小津夜景の「カモメの日の読書」(東京四季出版/古書1800円)。面白い!とは思うものの、スラスラどころか全く読めません。

なぜ、この本に手を出したのか?それは巻頭のこんな文章に出会ったからです。

「なんとなくフランスにやってきて、国内をあちこち移動しているうちにどんどん貧乏になってきて、それでも日本からもってきた本やCDを売り払って食いつなげるうちは良かったけれど、そのうち売るものもなくなり、ああこの先どうやって生きてゆこうと夫婦で困っていた。」

この行き当たりばったり感に惹かれて、俳人である著者の気の向くままに漢詩の世界を旅することになりました。

著者の選んだ漢詩の一部を抜粋、その日本語訳と、漢詩とは関係ないエッセイが載るという体裁の本です。

例えば「猫と暮らす」では、梅堯臣(ばいぎょうしん)の「猫を祭る」の一節が選ばれています。

「自有五白猫 鼠不侵我書 今朝五白死 祭与飯与魚」

その解釈はこうです。「五つの白い斑のあるネコを飼いはじめてから ネズミがわたしの本をかじらなくなった 今朝その五白(ウーパイ)が死んだので、飯とサカナを供えて弔った」

解釈を読んだ上で、漢詩を読むと、映像のように絵が浮かんできます。40篇の漢詩が取り上げられていますが、中には全くイメージできないものもありました。けれども、一つの漢字が、違う漢字と並ぶことで、頭の中で映像が出来上がり、あぁ、そんなシーンを詠ったんだとぼんやりとわかって、映画を観ている気分になります。

「処世若大夢 胡為労其生 所以終日酔」で始まるのは李白「春の日、酔いより起きて思いを言う」です。

「この世に生きることは 夢を見るのと変わらない 愁いを遠ざけたまま こんな風にひねもす酔いしれ」

漢詩の本だからといって、お勉強的なスタイルでは全くない。古色蒼然とした漢詩の世界を現代に蘇らせた著者のセンスです。

 

観た後、ちょっと心持ちが軽くなり、センスよくユーモアと批評精神にあふれた映画って近頃少なくなりました。「ゴヤの名画と優しい泥棒」(京都シネマにて上映中)はそんな佳作です。

開設されてほぼ200年の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー」で、1961年、ここに飾ってあったゴヤの名画「ウェリントン公爵」が盗まれました。犯人はケンプトンという60歳過ぎのタクシー運転手。

当時、イギリスではTV受信料を払わないとBBC(英国国営放送)を見ることができませんでした。しかし、下層階級の、しかも老人たちにはそんな余裕はありません。日頃からそのことに不満を持っていたケンプトンは、盗んだ絵の身代金で、多くの人たちの受信料を肩代わりしようと考えたのです。

事実を元に脚本が書かれ、ケンプトンにはジム・ブロードベント、その妻にはヘレン・ミレンという英国を代表する名優が演じています。貧しい暮らしの日常をきめ細かく描きながら、反骨精神旺盛でめげないケンプトンと、その如何しようもない夫の尻を蹴りながらも、彼を見つめる妻。

あっけなく簡単に盗むことができた名画。さて、それをどうするか。自宅に隠すのですが、正直で真面目な妻にばれやしないかとヒヤヒヤの日々です。貧しい人から乗車賃を取らなかったためにタクシー会社もクビになり、アルバイトで見つけたパン屋も人種差別をする上司と喧嘩してクビ。でもこの人、全然動じていません。ラストの裁判のシーンでも、そのシニカルで、ちょっと人をクスッさせるユーモラスな弁舌は冴え渡ります。威厳ある裁判官も、笑いをこらえる始末。

女優の加賀まり子は、「この映画には”やわらかい芯”がある。触ってみてください」とコメントしています。単に泥棒騒動をコミカルに描いただけではなく、お上への真っ当な批判精神を生き方で証明した老人の話なのです。物語には、実はもう一つ秘密が隠されています。この夫婦には、若くして亡くなった娘がいました。その娘の死と、二人はどう向き合ってきたのか、いや向き合ってこなかったのかを映画は優しく見つめます。

ラストシーン、ショーン・コネリーの「007Dr.No」を、映画館で夫婦揃って鑑賞中の二人の会話に大爆笑。え、えっ、そうなの?もう一度「007」観てみようという気分になりました。

