岩波ホール支配人だった高野悦子の本を読みました。「岩波ホールと<映画の仲間>」(岩波書店1400円)です。

1929年満州生まれ。父親は満州鉄道の技師。姉は岩波書店社長の岩波雄二郎の妻、淳子です。

東宝文芸部を経て、58年パリ高等映画学院監督コースに留学。紆余曲折の後、68年、岩波ホール創立と同時に総支配人に就任して、74年、名作映画上映運動「エキプ・ド・シネマ」を川喜かしこと主宰します。小さなホールの支配人からスタートし、欧米以外の国々の映画を買い付け、上映し、女性映画人を育て、支援した一生を綴った本です。

淡々とした文章で書かれてありますが、よくもまぁ過労で死ななかってですねぇ〜と感じる程の怒濤の人生です。たかが、映画を上映するだけのお話、と思われるかもしれませんが、海外を走り回り、煩雑な事務手続きをこなして、輸入して、販促活動で飛び回り、上映するまでがどれだけ困難なことか。しかも、大手映画会社の作品ではないだけに余計に大変です。

ここで紹介される映画のことなんて知らなくても、彼女が戦後の混乱に観たアメリカ映画「キューリー夫人」の影響を受けて自立し、映画製作に関わる女性達との連帯を深めてゆく、一人の人間の物語として読み応えあります。

『「すべての女性運動は平和運動をもって帰結する」というスウェーデンの女性思想家エレン・ケイの発言に、私は女性映画祭も平和運動なのだと、改めてその存在意義に気づいた。』

という言葉通り、2013年2月にこの世を去るまで、映画大国以外の作品を通して、「エキプ・ド・シネマ」運動の存在と映画の意義を世に知らしめるためにひたむきに突っ走った女性でした。

因みにここ2〜3年で私が観た、欧米以外のお薦めの映画です。

●「モンガに散る」2012年(台湾)ニウ・チェンザー

●「再会の食卓」2010年(台湾)ワン・チュアンアン

●「ブンミおじさんの森」2010年(タイ)アピチャートポン・ウィーラセータクン

●「蜜蜂」2010年(トルコ)セミフ・カプランオール

●「ベンダビリリ」2010年(コンゴ)ルノー・バレ&フローラン・ドラテュライ

 

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遅まきながら、アン・リー監督の「ライフ・オブ・パイ      トラと漂流した227日」をDVDで観ました。

インドで動物園を経営していた家族が、経営難から動物と一緒にアメリカへ。ところが、途中で嵐に出会い、船は沈没、生き残ったのは主人公のパイ少年と、獰猛なトラのリチャード・パーカー。(この名前については映画のHPの「シンクロニシティ」という項目に、興味深い記載があります)

「アバター」以来の壮大な映像美とか評価されていますが、いや、お見事!の一言につきます。原作は2001年に発表されたヤン・マーテルの「パイの物語」。CGやデジタルテクノロジーってこういう風に駆使する手段だったんですね。トラと200日あまり漂流する映画なんて、そう簡単には作れません。

しかし、この映画の真骨頂はCGではありません。ラスト20分の、救助された少年の語るストーリーです。未見の方のために詳しくは言いませんが、「物語」って何?というテーマが凝縮されています。同じようなテーマでは、ターセム・シン「希望の王国」、さらに古くはウェイン・ワン「スモーク」(原作はポール・オースター)でも提示されています。主人公の語る物語は真実なのか、虚構なのか。いや、物語における真実って何だろう?という、映画や小説の大きなテーマにまで関わってきます。そして、自分の物語を、それが本当であれ、嘘であれ、他人に伝えて、伝えられた側の頭の中で見事に映像化される面白さを伝えています。

この三本の映画、どれも主人公が第三者に語るという手法で進行します。もちろん、その第三者には観客自身が含まれています。あぁ〜巧い語り口だなぁと思うと、それだけで映画を観る楽しみが倍増します。上方落語の「ちょっと、こっちおはいり」という台詞からするすると落語の世界に入っていくとの似ています。そう言えばここに上げた映画すべて、オチも捻ってあって、上等の落語を堪能した気分です。

「ライフ・オブ・パイ」は、トラとの漂流記ですが、最初はここにオラウータン、シマウマ、ハイエナが同乗して、一人と四匹の命がボート上に存在します。そして、この「四」がラストに巧みに絡んできます。巧い演出でした。

