メキシコ人監督フェルナンダ・バラデスが、無名の役者を使って撮影した「息子の面影」(京都シネマにて上映中)に、度肝を抜かれました。アメリカに仕事を求めて故郷のメキシコの街を離れた息子からの連絡が途絶えてしまい、心配になった母親が探しにゆくという物語です。

母親が必死になって息子を探す、そして、その母親を助ける見ず知らずの若者が登場し交流が始まる、なんて簡単に言ってしまうと、頭の中で映像が浮かんできそうですが、全く裏切られます。お金もなく、わずかな手がかりだけで、ひたすら歩き回る母親。一方、アメリカに違法入国し、強制退去させられた若者は、自分の母親がいるはずのメキシコの田舎に戻ろうとします。その途中で出会った二人。並みの映画ならやがて二人の間に交流が生まれて、希望的エンディングに向かうという展開ですが、ことごとく外されていきます。

その外されてゆくプロセスで、私たちも宙ぶらりんの状態に持ち込まれ、どうなってゆくのかと不安に苛まれていきます。嫌な予感。映画館から逃げ出したくなる気分と、最後まで劇場にかじりつきたいという欲望に揺られながら、とんでもない結末へとなだれ込んで行きます。

息子は生きていた。しかしそれは悪夢のような状況なのです。絶句する、としか言えない再会です。そして最後の最後、母親が見つめる燃え盛る焚き火と、そこから見えてくる黒いシルエット。悲しみと虚無に満ちた母親の顔は、見ているこちらが息苦しくなりますが、最後の最後まで面白い映画です。監督が切り取ったメキシコの、時には荒々しく、また時には人を和ませる自然の姿が見事です。

社会の底辺の貧困を描くシリアスなドラマを、こんな風にユニークな映像で表現するフェルナンダ・バラデスがすごい。本作は多くの映画祭で絶賛されていますが、当然だと思います。次回作も期待大です。

文芸誌「小説BOC」創刊に合わせて、伊坂幸太郎、澤田瞳子、朝井リュウなど8組9名の作家によって紡がれた「螺旋プロジェクト」。古代から未来までの日本を舞台にして、二つの一族が対立する歴史を描き続けるものです。その未来編を担当した吉田篤弘の本は「天使も怪物も眠る夜」(中央公論新社/古書1300円)。400ページ余りの超大作ですが、吉田ワールド満載。

近未来、東京は慢性的な不眠の都になっています。

「人々はいかにして安らかに眠るかを追求し出し、老若男女、誰もが『眠りこそ人生で最も重要な関心事である』とあらゆるアンケートにそう答えた。<寝室><寝台><寝具><寝間着>といったものが吟味され、街のいたるところに<睡眠コンサルタント>や<睡眠コンシェルジュ>の窓口が設けられた」

さらに、ある日突然に「厚さおよそ1メートル、高さ約六メートルの<壁>によって、東京の都心部が東と西に分断された」のです。そんなデストピア的世界を舞台に、20名以上の人物が入り乱れて、不思議な物語を紡いでいきます。そう書いてしまうとハードコアSFっぽく聞こえそうですが、ファンタジーのようでもありメルヘンのようでもあり、読んでいくうちにこの世界で私たちも漂よっている感覚になります。

一体、物語はどこへ向かうのか?と不安になりますが、カンのいい読者なら、小説のベースには「眠れる森の美女」があることに気づかれるはず。後半まで読み進めると、「眠れる森の美女」が、大きなモチーフになってきます。さらにもう一つ、メルヴィルの長編小説「白鯨」も巧みに使われていて、本好きにはたまらん展開になっていきます。

不眠にしてしまう”面白い小説”は発禁になっているのですが、そういう小説をたっぷり飲み込んだ白鯨が東京に浮上して、大量の小説を吐き出すという摩訶不思議な設定を、SFと呼ぶべきかパロディと呼ぶべきかわかりませんが、奇想天外な物語に目が離せません。

また、ビートルズに「ゴールデンスランバー」という短い曲がありますが、これもキーポイントになっています。個人的にはビートルズの中で最も好きなナンバーです。確か、伊坂幸太郎もこのナンバーをタイトルにした小説を書いていたはず。やっぱ好きな人多いんだ!