愛すべきイギリス映画でした。

 

 

「在日」として大阪に生き、ラッパーとして活躍し、大阪大学大学院で学んでいるMOMENT JOONモーメント・ジューンは、自らを「日本移民」と呼んでいます。何故か?そのことを綴ったのが「日本移民日記」(岩波書店/古書1600円)です。

バイト先で「チョン」と蔑まれたり、「外人の女だからいつでもヤリマン」とセクハラを受けた友人、見た目が怪しいという理由だけで自宅前で警察の職務質問を受けた知人のイラン人等々。偏見、差別の日々の中で、彼は自ら移民と名乗りを上げます。

「『違う地域。文化圏から来て今ここに住んでいる人』を意味します。違う文化の間で苦しんだり、どちらの文化も自分のものにしたり、それらを融合して新しいものが作れたり、そんな全ての人が移民です。」

そして「国が決めてくれた条件で成り立つのではなく、『私の人生はこうでした』という経験の上で自分から宣言できる言葉が、私が思う『移民』です。」

日本社会に蔓延する排外主義、過激になる差別意識、言葉の暴力、同調圧力など彼の目に映るこの国の姿に抗い、絶望しながらも希望をいかに探し出してゆくかを、ラップで語りかけるように、あるいは大学院生らしい論理を構築しながら、見出していきます。

「在日」というワンワードでカテゴライズしてしまうこの国で、生きづらさや虚しさ、その一方で、ここで生きて良かったと思う気持ちを彼は溢れ出る言葉で表現してきました。多くの人に出会い、助けられ支えられてきて、彼は今こう思っています。

「私にとっての日本は、日の丸でもなく政府でも、富士山でも天皇制でもなく、あなたです。そんなあなたとこれからも一緒に生きて行くことを、心から望んでいます。くれぐれも、お元気で。ありがとうございます。そして、愛しています。」

「日本人」として生きてきた私には、とても刺激的で、示唆に富んだ一冊でした。

 

 

 

 

レティシア書房は本日3月6日で丸10年。開店以来多くのお客様に支えていただき、なんとか続けることができました。ギャラリーもおかげさまで、多くの作家さんにご利用頂いています。この場をお借りして心よりお礼申し上げます。

我々にとって記念日の朝、とあるお宅の本の整理と買取に行ってきました。この方とは開店以来のお付き合いで、古書のことに素人同然だった私は、多くのことを教えていただきました。

最近体調を崩されて、集めた蔵書を処分したいというお申し出をいただきました。当店だけでお引き受けできる量ではなかったので、ご本人と面識のある同業者を誘ってご自宅に伺いました。到着して、えぇ!こんなにあるの!と改めて驚きましたが、ご家族のお手伝いもあって無事終了しました。いわゆるレアーな古本はそんなに多くありませんが、愛読してこられた日本文学を中心に、長年にわたって集められた本を整理して、これから店頭に出していきます。

永井荷風関係では、松本哉「家風極楽」、吉野俊彦「永井荷風と河上肇」、荷風先生を偲ぶ会編著「階層の永井荷風」(昭和36年発行)、野口冨士男「わが荷風」などがありました。その下からは内田百間「摩阿陀會」。昭和9年中央公論社より出版された「無弦琴」なども出てきました。

映画やアートにも詳しく、私も読みたかった吉田喜重「小津安二郎の反映画」、五十殿利治「日本のアヴァンギャルド芸術」、加藤類子「京都日本画の回想」、堀田謹吾「名品流転〜ボストン美術館の『日本』」なども埋まっていました。

11年目スタートの日にこんな出会いがあるなんて、もっと頑張れと叱咤激励されているように感じました。面白い棚を作れるように努めますので、今後ともどうぞよろしくお願いします。

 

九州の大型書店に勤務する徳永圭子さんが初出版した「暗がりで本を読む」(本の雑誌社/新刊1760円)は、本への優しい愛に満ち溢れた一冊でした。

「本屋が毎日仕入れる本は、冬は冷たく夏は熱を帯びた外気を連れてくる。特に新刊は生もののような手触りで、棚にしばらく並んだ本より、わずかに重く感じる。売れ始めると、棚が笑ったようにほころんで本が軽くなる。本は何を吸い込んでやってくるのだろう。鞄の中の本も日によって重い。質量の謎だ。はかりきれないものを、本を包んでやってくる。」

