アレクサンドル・コット監督「草原の実験」(ソビエト映画)を劇場で観なかったことが残念でなりません。(ディスクとして手元にあるので、今後何度も観られるとはいうものの)

映画の中には、観るものに徹底的に画面に集中しろと強要する映画が存在します。座っただけで、笑わせ、泣かせ、興奮させる映画とは一線を画す作品で、「アート系映画」等という意味不明なレッテルを貼られたりしています。

「草原の実験」もそんな一群の一つなのかもしれません。しかし、決して難しい映画ではありません。ロシアの大草原の一軒家に住む父と娘の日常、そして娘の恋を描いたお話です。ただし、全く台詞がないのです。僅かな音楽と、後は自然の音だけです。

映画は冒頭のワンカットから、ひたすら美しく、監督が精密に練り上げた映像を見せます。これを見ろ!集中しろ!という監督の声が聞こえてきそうなぐらいで迫ってきます。正直言うと、え!こんな状態で90分?と思ったのですが、不思議に作中の人物に成り代わって、自分で台詞を考えているぐらいのめり込みました。

誰もいない草原に、なんでこんなデブでハゲの不細工なとっつあんと、萌え度100%の美少女がいるんや!突然登場する可愛い少年はどこに住んどんねん!と関西弁でつっこみたくなりますが、一切の説明はありません。しかし、面白いのです。ただただ、食入るように観入りました。映像の見せ方は北野武、あるいはタルコフスキー映画に近いかもしれません。

タイトルに「実験」という語が入っていますが、極めて重要な言葉であることが、後半分かってきます。彼らが住んでいるこの地域は、核爆弾の実験場にされていたのです。実際にソ連は原爆開発のため、人が住んでいる事を隠して、実験を行った事実がこの映画の根本にあります。

映画は、初恋の相手と結ばれた二人の目の前で核爆弾が炸裂、二人の家も吹っ飛んでしまいます。背筋がゾッとるする光景なのですが、さらにゾッとするのはその後の夜明けのシーンです。「日は上り、日は沈む」という宇宙の法則を引っくり返します。美しい草原で始まった映画はラスト、人類の作り出した悪魔で幕を閉じます。

ぜひ、世界中の指導者達に見て欲しい作品ですが、拝金主義の新米大統領に、軽佻浮薄な言葉ばかりの首相には、理解できないかもしれません。悲しいことです。

 

★2月8日(水)〜19日(日)レティシア書房恒例「女子の古本市」を開催いたします。

東京、岐阜、神戸、大阪、滋賀、京都から20数店の女性店主がセレクトしたステキな本が、所狭しと並びます。ご来店お待ちしています。


 

 

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先日、久しぶりにロマン・ポランスキー監督の「マクベス」を再見しました。

完成したのは1971年。ポランスキーの妻のシャロン・テートが、1969年LA自宅でパーティーの最中、チャールズ・マンソン率いるカルト教団に襲われ惨殺された事件の後に監督した作品だけに、血みどろで、陰鬱な「マクベス」でした。テートはポランスキーの子を身ごもっており、残されたポランスキーの深い悲しみは他人には理解できるものではありません。

ポランスキー版「マクベス」ですが、詳細な論評は山良君美の「セルロイド・ロマンティシズム」(文遊社1300円)をご覧下さい。

で、私がオヤッ?と思ったのはラストです。「マクベス」は王を殺して領主になった男が、王の元の家来達に追い詰めれてゆくのがストーリーです。大体、マクベスが王殺しに走ったのは、森に住む魔女の「あなたは王になる」という甘い囁きを真に受けたからです。その魔女の住まいが、映画ではラストに再び登場して、なんとそこに復讐を成し遂げた王の息子が佇んでいるもです。あたかも、魔女に自分の未来を占ってもらうかの様です。王位を巡って血と暴力は繰り返されることを予告するかの様なエンディングでした。

ラストは原作ってどうだったかと思い、何十年かぶりに再読したところ、そんなシーンはありませんでした。即ち、ポランスキーはマクベスの原作を借りて、人間は永遠に惨劇を繰り返すことを象徴的に描こうとしたのでしょう。

もう一作。ハーマン・メルビルの代表作「白鯨」の再映画化、ロン・ハワード監督作品「白鯨との闘い」は、公開された時、CGを多様したリメイクで、如何にも当世のハリウッドだなぁ〜と観に行かなかったのですが、完全に間違いでした。