と、方々に仕掛けを用意した至れり尽くせりサービス満点の長編でした。

 

友田とんさんは、ミニプレス好き、文学好きの方はよくご存知だと思います。まずは、ブログで彼が書いている自己紹介をお読みください。

「2013年ごろからblog, noteにて日常観察や海外文学についてのエッセイを発表。2018年の自主制作出版を契機に、各種出版物やWEBメディアに寄稿。ナンセンスな問いを立て日常や文学に可笑しさを見つける文章を書いています(解説や批評では体験できない独特の読後感の読書エッセイや、日常のなんでもないところから見つけた可笑しなことを独特の視点で深掘りするエッセイ、小説など)。出版レーベル「代わりに読む人」を主宰し、可笑しさで世界をすこしだけ拡げる本を編集・刊行しています」

「ナンセンスな問いを立て日常や文学に可笑しさを見つける文章を書いています」という言葉通りの本です。当店では「『百年の孤独』を代わりに読む」(発行2018年)からのお付き合いです。翌年の「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する1」その続編「パリのガイドブックで東京の町を闊歩する2」で、多くの方に知ってもらうことができました。もちろん、ブログでも紹介しました。

「東京の町のガイドブックを頼り、目的地を決めてしまったら、おそらくそこへの最短な経路を歩いてしまうだろう。」だから、「代わりに私はパリのガイドブックを握りしめる。東京を歩くために、パリのガイドブックをこれほど熟読した人間はいないという確信がある。その時、何が起こるのだろうか? 試してみようと思う」

はぁ? でも読んでみると、その脱力系文章と相まって気分良くなってくる不思議な本でした。

その後、友田さんは自分の出版レーベル「代わりに読む人」から本をプロデュース。第一弾は、わかしょ文庫さん「うろん紀行」(新刊2420円)です。本の紹介と紀行文を一緒にしたユニークな一冊で、これはオススメですよ。宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を夜行列車に乗って読むという企画を考えますが、列車はすべて廃止になっていて、「北斗星」という列車の部品を使ったホテルを見つけてそこに泊まるというところから話が進んでいきます。ストレートな書評でもないし、通り一遍の紀行文でもありません。作家の目の付け所がユニークで、そこが友田さんの視線に似ているのかもしれません。

その後、京都大学文学部出身の佐川恭一の”不謹慎小説集”と帯に書かれた「アドルムコ会全史」を発行。400ページ余りの大作で、価格はなんと3410円。こんなん売れるんかいなぁ〜と??と思いつつ、販売を開始したのですが、ポツポツと売れ続けています。(友田さん、すみません)

そして、雑誌「代わりに読む人 創刊準備号」(1980円)まで発行しました。「ニューヨークで考え中」の近藤聡乃や、小山田浩子などが参加しています。創刊準備号の特集が「準備」というのも、笑える。ほんとに目の離せない人です。

岩崎書店が刊行した全5冊の「死をめぐる絵本シリーズ」最終巻、ブレイディみかこ(文)中田いくみ(絵)による「スープとあめだま」(新刊1870円)を入荷しました。

ブレイディみかこのベストセラー「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」から生まれた絵本で、ホームレスが集まるシェルターに、初めてボランティアに行った少年の体験です。シェルターに行ったものの、何をしていいかわからなくてオロオロしていた少年でしたが、おじいちゃんにスープを配ります。おじいちゃんは少年にあめだまを一つくれました。そのあめだまを見つめる少年がとても印象的に描かれています。

「これはきっと いのちをつなぐ あめだまだよね」と考えた少年は、次回もお手伝いに行こうと決めて冬の街を家路につきました。

絵を担当した中田いくみは、「ホホホ座」の店主である山下賢二さんをモデルにした絵本「やましたくんはしゃべらない」の絵を担当しました。簡潔な線と暖かな色合いが素敵です。

