第二作目の詩集「指さすことができない」で、中原中也賞を受賞した大崎清夏の短編小説&エッセイをまとめた「目をあけてごらん、離陸するから」(新刊/リトルモア1650円)は、気持ちが軽くなってくる文章が満載です。

2010年、フランスを代表する女優・歌手ジェーン・バーキン来日の時の話です。主人公は映画宣伝の仕事について3年目、東京で開催されたフランス映画祭のスタッフでした。バーキンは開口一番、ちょうど東京都知事が女性は子供が産めなくなったら女性でなくなるという趣旨の発言に対して、それは違うと明言します。「何かに挑戦するときになぜ失敗を恐れなくてよいかについて、着たいものを着ればよいことについて、何歳だろうとやりたいことをやればよいことについて彼女は語った。」

「通訳の女の子は、泣いているのだった。遠くからきた人の、女たちを勇気づける言葉を自分が日本語に置き換えて伝える喜びで、身体をいっぱいにして。隣に座る、ハイカットのコンバースのシューレースを足首にぐるぐる巻きにしたその人に、自分自身が勇気づけられ、奮い立たされて。揃えた膝の上のメモを握りしめ、涙を拭きながら、女の子はそんな自分に慌てているように見えた。謝る女の子の肩をぽんぽんと優しくさすりながら、ジェーン・バーキンはにっこり彼女に微笑みかけた。」

その場の雰囲気がまざまざと浮かびます。そして、ちょっと前を向いて顔をあげることができます。彼女の短編小説は、どれも都会派らしいセンスの良さと、爽やかな風に満ちた作品ばかりです。なるほど、詩人の書いた小説という感じです。

「実感としての復興は誰かが誰かに対して証明しなければならないようなものじゃない。それは子どもが立って歩けるようになるようなこと。行きたい場所に行きたいときに行き、会いたい人に会うようなことだ。オリンピックを成立させるためにいま盛んに言われている『復興の証』ということばには、顔がない。のっぺらぼうなことばは、誰に言っているのかがわからないのに声ばかり大きくて、耳にするたびに薄気味悪い。」と、エッセイに書かれていることに頷きました。。いや、その通りです。「おもてなし」やら「福島はコントロールされている」などという言葉を発した人は、本当に薄気味悪い存在でした。

最後に掲載されている「ハバナ日記」は彼女のハバナ滞在記ですが、これは若くなかったらできません!羨ましいなぁ〜と思いながら読み終わりました。いい本です。

 

話題の映画「ラム」を、京都シネマで再上映していたので観てきました。観終わってすぐの感想をタイトルにしました。

とにかく観たことのない映画でした。舞台はアイスランド、荒涼たる大自然が映し出されます。どんより曇った空、吹き付ける風、容赦無く降る雪。日本とは全く違う自然の光景に目を奪われます。

そんな土地で羊飼いとして生計を立てているイングヴァルとマリアの夫婦が主人公です。ある日、羊の出産に立ち会った二人が取りあげたもの、それは頭は羊で下半身は人間という理解不能の生き物でした。映画は、見せる、見せないの駆け引きを巧みに使って、観客を画面に引きつけます。

夫婦は、さして驚きもせず、また恐怖も感じることなく、この生き物をアダと名付けて育てていきます。下手をすれば、グロテスクな怪奇映画になるところを回避して、静かに夫婦の子育てを描いていきます。

夫婦は以前に幼子を亡くしていました。おそらく二人は、子供が帰ってきたという気持ちだったのでしょう。アダは育っていきます。やがて歩くようになり、服を着て外にも出ていきます。ここを訪れた夫の弟に、これは何だ?と問われた時に、イングヴァルは「小さな幸せ」だと答えます。

ローアングルで草原をヨチヨチ歩くアダを捉えた後ろ姿は、可愛らしさに満ちています。しかし、アダを生んだ母ヒツジが、しつこく寄ってくることに我慢しきれなくなったマリアは、母親を撃ち殺し、死体を埋めてしまうあたりから、大きな悲劇へと向かっていきます。

