「夫に先立たれた妻の前に、男が登場するんですね。これが不思議なんですねぇ、いいですねぇ〜、上手いですねぇ〜」と「日曜洋画劇場」の淀川さんなら言いそうな、往年のウェルメイドなハリウッド映画の満足感が得られる映画に出会いました。

「フェイス・オブ・ラブ」、主演は、アネット・ベニングとエド・ハリスという演技派二人。最愛の夫が事故で急死した女の前に、ある日、夫にそっくりな男が現れる。そして、二人は恋に落ちる、というそれだけのお話。出演者は主役の二人と、あと数人だけ。ケレンもなければ、オーバーな映像表現など全くなく、淡々と進んでいきます。演技力のある役者が見せる「大人な」映画って、かつてのアメリカ映画には数多くありました。

さて、二人の恋の行方はお話できませんが、この映画は、なんだか素敵な短編小説を読んでいるような雰囲気なのです。例えばアーウィン・ショーみたいな、或は堀江敏幸みたいな人の出会いと別れを描く作家の優れた小品を読んだ後の豊かな気分が、ゆっくりと沸き上がってくるような映画とでも言えば、いいのでしょうか。

堀江の傑作短編集「雪沼とその周辺」(新潮文庫300円)の解説を池澤夏樹が書いていますが、こんな文章を見つけました。

「読者はこの小さな町の住人になって、みんなの生活をそっと見るのだ。住民ではなく天使かもしれない。町の人々の生活に干渉することはない天使。ただ見ているだけ、あるいは大事な局面に立ち会うだけの透明な存在。

今ここでぼくは生活と書いた。暮しでもいいし、人生でもいい。あるいはいきていくこと」

そう、観客は、老いも見えてきた男と女の人生をそっと見つめるのです。

蛇足ですが、映画の中で隣りに住む友人役で、先日亡くなったロビン・ウィリアムスが出演しています。ハチャメチャな役柄が目立つ役者でしたが、こういうシブイ脇役が出来る人でした。改めてその死をとても惜しく思います。

 

ロブ・マーシャル監督のブロードウェイミュージカル映画「イントゥ・ザ・ウッズ」を観てきました。

最新の音響システムを駆使した本映画は、絶対映画館で観てほしい作品です。マーシャルはミュージカル「シカゴ」をものの見事に映像化した実績があるので、今回も期待していましたが、いや、期待を上回りました。

映画が始まると、登場人物達が、それぞれ「イントゥ・ザ・ウッズ」と歌いだします。そして、カメラ自身も踊るように彼等の回りを回り、オーケストラが最高潮になった時、一気に村を越えて森へと近づく導入部で、もう安心できます。(導入部の下手くそな映画や小説の大半は、最後まで盛り上がらんもんです)

村のパン屋夫婦は、魔女の呪いのせいで子どもが授からないでいました。呪いをとくためには、ミルクのように白い牛、赤い頭巾、黄色い毛、金色の靴が必要だと魔女に言われ、それらを探すために森の中へと入っていきます。

そして、赤い頭巾を冠った女の子、金色の靴で舞踏会に出る女、牛を売るように命じられた男の子、城に幽閉されたお姫様に出会い、なんとかそれらを手に入れようとするのですが、もう大混乱に陥るというお話です。魔女が指定した四つの小物は、それぞれ「ジャックと豆の木」、「赤ずきん」、「ラプンツェル」、「シンデレラ」という童話を指し示しています。

森の中で、童話の主人公たちは、ドタバタを繰り広げますが、パン屋の主人が、「おい、物語が違う」なんて言うように、彼等が、本来のストーリーで持っていたキャラクターから逸脱していきます。そのプロセスが、魅力的な音楽に乗って、スピードにのってどんどんと進んでいきます。そして、ちょっと皮肉に満ちた終わり方を迎えます。エンドタイトルで、ヒロインが一言いますが、その一言が事態をここまでややこしくしたのかもしれません。

魔女を演じるは、押しも押されぬ大女優メリル・ストリープ。いやぁ、もう大貫禄の魔女で、堪能します。ゲストで、ジョニー・デップが赤ずきんを襲う狼男で登場するのはご愛嬌。