この本と同時に入荷したのは、今森光彦(文)城芽ハヤト(絵)による「クヌギがいる」(新刊1870円)。こちらは、大きなクヌギの木がその命を全うして大地に帰ってゆく姿を、森に遊びにくる少年を通じて描いていきます。枯れて死んでしまったクヌギ。でもその根本に小さな虫の幼虫が眠っているのを少年は発見します。新しい命。

「おおきな クヌギは かれて しんでしまったけど でも たしかに ここにいる」

そう確信した彼は、来年また来るよと言って森を去っていきます。

先日、このシリーズの一冊「ぼく」を製作した谷川俊太郎とイラストを描いた合田里美、編集者の筒井大介の三人の本が出来上がるまでの長い試行錯誤を、ドキュメントしたNHKの番組がありましたが、ご覧になられましたか?「死」をメインテーマに据えたシリーズだけに、三人三様の思いを見ることができる貴重な番組だったと思います。

 

大阪出身で京都大学卒業の作家、万城目学には関西を舞台にした小説が何点かあります。京都が舞台の「鴨川ホルモー」、奈良が舞台の「鹿男あおによし」、大阪が舞台の「プリンセス・トヨトミ」など奇想天外な物語ながら小説を読む醍醐味に溢れた作品が多く、私の好きな作家の一人です。

今年、十数年ぶりにエッセイ集「万感のおもい」(夏葉社/新刊1760円)が出ました。その中に「京都へのおもい」と題した章があります。2017年に京都新聞に掲載された三点を含めたものですが、京都の夏の大文字送り火について書いています。これが名文です。

「大学に通うべく京都で下宿していた五年間のうち、送り火を見たのは二度だったけれど、あの肌を不快に押し包む夜の湿気、大文字山の斜面におぼろに浮かぶ炎の等間隔、火が消えると同時に訪れる寂蓼の気配、さらに給水タンクにおそるおそる立つ感覚は、今もって忘れられない。」

ん?給水タンク??

「そう、私にとって送り火といったら、給水タンクなのだ。ところで、京都に長年住む人でも、五つの送り火すべてを同時に見た経験を持つ方は少ないのではないか。私は五つ、ひとときにみたことがある」

それが、京都大学校舎の屋上で、当夜、学生たちが「ゾンビ映画の如く、館内の消灯済みの暗い階段を上がっていく。」そして、屋上の給水タンクに登って五山送り火を見たらしい。

大文字の送り火にちなんだエッセイとしては、格別の味わいがあると思います。

また、京大付近にズラリと並んでいた名物とも言える立て看板が、大学側の要請で撤去されたことについて、著者はこんな感想を持っています。

「私は京大が結界を失ったように思えてならない。やがて大学も、学生も、結果的に目指すことになる『普通の大学』になったとき、気づくのではないか。」

つまり、京大生がアホなことしても、まぁ、京大はんなら、しゃあないなぁ〜みたいな生ぬるい擁護や、居並ぶ立て看絵を見て怖くて構内に入れなかった、みたいな普通ではない特別な何かが目減りしていることに気づくのではないか、と。

「結界の消滅とともに、『アホが今日もアホしてる』と無形の安心感を与えてくれた依代も立ち去ったことを。何より、今の社会がのどから手が出るほど欲しがっている若者の元気を、いとも容易く手放してしまったことを。」

京大の立て看撤去について、一時様々な意見を新聞等で読みましたが、万城目のこのエッセイが最も、うん成る程!と思わせてくれました。

久々に密度の濃いエッセイを楽しみました。ところで、今、レティシア書房では「上野かおる装幀術展」を開催中ですが、いつものことながら夏葉社の今回の装幀も素敵です。

 

