女優オリヴィア・ワイルド初監督作品「ブックスマート」(MOVIX京都で上映中)は、アメリカの二人の女子高校生が主人公の、文句なしに楽しい映画です。

ひたすら勉強して一流大学入学が決まったモリーとエイミー。遊んでばかりいた連中とは、私たちは違うもんね、と見下していたのですが、ヘラヘラしていた同級生も実は、それぞれ一流校に入ったことを知り、勉強ばかりしてバカみたいと思った二人は、最後に思いっきり羽目を外そうと、卒業パーティーに突入します。

なんだ、女子高校生の学園モノか、とバカにしたら素敵な映画を見逃しますよ。この映画は学園モノの王道の”ボーイ・ミーツ・ガール”ではありません。最後まで、二人の高校生の友情のお話です。二人の会話が、もう刺激的、刺激的です。下半身ネタやら、言いたいことをバンバン言い合います。そして、卒業を前に、エイミーは自分が同性愛者だとカミングアウトします。際どい会話、本音トークが炸裂します。

でも、ただワイワイやってるだけではありません。パーティーでお互いの魅力に惹かれて、エイミーと抱き合ったホープという女の子が、卒業式の後、エイミーの家にやってきます。

ホープが「私はバックパック背負って半年ほど旅に出る」と言うと、エイミーは「私は一年間アフリカに行ってくる」と答えます。じゃあ、またねと別れる二人。世界での自分の立ち位置を見定めて、社会へと飛び出してゆく二人の笑顔が素敵です。

アフリカへと旅立つエイミーを見送るモリー。ちょっとセンチな気分になっているのですが、お互いの夢を認め合い、最後までやっぱり弾ける笑顔に、オリヴィア・ワイルドのセンスが光ります。魅力的な女子たちが、これからの世界を引っ張っていってくれる予感がします。昨日紹介した「女の答えはピッチにある」同様「どんとこい、人生」的な元気を与えてくれます。(写真は監督です)

因みに、「ブックスマート」は、試験に合格したり有名大学を卒業することでスマートとみなされる人達のことらしい。皮肉として、実践に乏しい人という意味もあるとか。

イギリス郊外の閑静な住宅地。玄関で草花の世話をしている高齢の女性が、主人公ジョーンです。ある日、ドアを激しくノックする音がして、開けると、警察がスパイ容疑で逮捕するというのです。

どこにでもいそうなおばあちゃんが、突然のスパイ容疑?映画「ジョーンの秘密」の幕開けは、いきなり不穏な空気が漂います。

そして物語は、ジョーンがケンブリッジ大学で物理学を専攻していた1938年へと戻ります。そこで彼女は、友人に誘われた共産主義者たちの会でレオという男性に一目惚れをして恋におちます。

時代は、第二次世界大戦のまっただ中。大国は新しい兵器である原爆の開発に突っ走っています。1941年、ジョーンの勤務する核開発研究所もやはり、原爆研究に邁進しています。優秀な学生だった彼女は、ここで実力を発揮し、上司である教授の助手として研究の核心部分に触れていきます。やがて、アメリカによるヒロシマへの原爆投下。

その爆発の一瞬を映像で見たジョーンは、予想以上の破壊力に驚き、恐れます。自分たちの作ろうとしていたのは、とんでもない怪物だったのです。「ヒロシマ…..」と呟く彼女の顔にはこんなものを未来に残すのかという不安が満ちていました。

映画は、現在のジョーンと、若き日の彼女を交互に見せていきます。原爆の恐怖に慄いた彼女が選んだ行動は、平和のために核を抑止力として使うことでした。そのためにアメリカに敵対するソ連に情報を流すという、研究員としてはやってはならない行為でした。大国はいつの時代も、若い才能を政治に利用して使い捨てにすることを厭わないのです。違法行為とわかっていても、たった一人の女性が、考えた末取り得る数少ない正義の行動だったのかもしれません。仕事の上で、男性と同等に扱われることがなかった時代背景も取り入れながら、原爆に関わったために、大きく人生行路を変えていかざるを得なかった女性の一生。名優ジュディ・デンチと、彼女の若き日を演じたソフィー・クックソンの二人の演技が素晴らしく、映画全体もオーソドックスで端正な演出で貫かれています。傑作です。