こんな映画を観た後は、シャルル・ペロー傑作童話集「眠れる森の美女」(出帆社/函入り初版2500円)を開いて、ギュスターヴ・ドレの挿画を眺めてみるなんてのは如何でしょうか。ドレは、いくつも森を描いていますが、何か潜んでいるような、何かか起こりそう雰囲気のある森は、この映画と一緒です。

と言っても、誰??かもしれません。アラン・チューリングは、第二次世界大戦の最中、ドイツ軍の開発した暗号通信機機「エニグマ」の解読を任された男で、映画「イミテーション・ゲーム」の主人公の天才的数学者です。歴史的には、この暗号解読のおかげでヨーロッパ戦線は早期に終結したと評価されています。

暗号解読のサスペンス映画かと思われた方、それは間違いです。さすがに、本年度アカデミー作品賞候補になっただけのことはあります。

映画は、チューリングの寄宿舎時代から、暗号解読にすべてを傾ける青年時代、そして国家に葬り去られる最後まで、カットバックを巧みに使いながら、見るものを画面に引きずりこんでいきます。もの凄い苦労の末、暗号解読に成功しながら、彼と彼の仲間を待ち受けていた苦悩の日々。そしてこの時代、キリスト教的倫理観一色の中で、同性愛者たちにいかなる仕打ちをされていたか等々、チューリングの生きた時代を丸ごと描いていきます。彼が恐るべき愛情をかけて作り出した解読機の名前を何故「クリストファー」と名付けたか?涙なくしては見てられません。2時間、身を乗り出してみてしまう見事な演出です。

主演は、TV「シャーロックホームズ」で、その演技力の高さを見せたベネディクト・カンバーバッチ。これで、アカデミー主演男優賞取れなかったなんて、取った役者の演技ってどんなん??と思ってしまいます。

真っ当な映画作りは、完成度の高い脚本と、それを解釈して表現する役者の力、華美な演出を排除して削いでいく演出が出来る監督が、絶対必要条件です。そしてもう一つ、「画調」も忘れてはなりません。その映画全体を支配し、陰翳の深いものにできるかどうかで映画の出来上がりは違います。「イミテーションゲーム」は、その点も見事でした。

ところで、チューリングが創り出した解読機クリストファーが、現代のコンピュータの原点になっていたなんて初めて知りました。映画館で極上の時間を過ごせるお薦めの作品です。

 

京都シネマで上映中の「おみおくりの作法」を観てきました。

オリジナルタイトルは”Still Life” このシンプルなタイトルの方が、作品を見事に表現しているのですが、邦題の方は、「おくりびと」からきているのかなんなのかイマイチです。

舞台は現代イギリス。引き取りてのない遺体の、身内を懸命に探し出し、誰も見つからない時は、葬儀も執り行う真面目な民生委員の日々を静かなタッチで描いた90分あまりの小品です。

この男、プライベートでも、仕事でも、ともかく几帳面を絵に書いた様な人物で、余分なものを削ぎきった生活は清々しくさえありますが、人生、何が楽しいの?と思ってしまいます。一分の狂いもなく進行する毎日でしたが、ある日、自分の住んでいるアパートの住人の遺体の身元引受先を探すところから、微妙に心境が変化していきます。

えぇ、そおんなぁ〜!!という展開に驚かされますが、映画的センス、あるいは小説読みのセンスのある方なら、あぁ〜ラストはこうだろうなと思い浮ばれるかもしれません。その推測はきっと正しい。しかし、そこからがこの映画の極上の素敵さの始まりです。涙腺の弱い人は、ハンカチでは保ちません。手ぬぐいをご用意下さい。もちろん、画面は相変わらず静謐感に満ちたままです。

オリジナルタイトルの”still life”は「静物」、もしくは「静物画」とでも翻訳するのが適当ですが、一枚の「静物画」の中に、生きることと、そして死ぬことの哀しみを閉じ込めた作品です。

主人公がラスト近くで”This is my job”という台詞を口にしますが、この言葉の重みがじわじわと胸に迫ってきます。監督は、ウベルト・パゾリーニ。サッチャー政権下の労働者たちが男性ストリッパーになる奇想天外な傑作「フルモンティ」の製作者の初監督作品。お見逃しなく!!

 

☆はちはちのパン販売のお知らせ  

2月27日(金曜日)西陣の「はちはち」のパン(セット600円)を販売いたします。

お楽しみに!