こんな文章はきっと現役書店員しか書けない。

本書は「本屋の日々」「本屋の帰り道」「暗がりで本を読む」の三部に分けられています。書評もありますが、「本屋の日々」は、本屋勤務の日常と扱う本に関するエッセイです。大上段に構えたり蘊蓄をひけらかすことなく、適切な言葉を探しながら日々を綴っています。

「本屋の帰り道」「暗がりで本を読む」は基本的に書評です。いい本を選んでいる!というのが第一の感想です。

「春の雨は『もの静か』、五月雨は『降り続く』ことを本意としてきた。このような雨の美学の定型についても、人々の審美眼や生活の変化により、新しい雨の姿が開眼されているという。形のない空を言葉で留め、言葉は空とともに変化しているのだ。どの雨にも空の思いがあるように感じる。」

これ「雨のことば辞典」(講談社学術文庫)の紹介に出てくる文章ですが、辞典をこんな風に詩的に紹介されると、読んでみたくなります。

当ブログでも以前書いたことのある松家仁之「光の犬」(新潮社)は、近年の長編小説ではベスト3に入る作品ですが、こんな風に書評を結んでいます。

 

「光の粒となった言葉を拾うように、この小説はどんな小さな生涯も肯定する。ひんやりとした美しいカバーをはずすと、歩(注:主人公の名前)の愛した星空があらわれた。人も本も物質。やがて灰となり光を放つ。読めば見える光がそこにはあった。」

書物が私たちに運んできてくれるものを、書評の形を通して伝えています。

素敵な素敵な映画……。難しくもないし、凝った映像を見せびらかすものでもありませんが、ラストは切なく、辛く、そしてちょっとだけ心癒されて泣きます。

取り壊しの決まった古い団地が主役です。名前はガガーリン団地。住んでいるのは、イスラムあり、アジア系あり、ジプシー系ありとごちゃ混ぜで、世界の縮図みたいです。当然ながら、低所得の人ばかりなのですが、それなりにみんな生きています。

宇宙に憧れる黒人少年ユーリも、2024年パリ五輪のために壊されることが決まったこの団地に住み続けています。しかし環境が悪化していく団地を、だんだんと去る人々が増えていき、やがて誰もいなくなります。その広大な団地の一角を、ユーリはまるで自分だけの宇宙船みたいに改造していきます。彼は機械に強く、手先が器用でなんでも修理することができるのです。少女ディアナとの淡い初恋を挟みながら、映画は宇宙船のようになった部屋に暮らすユーリの姿を追います。

本作を撮った監督自身、ここに住んでいたというだけに、愛着があるのかも知れません。国の政策で、自分たちの意思とは関係なく退去させられる人々。今までの生活の思い出の全てを根こそぎ無くしてしまう哀しみ。それは、おそらく震災や、原発事故で否応無く自分の家を捨てざるを得なかった人々も同じ気持ちだっただろうと、見ていてやるせない気持ちになりました。(写真は取り壊されたガガーリン団地)

例えばイギリスの映画監督ケン・ローチなら、最後までリアルな世界を描き切るような素材ですが、この映画は後半、一気にファンタジーに向かいます。誰もいなくなった団地の照明が、オン・オフでモールス信号のSOSを発するシーンは、せつないけれど、美しくもあり、私たちもユーリと一緒に宇宙を夢見るようなシーンです。それと同時に少年の震えるような孤独も感じました。

ただの光の点滅に、これほど心を打たれるなんて想像もできませんでした。上映時間90分。美しく煌めく作品。しかしこの日(月曜日でしたが)、館内にいたのは10名程。勿体無い!本当に勿体無い!!