これは、再映画化ではありません。なんと、小説の作者のハーマン・メルビルが登場して、白鯨に捕鯨船を木っ端微塵にさせられた乗組員の唯一の生き残りに当時の模様をインタビューし、その話を元にメルビルは白鯨を書いたということを映画にしているのです。

その乗組員の話、特に船をバラバラにされた後は悲惨の極みです。生き残るために衰弱した乗組員の肉を喰ったのですから。メルビルが「白鯨」を書いた切っ掛けが、この映画のような経験であったのかはわかりませんが、あの読みづらく長い原作を、こんな解釈で甦らせた監督の手腕はさすがです。

この映画もラストがお見事です。インタビューを終えて乗組員と別れる時に、大地を掘ったら油が出て来た、という話があるが信じるかと、メルビルが乗組員に訊いたところ、そんなことあるわけない、と答えます。捕鯨の時代が終り、石油の時代へと世界が変わる一瞬を捉えたシーンで、古色蒼然たる捕鯨の時代から、一気に現代へと引き戻されます。原作の「白鯨」とは、全く違う新たな世界を作りあげた傑作でした。やはり、映画を先入観で判断するのは良くないですね。

★2016年の営業を終了させていただきます。今年も大変お世話になりました。お越し頂いたすべてのお客様に感謝したします。また、ギャラリーで個展をして頂いた作家の皆様、本当にステキな作品をありがとうございました。

新年は1月5日(木)より通常営業いたします。来年もよろしくお願いします。(店長&女房)

 

「テイク・ファイブ」という有名なジャズの曲があります。確か、煙草のCMでも使われたいたので、広く知られていると思います。

この曲をパキスタンの音楽家が、インドの楽器シタールとパーカッション、バイオリンのアンサンブルで演奏して、それがyoutubeで公開され、あれよあれよという間に広まり、本場NYのジャズミュージシャンと共演を果たすまでを描いた映画「ソング・オブ・ラフォール」。これ、ミュージシャンのサクセスストーリーと思うと、違うんですね。

「ロリウッド」と呼ばれるパキスタン映画産業の中心都市、ラホール。しかし、70年代後半から、時の政権がイスラム原理主義を強化し、音楽活動が制限され、90年代に台頭し始めたタリバンによる歌舞音曲の破壊によって音楽の世界は衰退の一途を辿ります。

そんな中、一部の音楽家たちが伝統音楽の継承、再生のために立上がります。往年の音楽職人たちを集めて楽団「サッチャル・ジャズ・アンサンブル」を結成し、シタールやタブラなどの古典楽器を用いて、ジャズに挑戦します。このままでは、パキスタンの長い伝統に培われた音楽は消えてします。その危機感が「テイク・ファイヴ」を全く新しい音楽として甦らせます。え?え?これがあの「テイク・ファイヴ?」と、最初は戸惑いましたが、びよろ〜ん、びよろ〜んと鳴り続けるシタールと、渋い音色のパーカッション、タブラのサウンドはなかなか気持ちいいのです。アジア的というか、哀愁溢れる異国情緒満載です。

映画は、直接的に今日のパキスタンの政治状況を描き出すことはしませんが、音楽が自由に演奏できないこの国の現状が見えてきます。NYのジャズミュージシャンに迎えられて、大劇場で本場のオーケストラと共演するのですが、俺たちのジャスをアジアの小国がやってるから、暖かく迎えてやろうみたいなアメリカ人の奢りも感じました。

しかし、NYの路上でゴミバケツを引っくり返して、パーッカションにして音楽を奏でるミュージシャンに、「俺たちと同じ貧しいミュージシャンだね」と彼らが拍手するところは素敵でした。

 

「全世界に知ってほしい。パキスタン人は芸術家でテロリストじゃないことを」

という台詞が染み入る映画でした。

監督はシャルミール・ウベード=チナーイ。パキスタン、カラチ生まれ。人権や女性問題を主題としたドキュメンタリーを多く手がけるドキュメンタリー監督、活動家。それらの短編ドキュメンタリーの数々は世界中の映画祭で賞を受けています。本作が初の長編ドキュメンタリー映画です。

 

 

 