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ドキュメンタリー映画「白夜のタンゴ」を観てきました。

タンゴと言えば、アルゼンチンタンゴと誰しもお思いでしょうが、実はフィンランドだったという説があり、アルゼンチンタンゴの名手たちが、フィンランドに出向き、ほんとかよ?と各地を訪ね歩く姿を追いかけた80分程の小品ですが、心温まる音楽ドキュメントです。

確かに、この地にもタンゴ奏者がいて、ホールでは皆さん踊っておられます。もちろん、アルゼンチンみたいな熱狂はありませんが、とても楽しそうです。森と水の国フィンランドの広大で静かな風景にタンゴって不似合では?と思っていましたが、どうしてなかなか似合っています。多くの人の欲望渦まくアルゼンチンでも、こんなに人影が見えないファインランドでも、全く問題なしで聴けるのは、この音楽の持っている力強さと包容力の成せる技かもしれません。

ところで、映画に登場するタンゴを聴いていると、南米大陸の不思議な音楽の伝わり方に気づきました。アルゼンチンのご近所ブラジルではボサノバになり、ペルーに入るとフォークローレになり、北上してキューバに行くと、伝統音楽ソンになり、さらに北のメキシコにいくとマリアッチに変わる。もちろん、これらの音楽が形成された時期も経路もバラバラですが、それぞれのお国柄が聴こえてきそうです。一つの大陸でこんなにも様々な表現スタイルを持っているって面白い。

キューバでソンを演奏して30年のキャリアを誇るセプート・デ・ラ・トローバのサウンドを聴いていると、そのままタンゴのダンスが踊れそうなのですが、あ、これキューバだよねと思わせるものがあります。ちょっと太った女性がステップ踏みながら、フライパンで料理してそうなシーンが心に浮かぶ一方、演歌っぽい哀愁さえもあります。懐の深い音楽です(CD1400円)

さて、当ギャラリーではかくたみほさんのフィンランドの写真展を開催しておりますが、「白夜のタンゴ」にも作品そっくりの風景を見ることができます。映画を観に行かれたら、ぜひ写真も観に来て下さい。リクエストしていただければ、店にある映画サントラ「タンゴレッスン」(900円)を流しますよ。

前から興味のあった「インターステラー」を観ました。最近は、ハリウッドの大作を殆ど観ないのですが、監督が贔屓のクリストファー・ノートンなので出かけました。

アインシュタインの相対性理論、量子力学、五次元空間、そしてタイムパラドックスにワームホールと、さらに本棚の向うは、別世界への入り口というファンタジーのお約束事まで放り込んだ3時間。どれも未消化、突っ込みどころ満載にもかかわらず、素敵な映画でした。

SF大作にもかかわらず、静謐なのです。昨今の低能ハリウッドは、めったやたらとうるさい映画ばかりが目立ちます。宇宙は真空なんだから、音なんてない世界という事実をすっかり忘れています。その点、さすがクリストファー・ノートン監督でした。

この静かな映画を作るには、おそらく監督の脳裏には69年の「2001年宇宙への旅」、そして地球滅亡というテーマで言えば、同年公開された「猿の惑星」があったはずです。名作二本は超えられませんでしたが、超えようとチャレンジした映画では、最も優れた作品です。

ところで、その60年代ですが、ハリウッドは真面目に社会に向き合っていました。

62年、「キューバ危機」でアメリカとソビエトが緊張状態になった二年後、「博士の異常な愛情」「五月の七日間」「未知への飛行」と核時代の恐怖を描く傑作が一斉に公開されます。

「サウンド・オブ・ミュージック」や「マイ・フェア・レディ」といったハリウッドらしい大作も公開されている一方、方々で出版差止になったナバコフの小説「ロリータ」が62年に映画化され、世間に「ロリータコンプレックス」という言葉を普及させました。

そして決定的だったのは、67年公開の「俺たちに明日はない」でしょう。ハリウッドが描いてきたアメリカンドリームは一気に砕けちり、アメリカ人の孤独を描いた極めつけ68年公開の「泳ぐ人」、NYの得体のしれない恐怖を描く「ローズマリーの赤ちゃん」、69年に「真夜中のカーボーイ」が登場し、悲惨で、孤独なアメリカ人の内側を描き出して、70年代にバトンタッチしていきます。時代と共にその表現手法を広げた、映画に取っては幸せな時代でした。

