映画『湯を沸かすほどの熱い愛』(16)が、日本アカデミー賞主要6部門を含む、国内の映画賞計34部門を受賞した中野量太。これは宮沢りえ熱演のロードムービーの傑作でした。 オリジナル脚本で独自の世界を創り続けてきた監督が、今回は、原作に惚れ込み初めて映画化にチャレンジした作品です。認知症を発症した人物と家族の関係というのは、こんな淡々としたものでもなく、もっとドロドロとしたものだと思います。

でも今回、映画作品を見て再度原作に目を通して気づいたのは、これは認知症になった父親の物語ではなく、このことをきっかけに人生の新しい舵取りを選択してゆく妻と二人の娘、そして登校拒否の長女の息子タカシの物語なのだということでした。主演の父親に山崎努、妻には松原智恵子。長女の竹内結子、次女蒼井優。全て見事でした。

映画には、父親との永遠の別れのシーンはありません。主人公が不在になった部屋に、次女が借りていた本を返しにきて「ありがとう」というだけです。

原作の最も素敵なところは、タイトルの「長いお別れ」の意味が判明するラストなのですが、映画も忠実に、しかし、映像でしか表現できない方法で描いています。

アメリカにいる長女の息子タカシは、ずっと登校拒否状態で、学校からの呼び出しで校長との面談に臨む場面になります。そこで、初めて彼の口から「祖父が死にました」というセリフが出ます。10年前から認知症が始まりっていたことを校長に告げるとを、校長はこう言います。

「十年か。長いね。長いお別れだね。」その意味を分かりかねた彼に向かって、「『長いお別れ』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかって行くから。」

このあたりの描写は、映画は完全に原作に忠実です。原作はこの後「タカシはちょっと考えて、肩をすくめ、校長室のドアを開けて廊下に出た。」という文章で幕を閉じます。しかし映画は、ドアを出てから誰もいない長い廊下を歩いてゆくタカシの後姿を、しばらくの間捉え続けます。彼のこれからの人生が、彼が納得の行くようなものに進んでいけばいいというような思い、3人の女性たちの人生が少しでもいいものであるようにと願うような幕切れでした。

このブログで、中島京子について、「長いお別れ」「彼女に関する十二章」最近作の「夢見る帝国図書館」と三作も紹介していたんですね。いつの間に、こんなに熱心な読者になったんだろう……..。

 

インド映画「あなたの名前を呼べたなら」は、例えば、小川洋子や森絵都の長編小説を読み終わった後のような、とても味わい深い気持ちになりました。インド映画といえば、キラめくような踊りと音楽に満ちた世界を想像しがちですが、これはそうではありません。

インドの身分社会に対して明確な批判を込めた視線、抑制の効いた映像処理、過剰にならない演出、控えめながらエモーショナルな音楽などが見事にブレンドされています。物語は至ってシンプル。資産家の御曹司の家にメイドとして奉公する若い女性とその御曹司の、”身分違いの恋 “を描いています。

経済発展著しいムンバイ。農村出身のメイド、ラトナの夢はファッションデザイナーになることです。若くして夫を亡くした彼女が住み込みで働くのは、建設会社の御曹司アシュヴィンの新婚家庭、のはずだったのですが、結婚直前に婚約者の浮気が発覚し破談になってしまい、広すぎる高級マンションで一人暮らす彼に気遣いながら、ラトナは身の回りの世話をしています。メイドと雇い主の関係だった二人は、急速に接近してゆくのですが、ここにインドの階級社会の厚い壁が立ちはだかります。それでも世間知らずの御曹司の方は、二人で暮らす道を探ろうとするのですが、ラトナは甘い!とバッサリ。彼の家から出て行きます。未亡人の女はそれでなくても差別されているのに、しかも厳しい身分差がある社会で、どうやって幸せになんねん、アンタ!と切りつける演出。監督はムンバイ出身の女性ロヘナ・ゲラでした。

身分による差別が、今も残っているインド社会を見つめながら、一人の女性の成長を丹念に描いてゆき、悲恋ものでは終わらないところが「後味のいい映画」の所以です。オリジナルタイトルは”Sir”。つまり「ご主人」ですが、ラストシーンに彼女が携帯越しに発する一言にきっと涙します。

大切なものを見つけ、懸命に生きる女性を描いたという物語として、森絵都「風に舞いあがるビニールシート」(文藝春秋/700円)を思い出しました。あれも、最後の少女の言葉が、涙腺を200%緩くする効果有り、でした。

明日も映画紹介が続きます。お楽しみに!

