盛岡にある書店BOOKNERD店主早坂大輔さんの、店の開店までを描いた「ぼくにはこれしかなかった」を、このブログで紹介しました。(2021年4月)
先週、彼の新刊「コーヒーをもう一杯」と、もう一冊、メルマガの文章に書き下ろしを加えた「いつも本ばかり読んでいるわけではないけれど。」(2021年発刊)の2点を入荷したので、早速読みました。
新刊の方は、盛岡市内のカフェを巡る本、と言っても観光案内的に「ここではこれがオススメ」みたいなものではなく、カフェの存在を通して仕事のあり方を見つめています。例えば「羅針盤」というお店についてこんな風に書かれています。
「<羅針盤>で流れている音楽が好ましいと思うのは、ただ音楽をBGMとして遊び、流しているのではなく、心からその音楽を良いと思っている人たちが楽しんで音楽を選び、かけているということだ。音楽にきちんとした思想があり、じぶんたちの意識がある。 それは音楽に限らず、店を構成する隅々にまで波紋のように行き渡り、わたしたちがその場所で過ごすひとときを印象の残るものにしてくれている気がしている。場を作るのはやはり人であり、人の意志なのだ。どんなに完成され、海外の店舗のように見栄えの良い店を作ったとしても、そこに携わり、働く人間に魂がなければ、ただのつまらない箱でしかなくなってしまう。」
一方の「いつも本ばかり読んでいるわけではないけれど。」は、本や音楽を通して彼の思いが書かれています。宮沢賢治「農民芸術論」、鶴見俊輔「思い出袋」、奥山淳志「動物たちの家」、そしてジョニ・ミッチェルのアルバム「ブルー」など、メルマガからのせいか短い章に分かれています。
最後の章「ぼくの戦後は終わった」で、著者はこの前の東京オリンピックの開会式を見て、「あの平和の祭典が開催されたことによって、誰も民主主義の力を信じることができない、日本があたらしい局面に入ったことを知らせる時代がはじまった。」と感じます。
「人間の良心とか、知性とか、科学的根拠のようなものは不要なものとして国が進んでいく。ずる賢さや、横柄さで世を渡ってきた、人を蹴落としてでも地位や名誉にしがみ付きたい人たちによって、この国が塗り替えられていく。どう考えても、国が沈んでいく。そんな思いを抱きながら小さな町で息をしている。」
今も報道されているオリンピックを巡る汚職、談合に絡んだ連中を見ていると、本当に「国が沈んでいく」。わたしも同意見です。
辻信一は、文化人類学者として教鞭を取る一方で、「スローライフ運動」の推進、夜間の一定時間電気を消してキャンドルで過ごす「キャンドルナイト」ムーブメントに強く関わってきました。また、NGO「ナマケモノ倶楽部」代表として、新しい生き方を模索し、発信してきました。
初めて彼の本を読んだのはかなり前のことです。大型書店の現場の効率、生産性の向上、無駄な動きの削減等、会社が求めてくる仕事をなんとかこなしていた時でした。彼のスローライフ的な生き方は理解はできても、目前の仕事どうするの?という感じがして”聞き流していた”記憶があります。
その後、高橋源一郎との共著「『雑』の思想』(古本1450円)、「『あいだ』の思想」(古本1450円)を読んで、あ!この人は至極真っ当なことを発言しているんだと気づきました。
そして、今年1月に出たばかりの「ナマケモノ教授のムダのてつがく」(さくら舎/新刊1760円)に出会いました。「無駄」って本当に「ムダ」なのか?『ムダ』=『役に立たない』と決めつけていいのか。
「『ムダ』というのは、いつでもある特定の視点からの、ひとつの価値判断にすぎない、ということを覚えておこう。それがある時空間の文脈のうちで、いかに優位で特権的な地位を占める視点であったとしても。ムダと断定されたモノやコトやヒトのなかに、その視点をすり抜ける、ほかの誰かや何かにとっての価値が、いや誰にも予想できない何らかの可能性があり得るのだ。これは、でも、驚くに当たらない。この世界のほとんどは、ぼくたちに見えないものや、予想できない可能性でできているのだから」
ムダかそうでないか、役に立つか立たないか、それをさっと判断できる人がスマートな生き方だとメディアは声高に主張します。自称”ナマケモノ教授”の著者は、日常の様々な場面を引き出して、それがどれほど危ういことなのかを説いていきます。「スローライフ」「遊び」「ゆとり」という言葉の深い意味を本書を通じて学ぶことができます。
大型書店員時代、ビジネス書の新刊の箱を開けると、「効率化」「生産性」「すぐ理解できる」「職場のムダを見つける」などの言葉があふれんばかりに出てきたことを思い出します。その効率化の果てに生み出されたグローバル経済が、私たちを幸福にしているかといえば、大きな疑問符がつくのは間違いありません。
