先日ご紹介した「我が友スミス」(売切れ)に続いて、すばる文学賞」受賞作品のご紹介です。高瀬隼子「犬のかたちをしているもの」(古書/800円)です。
高橋源一郎が「小説でしか表現できない、思考と文体を駆使しなければならない『複雑さ』が、この作品の一番いいところだ」と称賛の言葉を帯に書いていて、なんか難しい文体や表現が織り交ぜてある小説と思いきや、言葉も文体も平易でした。
しかし、物語はかなり変わっています。主人公は間橋薫という名の女性です。「陰毛切ってた。明日、検診に行くから」というリアルな場面から始まります。彼女は卵巣に病気があって、その検診のための準備中。田中郁也という塾の教師と同棲しています。
ある日、彼女は郁也に呼び出されます。そこにミナシロさんという女性が同席していました。そこで、薫は彼女が郁也の子供を身ごもっていることを知らされます。だから別れろという話かと思いきや、「間橋さんが育ててくれませんか、田中くんと一緒に。つまり、子どもを、もらってくれませんか」という要望をさらっと言われます。
え?と思わせる展開です。実は、薫は好きな男性と暫くはセックスができるのですが、ある時点を境に心も体もセックスを放棄してしまうのです。「わたしの女性器は血を吐き出すところであって、郁也を受け入れる場所ではなかった。」のです。
そこへ降って湧いた「彼の子供」の話。そのままの二人でいられるのだろうか、という疑問を持ったまま物語は進行していきます。薫には幼少の時、全身全霊で愛したロクジロウという愛犬がいました。「わたしはロクジロウのように子供を愛せるのか。」薫はミナシロさんと二人で会い、話をします。中絶を考えなかったのかという問いかけにミナシロさんはこう答えます。
「こないだも言いましたけど、単純に、こわいから嫌なんです。だって、掻き出すんでしょ?一応、生きてるものを。人間じゃないって法律で決まっていて、堕ろせるわけだから、なんか感覚として一応、って感じです。堕ろすのがこわいのは、その一応の命がかわいそうだからというより、自分の体の中から掻き出されることと、そのことで自分が受けるショックが想像できるからです。身体感覚として、異物が入ってきて、出ていくわけでしょ、こわいです。」
女性の身体感覚、セックス、妊娠を極めてリアルに描いているのですが、男性の生理感覚では理解しがたいものもあります。が、面白い。
「わたしは、子どもを作って育てて産むことは、全部女だけのもので、どこにも男に明け渡す部分はないように感じていたけど、産み落として外に出してしまうと、男が関わってくるのだった。郁也はフィクションみたいだった。おれたちの子どもになる子だよ。名前、一緒に考えよう。そこには何のリアルもない。血を出したことのない人間の発想だと思った。」
セックスの後に続く出産、子育ての世界を、新しい言語と思想で語ろうといた小説です。わたしは面白く読みました。ちなみに著者は1988年生まれ。立命館大学文学部卒業です。
第46回すばる文学賞受賞作品です。(集英社/新刊1590円)
ある日「ルームシェアっていうの、やらない?」と、聞かれた38歳のOL平井。誘ったのは、3Dプリンターで亡くなった愛犬のフィギュアを作って飼い主に届ける41歳の菅沼。元々、あるアイドルの追いかけで知り合った二人は、コロナが猛威を振るう中、一緒に暮らし始めます。それは心地よい暮らしの始まりでしたが……。
著者はその心地よさを、ほんのちょとしたなんでもない日常の細部の描写から描いていきます。「トイレットペーパーが残機1です」などという会話にもユーモアがにじみ出ています。
しかし、平井の心の中には、「これまでの人生で、わたしは男性に一度も恋愛感情を抱いたことがない。 大学生と社会人三年目の頃に、交際を経験したことはある。どちらも、相手のことが全然嫌いではなかったのに、『嫌いではない』を超えられなかった」という気持ちが同居しています。
一方の菅沼は両親の泥沼離婚を経験していて、結婚を「負ける可能性の極めて高いギャンブル」と決めていて、自分の結婚は眼中にありません。そんな二人が同居を開始する。平井は、それを結婚、出産や未来のことを諦めることになると感じていました。
