いやぁ〜とんでもないアニメ映画を観てしまいました。堀貴秀監督「 JUNKHEAD」(アップリング京都で上映中)。監督、原案、キャラクターデザイン、編集、撮影、照明、音楽、絵コンテ、造形、アニメーター、効果音、声優など、ほぼ全ての仕事を一人でやっています。監督の本職は、内装屋さんだそうです。倉庫にセットを組み立てて、キャラクターを一コマ一コマ、一人で動かして作ります。

ストップモーションアニメと言われるアニメ制作で、キャラを一歩動かしては、シャッターをカチャと押し、また動かしては、一コマだけシャッターを押すという気の遠くなるような作業を延々続ける。以前、8ミリ撮影機で、自宅にあったゴジラの人形を動かした数秒程度のアニメを作ったことがありますが、たったそれだけでもかなりの根気と緻密さが必要でした。

それを7年間続けて、1時間39分の映画に仕上げたのです。舞台は未来世紀。人間の生殖機能が退化した時代に、地下世界に生きる人工生命体には生殖が活発に行われている。その謎を探るために派遣された主人公は、地下世界に降りる最中に、撃ち落とされバラバラになりますが、地下にいた科学者に、ガラクタ同然の部品をつけてもらって再生します。(右の写真が再生した姿)

化け物に追いかけられたり、地下住人と交流を持ったりしながら冒険物語は進んでいきます。登場するキャラクターが、B級SF映画さながらの不気味さと、気持ち悪さ、残虐さ、下品さ、そしてユーモアを持ち合わせていて、ワクワクします。そして、彼らが、それはもう画面狭しとチョコマカと動き回るのです。怪物に追い回されるシーンなんか、「インディージョーンズ」の迫力です。

彼らが喋るセリフは全てオリジナル言語の人造語。もちろん、これも監督がアフレコしています。不思議な言葉のやりとり、キャラクターたちの予想できない動きで、生き生きと喜怒哀楽を表現してくれて、思わず頑張れ!と声をかけたくなるのです。

 

監督によると、本作が第1部で、第3部まであるとか。第1部の成績次第でスケールアップするとか。期待大です。三部作全部観ます!

 

 

モンゴルを舞台にしたKENTARO監督、柳楽優弥主演の「ターコイズの空の下で」(アップリング京都にて上映中)は、題名どおり空が目に染み入る映画。ファンタジーな展開なのに、細部で人間のプリミティブな生をぎゅっと描き出し、リアルな画面を作っています。

日本の大企業の社長の心配は、たった一人の後継である孫のタケシ。あまりにも定石どおりの放蕩息子が、ある時、社長であるおじいちゃんに、戦時中にモンゴルに残してきた娘を探しに行くよう命じられます。お供をするのは、怪しいモンゴル人アムラ。実は、馬泥棒でモンゴルでは指名手配されているような人物です。アムラは日本で、この社長の持ち馬を盗むというところから話が始まります。言葉も喋れなければ、モンゴルのことなんて全く知らない放蕩息子が、アムラとの付き合いを通して、大人へと成長してゆくという、よくある”放蕩息子の帰還”を描いたものではありますが、これは、モンゴルを舞台にしたというだけで成功です。

羊を放牧し、ゲルで生活する人たち。荒々しい、けれども時々美しさも垣間見せてくれるモンゴルの大自然が背景であることで、使い古された物語が新しい魅力を伴って再生されました。

ちょっと泥が付いただけで、日本から着てきた上等のスーツを一生懸命拭くタケシ(だいたいスーツに革靴姿ってのもどうかしてますが)。最初はアムラが引張ってくれていたけど、彼が逮捕されてしまい、一人ぼっちで誰もいない荒野に放り出されます。野犬に襲われ、追い払うために乗っていたバイクに火をつけます。しかし、もう移動手段がない。死ぬかと思った瞬間、現地の女性に助けられます。ここから、タケシは、今までとは違う目線で世界を見ることになります。動物も人間も、同じ次元でこの大地に生きている……。いつしか、タケシはスーツを脱ぎ捨てて、なんとか馬にも乗れるようになっていきます。

風景の素晴らしさはもちろん、ここに登場するモンゴルの人たちの表情がいいのです。どアップで撮られている男の顔も女の顔も、厳しい自然に揉まれて生きてきた強さに溢れ、惚れ惚れします。