さらに世の中はグローバル化を推進するのか、それとも「役にたつ」という発想を超えて、「遊び」や「ゆとり」を取り込んで新しい社会を創造してゆくのか、その曲がり角に来ていると著者は感じています。そして、著者が尊敬する坂本龍一のこんな言葉を引用します。
「『芸術なんて役に立たない』そうですけど、それが何か?」
「役に立つ』ことこそ美徳というモノサシに絡め取られた私たちの脳ミソを、グラグラと揺らしてくれる本です。
NHKのトーク番組に小林信彦が出演していて、久々に顔を見ました。トークのお相手は音楽家の細野晴臣。彼は小林の著作「日本の喜劇人」が大好きで、ぜひ話をしたかったらしいのです。かつて細野がいたバンド「はっぴぃえんど」の盟友大滝詠一も小林のファンで、「小林旭読本 歌う大スターの伝説」という本を一緒に書いています。日本のポップスを代表する二人が小林の大ファンだったのですね。
小林は1932年、東京日本橋の和菓子屋の長男として生まれました。日本のTV黎明期、坂本九や植木等などのバラエティ番組に携わりながら小説を発表していました。私が小林の名前を知ったのは、大学生時代に愛読していた「キネマ旬報」での映画紹介でした。特に年に一度のベスト10特集では、真っ先に彼の選んだものを見て、未見のものを追いかけていました。
本書「決定版 日本の喜劇人」(新潮社/古書3000円)は、1971年雑誌「新劇」で連載がスタートしました。翌72年に単行本化され、77年に「定本 日本の喜劇人」、82年に文庫本化されます。さらに2008年には、函入り二巻本「定本 日本の喜劇人」と装いを新たに、加筆修正をし、連載開始から50年を記念して2021年に「決定版」が刊行されました。
私は二巻セット物を除いて、新しい版が出る度に読んできました。だから、今回で読むのは3回目ですが、やはり、とてつもなく面白い!喜劇人の舞台、映画、TVを詳しく論じながら、日本喜劇の通史として貴重です。私は、クレイジーキャッツ、てんぷくトリオ、そして関西で大人気だった「てなもんや三度笠」などはリアルタイムで楽しんだものです。また、藤山寛美の生の舞台は残念ながら見ていませんが、松竹新喜劇の舞台中継はTVでよく見ていました。
「渥美清はシビアな鑑賞眼の持ち主で、その眼力はそこらの<評論家>の及ぶところではなかった。同時代のコメディアンの大半を問題にしていなかったと覚しい。自分はコメディアンと呼んで欲しくない、役者なのだ、とはっきり言われたことがある。 そういう男が、文句なしに<役者>として認めていたのが藤山寛美だった。」
渥美との長い付き合いがあった小林だからこその発言です。
550ページにも及ぶ大作ですが、マニアックな記述に走ることなく、冷静に喜劇の世界を生き、去っていった人々の姿がリアルに蘇ってくる傑作です。
台湾獨立書店文化協會編著・フォルモサ書院(大阪)翻訳による「台湾書店百年の物語 書店から見える台湾」(H.A.B/新刊2420円)発刊記念として、写真展を企画しました。台湾では、昔ながらの古本屋さんから日本と同じような独立系書店も、どんどん出店していて、どの店舗もかなり個性的です。そして、なぜか看板猫がいる店が多くて、写真のあちこちにその姿を見ることができます。
「台湾書店百年の物語 書店から見える台湾」は、日本統治時代から現在に至るまでの台湾の書店の歴史が詳しく描かれています。四部構成になっていて、第四篇「独立の声」は、1980年代から登場してきた独立系書店が、90年代、より個性的な書店へと変わってゆく姿が書かれています。日本と違うのは、本の値引き販売ができることです。
1994年4月、中華圏初のフェミニズム専門書店「女書店」(ニューシューディェン・右写真)が開業。96年には出版部門も立ち上げます。さらに1999年、台湾初のLGBT書店「晶晶書庫」(ジンジンシュークゥ)が誕生します。LGBT関連書籍や音楽映像ソフト、生活用品を取り扱っているそうです。
2004年には、現在、南台湾で最も美しいと高い評価を持つ書店「草祭」(サァオジー)が開店します。センスの良さの評判が高まり、観光客が集まって名所になります。しかし純粋に本を買いに来た人にとって迷惑になると考えた店主は、特別のカードを発行し、カード保持者のみ入店可としたのです。「賑やかな観光客の人混みを遠ざけ、本を購入するお客様にとって、静かな空間を楽しむことができるようにした」ということです。そういえば京都の書店「恵文社」でも、観光客が押し寄せたことがあったみたいです。どこも同じですね。
この展示には、「台湾百貨店 百年の物語」以外に、フォルモサ書院が発行している「台湾書店さんぽ」(1300円)、「台湾独立書店文化協会」が製作した書店ガイド(複製/中国語/100円)も販売しています。
写真展では、様々な表情を持つ書店の姿を見ることができます。書架の組み方、面陳列の見せかた、ちょっとした家具の配置の仕方など、本屋回りがお好きな方には、面白い!と思っていただけると思います。ぜひお越しください!