★レティシア書房は12月29日〜2017年1月4日まで休業いたします。新年は1月5日から平常通り営業いたします。


内外で高い評価を受けている映画監督、是枝裕和。「そして父になる」「海街ダイアリー」「海よりもまだ深く」などご覧になった方も多いと思います。

是枝監督が、これまでの表現活動を語った「映画を撮りながら考えたこと」(ミシマ社2592円)は、面白い一冊でした。映画監督の本ですが、細かい技術論や、抽象的な映画表現論ではありません。彼はTVドキュメンタリーの出身なので、自分が育ったTV界に言及している部分が多く、日頃何気なく見ているTVのバックステージのことも描かれています。

今、恐ろしく保守化しているこの業界ですが、60〜70年代にかけては、かなりアナーキーな状況でした。是枝は、当時の少年の人気ナンバーワン番組だった「ウルトラマン」シリーズで脚本を書いていた佐々木守を取り上げていました。佐々木は、積極的に戦わないウルトラマンを書いています。「戦いの根拠になる正義がない」というスタンスでこのヒーローを描いていたのが、少年だった是枝には新鮮だったと回想しています。その後、TVは、新しい表現を求めない場所へとシフトしていきます。

吉田秋生のコミック「海街diary1/蝉時雨のやむ頃」を映画化した「海街diary」は素敵な作品でした。鎌倉に住む四人の女性の日々の細やかな感情にゆらめきを描いているのですが、彼が参考にしていたのは、何度も映画化された谷崎潤一郎の「細雪」だったことも、この本で知りました。

一人の表現者が、TV映像にしろ、劇場映画にしろ、業界の悪しき慣習や、体制に抗いながら己の世界を創り上げてゆく物語として、一気に読める本でした。

さて、是枝を育んだTV界に、創成期から今日に至るまで包括的に楽しく読ませてくれるのが、荒俣宏の「TV博物誌」(小学館900円)です。

1961年から69年まで続いた刑事ドラマ「七人の刑事」は、今日の刑事ものの原点とも言える作品ですが、この番組を演出した今野勉とのインタビューも掲載されていて、「月光仮面」「鉄腕アトム」等々を見ながら大きくなった僕たちテレビっ子には、興味のある話ばかりです。一方、大阪局で、東京発の番組とは全く世界の違う高視聴率を稼いだ「番頭はんと丁稚どん」「スチャラカ社員」「てなもんや三度笠」を製作した澤田隆治を通して、何故、関西発の番組はこうも異質なのかを論じています。「アタリ前田のクラッカー」なんて、ある年齢以上でないと全く通じないでしょうが、毎週楽しみでした。

 

 

メリル・ストリープ&ヒュー・グラント主演映画「マダム・フローレンス」はお薦めです。

個人的に、何を演じても上手すぎるメリルは苦手で、どちらかと言えば敬遠してきた女優さんですが、「マディソン郡の橋」辺りから、馴染めるようになりました。

1940年代のニューヨークに生きた社交界のトップレディ、フローレンス・フォスター・ジェンキンスは、自分が稀代の音痴である事を自覚せずに、歌手になるために努力していました。そして、とうとうカーネギーホール出演のチャンスをゲットしてしまいます。妻の音痴を知り尽くしている夫は、ありとあらゆる手段を使ってコンサートを成功させようとします。そのドタバタぶりを面白可笑しく、ペーソスも交えながら、夫婦の情愛たっぷりにを描いていきます。

メリルはミュージカル映画にも出演したぐらいですから、歌唱力抜群です。それが、ものの見事に音程を外して歌います。映画館で今年、一番吹き出した瞬間です。よくもまぁ、微妙にヘタクソに歌えるものです。しかし、よく聞いていると、下手なんだけれども味があって、聴かせる時もあるというさじ加減は、巧みな演技力の証しです。

さて、フローレンスの夫を演じているのが、ヒュー・グラント。ロマンティックコメディ映画で、チャラチャラした二枚目を飽きずにやって来ました。予告編だけで沢山の俳優でしたので、主演作は一本も観ていませんでした。しかし、しかし、今回のフローレンスの夫役には仰天しました。

とにかく、粋なのです。そして純情なのです。ちょっとした仕種、手の動き、煙草の吸い方、台詞の言い回し、すべてがいいんです。1960年生まれのヒューは、今年56歳。”ロマコメの帝王”と言われた彼が、こんなになるなんて、長生きはするもんです。映画の中で、ジャズのリズムに合わせて彼が踊るシーンが出て来ます。キャメラはローアングルでその動きを捉えるのですが、躍動感溢れる動きに拍手したくなりました。笑って、泣かせて、気分良く帰らせてくれる映画の王道みたいな、今どき珍しいクラシックな映画でした。