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NHK朝ドラ「あまちゃん」を欠かさず見ています。宮藤官九郎の脚本がよく出来ていて、元アイドルの小泉今日子に、アイドルになれずに故郷に戻って来た女性を演じさせているところなど絶妙です。

松田聖子がアイドルの女王として君臨していた時代。私は、小泉今日子、斉藤由貴、中山美穂等のアイドルに出会いました。いや、朝ドラに出てくるような芸能プロで働いていたわけではありません。レコード店勤務時代、年に二度程レコード店と、新人アイドル、演歌歌手が出会うコンベンションがあってそこでお会いしました。透き通るように美しかったのは斉藤由貴、逆に垢抜けていなかったのが中山美穂(多分、売れないアイドルと思っていたら、見事外れました)、そして一番可愛かったのが、ミニスカート姿の小泉今日子ことキョンキョンでした。

皆さん、アイドル路線まっしぐらでしたが、当時から新しい道を模索していたのはキョンキョンだったように思います。例えば、85年発表の「koizumi in the house」は、一言でいえば、アイドル初のコラージュミュージックへの挑戦でした。ドラム、ベース、キーボード、ギター、ストリングス、ホーンの各サウンドを別個に録音し、、膨大なボーカルトラックを重ねていき、重いビートの効いたクールなダンス系ミュージックを作り上げました。ジャケットはこちら。アイドルぽくありませんね。(CDは近日入荷、店でガンガン鳴らします)

その二年前に、彼女は 崔洋一監督初監督、内田裕也主演の「十階のモスキート」というアート系映画で映画デビュー。アイドル映画には目もくれずに、若手監督の意欲作に出演して存在感を増して行きます。最近でも「空中庭園」、「グーグーだって猫である」、「毎日かあさん」と主演作品でその実力を遺憾なく発揮しています。

中でも驚いたのは、帯広のばんえい競馬に生きる人達を描いた「雪に願う事」(06年)で、ちょっとくたびれた中年女性を演じた時でした。あの、ミニスカートの女の子がなぁ〜、と感慨深いものがありました。

ところで、レコード店員時代、私のアイドルは薬師丸ひろ子姫でした。某オーディオメーカーのCMでハマりました。残念ながら、彼女の”握手会”には参加できませんでした。しかし、「あまちゃん」では、今のところポスター写真だけですが出演しているので後半では、本物が登場することを期待しつつ、毎朝8時、TVをつけることにしています。

 

 

 

 

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大学時代、映画館で「男はつらいよ」を観た時、設定のバカバカしさと、日本的なペーソスと全然乾いていない笑いにヘキエキして、途中で席を立ちました。それ以降、一切観ていませんでした。あんなもん、時間の無駄やと。

しかし、歳をとるっていうのは良いことですね。数年前BSで寅さん全作品放映していたのを、なんとほとんど全て観てしまいました。どうしようもないダメ男は、上方歌舞伎や古典落語に多数登場します。しかし、寅さんはダメ男でありながら、極めてダンディだったんですね。あ、こりゃ偉大な作品!だとコロッと180度転換しました。先日、シリーズの中でも傑作と言われる「寅次郎忘れな草」を再度観て驚愕しました。

例えばこんなシーン。寅さんがマドンナの下宿にやってくると、そこは、場末の、汚い木造アパート。電気もついていない暗い階段で立ち止まる寅さん。遠くからは子供の泣き声。「自転車泥棒」以来、都市の貧困階層を描いて来たイタリアの「ネオ・リアリズム」を彷彿とさせます。例えば、ピエトロ・ジェルミ監督の「鉄道員」みたいな世界。苦しい生活と悲哀が微妙にブレンドされていました。もちろん、山田洋次監督は「故郷」、「家族」等で時代から取り残される家族の姿をドキュメント的に描いた人だけに、ネオ・リアリズム的作品は作れます。しかし、それまで寅さんの明るい世界だったのに、たったワンカットで、裏道の世界を象徴的に描きました。

さらに、凄いのはその次のカットです。マドンナの部屋に入った寅さんは、その部屋の荒れ具合に彼女の人生を理解するのです。生活の臭いのない、荒れ放題の部屋は、暗澹たる気分にさせますが、さらに追い打ちをかけるように、カメラはそのアパートの屋上で遊ぶ子供と母の笑い顔を捉えます。それを見た寅さんの顔。幾重にも重なった複雑な深い感情表現が際立つ、渥美清の名演です。単純に女性にすぐふられる男の笑い話ではすみません。