「『セニョール、ミシラゴだ。チューパ・サングレのミシラゴだ。』 当時、ミシラゴという言葉は知らなかったが、 チューパ・サングレ(血を吸う)と聞いてその意味がつかめた。木戸や屋根の隙間から吸血コウモリが侵入してきたのだ。」

絶対に、こんな場所には旅したくはありません。さらに川には毒ヘビがうようよ。

写真家の高野潤著「風のアンデス」(学研/古書1050円)は、タイトル通り、アンデスを高原、高地、谷間、辺境、そしてアマゾン上流地帯に分けて、著者の旅の体験談を一冊にまとめたものです。

辺境への旅をしたいと思ったことはありませんが、その割にこういう本は読んできました。地球上には未知の世界が数多く存在することを教えてくれるのです。

「パタゴニアは空虚な風だけの世界、ここは風の砂漠かと思いはじめた。気持ちがすさみ、底なしの寂しさに包まれる。連日、地面をはうような横なぐりの雨にテントが襲われるため、フライシートの効果もなく床内部までびしょ濡れになる」

かと思えば、「ソンダ(猛暑による温度上昇で生まれる暴風)も生まれるほどの高温乾燥の猛暑である。ひとりで叫んで驚いたが、煙草の火先が触れただけで、頭からかぶっていたタオルがくすぶりかけ、同時に炎を上げて燃えはじめた。」

などと、超過酷な自然に向き合い、死ぬ一歩手前まで行った体験が語られます。予想のできない自然現象、不気味な毒ヘビや、猛獣と出会う危険。さらにはとんでもないエネルギーが押し寄せてくる鉄砲水、はたまた直撃されたら即死間違いなしの大きな岩石の落下など、危険、危険の旅。

なんでこんな旅に出かけるの?と逆に聞きたくなってきます。

あとがきで著者は「野生動物、雷、その怖さに怯えたかと思うと、予想もしていなかった牛が現れて不安感を与える。さらに、風や水の恐怖が待ち受けている。一転して、アマゾンに出かければ、そこには得体の知れない別種の危険や困難がひそんでいる。」

しかし、著者はこの怖さを感じつづけることが、自然の中で過ごそうとするためには、もっとも大切なことだと言います。自然に対して謙虚になれるというのです。

私のような都市生活者にとって、自然は優しさであり癒しの拠り所です。しかし、そうではない自然の方が沢山あるという事実。そして、ひょっとしたら、今騒がれている異常気象や、自然破壊の爪痕は、こんな所にこそ存在し、広がっているのではないかという、当たって欲しくない予想を感じる一冊でした。

 

 

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少しずつ暖かくなってきました。京都御所の梅も見頃です。

本日からオオナカミカさんの張り子・貼り絵「オオカミとフォルクローレ」展を開催します。オオナカさんは20年以上張り子作家として、兵庫県を拠点に活動されています。要らなくなったものに手を加えて、新たな物を作るという先人の知恵に感銘を受けて、独学で張り子を作り始められたということです。

ご存知のように張り子は、型を作って紙を貼り重ねて乾燥させ、中を抜いて仕上げるので、とても軽く、子供のおもちゃや縁起物として作られてきました。郷土玩具の素朴さを持っていて、型に何重にも紙を貼るうちにどんどんまろやかになっていく形がなんとも愛らしいものです。

形が出来上がると着色して仕上げるのですが、オオナカさんの張り子は、絵の具で色をつけずに、紙で細工していきます。人形が来ている民族衣装、アクセサリー、目鼻に至るまで全て細かくハサミで切って貼り付けていくのです。小さな紙で作られたオオカミの毛並みも、筆で描いた線とは違い、シャープで独特のリズムがあります。その愛らしさに、私は勝手に「貼り子さん」と名付けてしまいました。

並んで座っている動物の妖精たち、遠吠えしているオオカミ、愛らしい少女たち、すぐにでも身に付けたくなるブローチの数々。張り子(貼り子)の軽さと柔らかさが、ステキです。

そして、壁に飾られた「貼り絵」は、その細やかな技術で貼りこまれた民族衣装を身につけたイヌイットやアフリカの人たちがこちらに向かって微笑んでいます。色合いがまたなんとも美しく、ハサミを使った紙の技の高さに舌を巻きました。「貼り子」の魅力を発信できる、こんな幸せな出会いに感謝です。本屋にギャラリーを併設していてホントに良かった!ぜひ、実物をご覧いただきたいと思います。(女房)

⭐︎オオナカミカ 張り子・貼り絵「オオカミとフォルクローレ」展は、3月2日(水)〜13日(日) 13:00〜19:00(最終日は18:00まで)月火曜日定休

池澤夏樹編集で発行された「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集」は、とてもユニークな文学全集で、古典を現代の人気作家たちが翻訳していました。全30巻だいたい読みましたが、まだ手をつけていないのが、角田光代翻訳の「源氏物語」(全3巻)と古川日出男翻訳の「平家物語」です。

古川版「平家物語」はアニメ化され、深夜TV、Netflix等の配信サービスで放映していて、キャラクター原案は高野文子というのも話題になっています。

そして、外伝的な「平家物語犬王の巻」(河出文庫/古書500円)が文庫化されました。古川的疾走感抜群の物語です!