 

なお蛇足ながら、このヘタクソな女性は実在の人物で、相続した莫大な遺産をNY音楽業界に投じ、76歳でカーネギーの舞台に本当に立ちました。凄い女性ですね。この写真の女性がそうです。彼女は晴れ舞台の一ヶ月後この世を去りました。

小学館が、松本清張原作の映画を「解説本+DVD」で10本出していました。

この10本の中で、大傑作は「張込み」(1958年松竹/モノクロ 中古2100円)です。個人的には、大好きな日本映画50本に入れたい程、惚れ込んでいます。清張の原作は僅か30ページ程の短篇です。殺人犯逮捕のために、犯人の昔の恋人の自宅前で張込みを続ける二人の刑事の緊迫の日々を描いたサスペンスですが、映画は116分の長編に仕立て上げました。

何がスゴイと言っても、アバンギャルドな映像表現でしょう。

先ずタイトルが中々出てこない。横浜駅を出る桜島行夜行に飛び乗る二人の男。季節は夏、冷房のない車内はうだる様な暑さ。あの時代、東京から九州に行くのに一昼夜かかりました。その道中を、なんの説明もないまま描いていきます。二人は佐賀で下車して、とある家の前の宿に入る。そして、若い男の独白で「さぁ、張込みだ」という台詞と、睨みつける様な視線のアップの映像に「張込み」のタイトルがかぶさる。ここで、初めて二人の男は刑事だったことがわかります。初めて観た時は、その格好良さにしびれました。絶対に小説ではできない。

そんなシーンを取り上げていったら切りがありませんが、後半、犯人が乗っているバスを空撮で捉えるシーン。刑事のアップから一気に映像は空高く舞い上がり、俯瞰で田舎道をゆくバスを捉えます。こういう視点の切り替えに出会えることこそ、映画の醍醐味の一つですね。音楽を担当しているのは黛 敏郎で、サスペンスを盛り上げる見事な音楽を作り出しています。

解説本も充実しています。全10作の解説は川本三郎。同じく連載で松本清張記念館館長、藤井康栄が松本の実像に迫っていきます。川本は「松本清張の犯罪小説の特質は、犯罪を犯す人間の側にある悲しさ、無念、疎外感を描いたことにあるが、映画『張込み』も東京に出て、犯罪に走らざるをえなくなった出郷者と、彼を愛した女性の悲しみを浮き上がらせたところに、感動がある」と書いていますが、その通りです。

映画は「砂の器」の名コンビ野村芳太郎(監督)と橋本忍(脚本)。出演は大木実、宮口精二、田村高広そして高峰秀子と、これまた見事なキャストで、当時の役者の層の熱さを感じます。TVでは何度もドラマ化されていますが、高峰の役を大竹しのぶが演じたフジテレビ版、ビートたけしが刑事を演じたテレビ朝日版が印象に残っています。

 

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東京音楽大学作曲科出身の小説家、湯本 香樹実に注目しています。

92年発表の処女作「夏の庭」は、三人の少年が老人との出会いを通して「死」を知る小説で、後に相米慎二監督で映画化され、三国連太郎が老人を演じていました。

2008年には、絵本作家酒井駒子とコラボで「くまとやまねこ」(河出書房新社1050)という、これまた親友を失くした主人公の喪失から再生を見事に描いた傑作を発表(これは、読む度に泣けます)しました。その2年後の作品が「岸辺の旅』(文藝春秋500円)です。

これもまた死が、大きく関わってくる作品です。三年間失踪中だった夫が帰ってきますが、夫は海の中で蟹に食べられて死んだと告白します。そして、妻に自分が生前見た素敵な世界を見せたいと一緒に旅に出ます。その道中を描いた不思議な小説です。実は私は小説よりも先に映画を見ていました。夫を浅野忠信、妻を深津絵里、夫のかつての女性を蒼井優というキャスティングで、監督は黒澤清。こちらの世界とあちらの世界を行きつ戻りつしながら、二人の愛を確かめてゆく展開で、夫がふっと消えて、彼岸に帰ってゆくラストは忘れられません。