芸術新聞社発行の「60年代アメリカ映画」(2000円)は、この10年間をその代表作と共に振返る労作です。この本片手にレンタルDVD探されてはいかがでしょうか。

蛇足ながら、私の60年代ベスト10は

「2001年宇宙への旅」「ブリット」「博士の異常な愛情」「サイコ」

「愛すれど心さびしく」「猿の惑星」「明日に向かって撃て」「質屋」

「泳ぐ人」「鳥」というところかな〜。

 

 

戦後、映画監督の小津安二郎は、家族の幸せと、その家族の一員が亡くなったり、嫁いだりして抜けた後に訪れる孤独を描いてきました。

一方、小説家庄野潤三は、その幸せな家族の最も美しい瞬間を静止画を捉えるように、描いてきました。岡崎武志編集による「親子の時間」(夏葉社2592円)に収められている短篇には、まるで小津映画のワンカットを見ているような作品ばかりです。一番最後に収録された日記「山の上に想いあり」は、上流社会に属する家庭という設定ではありますが、もう消滅してしまった美しい日本の家族の姿が収めらています。

そして、もう一人、家族に拘る映画作家がいます。石井裕也監督です。「川の底からこんにちわ」(2010)、「あぜ道ダンディ」(2011)、「舟を編む」(2013)、そして最新作「ぼくたちの家族」(2014)に至るまで、ひたすら家族を描いてきました。

「ぼくの家族」は、脳腫瘍で倒れた母親と、取り残された父親と二人の息子の姿を描いた作品です。ま、この手合いの話になると、小説にしろ映画にしろ、妙に感動させようと作為的な描写が目立ちます。しかし、この作品は、そんなことは一切しません。登場人物のそれぞれの日常風景を切り取りながら、淡々と進行します。泣かせにしないところが、この監督の真骨頂でしょう。

普通、映画はオープニングでタイトルが出ますが、本作は一番最後に出ます。バブル期を象徴するような大きな家を建てた父と母。その一方、長男は引きこもりになり、父は借金を重ね、母はサラ金で買物を続け、家族はバラバラになっています。しかし、母が倒れて、男たちはジタバタすることで、ほんのちょっとだけ家族の枠組みを取り戻します。この「ほんのちょっと」が大事ですね。主演の妻夫木聡が、ラストまるで、これが「ぼくたちの家族」と笑みをこぼすところで映画は終ります。そして、タイトルです。

小津安二郎が、庄野潤三が、石井裕也が描く家族は、テーマも表現方法みな違います。しかし、一つ共通しているのは、静謐な事です。その事が、偽物ではない家族の物語を見せてくれる大事なポイントなのかもしれません。

素敵なドキュメンタリー映画を見ることが出来ました。

昨年のアカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞した作品「バックコーラスの歌姫たち」です。オリジナルタイトルは”20 feet from stardom”

日本語に翻訳すれば「スターの背後6メートル」。これは、ロック、ポップスの大物達の後ろで歌うバックコーラスの黒人女性達のポジションを象徴したタイトルです。

聖歌隊、教会音楽で育ってきた彼女たちの声量は、ど迫力で、こんな上手い人達の前で誰が歌うのか??と思ってしまいます。ジョージ・ハリスンが主催した「バングラデシュコンサート」で彼は自作の「ワーワー」を歌いますが、はっきり言ってライブでのジョージは下手です。しかし。そのバックコラースが見事に曲に命を吹き込み盛り上げていきます。(逆を言えば、彼女達の才能を知っていたジョージの音楽家としてのセンスの良さが分かりますが)

彼女達がいなければ、ロック、ポップスの世界はいかに面白くなかったかということを実証する作品である一方、60年代から今日まで、バックコーラスの女性達が不当な扱いを受けてきた事実が浮き彫りになります。それはそのまま、アメリカの黒人差別の歴史です。

そして、実力十分な彼女たちがソロシンガーとして独り立ちした時、つまりスターの後方のポジションから、センターへと出ててきた瞬間から、待ち受けている厳しい現実。消費され、押しつぶされてゆく人生が映し出されます。

この映画に登場する歌姫たちは、その闘いを乗り越えて生き残った女性達です。だから、彼女達の表情は素敵です。一時は家政婦までしていた、今年73才のダーレン・ラブが歌う「リーン・オン・ミー」は、熾烈な音楽業界に翻弄されつつも、逞しく復活してきた女性の人生が凝縮されています

