年を取ると涙腺がゆるみます。若い頃、TVのドラマの愁嘆場で泣いている親を横目で見ながら「こんなベタな泣かせどころでまんまと泣くかな〜」などと鼻で笑っていたのですが、最近は老犬が佇んでいるだけで目頭が熱くなります。

思うに、これは別れを重ねて来たから。生きてる時間が延びれば、それだけ親しい人(人だけでなく犬や猫も)との別れの数が多くなり、涙の数も増えるというものです。

映画「アンコール!」は長年連れ添って来た妻を、ガンで失う老いた男の話。

妻は明るい社交的な性格で、末期ガンを患いながらも町の合唱クラブで歌っています。夫は、融通のきかない頑固者だが、妻を心から愛しています。合唱クラブの練習日は、車椅子を押して送り迎えをし、週に一度は、男友達と飲みながらカードをするのが楽しみ。妻との永久の別れが遠くないのも解っているけれど、その淋しさをどうすることもできない。一人息子との関係も、妻がいればこそやっと繋がっているという有様で、こんな老人を残していく妻の気持ちを思うだけで切なくなります。

無口で頑固な夫役は、テレンス・スタンプ。少し病的で美しかったあのテレンス・スタンプが、良い皺を刻んで、不器用な年寄りをがっちり演じます。禁煙が当たり前になっている今、煙草をすう姿が誠にかっこいい。テレンス・スタンプは「プリシラ」の海兵隊上がりのオカマ役も素敵だったけど、妻のために生きる無骨な老年男子はとってもチャーミングです。

一方、妻を演じるのはヴァネッサ・レッドグレーブ。こちらも若かりし頃の知的で、尖った美しい姿を知っているだけに感無量。夫と息子を心配しながら、自らの死と向き合う女性のきめ細かい演技に感動しました。

年を重ねたこの名優二人を見に行くだけでも価値あり。

この二人に絡む合唱団の音楽教師の描き方もよくて、なんていうか、映画に安定感があります。最後のテレンスの歌声に涙しました。一緒に年をとってきました。若い諸君、それもなかなか悪くはありませんよ。(女房)

★次週6日(火)から「夏の一箱古本市」です。続々と荷物到着しています。今回は、かなりいい本があります。ご期待を!!

 

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以前、雑誌でアメリカの都会派小説の特集をやっていて、読みました。作家は忘れましたが、冬のNYを舞台にしたミュージカル俳優の心の葛藤を描いた短篇でした。決して明るい話ではないのに、読んだ後、豊穣な気分にさせてくれました。

先日「25年目の弦楽四十奏」という映画を観た時に、同じような感じを得ました。長年にわたり人気のカルテットのリーダー的存在のチェリストは、自身がパーキンソン病であることを知り、引退を表明します。そこから、メンバー同士の秘めていた感情、恨みや怒りが徐々に表面に浮き出てきます。演奏会のシーンに始まり、同じ演奏会に戻る作り方といい、何気に挿入されるNYの冬景色といい、素敵な小説を読んでいる気分です。

チェリストを演じるは、クリストファー・ウォーケン。「グリニッジ・ビッレジの青春」、「ディアハンター」等、我が青春の日々に強烈な印象を与えた役者が、年齢を重ね、こんな役柄へ挑戦をして、相変わらずの鋭い視線に出会うと、一緒に年をとって来たなぁ〜と感慨深いものがあります。

メンバーの夫婦の亀裂、あるいは第一バイオリン奏者と、その夫婦の娘との関係等、これもそう明るくはないストーリーが進行していきますが、大げさにならず、むしろ地味に展開します。あっと驚くようなどんでん返しはありませんが、バラバラになりかけた四人の思いが、ラストでさり気なく(これがこの映画に最も優れた演出だと思います)見せます。

映画の後半、ステージで演奏されるベートーベンの「弦楽四重奏曲14番」の凄まじいエネルギー。しっかりと席に座っていないと吹き飛ばされんばかりの勢いです。ネタばれになるので詳しく語れませんが、ある事があって演奏会が中断、その後再開した時の最初のチェロの音の鬼気迫ること。ここは見逃してはいけません。

とても美味しいお酒を頂いた時のように、「ごちそうさま」と言いたい佳作でした。でも、劇場内ガラガラなんで早く終わるかも…..。

蛇足ながら、チェリストを描いた短篇小説「チェリスト」を含めたカズオ・イシグロの「夜想曲集」(早川書房700円)は音楽短篇が収録されています。

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今日は祇園祭宵山です。あの人ごみに向かうなんて、まっぴらごめんと思いつつ、なんとなくお囃子が聞こえてくるとムズムズしてきます。明日の鉾巡行は、店の前にでると、かなり先の方で鉾がビルの谷間からゆっくりと移動しているのが見えてきます。なんとなく不思議な光景です。