2015年、映画をテーマにした「荒野の二人展」を、イラストレーター朝野ペコさん楠木雪野さんコンビにより開催しました。レティシア書房の名前の由来である映画「冒険者たち」から始まって、連想ゲームのようにセレクトされた映画のイラストが並んだ楽しい企画でした。続いて2017年の「続・荒野の二人展」には「私たちのするめ映画」という副題がつき、地味ながら味のある映画の一場面のイラストがずらり。そして、映画好きイラストレーター二人によるお待ちかね第3弾!!「新・荒野の二人展」のテーマは「ヒーロー」です。自分にとって「ヒーロー」は誰か?ヒーロー映画とは何か?という二人の問いに、想いを巡らせてください。

選ばれたヒーローたちは、カッコいい「グロリア」のジーナ・ローランズや、「ドラゴンへの道」のブルース・リー、「サムライ」のアラン・ドロンもいれば、「幕末太陽傳」のフランキー堺というひねりの効いた人もいて、やっぱりこの映画好きの二人、一筋縄ではいきません。

モノクロの朝野さんの作品は、計算されたこれしかない!という気持ちのいい線は相変わらずですが、今にも次のシーンに続く動きがあって新鮮な感じがしました。シャッ!とか、バン!なんていう音が聞こえてきそう。「ピンポン」(写真上)の緊張感は本人が卓球を始めたせいもあるのか…….。ちなみに朝野さんが映画好きになったきっかけになった映画は「狼たちの午後」とか。

一方の楠木さんは、白い画面を大きくとった構図に、少しだけ加えられた色彩が美しい。添えられた文字がとっても上手くて洒落ています。こんな程よい軽やかさは、簡単そうに見えて実はとても難しいと思うのですが、センスの良さに舌を巻きます。映画好きになったきっかけになった映画は「明日に向かって撃て」、R・レッドフォードが楠木さんのヒーローだそうです。描かれた「コンドル」のレッドフォードには愛を感じます。

それぞれの作品には、「どんな映画?」「どんなヒーロー?」の説明が書かれていて、一つ一つ読んでいくのも楽しいです。私のヒーローは、「十二人の怒れる男」のヘンリー・フォンダかな。この展覧会が終わるまでに今まで見てきた映画をゆっくり思い出してみよう………。それにしても毎回楽しいこの企画。ぜひ続けてほしいと願っています。(女房)

なお、作品は全て販売しております。「ヒーローオリジナルグラス」(1200円)、ポストカードなどのグッズも販売中。

「新・荒野の二人展 ヒーロー」は8月24日(土)〜9月8日(日) 12:00〜20:00(最終日は18:00まで)月曜定休日

 

 

かつて、ヒーリングあるいは癒し系の本としてネィティブアメリカンの本が流行りました。どうでもいいいような内容の本も多くありましたが、是非読んで欲しいと思うのは、ナンシー・ウッド著・金関寿夫訳「今日は死ぬにはもってこいの日」(めるくまーる/古書850円)、ジョセフ・ブルチャック編・中沢新一+石川雄午訳「それでもあなたの道を行け」(めるくまーる/古書800円)の2冊です。

「今日は死ぬにはもってこいの日だ。生きているもの全てが、わたしと呼吸を合わせている。すべての声が、わたしの中で合唱している。すべての美が、わたしの中で休もうとしてやって来た。あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。」

生きること、死ぬことをこれほど簡素に、しかも深く描いたものはないと思います。この二冊の本は、ゆっくりと読むことをお薦めします。簡単な文章ばかりなので、一気に読もうと思えば読めますが、それでは意味がありません。ゆっくりと、ゆっくりと、心の中で反復することで、彼らの心とシンクロナイズしてください。アメリカ大陸の雄大な自然と共に、暮らしてきた中から生まれてきた彼らの精神は、きっと読者の心の中に染み込んできます。

 

ところで、最近ネィティブアメリカンの悲しい世界を知る映画を見ました。「ウインドリバー」です。ネィティブアメリカンの女性たちの失踪件数が急激に増加しているにも関わらず、一度も調査されたことがない現状。彼らが住む、いわゆる保留地の生活環境の悪化、広大なその保留地に警官が数名しかいないという危険等を、映画の背景に溶け込ませたサスペンス映画です。

主人公は、この地の野生管理局に勤務するハンターです。彼が、雪の上に若い女性に死体を発見したところから物語は始まります。捜査にやって来た FBIの女性刑事と共に、その死因を探ってゆくうちに、やりきれない現実に直面することになります。舞台となるウインド・リバーは、全米各地に点在するネイティブアメリカンの保留地のひとつで、荒れ果てた大地での生活を強いられた人々は、貧困やドラッグなどの慢性的な問題に苦しんでいます。保留地で頻発する女性たちの失踪や性犯罪被害も多発しています。現代のアメリカの繁栄から見放された”忘れられた人々”の姿を、正統派のサスペンス映画に仕立て上げたテイラー・シェリダン監督の腕前に拍手です。

主人公のハンター、コリーを演じるのはジェレミー・レナー。「ハート・ロッカー」「メッセージ」などでめきめきと頭角をあらわしてきた役者ですが、実にいい!マッチョ的な強さではなく、人生の悲愁を滲ませた佇まいが様になっています。復讐は、賛美されるものではありませんが、この映画のラストには溜飲が下がる思いでした。

 