物語は二人の生活を中心にして、卵子を凍結している平井の心情の変化を描いていきます。「本当に一人の人間を産んで育てたいのか、それがどれぐらいの重さなのかわかっているとも思えない。でも、その考えはわたしの頭にこびりついた。わたしの、産みたさは、一体どこから来るのだろう。」
平井は、時々死んだふりをします。
「わたしは死んでいる。だから、この世で起こっているすべてのことから無関係だ。死んだ犬たちのことを考えた。飼い主に溺愛されて、死んだ犬たち。まやかしの身体をフィギュアとして現世に残し、あの世では魂の尻尾を振りながら駆け回る。わたしの魂も、犬たちと一緒になってはしゃぎまわる。」
現世でわたしの魂は空っぽなのだという平井に、著者は、いやあなたの実人生は充実しているんだなどと強引な転換を持ち込むのではなく、空っぽそのものを肯定してゆくように仕向けていきます。
「がらんどう」という言葉は、平井の言う「空っぽの人生」を象徴しているようです。しかし、世間の価値観やら、常識にとらわれることなく、だから何のさ、と自らを受け入れてゆく。結婚、出産、家族等々、どの形にもはまらないけれど、それが私だと彼女が認めること。そこにこの小説最大の魅力があります。
上村亮平が、すばる文学賞を受賞した「みずうみのほうへ」(集英社/古書650円)は、いわゆる純文学純度の高い作品です。帯に江國香織が「完成度が高く、作品世界に手ざわりがある。」と書いています。
「ぼく」の七歳の誕生日、父と一緒に乗った船上で父が忽然と消えます。「ぼく」が、たった一人船に残されるところから物語はスタートします。この小説は、登場人物に名前がありません。唯一名前で登場するのはサイモンですが、彼は、船の甲板で父と遊んだゲームに出てきた男の名前です。伯父に引き取られた「ぼく」は大人になり、ゲームに出てきたサイモンと同じ名前の男に出会います。
ぼくが大きくなるにつれて、同級生の女子やら、憧れの女性が登場してきますが、すべて彼女、もしくは女の子という表現です。だから、どれがどの女性なのか判別できず、さらに時制が、過去と現在を行きつ戻りつするので、迷路の中で立ち往生してしまいそうでした。もちろん、舞台設定に具体的地名がありません。おそらく東ヨーロッパの港町とか、アイスホッケーを見に行くシーンが登場するのでカナダのどこか、或は北海道の漁港……..。とにかく具体的な名称は、消されています。こういう小説って、ちょっとなぁ〜と思われる方もおられるかもしれません。でも、こんな文章を読んでみて下さい。
「空には白い月がでていた。くっきりと夜を切り抜いたような月だ。染み出した冷たい光が空をのみこんでいる。灰色のあばたもよく見える。月が夜気を放射しているのを見ていると喉の奥を寒気が滑り落ちた。空気が薄くなり、時間もすうっと潮のようにひいてゆく。」
静寂に満ちて、冷たさと鋭さが見え隠れする文体で進行します。ダラダラ読んでいると、足下をすくわれてしまいそうです。最後まで登場するサイモンという男の、不気味さと優しさに戸惑いながらも、私はこの本から離れられませんでした。どこへ連れていかれるんだろう、その不安が楽しみな一冊でした。
「月は完全に満ち、ひとつの世界が閉じた音をぼくは聞く。ベンチにうずくまったまま、じっとしている。次から次へと、魚の亡骸が、にぶい地鳴りのような音をたてながら目の前に積もっていく。腕を親指ほどの肉片が芋虫のように這っている」などというおぞましい文章も、そこだけ突出しているわけではなく、この不思議な物語の一部を構成しているのです。月が妖しく光り、ぼくの前に度々現れる湖の静かさが強く残る物語です。
著者は1978年大阪生まれで、関西大学を卒業。神戸在住。是非、関西弁で不可思議な物語を紡いで欲しいものです。
大/1080円 小/864円
売上げはARKに寄付いたします。よろしくお願いします。(写真展は23日までですが、カレンダーは在庫が無くなるまで販売します)
カレンダーの犬や猫たちついては、撮影者の児玉さんのブログにも書かれています。