アダが大きくなった時どうするのか、夫婦がこの世を去ったとき、人にもなれず、羊にも戻れないアダはひとりで生きていけるのか。

そしてラスト、マリアは夫もアダも失います。でも、アダは死んだわけではありません。そうか、こういう幕切れか。これしか、ないだろうなアダが生きて行くには……。

吹き付ける風の中で、呆然と立ち尽くすマリアのアップで映画は終わります。辛い….。しばらく、席を立てませんでした。アイスランドが生み出した傑作です。

 

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第162回芥川賞受賞作品「背高泡立草」(古書700円)を読みました。舞台は、九州にある小さな島です。

大村美穂は、娘の奈美や兄と姉たちと共に、実家のある島に向かいます。目的は実家の納屋の回りに生えている草を刈ることでした。実家には母がひとりいるだけで、納屋は誰も使っていません。なぜそんなところの草刈りをするの?と奈美は疑問を持つのですが、家族行事として付き合います。

物語は、どこの家庭でも見受けられるようなやりとりを描いていきます。この小説のユニークなところは、昔この島で起こった出来事を、美穂たちの現在進行中の仕事の合間にひょいと差し込むのです。それも誰かの回想とかではなく、何の前触れもなしに話が始まります。最初は違和感を感じましたが、慣れてくると、文章のリズムの心地よさにどんどんと読んでいくことができました。

主人公たちには直接関係がないのだけれど、島の歴史を緩やかにつなげてゆくことで、もう誰もいなくなった家の記憶を描き出します。まるでフランスとか北欧の静かな映画を見ているみたいでした。たった一日だけの草刈りの背景に流れる積み重ねられた長い時間が浮き彫りにされるのです。

ところで、著者の母親が長崎県平戸市の的山大島(あづちおおしま)出身ということで、この地方で話される大島弁を小説の中でも多用しています。

「綺麗かろが?あそこんにきは日の当たるもんね、それけん、ちゃんと咲くとよ」あるいは

「最初に餃子から焼きよると?お肉からの方が良いっちゃない?」といった感じです。温かな方言が、作品に一味付け加えています。

 

 

今年5月「左右社」のフェアを行った時に、この出版社のことをご紹介しましたが、最新刊は、またジャンルも違えば全く世界観も異なり、ますます面白い!

甲斐みのりの「乙女の東京案内」、西川清史の「世界金玉考」。前者は、素敵なお店紹介などで抜群の感性を見せる甲斐みのりの東京案内本。見ているだけで楽しくなる本です。一方後者は、生物学、歴史、芸術、食文化等々、様々な分野を闊歩して「キンタマ」を真剣に考察した前代未聞の本です。

著者の西川清史は、なんと元文藝春秋社副社長です。なんでこの人がこの本を書いたの?

「キンタマと比べれば、あの肛門でさえ花形に思えてくるというものである。天下無双の日陰者キンタマをいささかでもエンカレッジしようと、微力ながら一冊の本を書いてみようと思い立った。」ということです。

しかし、本書をパラパラとめくってみると、著者の博覧強記に圧倒される、実に真面目な本なのです。歴史的アプローチのために著者は、多くの囚人がキンタマを蹴られて殺された小伝馬町の牢屋敷跡を見に出かけたりもします。ちなみに、この牢屋は1858年、吉田松陰が死罪になった場所でもあります。

私が最初にページを開いた場所は、「キンタマことわざ一覧」でした。「睾丸の土用干し」で吹き出しました。これ「ありえないことのたとえ」だそう。あるいは「金玉を質に置いても」は、「何をおいても。男の面目にかけて」という意味合いだとか。でも、何度も言いますが、極めて精緻に考察された本なのです。みうらじゅん先生ご推薦です!