こんな分厚い表情の人々に対抗するために、タケシのおじいちゃんには麿赤兒しかなかったのでしょう。言わずと知れた前衛舞踏家ですが、刻まれたシワと厳つい表情が立派です。

ターコイズブルーの空を実際にみてみたい、吹き抜ける風をぜひ肌で感じたい、と思いました。

東日本大震災の発生から原発事故、そして爆発までの5日間。政府官邸内では一体どういう動きがあったかを描いた佐藤太監督「太陽の蓋」は、改めてこの大きな事件を考えさせられる映画でした。

驚くべきことに、政治家が全員実名で登場します!日本映画では極めて稀なことでしょう。当時の首相菅直人、枝野官房長官、福山官房副長官など、あの時官邸に詰めていた政治家を役者がリアルに演じています。この映画で明らかにされるのは、原発事故当時、電力会社から情報がほとんど上がって来ず、政府の事故対応が後手後手に回ってしまったことです。

事故直後、総理大臣自らがヘリに乗って、福島第一原発の状態を見に行ったことがありました。最高指揮官が指揮所を離れるってどう?という批判が巻き起こりましたが、情報が上がらなければ総理は実情がわからなかったのですね。

当時の民主党系の議員が、実名で東電(映画では東日となっていて企業名は実名ではない。)とやり合うので、この政党寄りの映画であることは考慮しなければなりません。けれども、劇中こんなやり取りがありました。事故後1年ほどして、新聞記者からインタビューを受けた福山が、「あの時情報が上がっていたら」と悔しい心の中を見せるのですが、記者が、「では情報が上がっていたら、なんとかなりましたか」と逆に問いかけます。福山は、彼を凝視する相手に答えることができない。あの事故はコントロールできなかったのです。「原発は怪物なんですよ」と詰め寄る記者。

昨日から京都新聞で「福山ノート」という連載が始まりました。これは、あの大事故直後、政策決定に加わった彼が日々のことを書いていた記録です。そこに「一度暴れ出したら人間の力ではどうしようもない原発事故」と書かれていました。

経済発展のために、私たちがとんでもない怪物を生み出してしまった事実を、映画は突き付けます。

昨夜、偶然TV番組「サンドのお風呂いただきます」で、東北出身の漫才コンビのサンドウィッチマンが事故を起こした福島第一原発に入り、廃炉作業の現状を伝えるところを見ました。水素爆発があった原子炉建屋の廃炉作業や、停止中の原子炉格納容器まで見学し、廃炉への困難な現状が伝えられました。芸能人でここまで入った彼らの一方で、危険な場所に立ち入ることもなく、世界に向けて「福島はコントロールされています」などと、事実を曲げてオリンピック誘致に動いた前首相の言を思い出しましょう。

私たちは、危険極まりない時限爆弾とともに暮らしているのです。太陽に蓋ができないように、原子力発電の事故には蓋はできない。

 

デンマークの農村で、二十七歳のクリスは、叔父さんと一緒に伝統的な酪農を営んでいました。朝早くから牛の世話をし、ミルクを絞り、その間に簡素な食事を取り、牛の世話をし、買物に出向き、また食事を取り、眠りにつく。そんな日々を描いた映画「わたしの叔父さん」を、とてつもなく面白いと思いました。

この二人、ほとんど会話がありません。仲が悪いわけではなく、無駄口を叩く前に、ひたすら牛の世話をするのです。特に何も起こらない牛舎での仕事が続く毎日を、デンマークの新鋭フラレ・ピータゼンが奥深い映画に仕上げています。監督自身が生まれ育った南部ユトランドの農村で、監督自らがカメラを回して、現代では少なくなりつつある伝統的酪農家の姿を、静謐な(ほとんど音楽はありません)タッチで、美しい絵画のような、心に染み入る映像を作り上げます。

酪農自体は好きで、仕事には何ら問題もないクリスなのですが、老いていく叔父さんと、自分の将来のことを考えると、このままでいいのかという不安がよぎります。一度は諦めた獣医になる夢を思い出したり、教会で知り合った青年に食事を誘われたりと、少しづつ外の世界が忍び込んできます。叔父さんは、お前の人生だと後押しをするのですが…….。

クリスがコペンハーゲンに出かけた時、叔父さんが牧場で転び、入院を余儀なくされます。そして、その後、彼女が取った決断は……。最後にクリスがおじさんに送った微笑みは何を意味するのか?余韻を残すラストです。こんな静かな映画ですが、第32回東京映画祭グランプリ受賞作品!