もうこうなると、この映画、イタリア映画のようであり、あるいはフランス映画のように人生の哀愁と希望を描く作品でもあり、とてつもなくインターナショナルな映画にみえます。「男はつらいよ」は「人であることは、こんなにつらいことなのか」というタイトルが正確なのかもしれません。

蛇足ながら、私の映画鑑賞のスタイルは、もちろんストーリーを追っかけることが第一ですが、何気ないワンカットに、役者も、脚本家も、監督もが意図していない「思い」が立ち表れる瞬間を探すことです。だから、好きな映画は二回、三回と観ます。

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ダスティン・ホフマン初監督作品「カルテット」を観てきました。えっ、これ初監督なの??と洗練された手腕に驚かされます。

お話は「引退したクラシック界の演奏者たちの、優雅な老後生活」ですが、もう全くスキのない演出です。これ以上ダラダラ続けたら退屈する、という瀬戸際でエンディングに持ち込む手際良さで、とてもいい気分にさせてくれました。

イーストウッドを筆頭に、俳優が監督すると、とても役者を素敵に見せてくれます。演技をする者に対する信頼でしょうか。最初のシーンから、もうエンジン全開です。そして彼らは、バストショット(胸から上)や、アップショットで出演者を捉えることが多いようですが、この映画もそう。彼、彼女たちの皺一本一本までフィルムに焼き付けることで、彼らの生きて来た時間、人生がくっきり浮かび上がります。主演の名優マギー・スミスの後ろ姿の全身を捉えたショットから、アップに切り替わるたったツーショットで、見事にこの女性の孤独を描いています。

また、俳優出身の監督は、さらに古典的とも言えるモンタージュ技法に忠実です。ご存知のようにモンタージュ技法は、例えば、よだれをたらした男の顔と、ステーキのお皿の二つのカットで、『腹を空かした男』を表現する手法です。イーストウッドしかり、レッドフォードしかり、ロバート・デ・ニーロしかり。だからCGも不要だし、ひたすら、役者を撮ることで、多くの事を語ります。ダスティン・ホフマンもそんな一人でした。

ダスティン・ホフマンは元々、ミュージシャン志望だそうです。この映画でも、実際に出演しているミュージシャンへのリスペクトと愛を忘れません。エンディング、最近の映画では最もチャーミングだと思いました。こんなに愛情溢れるエンディングはめったにありません。

 

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本日より「映画が映画だった時代への憧憬」が始まりました。北岡広子さんのシネマ、ジャズをテーマにした銅版画に、店主が集めたジャズ、映画に関する本やCDをぶつけてみました。

シネマの方は、フランスの女優ジャンヌ・モローや、映画「男と女」の名シーンを版画にした作品等が並びました。一方ジャズは、マイルス、コルトレーン、エバンスらのトップミュージシャンからインスパイアされた版画作品が並んでいます。

わたくし、店主の方からは古今東西の映画本、サントラCD、LP、映画パンフレット、チラシなどを並べてみました。LPは「男と女」、「ロシュフォールの恋人たち」、「死刑台のエレベーター」などの秀逸なデザインのものを展示即売。

この展示会につけた「映画が映画だった時代」というタイトルにはちょっと思いをこめました。3Dもなければ、CGもない、いわば映画黄金の時代に、新鮮な映像表現に挑んだ映画作家たち。フランスではヌーベルバーグ、アメリカではニューシネマのムーブメントの中、既存の映画をぶち壊そうとして、徹底的にシナリオを練り上げ、完璧な演技を演出する世代の作品がシノギを削った時代です。幸せな時を映画館で過ごした我ら二人のコラボをお楽しみ頂けたらと思っています。

ところで、昨晩TVのBSで「ブリット」を放映していました。もう何度観たことか。結婚してからも女房と5〜6回は観ていて、「なんで、こんなに面白いんだろう」と二人で話していました。完璧なシナリオ、究極のクールな演出で、主演のスティーブ・マックィーンという存在を使い切った映画だからこそでしょう。役者に託す部分が多いというのは、少し時間がゆったりしないとなかなかうまくいきません。そういう映画が今は少なくなった気がします。それに、有名なカーチェイスシーンにおいて、音楽なし、殺し屋の台詞なしなんて演出は、最近のハリウッドではあまりお目にかかれません。インターネット普及以前の通信手段が電話とテレックスというのも味があります。情報の速度が増すと、演出もそれだけ忙しくなるのは仕方ないことかもしれません。