と、こんな本の一方、今話題の写真家、南阿沙美の「ふたりたち」という写真エッセイもあります。友人、夫婦、親子、人と犬と様々な関係で結ばれた二人をフィルムにおさめながら、人生を見つめた一冊です。

「自分はひとりだなあ、という人が、さみしくならないような本を作りたかった。それは、私のためでもあった。私はひとり。この本に出てきた人もみんなひとりずつ。誰かとふたりになった時に、またおもしろい自分に出会えるように。私は、そんなふたりをひとり自分の位置から眺めて、写真を撮って、思い出す。」

いい文章です。ちょっと幸せになれる本だと思います。

左右社コーナーは、どの本も「我こそは」と自己主張しているみたいでただいま賑わっています。

 

 

 

 

 

美味しいお酒を一杯味わって、芳醇な香りに身も心もホッとさせてくれるような素敵な本です。著者の斉藤倫は詩人。本作は詩集ではありませんけれども、詩の紹介をメインにした中身です。

しかし、ユニークなのはこの「Poetry dogs」(新刊/講談社1760円)の構成です。こんな具合に始まります。

「『いらっしゃいませ』 グラスを、ふいている手が、ふさふさしていた。バーテンダーは犬だった。ようやくすぎゆく夏のうしろ姿が見えた、という夜に、ふらりとはいった三軒めだった。」

このバーでは、「お通し」として「詩」を出しているのです。洋酒が詰まった棚に差し込まれた詩集から、マスターが、お客の気分や、オーダーしたお酒を見て詩集をさし出すのです。その雰囲気が気に入った「ぼく」は、ここに通うようになります。そこで出される詩を巡っての会話がメインになります。「第一夜」から始まり「第十五夜」で幕を閉じるのですが、31人の詩人が紹介されます。

「ぼく」はマスターに詩に詳しいの?と問いかけます。その答えは「ただしりたいだけなのです。にんげんが、物事をどのようにとらえるかを」

そうか、詩って「物事のとらえかた、のかたち」なのか。詩の本質を言い当てているかもしれません。

「色とりどりのボトルに、本のまじった棚からマスターは一冊を選ぶ。つきだしがわりの詩。もはやそれを待ちのぞんでいたじぶんに、ちょっとおどろく。なんだか、お薬お出ししますね、という口調に似てたけど。」

と、詩にのめりこんでゆく「ぼく」。読んでるこちらも、詩集の中に入り込んでしまう。ここに登場する詩の一つ一つに、いかにもという解釈が付いた本であったならきっと退屈だったでしょう。しかし、犬のマスターと「ぼく」との控えめな会話のせいで、私たちもカウンターに並んで一杯飲むように詩を楽しむことができます。

マスターの蘊蓄が、また面白いのです。例えば、万葉集などの古い言葉を引き合いにだして、その当時は「男女かんけいなく、いとしいひとを、つま、と呼んだようですね、夫婦か、恋人かに、あまりかかわらず」

それを聞いて「いいねえ、それ。あはは。だいじなひとは、みんな、つまか。それだけ。なんてシンプルなんだろう。」

「にんげんの皆さまは、今後そうされたらいかがでしょう」とマスター。控えめなジェンダーへの提言などつぶやくのです。

詩集ってなかなか手を出しにくいという方も、こんな楽しい紹介本があるとちょっと読んでみようかなと思うかもしれません。できればこのバーに行って、マスターに感想を話したくなります。

もう一つ、マスターの蘊蓄です。

「旅路で馬をつないで、ひとやすみするための棒。それが、バーの語源といわれています」

本日の京都新聞の読書欄で、元書店員でいつもいい本を選ぶ鎌田氏が、この本を書評してました。やるな、お主。

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セクハラ報道後、すっかり見かけなくなった香川照之ですが、「宮松と山下」(京都アップリングで上映中)は、香川の実力を遺憾なく発揮した映画でした。