ちなみに叔父さんを演じているのは、クリス役イェデ・スナゴーの本当の叔父さんで、役者ではないそうです。

 

 

 

西川美和監督の最新作「すばらしき世界」は、完璧な出来がりの人間ドラマでした。主演は役所広司。

闇社会で生き、挙句に殺人事件を引き起こし、刑務所に収監された三上が、刑期満了で出所するところから始まります。旭川刑務所から、身元引受人の弁護士の住む東京へやってきます。ある意味まっすぐなこの男が、どのようにして社会復帰してゆくのかを、私たち観客は固唾を飲んで見守ることになります。

直情的で、すぐに暴力をふるってしまう三上は、一方で他人の苦しみや不幸を見過ごせない正義感があります。目の前の揉め事に対して周りの人たちのように受け流すことができません。別れた妻が言うように、今の世の中では生きにくい人なのです。まして元暴力団、殺人者という経歴は、真っ当な暮らしを確保することが難しい。持病があって生活保護を受けるにも、すんなりと行かないのが現状です。

身元引受人夫婦のおかげで、やっと小さなアパートに住むことができ、職探しをするのですが、なかなか見つかりません。役所広司が、一度は社会から拒否された男の孤独や不安、もがきながら復帰しようとする刑務所から出てきたばかりの男を、それはもう巧みに演じ、三上がそこに生きているとしか見えません。役所広司は、西川監督たっての希望と聞きましたが、おそらく緻密に書き込まれた西川の脚本を、それ以上に具体化していたのではないか、と。役所広司が、積み上げてきたキャリアを、今、この年齢でしかできないという名演だと思います。泣けます。

映画は後半、なんとか希望の見えてきた三上を映し出すのですが、周囲の力と善意でなんとかなりました、とか、努力したけれどまた暴力の世界に戻って行きました、なんていう物語にこの監督がするはずがありません。

作家の角田光代は「正しいもまちがいもない。このようにしか生きられないひとりの人の姿が在る。その静かな重みに圧倒される」とコメントを寄せています。

ところでエンドクレジットの「協力」に、なんとミシマ社さんの名前がトップに出てきます。早速ミシマ社さんに聞いてみたところ、「みんなのミシマガジン」(2021年2月10日)に監督とのインタビューが載っていました。「佐木隆三の長編小説『身分帳』を原案とした本作、4年ほど前に企画が立ち上がった当初、ひょんなご縁からミシマ社も取材などに協力させていただきました。」とのことでした。

2年前、「新聞記者」という気骨のある映画を作った藤井直人の新作「ヤクザと家族」を観てきました。

最初に書いておきますと、ヤクザと人権というテーマについては、数年前に東海TVが制作して劇場公開されたドキュメンタリー映画「ヤクザと憲法」に、そして長い間ムショに居て出所してきたら時代が変わっていた男の悲しみという設定なら深作欣二「解散式」には、及ばない甘さを感じました。

しかし、ラスト、身内同然だった男にドスで腹を抉られながら痛みと苦しみに耐える主人公のヤクザを演じた綾野剛のアップには、涙が止まりませんでした。

主人公は、荒れた少年時代を送り、チンピラヤンキーの賢治。ひょんなことから、地元のヤクザの親分が手を差し伸べて、ヤクザ社会における父子の契りを結びます。ここから、彼は親分を父と思い、尊敬し、小さな組織ではありますが、頑張って仕事をこなしていきます。そして恋人もでき、それなりに充実した日々を送ります。しかし、抗争が起こり、先輩格の若頭の身代わりで殺人罪を被り、長い間刑務所暮らしを送ることになります。

十数年後に出所。その長かった時間を、持っていたガラ携帯から、スマホに持ち変えるワンカットで表現するところは見事です。街はすっかり変わり、元の仲間たちは足を洗い、カタギになるように努力しています。そして親分は、末期ガンで明日の命もわからない有様です。さらに暴対法で、ヤクザへの締め付けは厳しくなっています。そんな時代に適応できずに、どちらを向いていいのかわからない賢治。

物語は後半、なんとか自分の人生を取り戻そうと、昔の恋人とよりを戻そうとしたり、正業につこうとしたりしますが、結局、彼が戻ってきたことで彼の周りにいた人間は次々と不幸になっていきます。