祇園祭で思い出すのは、58年制作、今井正監督の「夜の鼓」。原作は近松門左衛門で、お得意の姦通ものです。若き日の三国連太郎扮する武士と有馬稲子演じる美貌の妻。そして、その妻と関係を持つ京都から来た小鼓の師匠に森雅之という豪華メンバーです。映画はラスト、鉾巡行で賑わう京の街角で、寝取られた夫に惨殺される小鼓の師匠の断末魔の声と、コンコンチキチンの音で終わります。あの音色をこんな風に使うなんて、と驚かされました。

ところで、この映画はケレンに走らずに、丹念に語られていきます。実証主義的です。そういえば最近、題材が題材だけにケレンに走りそうなテーマの小説を、やはり丹念に描いてみせた作品に出会いました。小野不由美「残穢」(新潮社900円)です。

小野不由美は大谷大学仏教科卒、京都在住の作家です。1992年からスタートしたファンタジーの超大作「十二国記」を一時溺愛しました。(まだ完結していないはず?)血湧き肉踊るファンタジーの大きな物語。おそらく、「指輪物語」に匹敵すると思いますが、映画化は不可能でしょうね。

その彼女の「残穢」。

「家の中に誰かいるんです。着物を引きずる音が聞こえたり、音がしたりするんです」

という怪談話。もう、ハッタリかまして、読者を「キャー!」と言わせばイッチョ上がりですが、違うんですね、これが。

その物の怪が出るマンションの立っている土地と、そこに住んでいた多くの家族の歴史を遡ってゆくのです。戦後期、高度成長期、バブル期、その時代の波の中で土地と家族という生き物の浮き沈みを丹念に描いていきます。狂言回しの役で、京都在住の作家が物語を引っ張ります。第26回山本周五郎受賞作品に相応しい重厚な小説です。全500ページ。悪寒を感じながら、夜中にお読みください。畳の擦る物音が聞こえてきたら、貴方のお住まいの土地にも、あぁぁ………….。

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二度目の映画化になった「華麗なるギャッツビー」を観てきました。

最初の映画の主演は、まだ皺のない、ツルツルのお顔のロバート・レッドフォードでした。バルコニーに夜会服で立つシーンやら、愛するディジーのために、高級なシャツをこれでもかこれでもかと投げるシーンとか、多少は覚えていますが、いい映画だったかどうかは、忘れました。(写真は最初の映画のポスター)

S・フィツジェラルドの原作も当時読んだ記憶はあるのですが、ず〜っと好きだったディジーのために、ここまでするか??という疑問符だらけの小説だったとしか・・・。店には角川版の「華麗なるギャッツビー」(200円)在庫あります。

今回の映画は監督にバズ・ラーマン。「ロミオとジュリエット」をシェークスピアの台詞のまま現代に置き換えてロック、ポップスの名曲で一気に語り尽くすという芸当をみせ、「ムーラン・ルージュ」ではベルエポックの時代のパリを忠実に再現しながら、やはり昨今のヒット曲で、スピーディーにたたみ掛けた才人です。だから、期待十分。

いや〜面白かった。原作通り、第一次大戦後のバブルに湧くNY。そこに流れる曲は、ジャズではなく、ラップにハウス系ダンスビート。かったるそうな心理描写は、オールドカーが猛烈なスピードで疾走するシーンで描ききる荒技。ギャッツビー邸で行われるパーティシーンはもうF・フェリーニの映画に出て来そうな退廃感を漂わせます。

かと思えば、ラスト近く、ギャッツビーとディジー達がぶつかり合う室内シーンでは、舞台劇さながらの緊張感で押しまくります。主演のディカプリオの確かな演技力が素晴らしい。(レッドフォードは下手だった?)