「新しい手法が生む新しい映像体験」を標榜して立ち上がった監督集団「5月」は、NHK教育番組「ピタゴラススイッチ」の監修やCMデイレクターを務める佐藤雅彦と、NHKドラマ演出家として活躍してきた関友太郎、メディアデザインを手がけ多方面で活動する平瀬謙太郎の3人のチームです。過去に2本の短編映画を制作しましたが、長編映画はこれが初めて。劇場映画で複数の監督が演出するのは、極めて珍しいケースです。

香川が演じるのはエキストラ俳優の宮松。日替わりどころか、分刻みで端役を演じる日々を、カメラが追いかけます。エキストラ俳優の映画のはずが、派手な殺陣で始まるトップシーンに、あれ?違う映画かな?と思ってしまいそうなぐらい、きっちり作られています。物語が進むに従って、何度かエキストラシーンが挿入されるのですが、日々を生きる宮松なのか、それとも役者の彼自身なのか迷うところが、面白いスタイルです。

実は、宮松は記憶が全くありません。過去、どこで何をしていたのか、家族はいたのか、何も思い出せないのです。ひたすら毎日殺され続け、毎日渡される脚本の数ページに書かれている主人公ではない人生を演じているのです。そんな時、彼をTVで見た元同僚がやってきます。同僚によると宮松はタクシー運転手だったらしい。妹がいて、今は夫と暮らしていることを知ります。意を決して宮松は妹に会いにいきます。妹は、宮松も暮らしていた実家に住んでいました。

このあたりから、映画は不気味な雰囲気を醸し出します。いや別に、恐怖を誘うような演出やら音楽というのではなく、カメラがひたすら実家を見つめ、宮松が所在無げに座っているだけなのですが。

そして、とあることで彼は記憶を取り戻すのですが……..。さて何があったのか、これは言えません。過去に、妹の夫から突きつけられた言葉が、心の奥に食い込んでいました。あれは真実だったんだろうか、いや違うはずだ。茫洋としたままタバコを手にする香川の表情から目を離すことができません。そして、地元に引っ越しする段取りになっていたのに、急遽この地を離れ、またエキストラ稼業に戻ります。時代劇の扮装をしてロケに向かうバスの中で、微笑みを浮かべる微妙なアップで映画は終わります。この微笑みは何?見る人に様々な想像をさせるラストシーンです。

単独で映画を引っ張る香川の実力を堪能しました。

小さな町パウルシュタットのはずれにある墓所に眠る29人の死者たちの声を掬い上げて、彼らの人生の一瞬の輝き、失意を描いたローベルト・ゼーターラーの「野原」(古書1650円)は、生きること、そして死ぬことが心に迫ってくる傑作長編小説です。

「そこはパウルシュタット市の墓地の最も古い区画で、多くの人からはただ『野原』と呼ばれていた。」

そこに、毎日やってくる老人。老人がここで聞こえてくる「死者たちの声」に耳を傾ける所から物語は始まります。

「実のところー男は、死者たちの語る声を聴いていると信じていたのだった。なにを話しているはわからなかったが、死者たちの声は、あたりの鳥のさえずりや虫の羽音と同じように、はっきりと聞こえた。」

そして、ハナ・ハイムニからハリー・シュテーフェンスまで29人、町に生き、死んだ男たち女たちが登場して、自分の人生を語っていきます。それは、幸福だったものばかりではありません。怒り、悲しみ、軽蔑など様々な感情が混じり合い、死者たちが代わる代わる、人生の断片を語っていきます。時には、ある死者の語りに、他の死者が登場したりしながら物語は進行していきます。

死者たちは愚かしいほどに自己弁護や、後悔を繰り返します。その声を老人が、そしてわたしたち読者が汲み上げてゆくのです。そして、ふと思うのです。死という終着点にたどり着いた後にも、ひとは自分自身の人生の全貌を把握しきれないのではないかと。