「なんで戻ってきたんや」という罵声。そして食い込むドスの痛みの中で、自分の人生で失ったものの大きさに耐えきれず、涙が溢れてきます。

1999年、2005年、2019年。その三つの時代に渡り賢治の生と死を見つめます。

好々爺の親分が時々見せる凄みが光る館ひろし、賢治の恋人役の尾野真知子、必死になって一般人になろうとしていたヤクザの市原隼人、賢治のいきつけの居酒屋の女将の寺島しのぶと、役者たちの演技はどれもシブいです。

 

 

店長日誌でよく取り上げる(つまり私のご贔屓の)作家川本三郎が平成8年に出した本を紹介します。思い返せば、本職の映画評論の本はほとんど取り上げていませんでした。

この「君美わしく」(文藝春秋/古書1500円)は、昭和世代の方には、ああ懐かしい、あんな時代あったね、とノスタルジックな気分になれます。

「女優が母であり、姉であり、恋人だった時代の美神17人が著者に語った黄金時代の日本映画と香り高い人生」と帯の宣伝文句にありますが、確かに映画が娯楽の王道だった時代に銀幕でその魅力を振りまいてい女優の姿が再現されています。

高峰秀子、八千草薫、杉村春子、山本富士子、山田五十鈴、司葉子、若尾文子、香川京子、淡島千景など、17名の女優に著者が出会い、映画撮影時の話を聞き出しています。

各女優の聞き取りの後には「追記」があって、漏れた話題やら、エピソードが載せられています。例えば、八千草薫の章では、北杜夫が以前雑誌で八千草と対談した後、書かれたものが載っています。

「八千草さんの映画でいちばん懐かしいのは、日伊合作映画『蝶々夫人』であった。いったいに外人の蝶々夫人は声量はあるがデブで、ピンカートンも愛想をつかすのではないか。八千草さんの蝶々さんは、日本娘の良さを世界に示したもので、特筆に価する」

昭和52年の「女性セブン」の対談なので、仕方ないですが、今なら「デブで」なんて文章は出せないでしょう。

山本富士子へのインタビューでは、彼女の辛い体験、すなわち”五社協定事件”から話が始まります。昭和38年、彼女はそれまでの専属だった大映映画を離れ、フリーを宣言します。しかし、専属女優制度を守りたい映画会社は、協定を結び、彼女の映画出演の道を閉ざしたのです。結果、女優生命が絶たれる危機に直面したのです。役者が作品を選ぶのが当然の現代からは、想像もつきません。しかし、このころの黄金時代の女優たちは、大なり小なり映画会社との戦いを余儀なくされていました。

因みに山本富士子は大阪船場の綿花問屋のお嬢さんで、戦後、京都府立第一高等女学校(現、鴨折高校)で学んだ関西人です。小津安二郎の「彼岸花」では、浪花千栄子扮する母親と老舗の京都の旅館を切り盛りする役で、ネイティヴな京都弁でのやりとりが、とても印象的でした。

決して難しい役者論ではなく、著者が憧れた女優さんたちに会って、ドキドキしながら会話を楽しむ風な本なので、登場する彼女たちの映画が見たくなってきます。

一つ残念だったのは、京マチ子がなかったことです。著者のご贔屓ではなかったのかな……

 

 

こんなおじさんとは、ナザレ生まれのパレスチナ人監督エリア・スレイマンの新作「天国にちがいない」の主人公です。

不思議な味わいのある映画でした。監督自身が主演して、このおじさんを演じるのですが、ほとんど口を開きません。会話に障害がある訳ではないのですが、他の登場人物は普通に喋るのに、なぜか彼だけが喋りません。ちょっとはにかんだような、困ったような、微笑んでいるような視線でこちらを見ているのです。

おじさんがどんな人物なのか全くわかりません。え?そんな映画退屈じゃないの?と思いきや、彼が見つめるパレスチナの街角や、旅するパリ、NYの街並みに立っている姿を見ていると、不思議に心地よい感じになってきます。穏やかな春風を受けて、鶯の鳴き声なんかを聞いている時の穏やかさと似ているような。

で、このおじさんは何をしているかというと、実は映画監督なのです。だから、監督自身が新作の資金集めにパリ、NYの映画会社に赴くというのがストーリーなのです。でも、そんなことよりも、彼が見る風景を私たちが楽しめることが、この映画の面白さです。