いつか原作を読もうと思っていたのですが、今回一気に読み上げました。

「死者は断絶している、生者が断絶しているように。死者は繋がっている、生者と。生者が死者と繋がっているように」

ふと帰って来た夫は、妻を、夫がかつて親しくしていた場所や人のもとへ彼女を連れてゆきます。なんのために……。「もっときれいなところがあるんだ」と妻を急かす夫に対して、「家に帰ろうよ。一緒に帰ろうよ」と妻はすがります。当然です。でも、この二人の旅にもやがて終りがやってきます。小説では、夫がふらりと戻ってきた事情は一切説明していません。いや、そんなことはどうでもいいのです。永久に失われたものへ手を差し伸べる女と、彼岸から戻って、女と共に生きた証しを辿りたかった男の思いを感じさえすれば。

この本を読み終えて、再び「くまとやまねこ」を読みました。親友だった小鳥に先立たれたくまは、出会った山猫に悲しみを癒されていきます。このやまねこ、ひょっとしたら死んだ鳥だったのでは…….?あまりの悲しみに打ち拉がれるくまの元に戻ってきて、二人で生き直すとも読み取れます。

「岸辺の旅」のラスト、夫は寂しい海辺で、あちら側へ旅立ちます。「海に挟まれた細い、今にも沈んでしまいそうな道を、私はふたりぶんの荷物を持って歩きはじめた。」という文章で終わります。このエンディングは「ふたりぶんの人生を生き始めた」ということかもしれません。そうあって欲しいものです。

ペドロ・アルモドバル監督「ジュリエッタ」を観ました。

1951年、スペインのラ・マンチャ生まれの監督は「オール・アバウト・マイ・マザー」「トーク・トゥ・ハー」(02)で日本でも映画ファンにはお馴染みです。「ジュリエッタ」は、若い時に家を出たまま戻ってこない娘と、母親の葛藤を見据えた映画なのですが、テーマよりもこの監督の色彩感覚に先ず圧倒されます。

ペドロ作品では「赤」色が重要です。この映画でも、のっけから赤いドレスで始まります。全編、赤、赤ですね。ダイニングキッチンに掛かる赤い時計は、極めて印象的です。といっても、饒舌すぎず、さりげに赤い色を画面に滑り込ませます。作品全体の美術に関して、これほどしっかりと描き込む人は少ないのではないでしょうか。美術監督、スタッフは大変です。

母親は若い時、ふとした事で知り合った漁師と恋に落ち、娘を授かりますが、その娘は成長して、突然家を出ます。そして、母はひとり残されます。母の若い日々と現在が、巧みな話術で語られていきます。そこから浮かび上がる喪失と再生が、ゆっくりと表現されているのですが、ラストシーンは、極めてヨーロッパ的です。ハリウッドならきっと、娘と母親が抱き合うか、哀しみの涙で終わるか、というよくあるパターンで、映画館を出たらもう終りなのですが、こちらはどこまでも心に残ります。

本好きには、素敵な小物が沢山登場します。この母親はかつて古典文学の先生で、中年になってからは校正の仕事をしています。だから、彼女が使っているペン、あるいは机上スタンドなど、デザインの良さには注目です、もちろん、書架に入っている豪華写真集、画集もチラッとしか出ませんが、見逃せません、坂本龍一の本もバッグの底にありました。

娘の友だちのダイニングに、写真家集団マグナムの本があったのですが、もしかしたら、店に置いている「MAGNUM MAGUNUM−コンパクトバージョン』(青幻舎4104円)のオリジナル版ではないでしょうか??

★古本市のお知らせ

「さんにん古本市」11月26日(土)〜27(日)11:00−21:00 河原町丸太町カフェ「アイタルガボン」(075-255-0871)

 参加されるのは「古本固有の鼻歌」「ポコモケ文庫」「古書ダンデライオン」の3店です。

 

 

 

 

 

劇場公開中に見逃した映画2本をDVDで観ました。どちらも”贅沢”な映画でした。

一つは、老いた作曲家が、今一度指揮を取るまでの日々を描いた「グランドフィナーレ」、そして、50年代アメリカでは、まだ市民権を持っていなかった女性の同性愛を描いた「キャロル」です。

 