 

 

大島新監督のドキュメンタリー「なぜ君は総理大臣になれないのか」(京都シネマにて上映中)は、日本の政治風土を丸裸にするような傑作映画でした。

若手国会議員の小川淳也氏。2019年の国会で不正会計疑惑を質す姿が注目を集めた政治家です。映画は17年にわたって彼を追いかけました。

2003年、小川は32歳で民主党から衆議院選挙に初出馬するも、落選。05年の衆議院選挙において比例復活で初当選。09年に民主党が政権を奪取。気高い政治思想を持っていた小川ですが、党利党益に貢献しないと出世の目のない政治の世界で、しかも敗者復活の比例当選を繰り返していたことから発言権も弱く、党内では力をつけることができませんでした。

17年の総選挙で、希望の党に合流した前原誠司の側近であった彼は翻弄されます。希望の党の小池百合子代表に対する不信感から無所属での出馬も考えるのですが、悩んだ末に希望の党から出馬し、地元ではまたも落選。再び比例で復活したものの、今度は希望の党が解体してしまい、国民民主党へ。前原や、地元の先輩である玉木雄一郎への仁義に絡め取られながらも、一生懸命に選挙運動を続ける彼をカメラは追いかけます。

 

希望の党に鞍替えして選挙運動に出たばかりに、街の中では、裏切り者!という罵声が飛んでくる。そんな中、妻や娘もタスキをかけ、地元商店街を走り回るという典型的な日本の政治風景も、そのままカメラは捉えていきます。理想を追求しながらも、もがき、溺れ、なんとか這い上がろうとする若き政治家の姿。

「こんな選挙やってていいのかな。」

これは、小川の選挙のスタッフである同級生の言葉です。選挙カーから大きな声で連呼し、狭い道路に車を止めて演説を行ったりする運動への疑問。一族郎党を担ぎ出しての電話攻勢や、手紙の配布。小池氏への不信がありながら、希望の党員に甘んじている自分を見つめ、なぜ、無所属で出馬しなかったのかという後悔。

これは、一人の政治家の選挙の顛末ではなく、国を憂い、このままではいけないという熱い思いに突き動かされて、彼の父の言葉を借りれば「猿芝居」の横行する政治の世界で、あがく青年の映画です。

小泉今日子が「この映画がフィクションならば『主演男優も脇も固める役者たちも脚本も編集も最高!続編に期待したい。』となるのだが、これは一人の人間を追ったドキュメンタリー。自分の人生、生きかたを改めて考える時間になった。」と推薦の言葉を贈っていますが、それは小川が真摯に政治へ向かい、思いが、つまり彼の哲学がそこにあったから人の心が動くのだと思います。

 

★8月17日(月)〜20日(木)まで休業いたします

話題の日本映画「アルプススタンドのはしの方」を観ました。「笑点」の大喜利風に言えば、座布団10枚!と声を掛けたくなるセンス。

夏の高校野球予選。地元公立高校と、優勝候補校の一戦の応援に駆り出され、いやいややって来た高校生4人。アルプススタンドの端っこでグタグタと話しをしている中、グランドで試合は進行していきます。けれども、映画には一切、野球のシーンがありません。必死で応援する応援団とブラスバンドの掛け声とアナウンス、そして、カーン、コーンと時折聞こえてくる打撃音だけが試合の進行を教えてくれます。