 

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次週6月4日(火)〜16(日)「シネマに寄り添うあれこれ展」に当店店主も参加します。テーマは映画とJAZZ。

レンタルビデオのない、映画を観るには映画館に出向くしか方法のない時代。3D映画も登場しておらず、スタンダードサイズの画面で監督、役者達が悪戦苦闘して新しい映像表現を目指した、いわば「映画が映画らしかった時代」へのオマージュをメインにした企画展です。銅版画の北岡広子さんが、そんな時代の空気感を浮き彫りにさせる作品を展示されます。そして店は、その時代に書かれた貴重な映画本、映画のサントラCD,LPを展示即売いたします。

例えば、飯島正「今日のフランス映画」(52年)、「フランス映画史」(50年)、「フランス映画」(51年)、「世界の映画」(51年)、双葉十三郎「アメリカ映画」(51年)等々です。書かれたのが50年代初め。映画が芸術として、また娯楽として大きく羽ばたく時代を考証する貴重な文献です。映画史的な本だけではなく、ナサニエル・ベンチリー「ボギー」(晶文社1400円)、アントーニ・グロノヴィッツ「グレタ・ガルボ」(草思社900円)、マリアンヌ・グレイ「女優ジャンヌ・モロー」(日之出出版1900円)、スーザン・ストラスバーグ「女優志願」(晶文社600円)といた映画全盛時代の俳優の本や、多くの文人がご贔屓の男優を語る「風貌談」(文藝春秋700円)まで揃えました。

フランス映画で、私の生涯の5本は「ロシュフォールの恋人たち」、「男と女」、「仁義」、「鬼火」そして「冒険者たち」です。「ロシュフォールの恋人たち」、「男と女」はオリジナルフランス盤のサントラレコードも出します。ジャケットを飾っておくだけでも部屋のムードがグレードアップするかも。

ヨーロッパ映画より、アメリカ映画とおっしゃる方にもちゃんと用意してありますが、それは見てのお楽しみということにしておきましょう。

ちょっとノスタルジックで、セピアな雰囲気の展示会にお越し下さい。

 

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華道の草月流創始者、勅使河原蒼風の図録「戦後日本を駆け抜けた異色の前衛」(1000円)が入ってきました。ページ数300ページ、イサムノグチ、岡本太郎、滝口修造等一級の執筆陣、ふんだんに使用された作品写真、と、豪華です。蒼風のパワフルな前衛生け花運動の記録や、彫刻、絵画などを見ることができます。廃材となった鉄製部材を用いて彫刻にしか見えないオブジェはなかなか面白い作品群が並んでいます。さらには、息子で三代目家元勅使河原宏が、草月会館を拠点にした草月アートセンターの活動まで網羅して、この親子の前衛精神を見ることが出来ます。

草月アートセンターではジャズ、映画、舞踏等のイベントも頻繁に行われました。現代音楽の武満徹、作家の安部公房ら曲者達が出入りしており、現代音楽のジョン・ケージと若き日の黛敏郎の演奏会の写真も載っています。その写真で、ピアノの上に横たわっている女性の名前が小野洋子と記載されていますが、あのヨーコさん?

さて、こういった曲者のお友達同士が安部公房著「砂の女」(63年)を映像化。脚本は安部公房、音楽に武満徹、監督には勅使河原宏。不可能とされていた小説の見事な映像化。二年程前「京都文化博物館」で上映された時、再見しましたが、その実験精神の旺盛さに圧倒されました。因みに、本作はカンヌ映画審査特別賞作品です。

先日レンタルビデオで、勅使河原宏(監督)+武満徹(音楽)に赤瀬川原平がシナリオで参加して、を映画化した「利休」(89年、原作は野上 弥生子「秀吉と利休」)を見つけました。映画館で見た時は大学生でしたので、勅使河原の美意識についていけませんでしたが、今回見直して、こんな端正で美しい映画は滅多にないことを再認識しました。利休役に三国連太郎、秀吉に山崎努、信長に松本幸四郎、家康に中村吉右衛門、北政所に岸田今日子、大政所に北林谷栄という重厚な布陣。さらに若き坂東三津五郎(当時は八十助)や橋之助、観世栄夫など所作の美しい人達の立ち居振る舞いに圧倒されました。茶道それ自体、無駄のない美しい所作の連続ですが、それが全編通じて貫かれて、過度な説明はなく、利休という不世出のアーティストのパフォーマンスを描いています。ワンカット、ワンカットが研ぎ澄まされた美と、緊張感に満ちたアート映画を、大手の映画会社が製作していたんだ、と思うと当時の文化水準の高さが窺い知れます。