これは、山窩(サンカ)の老婆が発する言葉です。

山窩とは何か? かつての日本には戸籍も持たず、定住所もなく山から山への漂泊生活を続けていた人々がいました。ちょっとした竹細工のカゴを作ったり、川魚を獲って山里で売るというのを生業としていました。どういう人たちがそんな暮らしをしていたのかはわかりませんが、止むを得ず山の中に入った人たちもいたようです。松本清張の「砂の器」に登場する親子などもそんな人々の一部です。昭和30年代ぐらいまでは各地で見受けられましたが、高度経済成長時代の世の中に溶け込んでいき、消滅したと言われています。

先日、笹谷遼平監督作品「山歌」(アップリンク京都)を観てきました。これは、都会から来た少年と山窩の親子との交流を描いた映画です。1965年夏。東京オリンピックで日本が沸き立ち、高度経済成長を爆進する時代。中学生の則夫は、受験勉強のため祖母の住む山奥にやってきます。そこで、彼は山窩の省三と娘のハナ、老婆タエに偶然出会います。そして、彼らとともに山々を歩き回り、蛇や川魚を獲っては食べたりしながら自然とともに生きることを学んでいきます。

映画は、大自然の瑞々しい、時には荒々しい姿を隅々まで見せてくれます。則夫は、実は学校ではいじめられていて、将来のことが全く考えられなくて、なんとなく受験勉強をしています。そんな彼に、タエは「お前は自分の足で立っていない」とズバリ言います。

山々の中で自分の生き方を模索してゆく則夫と、山を降りざるを得なくなるハナが描かれます。ハナに憧れを抱き、山で生きることを求めても、則雄はサンカにはなれません。山の声を、目に見えない生き物の息遣いを、聞くことができないからです。そして、山中で老婆を亡くしたハナも、このままではダメだということをわかっています。

ラスト、セーラー服を着たハナがぐっと画面を睨みつけて、農道を全速力で走っていきます。その後を則夫が、やはり全速力で追いかけていきます。人里で生きてゆくことを覚悟したハナの顔が素敵です。

1時間半足らずの小品でしたが、とても素敵な映画でした。映画館をでた時、空に向かって深呼吸をしたくなりました。

監督の笹谷遼平さんは京都育ち。十数年前にひょんなことで知り、何度かお会いしたこともありました。その当時撮影された秘宝館のビデオ作品を観せていただきました。ずっと映画監督として頑張ってこられていたんですね!

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本日から2週間レティシア書房が「上野書店」に占拠されるという事態に・・・。

装幀家上野かおるさんの個展のDMが「上野書店開店ご案内」となっていて、これまで上野さんが手がけられた本がズラーっと並んだためなのです。いやはや開店おめでとうございます。実に壮観です。お一人の手になったとは思えないほどバラエティに富んだ本の在りよう。改めて装幀家のお仕事の深さ・広さ・こだわりに驚きました。上野さんは京都生まれ。装幀に関わった本は約4000冊、40年に及ぶ装幀の仕事の集大成です。

「装幀(そうてい)とは、一般的には本を綴じて表紙などをつける作業を指す。広義には、カバー、表紙、見返し、扉、帯、外箱のある本は箱のデザイン、材料の選択を含めた、造本の一連の工程またはその意匠を意味する。」今回の個展に際して、装幀についてのパネルを作り、解説やら、こだわりやら見て欲しいポイントなどを、わかりやすく提示してあります。

そして、並べられた本に可愛い栞が挟んであり、(本の横に出している場合もあります)そこには、その本を装幀した時の想いや、工夫した箇所や見どころなどが書かれていますので、本を手にとってぜひ読んでみてください。。

例えば、「鑑定士と顔のない依頼人」の栞には「本書は『ニュー・シネマ・パラダイス』の監督による初めての原作小説で、2013年に上映された。(中略)装幀素材として渡された画像は、ペトルス・クリストゥス『若い女の肖像』。当初カバー全面にレイアウトしてみたが、突然、表紙に配置することを思いつき、カバーに穴を開けて、眼差しだけが見える仕掛けにした。」とあります。映画を観ましたが、ミステリーなこの本の仕掛けにはうっとりしてしまいました。どんな風かは、カバーをめくって見てくださいね。