元々、この映画の原作になっているのは、東播磨高等学校が全国高等学校演劇大会で最優秀賞を獲得した戯曲です。

この四人、落ちこぼれでも、不良でもありません。まぁ、いたって普通の、どちらかと言えば真面目な男子高校生と女子高校生です。演劇部に所属する二人の女子高校生、元野球部の男子高校生、エースピッチャーに恋心を抱く優等生の会話が続きます。何かと言えば、「しょうがない」を連発して下向きな彼らが、試合経過とともに、ちょっと上を向くという、よくある青春映画です。でも、野球のグラウンドを見せずに、野球の経過と共に、変化してゆく四人の様を描いた映画の作り方に拍手です。監督は城定秀夫。なんとポルノ映画や、Vシネマ(レンタル屋にあるアクション映画)を多数作ってきました。少ない予算、セットなしのロケ撮影という過酷な制作条件に対応してきた人だからこそ、こんな自由な映画ができたのかもしれません。

 

「『怒りの葡萄』は10代必読の書です」

とは、映画に登場する図書館司書のセリフです。ジョン・スタインベックが1930年代に発表した長編小説「怒りの葡萄」は、土地を追われる農民と資本家の軋轢を描いた物語です。「パブリック図書館の奇跡」で、この一節を良い場面で使っています。とてもウェルメイドな作品で、社会体制批判を織り込みながら、成る程と納得させるエンタメ映画に仕上がっています。監督・脚本・主演はエミリオ・エステベス。「地獄の黙示録」などで有名な俳優マーティン・シーンの長男。「プラトーン」に出ていた俳優チャーリー・シーンは弟という映画一家の役者で、監督です。

舞台はオハイオ州シンシナティの公共図書館。実直な図書館員スチュアート(エミリオ・エステベス)が、常連のホームレスから「今夜は帰らない。ここを占拠する」と告げられます。大寒波で路上凍死者が続出しているのに、市の緊急シェルターが満杯で、行き場がないから、ここに泊まることを決めたというのです。70人余りのホームレスが図書館の一部を占拠。彼らの苦境を察したスチュアートでしたが、事態はそれでは収まらず、政治的なイメージアップをもくろむ市長候補の検察官の主張や、センセーショナルなメディア報道によって、スチュアート自身が危険な”容疑者”に仕立てられてしまい、機動隊が出動し、スチュアートとホームレスたちは追いつめらていきます。

「俺は本で救われた。だから、ここで働いている」とスチュワートは語ります。かつて、彼はアルコールと薬で体も心も蝕まれ、犯罪を起こし、路上生活も経験していました。そんな彼が、本を読むことで、荒れた生活から抜け出すことができたのです。

さて「怒りの葡萄」ですが、事件の中継をしていたマスコミにスチュワートがコメントを求められた時に、小説の中の台詞を語ります。ここにいるホームレス達も、小説の中の農夫達も、政府や資本家から搾取され、放り出された人たちです。だからこそ、この台詞には説得力があるのです。

占拠が長引き、警察は突入することを決めます。今回だけは反抗すると宣言したスチュワートやホームレスは、大胆な行動(これは映画を見てのお楽しみ)に出ます。上手い!ラスト。監督の才能に感服しました。非暴力、非抵抗ながら彼らの意志を鮮明にしたエンディングには拍手拍手でした。

「ここは公共図書館だ。民主主義最後の砦だ」

と、スチュワートが警察に向かって言います。アメリカでは公共図書館とは権力から表現の自由を守り、弱者の側に立つ、そういう存在なのだということを知ると、羨ましくなりました。

花田菜々子(書店員/ブックストア・エイド基金運営事務局メンバー)さんは、映画のHPでこうコメントしています。

「書店員も図書館員も慈善事業じゃない。でもいつでも弱者の側にいたいと思う。たくさんの本が私に、弱く生きる人々の美しさを教えてくれたからだ。」素敵なコメントです。

 

 

 

 

ヨーロッパで大人気だった舞台を映画化したドイツ映画「お名前はアドルフ」(京都シネマにて上映中)がとても面白い!!