フィツジェラルドを読まなくても、青年ギャッツビーの憧れと自信と挫折が見事に描かれているので見応えあります。古典でもなんでも、あっという間にカッコいい映像にしてやるぜ、と鼻高々なラーマン監督の手腕をお楽しみください。

蛇足ながら、ラーマンは2004年にはニコール・キッドマンを起用して、シヤネルのコマーシャルを製作。このCMは120秒という前代未聞の長さで、250人のエキストラと3000万ドル相当の宝石を使ったとか。観てみたいものです。

 

岩波ホール支配人だった高野悦子の本を読みました。「岩波ホールと<映画の仲間>」(岩波書店1400円)です。

1929年満州生まれ。父親は満州鉄道の技師。姉は岩波書店社長の岩波雄二郎の妻、淳子です。

東宝文芸部を経て、58年パリ高等映画学院監督コースに留学。紆余曲折の後、68年、岩波ホール創立と同時に総支配人に就任して、74年、名作映画上映運動「エキプ・ド・シネマ」を川喜かしこと主宰します。小さなホールの支配人からスタートし、欧米以外の国々の映画を買い付け、上映し、女性映画人を育て、支援した一生を綴った本です。

淡々とした文章で書かれてありますが、よくもまぁ過労で死ななかってですねぇ〜と感じる程の怒濤の人生です。たかが、映画を上映するだけのお話、と思われるかもしれませんが、海外を走り回り、煩雑な事務手続きをこなして、輸入して、販促活動で飛び回り、上映するまでがどれだけ困難なことか。しかも、大手映画会社の作品ではないだけに余計に大変です。

ここで紹介される映画のことなんて知らなくても、彼女が戦後の混乱に観たアメリカ映画「キューリー夫人」の影響を受けて自立し、映画製作に関わる女性達との連帯を深めてゆく、一人の人間の物語として読み応えあります。

『「すべての女性運動は平和運動をもって帰結する」というスウェーデンの女性思想家エレン・ケイの発言に、私は女性映画祭も平和運動なのだと、改めてその存在意義に気づいた。』

という言葉通り、2013年2月にこの世を去るまで、映画大国以外の作品を通して、「エキプ・ド・シネマ」運動の存在と映画の意義を世に知らしめるためにひたむきに突っ走った女性でした。

因みにここ2〜3年で私が観た、欧米以外のお薦めの映画です。

●「モンガに散る」2012年(台湾)ニウ・チェンザー

●「再会の食卓」2010年(台湾)ワン・チュアンアン

●「ブンミおじさんの森」2010年(タイ)アピチャートポン・ウィーラセータクン

●「蜜蜂」2010年(トルコ)セミフ・カプランオール

●「ベンダビリリ」2010年(コンゴ)ルノー・バレ&フローラン・ドラテュライ

 

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遅まきながら、アン・リー監督の「ライフ・オブ・パイ      トラと漂流した227日」をDVDで観ました。

インドで動物園を経営していた家族が、経営難から動物と一緒にアメリカへ。ところが、途中で嵐に出会い、船は沈没、生き残ったのは主人公のパイ少年と、獰猛なトラのリチャード・パーカー。(この名前については映画のHPの「シンクロニシティ」という項目に、興味深い記載があります)

「アバター」以来の壮大な映像美とか評価されていますが、いや、お見事!の一言につきます。原作は2001年に発表されたヤン・マーテルの「パイの物語」。CGやデジタルテクノロジーってこういう風に駆使する手段だったんですね。トラと200日あまり漂流する映画なんて、そう簡単には作れません。

しかし、この映画の真骨頂はCGではありません。ラスト20分の、救助された少年の語るストーリーです。未見の方のために詳しくは言いませんが、「物語」って何?というテーマが凝縮されています。同じようなテーマでは、ターセム・シン「希望の王国」、さらに古くはウェイン・ワン「スモーク」(原作はポール・オースター)でも提示されています。主人公の語る物語は真実なのか、虚構なのか。いや、物語における真実って何だろう?という、映画や小説の大きなテーマにまで関わってきます。そして、自分の物語を、それが本当であれ、嘘であれ、他人に伝えて、伝えられた側の頭の中で見事に映像化される面白さを伝えています。

この三本の映画、どれも主人公が第三者に語るという手法で進行します。もちろん、その第三者には観客自身が含まれています。あぁ〜巧い語り口だなぁと思うと、それだけで映画を観る楽しみが倍増します。上方落語の「ちょっと、こっちおはいり」という台詞からするすると落語の世界に入っていくとの似ています。そう言えばここに上げた映画すべて、オチも捻ってあって、上等の落語を堪能した気分です。

「ライフ・オブ・パイ」は、トラとの漂流記ですが、最初はここにオラウータン、シマウマ、ハイエナが同乗して、一人と四匹の命がボート上に存在します。そして、この「四」がラストに巧みに絡んできます。巧い演出でした。