スレイマン監督は現代のチャップリンと評価されているようですが、こんなシーンがありました。監督がPCで作業をしている時、窓から小鳥が入ってきて、彼の邪魔をします。それを何度か、遠ざけようとするのですが、何度やっても鳥はPC に乗ってきます。その繰り返しが、チャップリンのコメディーを思い出させました。なんともユーモアがあっていいのです。

資金が得られなくて故郷に戻ってきた彼が、クラブで踊り狂う若者たちを見つめるところで映画は終わります。まぁ、いいか、なんとかなるか〜、でもちょっとどこか寂しげな顔つきが、心に残る映画でした。

 

 

 

 

 

イ・ビョンホン主演の政治サスペンス映画「KCIA南山の部長たち」。1979年10月26日、大統領直属の諜報機関KCIAで権力を掌握する立場にいたキム部長が、パク大統領を暗殺しました。本来、大統領に忠誠を誓うべき機関の首たる者が、よりによって大統領を殺すに至る二人の確執を追っていきます。

パク・チョンヒは、1961年の軍事クーデターで権力を手中に収め、63年から79年まで大統領として君臨しました。彼の政策で、韓国は高度経済成長を実現、先進国の仲間入りを果たしましたが、その一方で民主化運動を弾圧していきました。キム部長は、パク大統領と共に軍事クーデターを起こした仲間でした。

映画では、この二人が共に革命を乗り越えてきたことを思わせるセリフが登場します。しかし、日本滞在中の金大中氏の拉致を KCIAに命じるなどの強硬な政策を進め、独裁者への道をひた走る中、パクとキムの間に亀裂が生まれ、またキム自身も新たな権力闘争打開策もないまま、暗殺という強硬手段へ突き進みます。

実在の事件を、どちらか一方に加担することなくクールに、しかもきっちりサスペンス映画として観客を飽きさせない、退屈させないという力技は昨今の韓国映画の強みです。主演の イ・ビョンホは若い頃、ピカピカの2枚目スターでしたが、すっかり渋くなって本作では冷静沈着なKCIAの部長を演じています。最後のパクの暗殺シーンは、かなりの迫力です。そして、エンディング。普通は静かな曲が鳴って余韻に浸るのですが、恐ろしくパーカッシブで交響曲みたいな壮大な曲が流れます。

最後まで飽きさせない第一級のサスペンス映画であり、韓国の現代史を考える機会にもなる作品でした。

韓国映画「チャンシルさんには福が多いね」(京都シネマで上映中)は、今年初めて劇場で見た映画です。(巣ごもりで、もっぱらDVDでしたので)

長年支えてきた監督が急死し、映画製作者としての仕事をなくした40代の女性プロデユーサーのチャンシル。映画製作一筋に頑張ってきて、気がつくと家族もなく、恋人もいない。仕事の依頼もなくなり、変わり者の老婆が大家をする家に一間を借りて住む羽目に。

監督は1976年生まれのキム・チョヒ。パリ第一大学で映画理論を専攻して、短編を何本か撮り、長編第一作が今回の作品です。ことさら気負うことなく、次の一歩を踏み出そうとする女性の姿を、正統派の演出とオフビートとをうまく使い分けながら描いていきます。

小津安二郎のファンなのか、タイトルバックは小津映画そっくりです。好きになり始めた男性と二人で居酒屋で飲んでいるシーンで、あ、小津映画だ!と思った瞬間、なんと「私たち小津映画みたいですね。」みたいな会話を交わすのです。これには笑ってしまいました。

でもこの映画は、そんな映画ファン向けのマニアックなものではありません。あくまでも、チャンシルという人生半ばを過ぎた女性が、どう幸せを見つけてゆくのかを描いています。決して、劇的な展開がある訳ではありません。折角できそうになった恋人ともダメになってしまい、落ち込む日々。振られたチャンシルが、バスの中で泣くのですが、そのシーンがとてもいいのです。演じたカン・マルグムが見事です。

まさに小津映画みたいに、カメラは無駄に動かさず、静かに彼女を見つめます。ラストは一歩を踏み出そうとするチャンシルで終わります。後味のとてもいい映画でした。新年早々福をもらった気分です。

また、才能のある若手の監督が出てきました。次回作が楽しみです。