舞台は現代のドイツの大都市ボン。哲学者で大学教授のステファンと教師のエリザベスの夫婦は、ある夜、実業家の弟トーマスと恋人、夫婦の幼馴染みで音楽家のレネを招いてディナーをすることになっていました。それは、きっと知的な会話に満ちた愉快な夜になるはずでした。

しかし、出産間近の恋人を持つトーマスが、生まれてくる子供の名前を「アドルフ」にすると発表したことからその場の雰囲気はガラリと変化していきます。アドルフ・ヒトラーと同じ名前を子供につけるとは気は確かなのかと、ステファンも、エリザベスも、レネも猛反対。まぁ、当然の反応ですね。ところが、論争はここから意外な方向へ展開して、家族の秘密が暴露されていき、スノッブでインテリ階級の、その顔の下に隠れている部分が露出してきます。とうとう、レネの恋が明るみに出た途端、もう収拾がつかない状態になってしまいます。トーマスとエリザベスの速射砲のような掛け合いは大爆笑もんです。ともかく5人の俳優たちが巧い。

それまで甲斐甲斐しく料理を運び、おもてなしをしていたエリザベスが最後に爆発。おいおい、どうなってゆくんだこの家族、という展開なのですが、ご心配なく。なんと、ハッピーエンドです。

ステファンとエリザベスが住む住居のデザインが素敵です。食堂には絵画や写真が飾られ、高級なオーディオセットに、ズラリ並ぶレコード。居間にはピアノがあり、モダンなデザインの応接セットが並んでいます。キッチンも整理されていて、仕事をしながら家事をこなすエリザベスの日常が垣間見えます。カメラは、それぞれの部屋を巧みに移動しながら、この5人の口論をみせていきます。90分ノンストップで突っ走るコメディ。あなたの脳みそを揺さぶる傑作だと思います。

エリザベスの爆発には、そうだ、そうだと思われる女性も多いはず。

 

先月京都市内にオープンした映画館アップリンクに、一昨日初めて行きました。ギリシャの北に位置する北マケドニアで作られたドキュメンタリー「ハニーランド永遠の谷」を観るためです。

主人公は、首都スコピエから20キロほど離れた電気も水道もない谷間にある村で、寝たきりの盲目の老母と暮らす自然養蜂家の女性です。村には、この二人以外他に誰も住んでいません。3年の歳月、数百時間の撮影を経て、彼女たちの日々を見つめた作品です。ただただ、圧倒されました。

「半分はわたしに、半分はあなたに」

これは、彼女の養蜂の基本的スタンスです。できあがった蜂蜜の半分は私がいただくけれど、半分はハチに返す。そのことで微妙な自然体系の維持を可能にして、自然と共に生きていることを彼女は熟知しています。でも、生活は苦しいし、お母さんは、ひたすら寝ているだけです。たまに彼女が街に出て、蜂蜜を売ったお金で買ったバナナを口に入れるだけ。私たちの感覚からすると、極めて貧しく見えるのですが、彼女はそうは思っていません。蜂と共に生きることが彼女の人生なのです。

しかし、彼女の平和な生活は、エンジン音とともに7人の子供と牛たちを引き連れてきた一家が、隣に越して来たことで、徐々に変貌していきます。この家族が悪者なのではありません。幼子も、年長の少年も、両親と一緒に牛を追い、養蜂場で働きます。死んでいった、或いは今にも死にそうな子牛を死体処理場まで担ぎ上げ、蜂に刺されながら蜜を取る仕事をとる作業をこなす子供たちをカメラは捉えます。

 子供たちの学費、生活費のためお父さんも必死です。だから、出来上がった蜂蜜もすべて売ってしまいます。行き場を失った蜂たちが、彼女の養蜂場に侵入し、死闘を繰り広げ、殺し合いを重ね、彼女の巣は全滅状態になってしまします。