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NHK朝ドラ「あまちゃん」を欠かさず見ています。宮藤官九郎の脚本がよく出来ていて、元アイドルの小泉今日子に、アイドルになれずに故郷に戻って来た女性を演じさせているところなど絶妙です。

松田聖子がアイドルの女王として君臨していた時代。私は、小泉今日子、斉藤由貴、中山美穂等のアイドルに出会いました。いや、朝ドラに出てくるような芸能プロで働いていたわけではありません。レコード店勤務時代、年に二度程レコード店と、新人アイドル、演歌歌手が出会うコンベンションがあってそこでお会いしました。透き通るように美しかったのは斉藤由貴、逆に垢抜けていなかったのが中山美穂(多分、売れないアイドルと思っていたら、見事外れました)、そして一番可愛かったのが、ミニスカート姿の小泉今日子ことキョンキョンでした。

皆さん、アイドル路線まっしぐらでしたが、当時から新しい道を模索していたのはキョンキョンだったように思います。例えば、85年発表の「koizumi in the house」は、一言でいえば、アイドル初のコラージュミュージックへの挑戦でした。ドラム、ベース、キーボード、ギター、ストリングス、ホーンの各サウンドを別個に録音し、、膨大なボーカルトラックを重ねていき、重いビートの効いたクールなダンス系ミュージックを作り上げました。ジャケットはこちら。アイドルぽくありませんね。(CDは近日入荷、店でガンガン鳴らします)

その二年前に、彼女は 崔洋一監督初監督、内田裕也主演の「十階のモスキート」というアート系映画で映画デビュー。アイドル映画には目もくれずに、若手監督の意欲作に出演して存在感を増して行きます。最近でも「空中庭園」、「グーグーだって猫である」、「毎日かあさん」と主演作品でその実力を遺憾なく発揮しています。

中でも驚いたのは、帯広のばんえい競馬に生きる人達を描いた「雪に願う事」(06年)で、ちょっとくたびれた中年女性を演じた時でした。あの、ミニスカートの女の子がなぁ〜、と感慨深いものがありました。

ところで、レコード店員時代、私のアイドルは薬師丸ひろ子姫でした。某オーディオメーカーのCMでハマりました。残念ながら、彼女の”握手会”には参加できませんでした。しかし、「あまちゃん」では、今のところポスター写真だけですが出演しているので後半では、本物が登場することを期待しつつ、毎朝8時、TVをつけることにしています。

 

 

 

 

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大学時代、映画館で「男はつらいよ」を観た時、設定のバカバカしさと、日本的なペーソスと全然乾いていない笑いにヘキエキして、途中で席を立ちました。それ以降、一切観ていませんでした。あんなもん、時間の無駄やと。

しかし、歳をとるっていうのは良いことですね。数年前BSで寅さん全作品放映していたのを、なんとほとんど全て観てしまいました。どうしようもないダメ男は、上方歌舞伎や古典落語に多数登場します。しかし、寅さんはダメ男でありながら、極めてダンディだったんですね。あ、こりゃ偉大な作品!だとコロッと180度転換しました。先日、シリーズの中でも傑作と言われる「寅次郎忘れな草」を再度観て驚愕しました。

例えばこんなシーン。寅さんがマドンナの下宿にやってくると、そこは、場末の、汚い木造アパート。電気もついていない暗い階段で立ち止まる寅さん。遠くからは子供の泣き声。「自転車泥棒」以来、都市の貧困階層を描いて来たイタリアの「ネオ・リアリズム」を彷彿とさせます。例えば、ピエトロ・ジェルミ監督の「鉄道員」みたいな世界。苦しい生活と悲哀が微妙にブレンドされていました。もちろん、山田洋次監督は「故郷」、「家族」等で時代から取り残される家族の姿をドキュメント的に描いた人だけに、ネオ・リアリズム的作品は作れます。しかし、それまで寅さんの明るい世界だったのに、たったワンカットで、裏道の世界を象徴的に描きました。

さらに、凄いのはその次のカットです。マドンナの部屋に入った寅さんは、その部屋の荒れ具合に彼女の人生を理解するのです。生活の臭いのない、荒れ放題の部屋は、暗澹たる気分にさせますが、さらに追い打ちをかけるように、カメラはそのアパートの屋上で遊ぶ子供と母の笑い顔を捉えます。それを見た寅さんの顔。幾重にも重なった複雑な深い感情表現が際立つ、渥美清の名演です。単純に女性にすぐふられる男の笑い話ではすみません。