さらに、「音楽のような本が作りたい」(木立の文庫)でカバーに使われた槙倫子さんの版画を、本と一緒に飾っていただきました。槙さんの作品で、展覧会の雰囲気がさらに素敵に盛り上がり、表紙と原画を比べることができてとても面白い試みになりました。

本屋で本の装幀の展覧会なんて素晴らしい企画ではありませんか!と思わず自画自賛してしまいますが、ぜひご覧頂きたくご案内申し上げます。なお、展示の本は非売品ですので、上野書店は事実上「売らない本屋」です。ピンクの付箋が付いているのが「上野書店」の蔵書になります。レジにはどうか持ってこないでくださいませ。(女房)

『「上野書店」レティシア書店を占拠します!』は

6月1日(水)〜12日((日)13:00〜19:00 月火定休 

(上野書店店長は1日・4日・5日・12日のみエプロン姿で出勤しています。)

 

 

 

 

 

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本当に、本当に久々に江國香織の長編小説を読みました。若い時の作品は印象が薄いのですが、これは別です。タイトルは「ひとりでカラカサさしてゆく」(新潮社/古書1100円)。

物語の始まりはセンセーショナルです。大晦日の夜、新年を迎える準備の整ったホテルのラウンジに集まった八十歳を過ぎた男女三人。カクテルを飲み、楽しそうに歓談しているのですが、その後三人は部屋に集まって猟銃で自殺します。ちなみに自殺のシーンは全く描かれていません。

三人は、それぞれに誰かの母であり、父であり、祖父であり、祖母です。死亡の知らせを受けた、それぞれの息子や娘、孫、いとこや、世話になった人々が、どうして死んだの?という疑問を持った状態で集まってきます。

小説は三人の内面をたどってゆきながら、残された者たちの戸惑いの日々を描くことに重点を置いていきます。彼らの死後、どうしていいかわからない関係者の不安、そうして、不満や過去への思いなどが入り混じった生活を送らざるを得ません。死んだ者と生きる者の人生を、交互に描きながら、見事な群像劇に仕上げていきます。残された者たちは、それでも働き、食べたり、泣いたり、笑ったりという日常の暮らしに戻ってゆくのですが、以前にはなかった、それぞれの孤独に対面していきます。さらに物語終盤には、コロナウィルスの感染拡大が影を落としていきます。生まれる時も、死ぬときも一人だという真実が丁寧に描かれていきます。

その構成力、表現力、登場人物たちの心の奥へとゆっくりと入ってゆく話術が巧みにで、う〜ん上手いなぁと何度も感心しながら最後まで一気に読み上げました。

唐突な死に直面し、泣き崩れる者、冷静に日々を暮らす者、懐かしさに浸る者など、それぞれの思いで日常を動かしていきます。彼らのこれからの人生がどうなってゆくのか、それは全くわかりません。著者は少し距離を置きながら、生きてりゃいやでも遭遇する喪失、そして身近な者の終焉を、決して感情過多にならずに、寄り添い、また突き放すように描き分けていきます。

今まさに命が尽きようとしている千佐子は、ラストでこんなセリフを口にします。

「『もうすぐ新年ね』声をあかるくして千佐子が言った。『どんな年になるのかね』」と。

とても、この世を去る人の言葉とは思えません。でも、最後まで小説に付き合ってきた読者には、とても心に響いてくる言葉でもあります。

 

「シン・ゴジラ」のコンビ、庵野秀明✖️樋口真嗣による特撮映画「シン・ウルトラマン」。ネットやメディアで賛否両論盛り上がっています。この映画は駄作では全くありません。じゃあ文句なしの傑作かと聞かれればちょっと返答に困ります。

このコンビによる前作「シン・ゴジラ」は、個人的には近年の日本映画のベスト1になる傑作でした。コロナ禍、大きな災害、さらには大国の力学で小国はひねり潰されるという今のウクライナの姿まで予言するような力を持った作品でした。