ここに登場する少年は二人。友魚と、彼より若い犬王です。共通点はどちらも身体的ハンディキャップがあること。友魚は盲目、犬王は奇形の顔と体を持っています。二人は、片や琵琶法師として、片や能楽師として世間に向かってゆきます。

解説で池澤が「小説はプロットだと人は思っている。あるいは登場人物。時代や社会。しかし、小説は文芸なのだ。だからまずは文体。

この『平家物語犬王の巻』の文章はどのページを開いてもわかるとおり、速い。センテンスが短く、改行が多く、形容に凝らない。ぱきぱきと進む。たぶん口承文芸のスタイルなのだろう。」

べんべんべんと鳴り響く琵琶の音色に重なる謳いか、あるいは超技巧派のギタリストのロックサウンドか、聴きどころ、いや読みどころ満載の小説です。

醜い者、不浄の者として虐げられてきた二人が、独自の平家物語を創作して、芸能の世界へ打ってでるエンタメです。そして本年夏には、アニメ映画化が決定。キャラクター原案は松本大洋です。

物語の中で多用される体言止めが、さらに文体に力をつけ、私たちを引っ張ってゆきます。池澤は、形容詞、副詞、修飾語句を多用する政治家の言葉に対して、「これに対抗し、これを撲滅するのが文芸に携わる者の責務である。一国の文芸を支えているのは作家であり、詩人であり、動詞という太い柱に支えれれた彼らの文章である。」

「犬王は、生きた、おお生きのびた!犬王は、這った、ずるずると床を這い、おお地面を這い、おお、おお、立った!」グイグイと迫ってきます。古川版「平家物語」も、挑戦してみようという気になります。

ちなみに犬王は実在の人物で、観阿弥と同時期に活躍した近江能楽日吉座の大夫で、観阿弥・世阿弥と人気を二分しました。

 

 

 

デイブィッド・ホックニーは1937年イギリス生まれ。63年に渡米してアンディ・ウォーホールに出会い、その後、ロスを拠点にポップアート運動に関わり、影響を与えてきました。

ウェストコーストのまばゆい陽光をイメージさせるような華やかな色彩の作品が数多くあります。油彩以外にも、数十枚のスナップ写真を貼り付けたフォトコラージュ作品も制作しています。

今回入荷したのは、1989年滋賀県立近代美術館「David Hockneyデイヴイッド・ホックニー展」(古書1500円)、と1994年東京等で開催された「Hockney in Californiaデイヴイッド・ホックニー展」(古書1800円)の図録です。

後者には、「彼がカルフォルニアに渡る前に空想の中で描いたイメージから、実際に訪れてからの作品、定住するようになって今に至る作品と、5部構成で様々な分野から100点を取り上げます。」と書かれていますが、ホックニーがどれほどカリフォルニアを愛していたかがわかります。収録されているドローイングが実に素敵です。

ホックニーといえば、スイミングプールを主題にした作品が好きでした。真っ青な空、スマートな住宅、そこに広がるプールの水の青さ。洒落たウエストコーストサウンドが聴こえてきそうな作品。

1960年代、まだ同性愛が受け入れられなかった時代に自身がゲイであることをカミングアウトし、同性愛をテーマにした作品もいくつか発表しています。「David Hockneyデイヴイッド・ホックニー展」には、「クウィアー/Queer」という作品が掲載されています。この言葉は同性愛者を罵る言葉です。性的なテーマを実験的手法で切り取った作品です。

80年代ポラロイド写真で撮影した作品をコラージュ風に集めた作品も見ることができます。この手法は、おそらくその後のコマーシャル撮影に影響を与えたのではないかと思います。82年京都を訪れた際に、龍安寺の石庭のコラージュ作品では今まで知らなかった龍安寺のイメージが広がります。

(「「David Hockneyデイヴイッド・ホックニー展」」に収録)