もうこうなると、この映画、イタリア映画のようであり、あるいはフランス映画のように人生の哀愁と希望を描く作品でもあり、とてつもなくインターナショナルな映画にみえます。「男はつらいよ」は「人であることは、こんなにつらいことなのか」というタイトルが正確なのかもしれません。

蛇足ながら、私の映画鑑賞のスタイルは、もちろんストーリーを追っかけることが第一ですが、何気ないワンカットに、役者も、脚本家も、監督もが意図していない「思い」が立ち表れる瞬間を探すことです。だから、好きな映画は二回、三回と観ます。

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ダスティン・ホフマン初監督作品「カルテット」を観てきました。えっ、これ初監督なの??と洗練された手腕に驚かされます。

お話は「引退したクラシック界の演奏者たちの、優雅な老後生活」ですが、もう全くスキのない演出です。これ以上ダラダラ続けたら退屈する、という瀬戸際でエンディングに持ち込む手際良さで、とてもいい気分にさせてくれました。

イーストウッドを筆頭に、俳優が監督すると、とても役者を素敵に見せてくれます。演技をする者に対する信頼でしょうか。最初のシーンから、もうエンジン全開です。そして彼らは、バストショット(胸から上)や、アップショットで出演者を捉えることが多いようですが、この映画もそう。彼、彼女たちの皺一本一本までフィルムに焼き付けることで、彼らの生きて来た時間、人生がくっきり浮かび上がります。主演の名優マギー・スミスの後ろ姿の全身を捉えたショットから、アップに切り替わるたったツーショットで、見事にこの女性の孤独を描いています。

また、俳優出身の監督は、さらに古典的とも言えるモンタージュ技法に忠実です。ご存知のようにモンタージュ技法は、例えば、よだれをたらした男の顔と、ステーキのお皿の二つのカットで、『腹を空かした男』を表現する手法です。イーストウッドしかり、レッドフォードしかり、ロバート・デ・ニーロしかり。だからCGも不要だし、ひたすら、役者を撮ることで、多くの事を語ります。ダスティン・ホフマンもそんな一人でした。

ダスティン・ホフマンは元々、ミュージシャン志望だそうです。この映画でも、実際に出演しているミュージシャンへのリスペクトと愛を忘れません。エンディング、最近の映画では最もチャーミングだと思いました。こんなに愛情溢れるエンディングはめったにありません。

 

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本日より「映画が映画だった時代への憧憬」が始まりました。北岡広子さんのシネマ、ジャズをテーマにした銅版画に、店主が集めたジャズ、映画に関する本やCDをぶつけてみました。

シネマの方は、フランスの女優ジャンヌ・モローや、映画「男と女」の名シーンを版画にした作品等が並びました。一方ジャズは、マイルス、コルトレーン、エバンスらのトップミュージシャンからインスパイアされた版画作品が並んでいます。

わたくし、店主の方からは古今東西の映画本、サントラCD、LP、映画パンフレット、チラシなどを並べてみました。LPは「男と女」、「ロシュフォールの恋人たち」、「死刑台のエレベーター」などの秀逸なデザインのものを展示即売。

この展示会につけた「映画が映画だった時代」というタイトルにはちょっと思いをこめました。3Dもなければ、CGもない、いわば映画黄金の時代に、新鮮な映像表現に挑んだ映画作家たち。フランスではヌーベルバーグ、アメリカではニューシネマのムーブメントの中、既存の映画をぶち壊そうとして、徹底的にシナリオを練り上げ、完璧な演技を演出する世代の作品がシノギを削った時代です。幸せな時を映画館で過ごした我ら二人のコラボをお楽しみ頂けたらと思っています。

ところで、昨晩TVのBSで「ブリット」を放映していました。もう何度観たことか。結婚してからも女房と5〜6回は観ていて、「なんで、こんなに面白いんだろう」と二人で話していました。完璧なシナリオ、究極のクールな演出で、主演のスティーブ・マックィーンという存在を使い切った映画だからこそでしょう。役者に託す部分が多いというのは、少し時間がゆったりしないとなかなかうまくいきません。そういう映画が今は少なくなった気がします。それに、有名なカーチェイスシーンにおいて、音楽なし、殺し屋の台詞なしなんて演出は、最近のハリウッドではあまりお目にかかれません。インターネット普及以前の通信手段が電話とテレックスというのも味があります。情報の速度が増すと、演出もそれだけ忙しくなるのは仕方ないことかもしれません。

 

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