ロックやポップスなんて知らない人でも、魅入ってしまう作品です。レンタル屋でチェックして下さい。

アメリカ航空宇宙局が、着々と有人宇宙船による火星着陸計画を進めているみたいです。先日は、その新型宇宙船のテスト飛行をやっていました。そのうちに、火星から宇宙飛行士が地球に挨拶を送ってくるかもしれません。しかし、それホンマ〜??と思わせる映画に1978年に出会いました。

「カプリコン1」(ピーター・ハイアムズ監督)です。

火星へ出発間際、突如三人の宇宙飛行士は宇宙船から連れ出され、沙漠のど真ん中の格納庫に隔離されてしまいます。そして、宇宙飛行計画の責任者から、機体の一部に不具合があった、しかし、この計画を中止すると、大統領が予算を削減して、火星行きは断念せざるを得なくなる。だから、偽装飛行と火星に見立てたセットで火星に到着した演技をして、計画が成功したかの如く振る舞うように強要される。

そんなアホな話と思われるかもしれませんが、有無を言わさず、ラストまで引っ張ります。昨今のド下手丸出しのハリウッドと違って、この時代のアメリカ映画は、世界をリードしていただけの映画作りの上手さを堪能できます。

この映画の製作は70年代後半。当然CGなんてものはありません。でも、制作スタッフは、リアルにリアルに、これは嘘ではありませんよ、というスタンスで話を組み立てていきます。前半のSF的展開から、後半の冒険活劇の王道的展開へとシフトしてゆく演出も見事です。

最後には、ヘリコプターとおんぼろプロペラ機の空中戦が用意されていますが、このパイロットに扮するのが、「刑事コジャック」のテリー・サバラスです。今、改めて観てみると、このキャラは、宮崎駿のアニメ「紅の豚」の主人公ポルコ・ロッソそっくり(コジャックの吹き替えもポルコの声も森山周一郎)。宮崎も、この映画を観て、ポルコをイメージしたのかもしれません。

ところで、当初、アメリカ航空宇宙局はこの映画に協力的でしたが、内容を知って断ったらしいです。まぁ、そりゃそうですね。「カプリコン1」はレンタルショップで借りられます。お正月休みには、格好の映画です。

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アイルランド人、レニー・アブラハムソン監督の映画「フランク」を観てきました。なんと、まぁ調子はずれな、でも愛すべき作品でした。巨大な張りぼてのマスクを被り、人前では絶対に素顔を見せない、正体不明のカリスマ・ミュージシャン、フランク。その彼と、どう聴いても面白くないバンドの珍道中を描きます。

風変わりなバンドのアルバム制作のため、辺鄙な田舎で合宿する姿がネットにアップされてアメリカのロックバンドフェスに招待されたものの、とんでもない結末を迎える話なんですが、先ず盛り上がりません。練習風景もヘンテコだし、ほんとにバンドとして大丈夫????って感じです。この写真からも、その変さ加減はみていただけるでしょう。でも、ラストのラストで、あっ!純愛映画だったんだことがわかります。最後に流れる、「リリーマルレーン」ばりの物悲しい歌と主人公の後ろ姿が涙を誘います。

時たま、こういうへんてこなイギリス映画に出会います。

ゾンビ映画にはちょいとウルサい私ですが、観て頂きたいのが、エドガー・ライト作品「ショーン・オブ・デッド」(レンタル店にあります)です。ゾンビ映画ながら、もう全編お笑いです。お約束の、ゾンビが人間の内蔵を引きちぎって、モリモリ食べるシーンもありますが、変なセンスと、この手合いの映画にありがちな恐怖感盛り上げ度が、なんと0という、調子はずれの作品です。

一番、笑ったのは、ゾンビ相手に、LPレコードを割って投げつけるシーン。イギリスのバンドのものは割るな、アメリカのバンドだから割れ、それ初版だから割るなと、目の前のゾンビ無視してレコード話をするところでした。

で、この監督、数年前に「ホット・ファズ」という、滅茶苦茶に弾丸が飛びまくるのに誰も死なないという、これまた大笑いの映画を作っていました。年末、年始の下らないTV観るなら。この二本を借りて、初笑いをお薦めします。

妙に元気になるというか、フットワークを軽くしてくれる「癒し系(?)」の作品ですよ。