「もう、なにもない」呆然とする彼女。さら追い討ちをかけるように、年老いた母が亡くなります。ロングショットで捉えた彼女の家と、誰もいなくなった村に彼女の悲痛な叫ぶ声が響き渡ります。コヨーテが周りを徘徊する深夜、火をつけた木材を暗闇で振り回しながら、「悪魔よ去れ」と母の霊のために走り回ります。

しかし、ここからが力強い。最初のシーンで、彼女は落下したら即死するような急峻な山道を登っていきます。そこにも、蜂が巣を作っているのですが、再び、彼女は愛犬を連れてこの山を目指します。雪深い大地を歩む二人をカメラは優しく追いかけます。出来上がった蜂蜜の半分をもらい、愛犬にもおすそ分けしてあげます。誰もいないこの村で、最後まで、彼女なりの人生を全うするのです。

ラストシーン、遠くを見つめる彼女のアップに、人間の尊厳と強靭さが溢れています。国内外の政治家の品のない顔にうんざりする毎日ですが、人間ってこんな美しい顔になる動物なんだと再認識させてくれました。彼女の顔を心に焼き付けるために、何度も観たい映画でした。

ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟監督作品「その手に触れるまで」(京都シネマにて上映中)は、一人よがりの正義感にのめり込んだ少年の心は、元に戻せるか…..を描いています。

ベルギーに暮らす13歳のアメッドは、数ヶ月前まではゲーム好きの普通の少年でした。ところが、この街に暮らすイスラム指導者に感化され、過激な思想にのめり込んでいきます。学校の先生をイスラムの敵と考え、抹殺しようと計画し、アパートに押しかけますが失敗。逮捕されて、矯正施設に送られました。施設のスタッフたちは、狂信的な考えに取り憑かれたアメッドの気持ちを変えようとするのですが……。

アメッドは、何度も何度も口をゆすいだり、手を洗います。まるで他人と接すると悪魔が乗り移る、とでも考えているぐらい潔癖な行為です。母親とはお休みのキスを、先生ともお別れのキスを拒否します。大人のムスリムは女性とは接触しないという教えを厳格に守っているのです。狂信的な考えを持っているようには全く見えず、どこにでもいる普通の少年のように見えますが、アメッドは一度も笑うことも、はしゃぐこともありません。先生を襲うときも、凶暴になったりしない。淡々と先生を刺そうとするのです。そこが怖い。

矯正施設に付属している農場で、農作業や牧畜を手伝う彼を、スタッフたちが普通の少年の日常に戻そうとしても、彼の心の奥に住みついた狂信的宗教心は揺らぎません。映画は、まるでドキュメンタリーのように少年の日々の暮らしを追いかけていきます。全く感情に動かされない少年の行動や淡白な受け答えを見つめても、世間で言うところの日常に復帰したのかどうかわかりません。

先生への殺意は消えることなく存在し、ついに施設を脱走して学校へと忍びこみます。太い釘を手にして侵入しようとした瞬間、学校の屋上から転落します。さて、ここから彼が取った行動が意味するものは複雑です。小さな希望なのか?それとも、人は永遠に変われないものなのか?

人は変わることができる、なんて簡単に言って欲しくないと突きつけられた映画でした。

 

 

 

 

さて、映画館が頑張って安全対策をとっていることがわかり、こちらも久々の京都シネマ。理想の農場をつくるために奮闘する夫婦のドキュメント「ビッグ・リトル・ファーム」を観てきました。

野生動物のカメラマン、映画製作者として活躍していたジョン・チェスター(本作の監督)と、妻で料理家のモリーは、殺処分寸前で保護した愛犬のトッドと都会で暮らしていました。が、トッドの鳴き声が原因でアパートを追い出されてしまいます。愛犬のため、そして、本当に体にいい食べ物を育てるため、郊外へと移り住むことを決心します。