 

 

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三浦しをん著「舟を編む」の映画、やっと観てきました。

出版社辞書編纂部のマジメな青年が下宿へ帰ってきます。その下宿というのが、一昔前には多く存在していた、台所、トイレ共用木造のボロボロアパート。しかし、下宿人は彼だけ。廊下から、自分の部屋、果ては奥の部屋までずら〜〜〜〜〜っと本の山が並んで、しかもきちんと整理整頓されている。古めかしい下宿、蛍光灯、と見事にマッチしてこのワンカットだけで、絵になっています。こんな人の下宿なら一度は遊びに行きたい、と本好きはきっと思います。

この青年が勤務する辞書編纂部というのが、これまたレトロなビルの一室。もちろん辞書がずらりと並んでいます。文字に囲まれて、ひたすら編集作業する彼の机を見ているだけで、本好きは安心します。

新しい辞書編集がスタートします。時代は1995年。PCは普及していなくて、大活躍するのは校正用の赤鉛筆。そして、それから15年、辞書完成の時が近づきます。もちろん机の主役はPC。辞書完成までの足掛け十数年を映画は2時間半で、丁寧に、静かに、淡々と描いていきます。地味な素材を見事に映画化した監督は「川の底からこんにちは」「ハラがコレなんで」の石井裕也。

この映画は、辞書に関わった人達の一時代を描くとともに、映画ってこういうものではないか、ということを改めて語りかけてくれました。

微妙に室内を移動するカメラ、主人公の部屋の使い古した感じを浮き上がらせる美術、小道具、照明。俳優達の余白を残した台詞回しと所作。キャスティングがまた泣きたいほどピッタリはまっています。お金と時間をかけて、丁寧に丁寧に物語を紡いでゆくこと。同じ映像でもTVでは出来ない奥行きのある世界を作り上げてゆくこと。劇場で観てよかった、と思う作品でした。

ところで、三浦さんの本では、「あやつられ文楽鑑賞」(ポプラ社900円)が私は好きです。文楽ど素人の著者が、古典芸能にはまってゆく様を軽妙に描いた一冊です。いや、笑った、笑った。

 

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エマヌエーレ・クリアレーゼ(1965年ローマ生まれ)監督・脚本のイタリア映画「海と大陸」は衝撃的でした。

舞台は地中海の島。じっちゃんと細々と漁師をやる青年のお話です。始まってしばらくは、寂れる島の現状やら、頑固なじっちゃんと孫達とのぎくしゃくした関係やらが、細かく描かれます。かつてのイタリア映画お得意のネオリアリズムを彷彿とさせます。

さて、この島にアフリカ大陸からヨーロッパ大陸へと脱出する人達が出没します。じっちゃんと孫は洋上で遭遇し、あわや溺れる寸前の人達を救います。しかし、それが法律違反に問われてしまいます。つまり、洋上で不法移民に遭遇した時は、該当機関に連絡して勝手に接触してはならぬ、ということみたいです。じっちゃんは溺れかけている者は助けるという「海の掟」に従っただけなんですが。

そして、この一家は移民を匿うことになってしまいます。映画は、この辺りから緊張感が高まります。不法移民をめぐって対立する島の住民たちの苛立ちも描かれていきます。ある夜、青年は、女の子と夜のクルージングで出かけて、洋上で助けを求めて泳いでくる移民達に遭遇します。そこで、人間としてやってはいけない、しかしこんな状況に遭遇したら誰でもそうするだろうという残酷な仕打ちをします。

良心の呵責にくるしむ青年は、ラスト、匿っていた移民を助けるために暴発します。昨今のハリウッド映画なら心の傷みを乗り越えた青年の美談に仕立ててしまうところですが、この映画そうはいきません。良心の呵責、へん!そんなもん馬の糞以下じゃん、とこの青年を突き放し、冷徹なエンディングを迎えます。これハッピーエンドでも、涙のエンディングでもあほらし!ですから、監督は結末に苦労されたでしょう。

オープニングの綺麗な海中のシーンとラストの波しぶきの暗さが象徴的です

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