☆写真展「台湾書店の記憶」は、2月26日まで。(月火定休・13:00〜19:00)
漫画家のヤマザキマリが初めてイタリア語の絵本を翻訳しました。ダビデ・カリ作、レジーナ・ルックートゥーンペレ絵による「だれのせい」(green seed books/新刊1980円)です。
剣を持った一匹のクマの兵士がいました。俺の剣で切れないものは何もない!と豪語して、手当たり次第、なんでも切り刻み、森の木を全て切ってしまいました。
ある日、彼のねぐらに大量の水が流れ込んで、ねぐらが破壊されてしまいます。水を流したダムに押しかけ、番人(オオアリクイっぽい風体です)を、お前たちが俺のねぐらを壊したと斬り殺そうとします。
しかし、彼らは体に弓の突き刺さったバビルサ(イノシシでしょう)が突進してきたので、持ち場を放棄してしまったのだと説明します。で、クマはそのバビルサを見つけ、殺そうとします。が、バビルサが言うには、キツネの放った矢が刺さって暴走したのだと説明します。今度はキツネの元へと向かいます。キツネは言います。小鳥たちが自分の食料を食べてしまうので、方々に矢を放ったのだ、悪いのは小鳥たちだと言います。
そして、小鳥たちのいるところへと行きます。小鳥たちのにも言い分があります。自分たちの住んでいた森の木々が、ある日切り倒されていたので、行き場を失っていたのです。
そして、クマは気づきます、その木を切ったのが自分だったことを。
「クマの兵士は、ほかのだれでもなく、じぶんじしんを ひとおもいに まっぷたつに するしかないことを しりました。」
さて、そのあとクマがとった行動は……。
「自分を不快にさせた”だれか”を懲らしめるつもりでいたクマの兵士は、やがて問題の起因が自分自身にあったことを自覚し、罪の償いを経て、平和という安寧に行きつくのです。自我や名誉という驕りを捨てる勇気を持ったクマの兵士が、小さな小鳥を愛おしそうに抱いている姿の凛々しくも優しい姿には、つい『私たちの世の中もこんなにだったらいいのに』という思いが募ります」
とヤマザキマリはあとがきに記しています。多分、それはこの絵本の作者が、そうあって欲しいという希望だとおもいます。
2014年キャノン写真新世紀優秀賞を受賞した写真家南阿沙美のフォトエッセイ集「ふたりたち」(左右社/新刊2200円)に出てくる被写体になった人の言葉です。そして、この本の核心を言い当てていると思います。
ここには、著者が関係を持った人たちのポートレイトが並んでいます。夫婦であったり、友人であったり、あるいは愛犬と一緒だったりで、年齢もバラバラです。それぞれ背負っている悲しみや苦しみが、当然存在しているはずなのですが、著者の撮影するポートレイトには、天才バカボン的に言えば「これでいいのだ」という姿が写されています。
「いいなあ、と思えるふたりがいる」と思った著者が、撮影した12組の「ふたり」。その中には、ピエール瀧とバンド「電気グルーブ」のメンバーとの楽しそうな写真もあれば、路上で拾った犬と大阪・東京・ドイツで暮らした12年の日々を撮影した「風をこぐ」(古書/2400円)の写真家橋本貴雄とお母さん、といった「ふたり」もいます。
あるいは、リンガラ語を教えるジャックと、入管法改正反対のデモで知り合ったまきさん。難民申請が認められず、何かと不便を強いられるジャックを世話するまきさんの姿が、とても可愛らしく捉えられています。ふたりが歩いているところを撮影していたとき、急にふたりが踊り出しました。
「ダンスしているとだんだん楽しくなってきちゃって、ベンチに座っているみんなを、おーいと呼び寄せて、みんなでジャックに母国のダンスを教えてもらいながら写真を撮った。」写真って、こんなにもその人の姿を生き生きと、眩しく捉えるアートなんですね。
そして、子育てに家事に仕事にと、駆けずり回る主婦りえちゃんとあいちゃんの「ふたり」の撮影現場をこう書いています。
「自転車で現れた二人の姿は、毎日を戦う多機能搭載のマシンを乗りこなしているように見える。かっこいい。りえちゃんはベージュのカッパ。あいちゃんは黒のカッパという戦闘服」どこでも見かける子供が同乗できる自転車に乗った女性ふたりの、笑顔が眩しいのです。