日本も核による防衛力の保持などというきな臭い発言をするアホな政治家がいますが、本作でも、それをチラリと見せたり、どこかから近づいてくる戦争のおぼろげな姿を匂わせて、外宇宙の生命体であろうと、戦力アップのためなら政治家が手を組む、という姿を描いてはいます。しかし、空想科学映画としての面白さを保持しつつ、鋭く現代社会に切り込んできた「シン・ゴジラ」のような鋭利さが、「シン・ウルトラマン」にあったかと問われれば、疑問符がつきます。もちろん前作と同じスタイルで、映画作家が新作を作る必要などは全くありませんが。

樋口真嗣監督はこんなコメントを寄せています。

「あらたな、でもそれは私が物心ついた頃から輝き続けているバトンを託されました。先輩たちが生み出し育ててきた。眩しく重たいそのバトンを次につなぐ責務を粛々と努めて参る所存です」

ウルトラマンを生み出した円谷プロの特撮ものの、ヒーローや怪獣に心奪われた監督が、先達への限りないオマージュを再現したのが本作だと思います。そう考えると、「シン・ゴジラ」ほど圧倒されるほどの特撮ではなくて、「ウルトラマン」がかつてTV放映されていた時代の雰囲気を醸し出しているのも理解できます。

その一方で、宇宙人を巻き込んだ政治スリラー的側面を見せたり、長澤まさみがいきなり巨大化して東京の街を歩こうとする、まるで「ガリバー旅行記」的なユーモアを見せたりしながら、30分のTV放映で必ず怪獣を倒して去って行くというスタイルから逸脱しようとしたりと、意欲的な構成になっているのも事実です。

ただ、そうした部分にちょっと違和感を感じて、手放しで「傑作!」と言えなかったのかもしれません。でもラスト、TV版と同じように真っ赤な背景画面からウルトラマンへと変身するシーンには燃えましたね!涙ものでした。DVDが出たらやっぱり買って、結局何回も見ることになりそうです。

 

 

 

帯広発の雑誌「スロウ」最新71号の巻頭特集は「白樺が拓く、森と人の日々」(クナウマガジン/新刊990円)です。北海道を代表する樹木である白樺と人々の物語です。

特集記事を読んで、次のページを開けたら、「絵本作家あかしのぶこさんと考えるおはなしの可能性」という記事が目に飛び込みました。

あかしさんは、現在は知床斜里町で暮らしている京都出身の絵本作家で、福音館から何冊か絵本を出されています(全て絶版)。当店では展覧会を今まで二度開催し、今年9月21日(水)〜10月2日(日)には、新作絵本「あなほりくまさん」の原画展をしていただくことが決定しています。小さい時から動物が好きで、絵を描くことが好きだった彼女は、知床の自然に魅了され、斜里町へ移住。この地で生きる動物たちを主人公にして数々の絵本を出されました。

取材した山口翠さんは、こう書いています。

「あかしさんが絵本の中で綴る文章は、動物の視点から書かれたものがほとんどだ。だからなのか、読んでいるうち、だんだんと自分の感情が動物に重なってくる。たとえば、初めて巣の外へ出るフクロウのひなが主人公のおはなしでは、初めて目にする外の世界へのおっかなびっくりとした気持ちを。母の帰りを待つ兄弟ウサギを主人公にしたおはなしでは、草むらの中でじっと隠れている時のドキドキ感を一緒になって味わう。そんな風に、気づいたら彼らの視線から同じ世界を見ているのだ。」

熊の視線になって、フクロウの視線にもなって、知床の森の奥深さを体験する。その楽しさを味わってほしいと思います

旭山動物園・新ヒグマ舎に展示予定の、約3m✖️1.5m「ヒグマ絵巻」を描くあかしさんの姿も載っています。

☆あかしのぶこ新作絵本「あなほりくまさん」の原画展は レティシア書房2022年9月21日(水)〜10月2日(日)の予定です。お楽しみに。