「父が故郷に帰ってきて以来煩わされていた肺病で死んだ。最期はあっという間で、父は誰に別れを告げることもなく、正午前にはもう家から運び出されていた。小枝の束のごとく痩せ細って軽い体だった。それからほんの数週間で、母もあとを追った。中身がいっぱいに詰まった買い物籠を提げて家に帰る途中で、突然立ち止まり、頭を後ろへそらすと、しばらくのあいだ、はるかかなた、雲ひとつない青空のどこか一点にじっと狙いを定めるかに見えたが、直後に歩道の真ん中で横にふらつき、倒れて死んだ。籠から四つ、赤い夏のリンゴが車道へと転がっていき、しばらくそこで陽光を受けて輝いていたが、そのうちひとつ、またひとつと帰宅途中の車に轢かれていった。 こうして、私はひとりになった。残りの人生をどう過ごしたものか、混沌としてわからず、探求を始めた。」

29人の死者の声を、誰もいない墓地で、聴いてみませんか……。

本日より12月11日(日)まで、「古書思いの外」と「開風社待賢ブックセンター」の二店舗による古本市を開催いたします。文庫100円、単行本300円コーナーなども設置しています。

全体的にかなりお得な価格設定です。芹沢銈介全集(中央口論社版)は全巻揃っていればかなり高額ですが、各500円(定価3500円)で出ています。芹沢の作品を、テーマ別に編集して全31巻で発売されたものです。第1巻は「物語絵」で、初期の代表作が収録されています。好きなものを見つけてください。昭和55年発行ですが、中身、外箱とも美本です。

 

児童文学もいいのがあります。キプリングの「少年キム」(晶文社1200円)は、1997年に発行されたものですが、美本です。以前、どこかの古本市で3000円ぐらいついていたことを覚えています。他にも朝倉摂挿絵のエンデ「ゴッゴローリ伝説」(岩波書店800円)、岸田今日子訳・安野光雅絵による「赤毛のアン」(朝日新聞社1500円)。こちらは安野の絵が美しい。ケストナーの「ほらふき男爵』(筑摩書房1200円)は、ヴァルター・トリヤ&ヒルスト・レムケの絵がとても楽しい一点です。

98歳まで現役で、虫や花を描き続けた細密画家で、”プチ・ファーブルと呼ばれた熊田千佳慕の未発表集「語録ノート」を中心にした「私は虫である」(求龍堂500円)という珍しい本もありました。

 

300円コーナーで、清水卓行の「随筆集サンザシの実』(毎日新聞社)を見つけました。個人的には、この作家の長編小説で挫折を経験しましたが、初の随筆集である本作はいいです。このコーナーは日本文学名作のオンパレードで原田康子「挽歌』(東都書房)、瀬戸内晴美「おだやかな部屋」(河出書房)、大江健三郎「万延元年のフットボール」(講談社)などが揃っています。また、ブログで紹介した、秘境冒険ノンフィクションの傑作「空白の五マイル」(集英社)も500円で出ています!今夜から冷え込むらしいので暖かくして、面白い本を探しにぜひお出かけください。

 

ショーン・タンは、オーストラリア出身のイラストレーターであり、絵本作家であり、映像作家です。2008年、文章をいっさい入れずに描かれた「アライバル」で、アングレーム国際コミックフェス最優秀作品賞を受賞。その後、数々の作品を発表し、京都ではえき美術館で個展が開かれました。

個人的にも大好きな作家で、独特の画調と世界観に魅了されています。文庫本サイズの「エリック」(新刊1100円) 、「ショーン・タンのスケッチブック」(新刊1980円)、「ショーン・タンの世界」(新刊2750円)、「セミ」(新刊1980円)、最新刊「いぬ」(1980円)を在庫しています。

「いぬ」については、今年8月、「犬と人間の愛情あふれるつながり。生と死。モノローグのような数少ない言葉と、シンプルな構成の画面だけで深い感動を与えてくれる絵本です。」と紹介しました。

また、ニンゲンに奴隷のように扱われながら勤続17年、退職の日を迎え、高いビルの屋上から脱皮して大空に向かって飛び出すセミの一生を描いた「セミ」は、生きることの哀しさを象徴的に描いた絵本でした。(こちらも2021年4月、ブログで紹介しました)