撮影技術がどうとかいう以上に、ストレートに人間を見つめることができる彼女ならではの写真集です。
著者の東直子は歌人で作家。当店でも人気の、絵本作家町田尚子の「わたしのマントはぼうしつき」の文章も担当しています。
「レモン石鹸泡立てる」(共和国/新刊1980円)は、書評&エッセイ集ですが、歌人らしく多くの歌が紹介されています。
与謝野晶子の「みだれ髪」の歌、
「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」
に、こんな文章が続きます。「夜桜見物を一度だけしたことがあるが、結構寒くて、じっと座ってるとガタガタ震えてくるし鼻水は出るし、思うほどロマンチックではない。けれども人はうつくしいと思う気持ちは、この歌を胸に抱いていたために失わずにすんだ。」そして著者は、「こよひ逢ふ人みなうつくしき」の言葉を呪文のように唱えながら現地に向かうと、前向きになり好意的に人と会える気持ちになると言います。
「自分の気に入った詩の言葉を心の中でつぶやく行為は、願いを叶えるための呪文を唱えることにとても似ている。短歌を知る、覚えていくと言うことは、自分の気持ちを保つための言葉を確保していくことでもあるのだと思う。」
短歌だけでなく、取り上げられた小説の書評も素直な言葉で綴られていて、読んでみようかなと思わせるものばかりです。わたしも好きな堀江敏幸の「めぐらし屋」について、堀江の文章を読むと心が落ち着くと書いています。
「堀江さんの本を開いてその言葉を追っていると、沸騰しかかっていた心が、必ず鎮まってゆく。ゆっくりじっくり読むことで入ってくる世界の景色や揺れ動く気持ちを現す言葉は、穏やかな生き物のように安定した呼吸をしているようで、安心する。」
この評価は、そのままこの本にも当てはまると思います。著者の言葉は、心から安らぎます。美しいものがぎっしりと詰まった本です。
1923年、アイルランドのイニシェリン島が舞台の映画です。この島、商店が一軒だけ、工場もなければ娯楽施設もありません。島の人々が行く所といえば、たった一軒あるパブだけ。折しも、アイルランドでは内戦が勃発していて、遠くの方で砲声が聞こえて来ます。
島に住むパードリックは、2時に開店するパブに行くぐらいしか楽しみがありません。そこには、長年の親友コルムがいて、いつも馬鹿話をしていました。が、ある日、急にコルムが絶交宣言!します。はぁ?何で…….?理由を聞いても教えてくれず、それどころか、おれに話しかけたら自分の指を切り落とす!と言うのです。そして、本当に親指を切り落とし、パードリックの玄関に投げつけてしまいます。
なに、この関係?どんよりと垂れ下がるような分厚い雲、吹き上げる風、寒々しく荒々しいアイルランドの自然の中に、私たちは放り込まれて混乱して、突き進む男同志のいさかいの行き着く先を凝視することになります。
コルムは、残りの人生を意義あるものにする、だから馬鹿話は辞めた、お前とは絶交だ、というのですが、ずいぶんと極端な話です。頑迷なコルムに、徐々にパードリックの方も正常でいられなくなってきます。コルムあんたやりすぎやで、と画面に向かって言いたくなるのですが、状況は痛ましい方へと進んでいきます。さらに片手の指を全部(!)切り落とすコルム。悲惨といえば悲惨なのですが、ちょっと引いてみると、喜劇にも見えてくるのです。他人の悲劇は距離を置くと喜劇に見えると言われるのは、こういうことなのかと思います。
深刻さと滑稽さが同居する映画とでも言えます。私自身はとても面白く観ました。今年のアメリカの映画賞「ゴールデングローブ賞」をミュージカル、コメディ部門で受賞しています。
蛇足ながら、動物好き、特に愛犬家にはぜひご覧いただきたい。映画のポスターで、コルムの側に寄り添う愛犬が、名演技?です。
山田詠美の自伝的物語「私のことだま」(講談社/新刊1650円)は、とにかく面白い!