個人的に”贅沢”な映画を定義すると、1.その作品の世界を立上がらせるために、資金を投入している。(CGやら先端技術につぎ込むことを指しているのではありません)2.脚本がしっかりしている。3.役者が揃っている。4.監督の演出意図を理解し、嘘のない映像を創るスタッフ、美術であり、撮影であり、音楽をクリエイトできる人材が揃っている。

それらが集まる時に、映画は第一級の輝きを持った”贅沢”な作品として登場します。

「グランドフィナーレ」は老作曲家が、再び指揮台に立つまでを描いた映画ですが、主題は「老い」です。大御所マイケル・ケインが、功なり名を遂げながら、人生の虚しさを抱えた男を巧みに演じ、いつも小便が出ないと愚痴る友人ハーベイ・カイテルと軽妙な掛け合いを見せます。ストレートに二人の老いを描くのかと思いきや、不思議な人物たちが登場し、パオロ・ソレンティーノ監督は、イメージを大きく飛翔させて自由奔放に演出していきます。周りの役者陣も凄腕揃いなのに、ひとつの曲を演奏しているような心地よさがあります。それこそが、実力ってことかもしれません。

一方の「キャロル」は、大人の女の風格ではダントツのケイト・ブランシェットが主演。そして、「天使が舞い降りたような」(これは、映画の中でキャロルが彼女を形容したことば)可憐さのルーニー・マーラ。この二人が、まだまだ女性が不自由だった時代を生き抜いてゆく姿を、静かに、しかし情熱的に描いていきます。この映画のために作り出された50年代アメリカの保守的な、クラシカルな世相が、惚れ惚れする程美しい映画です。空気の層が厚いというか、深い、こういう映画を観るとしみじみ豊かな気持ちになります。

「キャロル」の監督トッド・ヘインズは、大学時代、アルチュール・ランボーの詩から着想を得た作品を製作、本格的デビューにはジャン・ジュネの「薔薇の奇跡」を元にした作品を発表、今回は、「太陽がいっぱい」でお馴染みパトリシア・ハイスミスの「ザ・プライス・オブ・ソルト」をベースにして「キャロル」を製作と、文学に精通している人物です。

 

 

フランス映画「アスファルト」を観てきました。

なんか、冷えた人間関係を描いたみたいなタイトル。どんよりした曇り空を背景に、薄汚れたオンボロアパートがファーストシーンなんで、そう思ってしまいますが、全く違いました。

「幸せ」なんて永遠に続くものじゃなく、一瞬でどこかに消えてしまうもの。それでも、そんな瞬間があるからこそ人生っていいよね、という単純明快なテーマの映画です。ただ、描き方がユニークで、なんとも言えないところがミソですね。

登場人物は、このアパートに住む男女4名。下手すると、この人の過去にはこんな事があって、今はこうで、どうしたこうしたと、てんこ盛りの展開になってしまい、それだけで、もううんざりという映画になってしまいがちです。

ところが、この映画では、アルジェリアから移り住んだ老女のもとに、着陸地点を間違ってアパート屋上に降下してまった宇宙飛行士が、突如電話を貸して、とやって来ます。そんな展開、ハリウッドではあり得ません。その辺が、人生何でもありなんよ、とでも言いたげなフランス映画の余裕でしょうか。フツーなら、パトカーやら、軍隊が来そうな展開なのですが、いたって町は静かです。

この二人の奇妙な出会いを描きながら、無職で歩けなくなった(そうなった原因も、そんなアホな〜と仰天しますが)男が、夜な夜な深夜勤務の病院の看護婦に会いにゆく日々を追いかけます。最初は、孤独な二人という印象なのですが、車椅子を放り出してよろけながら歩くラストシーンは健気で、涙を誘います。

あり得ない設定だらけのシーンの連続なのに、なぜかラストは涙ぐんでしまう不思議な、しかし人生の真実をきちんと見つめた映画なのです。

劇中で、TVからクリント・イーストウッド監督作品「マディソン郡の橋」がフランス語で放映されているシーンが出ます。イーストウッドとメリル・ストリーブのフランス語吹き替えには笑えますが、この映画が最後のオチにかかってくるところが、監督サミュエル・ベンシェトリのセンスの良さです。

最初は、何だ!この映画!と思う方もおありでしょうが、ラストまでみたら、ね、ちょっぴりビターで幸せな気分にさせてくれるでしょ、と言いたい作品でした。

そう言えば、やはり団地に住む人々を描いた坂本順治監督の「団地」と同じようなテイストの映画です。