ロシア・ポーランド文学が専門の沼野充義編著「対話で学ぶ<世界文学>連続講義」の最終第5集は「つまり、読書は冒険だ」(光文社/古書1100円)です。

この連続講義は2009年にスタートし、足かけ7年26回、ゲストを招いて対話をしたものが、全部で5冊の本になりました。対話をした作家や出版関係者は、平野啓一郎、綿矢りさ、加賀乙彦、谷川俊太郎、池澤夏樹、小川洋子、岸本佐知子等々。第5集の本作でも、巻頭を飾るのは川上弘美で、俳人の小澤實を含めて三人で、面白い文学論を展開していきます。

そして、「九年前の祈り」で芥川賞を受賞した作家であり、比較文学者の小野正嗣。

この中で沼野が、「辺境とか小さな場所とか、世界の産業や経済の中心からはだいぶ遠い、そういうところを描くこと、あるいはそういうところに徹することによって、逆に世界文学の広い地平に出ていくことがあると思うんです。それはすごく逆説的なことですが、さきほど話題になったように、作家は誰かのために書くのではなく、自分をどんどん掘っていくだけなのに、自分を掘っていったらそれがみんなのための場所になっていたということと同じかもしれない。小さな場所に徹することによって、広い文学に繋がるということについてはどう思いますか。」と問うのに対して、小野は「そういうことが起きるのが文学や芸術の不思議さ」と答えています。

海外文学の話なんか世界が広すぎて、こういうふうな対談でなければきっと退屈するのに違いないと思います。でも、沼野充義の話の持っていき方と、ゲストの知識と思想が相俟って、極めて知的な対話を楽しむことができました。

中国の比較文学者、張競との「世界文学としてのアジア文学」の中で、「随筆というのは、文字通り『筆の赴くままに』ということですね。だから最初はどこに行くかはわからない。それに対してエッセイというのは、フランス語でもともと『試み』を意味するものです。ある議論や思考を試みて、論理的に何らかの結論に到達しようとする。だから目的地を想定しているわけですね。そこが本質的に違う。」と沼野は言います。日頃、随筆とエッセイという言葉を無意識に使っていましたが、こういう違いがあるのかと知りました。

電車やカフェなどで、パラパラめくりながら読書欲が盛り上がる一冊です。ただし、ブルガリア出身の日本文学研究者のツベタナ・クリステワさんが展開する和歌、俳句、短歌を論ずる「心づくしの日本語 短詩系文学を語る」は、パラパラとは読めませんでしたが。

最終章「世界文学と愉快な仲間たち 第二部世界から日本へ」では、日本文学、日本語を研究している外国人の研究者・留学生たちが登壇します。これがとても面白い。一読をお勧めします。