そのショーン・タンのカレンダー「エリック」(1430円)が入荷しました。「エリック」は、短編集「遠い町から来た話」に収録された、一風変わった留学生との交流を描いたものですが、2012年に、手のひらサイズの絵本として発売されました。このカレンダーは、絵本から可愛らしいエリックの12枚綴りで、使い終わったら裏側の点線に沿って切り離し、ポストカードとして使えます。ショーン・タンのファンの皆様には見逃せませんね。

 

 

 

 

☆大阪にある動物保護団体アニマル・レフユージュ・関西(ARK)のカレンダー入荷しています。卓上サイズ卓上サイズ1000円、壁掛けサイズ1200円です。なお、売上は、団体の活動費に充てられます。

スタジオジブリ名プロデューサーの鈴木敏夫は、膨大な量の本を所蔵し、読書量も並外れています。今年京都文博で開催された「鈴木敏夫とジブリ展」で、その蔵書を見ることができました。

「読書道楽」(新刊/筑摩書房2200円)では、展覧会に先立ち、彼の心に残った本のこと、作家との出会い、読書した当時の状況など、読書から人生、時代論へと発展したロングインタビュー(全15時間)が行われました。展覧会は、このインタビューをもとに構成されたそうですが、そこに入りきれなかったエピソードを中心に作られました。

「時代ごとに夢中になった作家は何人かいるなと思ったんです。加藤周一さんはもちろん、堀田善衛さんもそう。 年代順に言えば、石坂洋次郎、寺山修司、野坂昭如、深沢七郎、山本周五郎、宮本常一、池澤夏樹、渡辺京二…….まああげだしたらきりがないけれど、小説家もいれば評論家もいる。 それから忘れちゃいけないのが漫画ですよね。ぼくら団塊の世代は大人になっても漫画を読み続けた最初の世代といわれていて、たとえば、大学時代はちばてつやさんの『あしたのジョー』からすごく影響を受けた。」

と、自分の読書体験を総括していますが、なるほど骨のある作家が並んでいます。「明日のジョー」は、私も読んでいましたが、そんなにのめりこんだ記憶はありません。どちらかと言えば、「サイボーグ009」などを熱心に読んだものです。

鈴木も「SFに夢中になるのって、ぼくらより一世代下ですよね。」と言っていました。そして、続けて、自分たちがヒーローものの第一世代であり、それは「月光仮面」だったと言います。1958年〜9年にかけて民放で放送されたTVドラマです。

大学時代、学生運動が盛んないわゆる「政治の季節」の真っ只中。そんな時に、三島由紀夫が結成した左翼に対する軍事的組織「楯の会」に勧誘された話も面白いし、三島の「潮騒」を、「ジブリで映画化しようと真剣に考えたしね。舞台となる歌島をアニメできちんと描いてみたいと思って。」と振り返っています。ジブリ版「潮騒」って見たかったなぁ〜。

第6章「我々はどこへ行くのか」で、彼は自身の引退について興味深い発言をしています。

「最大の失敗は、『風立ちぬ』ですよ。ぼくが宮さん(注:宮崎駿の事)を説得してつくってもらったんですけど、それは戦争の問題さえ片付ければ、宮さんはもうつくらないだろうと思った」

つまり『風立ちぬ』は、宮崎駿の引退映画であり、自分自身の引退にもなるはずだった。ところが中途半端になってしまった。ここで引退して、好きな本を思う存分読むはずだった鈴木のプランは頓挫しました。

「ひとつは重慶爆撃の問題ですよね。、もうひとつはファンタジーなんですよね。『風立ちぬ』にはその要素が少ないでしょう。そうすると、つくり終えたあとで、やっぱりファンタジーをやりたくなったんです。」

確かに0式戦闘機生みの親を主人公にしたこの長編アニメは、割り切れない部分が多々あったように思いました。本のこと、作家のこと、映画のことなどを縦横無尽に語り続ける鈴木敏夫の魅力満載の本です。