文学少女時代から始まって学生漫画家時代、夜の街で挫折と高揚を味わった新宿、六本木時代、作家デビュー前の横田基地時代、そして誹謗中傷、バッシングだらけの文壇デビュー時代を経て、実力派の作家として活躍する今日までの姿を描いています。
デビュー作品「ベッドタイムアイズ」(1985年)は、黒人兵士とクラブ歌手の恋物語ですが、物議を醸し出しました。大胆な性描写や、黒人と交わる日本人女性というシチュエーションが大きく取り上げられ、六本木で外人と遊びまくる恥知らずな女としてメディアで取り上げられました。山田がソウルやジャズの熱心なリスナーだったことを知っていたので、読みましたが、恥知らずな女というレッテルは論外です。
もし、小説の男性が白人だったら、おそらく問題がなかったのでしょう。アングロサクソン系白人には頭が上がらんが、黒人は違う、そんな輩の下半身の相手をするとは!というのが、その当時の男性メディアの捉え方だったんでしょうが、確か国賊呼ばわりした政治家もいたはずです。
「あの頃、ある種の人々は、私を痛め付けるために『大和撫子』という言葉を散々引き合いに出した。だから今でも、その言葉が身の毛もよだつほど嫌いだ。サムライのような日本人の男の素晴らしさが解らない馬鹿女と書いて来た人もいた。サムライって、人殺しが許されていた特権階級の殿方のことですよね?」と切り返す。
著者の知り合いで、”ばか女”とレッテルを貼られたマキという女性の恋の相手が湾岸戦争の戦場へ発っていきます。著者もマキも、横田基地の側に居る女たちは戦争が身近です。夫やボーイフレンドが横田勤務の軍人で、彼らが戦地に行くのを心配している女たちを、はしたない女と罵った男たちにこう言います。
「ふざけるな、と私は改めて思った。私と私の小説を悪しざまにののしったほとんどは、いわゆる『団塊の世代』と呼ばれた男たちだ。彼らは、かつて『戦争を知らない子どもたち』という歌を高らかに歌い上げた。知らないなら、いばるなよ。マキを始めとしたあそこにいた女たちは、少なくとも知っている。戦争によって奪われる、大事な愛のありかを知っている。」
その一方で、彼女を支持する人たちも増えてきます。男の嫉妬の浅はかさを笑い飛ばした野坂昭如、師匠として尊敬していた宇野千代や、金井美恵子など作家や、若手編集者たちとの交流が、和やかに描かれていきます。だから読んでいて、散々叩かれたけれど、いい人たちに巡り合ったんだと拍手したくなってきます。
最後に覚えておきたい文章を一つ。
「『権威であることと、権威的であることは、ぜーんぜん、違う!』 これ、である。実力の伴った権威はクールだが、権威的な奴らは、人としてみっともない。そして、本物の権威は偉ぶらないが、権威的な人間は、人を見下す」
小説家や文芸評論家だけに限らない。いますよね、政治家にも、そこにもあそこにも…..。
panpanyaが描く世界はとても不思議です。登場する人物たちは、今日マチ子のコミックの主人公たちの様に、透明で全く厚みのない造形なのですが、背景になる町の様子は、徹底的に描きこんであります。新作「模型の町」(白泉社/新刊1070円)も、その世界に変化はありません。
表題の「模型の町」4部作は、同級生が自由研究で自分たちが住む町のジオラマをつくりあげたのを見て、主人公の少女が町を巡るもの。模型は、牛乳パックで家を、マッチ箱で自販機を、ティッシュの箱で団地を、それぞれ見立ててできています。この「町」が主人公のコミックといっても差し支えありません。何か事件が起こるわけでもなく、模型と、実際の町を比較するだけのお話なのですが、なぜか面白い。
この作家、ひょっとして町歩きオタクか?特徴のないどこにでもある町の情景を、全く新しい視点で描き出してくれます。近所の通りでも歩いてみようか、という気分にさせてくれます。
ほかに「ここはどこでしょうの旅」シリーズというのも、何作か収録されています。こちらは女の子と白い犬が、全く知らない町にひょっこりと現れて、ここはどこだ?何ていう町?ということを調べて、やはり町を彷徨うのです。
panpanyaの作品は、熱心な愛読者になるか、全く読まないかはっきりと分かれると思います。私は、最初から好きでした。「蟹に誘われて」「枕魚」「魚社会」とかタイトルだけでも??な作品など、のめり込みました。
シュールで、幻想的で、なのに何だか妙にリアルな世界。異次元の世界に迷い込んだ感じをぜひ楽しんでいただきたいものです。