しかし、購入した200エーカー(東京ドーム約17個分らしい)の土地は荒れ果てた農地でした。

彼らは、有機農法を基本とした自然と共生する農場作りのため、ノウハウを持っている人をインターネットで探し出し、アラン・ヨークを雇い入れ、彼を師匠と仰ぎ、土地の改良を開始します。映画は、彼らの農場作りの第一歩から撮影されています。植物も生えていなかった土地が、豚、牛、羊、鶏など多くの家畜たちとともに少しずつ良くなっていき、やがて野生の生き物たちも集まってきます。ここでは、植物も、農産物も、家畜も野生動物も、全てが手を取り合いながら、一つの生態系を形成してゆくことを目的とされています。見るも無残だった土地が、美しい風景へと変貌していきます。

しかし、自然はそう簡単な相手ではありません。害虫の発生、家畜を狙うコヨーテ等々、農場の存続を脅かす問題が次々に襲ってきます。ある日、ジョンは農場内に侵入したコヨーテを撃ち殺します。死んだコヨーテの表情を真正面から捉えたとき、ジョンはコヨーテは無用の存在だったのか、と自らに問いかけます。

そうではなかったのです。そのことを、後半映画は語っていきます。コヨーテも生態系の中で、生きる目的が存在したのです。野ネズミに散々、農作物や果物を食い荒らされて頭を抱えたこともありましたが、やがて農場にはフクロウや猛禽類が住み着くようになり、野ネズミを捕食してくれるのです。しかも、その野ネズミにさえ生きる目的を自然は用意していたのです。全ては、つながって回ってゆく、その大きな自然の流れを、美しい映像が見せてくれる90分です。

オリジナルタイトルは”The Biggest LittleFarm” ”The Biggest”は、最も大きな生態系を回している地球であり、”Little”は、その大きな生態系のほんの一部を再生した農場という意味だと、私は思いました。

3月末に映画館に行って以来、数ヶ月ぶりに劇場に入りました。やはり、映画は映画館で見るものだと再認識しました。音響、照明、美術など映画に携わるプロの精密な仕事は、大きな画面、音響でしか見えてこない、聴こえてこないものです。

さて久しぶりの映画は、何度も映画化された「若草物語」。1868年に発表されたオルコットの小説は時代があまりにも古く、今の時代では退屈かと思われましたが、まず脚本が見事で、美術・衣装・俳優、すべてが素晴らしく、優れた作品に仕上がっていました。

日本タイトルには「ストーリー・オブ・マイライフ」そして「私の」若草物語になっています。映画は、「若草物語」に描かれた四姉妹の美しく過ぎ去っていった少女時代を丁寧に描きながら、次女のジョーが、自分たちのことを小説にして「若草物語」としてこの作品を世に出すという構成です。

ファーストシーンは、この映画全体のテーマを物語っています。ジョーの書いた短編小説が初めて雑誌に採用されます。その喜びで一杯の彼女は、街を駆け抜けていきます。女性は結婚するしか生きていく手立てのなかった時代、彼女は自分の力で稼いで生きる第一歩を踏み出します。その喜びを見事にファーストシーンで象徴させていました。監督のグレタ・ガーヴイングは、繊細なタッチで姉妹の過去を描きつつ、今を生きるジョーの姿を追いかけていきます。巧みなカットバック手法で少女時代と、大人になった時代を交錯させつつ、女性の新しい人生を語っていきます。優しかった母親、姉妹それぞれの性格、隣人、慎ましいけれど幸せだった日々、初恋、別れ、死、そして新しい出会い。ジョーは長編小説を書き綴りながら一歩ずつ、新しい世界を広げていきます。

出版が決まり、本が製本工場から一冊の本になるまでの描写。ジョーの長年の思いが一冊の本になってゆくのです。彼女に刷り上がったばかりの本が手渡されるこのシーンは、本好きにはぜひ、映画館で対面して欲しいと思います。一冊の本に詰め込まれた思いが溢れて感動しました。