★連休のご案内  8月5日(月))6日(火)は恒例「レティシア書房 夏の古本市」(8/7〜8/18 参加27店舗)の準備のためにお休みさせていただきます。

青春時代ってどのあたりをいうか、人によって違うと思いますが、まぁ16〜7才から20代後半としてその頃に、私がこの人の映画はすべて観ておこうとのめり込んだ俳優が、スティーブ・マックィーン、ロバート・レッドフォード、クリント・イーストウッド、そして菅原文太でした。マックィーンと文太は亡くなりましたが、レッドフォードとイーストウッドは健在です。二人の共通点は、ハリウッドとの距離を保ちながら自分の世界を作ってきたことです。そのレッドフォードが「俳優引退」宣言をした映画「さらば、愛しきアウトロー」を観ました。

時は1980年代初頭、アメリカ。スーツのポケットに忍ばせた拳銃をチラと見せるだけで、誰も傷つけず、銀行強盗を成功させる男、フォレスト・タッカー。なんと74歳現役。被害者のはずの銀行の人間たちは警察の取り調べに対して、彼のことを「紳士だった」「礼儀正しかった」「微笑んでいた」と褒める始末です。その男を、御歳83才のレッドフォードが演じます。かつての美貌は跡形もなく消え去り、皺だらけの顔に最初はちょっと引きました。

思えば、1960年「明日に向かって撃て」で登場した彼は、もうカッコいい!としか表現できませんでした。それから、「スティング」「追憶」「大統領の陰謀」「ナチュラル」とどれだけ彼の映画を観てきたことか……。彼の皺だらけの顔を見ているうちに、こちらも年齢を重ねて来たんだなぁ〜としみじみ思ってしまいました。

レッドフォードは、彼だけが持っている軽妙洒脱な雰囲気を上手く使っている作品が多くあります。この映画も彼のそんな特質が生かされています。1980年代のノスタルジックな雰囲気も、彼にとても似合っています。監督はデビット・ロウリー。昨年の「ゴーストストーリー」で、その手腕に感心し、ブログにも書きました。昨今の過剰なまでのスピードアップの演出とは全く違い、ゆっくりと、物語を紡いでいきます。それが、60年代後半から70年代後半のアメリカ映画のリズムだったことを思い出させてくれます。あの時代のアメリカ映画を浴びるほど観てきた青春時代を想い、ノスタルジックな感傷に浸ってしまいました。

撃ちあいも、スリリングな銀行強盗のシーンもありませんが、アメリカ映画のいい匂いが立ち込めている作品でした。ホッコリする強盗映画です。共演のシシー・スペイセクが、美しく歳を重ねてレッドフォードに静かに寄り添い、素敵でした。

ところで、この邦題のセンスはどうよ!オリジナルタイトルの「オールドマン・アンド・ザ・ガン」の方が、よっぽど映画を表現しています。が、こういう邦題のつけ方もなんだか懐かしいかな。

 

 

 

 

 

インドネシアから届いた映画「マルリナの明日」。「全く新しい『闘うヒロイン』に喝采!」というキャッチコピーがドカーンと出ていますが、この言葉に引っ張られて見ると肩透かしを食らいます。

夫と子どもを亡くし、荒野の一軒家で暮らす天涯孤独のマルリナ。突然、彼女のすべてを奪おうとする強盗団に財産の家畜を奪われ、レイプされる寸前、首領マルクスの首を鉈で刎ね飛ばして窮地を脱出します。自分の正当防衛を証明するため、たった一人で、マルクスの首をぶら下げて警察署へと向かいます。だが、強盗団の残党達がマルクスの復讐のため彼女の跡を追い始めてます。こう物語を書けば、マカロニウエスタン風の血湧き肉躍るアクション、窮地に陥ったヒロインの孤軍奮闘ぶりを想像しますが、38歳の女性監督モーリー・スリヤは、そういう展開には持ち込みません。

殺した男の首を持って荒野を行く物語といえば、サム・ペキンパーの「ガルシアの首」が思い出されますが、ちょっと似たテイストです。マルリナの他に、もう一人臨月間近の女性が登場します。夫の無理解とDVを知りながら、夫のもとへと行こうとする彼女とマルリナが、インドシナの山々を超え、旅を続けてゆく様を丹念に描いていきます。

フォトジャーナリスト安田菜津紀さんが、映画のHPで、こんなコメントを書いていました。

「理不尽に殴られるのは、助けを求めた先で心ない言葉を投げつけられるのは、女性が弱いからなのだろうか。違う、彼らは女性の強さにつけこむのだと、マルリナの背中は語っていた。
この映画は単なる“復讐劇”ではない。闘うことを強いられた、女性たちの声の形なのだ。」

そうなんです。これ、復讐劇ではありません。男に強いられた不条理と暴力に、やむなく立ち向かった女性たちの物語なのです。鉈で男の首を跳ね飛ばすシーンには、この国の男と女の古い因習を断ち切る意味合いが含まれているのかもしれません。スリヤ監督は、映画愛を随所にちりばめながら、二人の女性の弱さと強さを見事に描き出していました。

荒野のど真ん中、男の首を片手に、鉈を背中に背負って立つマルリナの姿が印象的でした。