人類学者として活躍中で、ミシマ社からも「うしろめたさの人類学」や「くらしのアナキズム」を出している松村圭一郎の新刊「小さき者たちの」(ミシマ社/1980円)は、ちょっとそれまでの本とは毛色の違う一冊です。
「本書では、私が生まれ育った九州・熊本でふつうの人びとが経験してきた歴史を掘り下げようとした。とくに私が地元でありながら目を背けてきた水俣に関するテキストを中心に読みこみ、自分がどんな土地で生をうけたのか、学ぼうとした。そこには日本という近代国家が民の暮らしに何をもたらしたのか、はっきりと刻まれていた。」と、「はじめに」で書いています。
ここには、悲惨な水俣病の姿を記録したもの、チッソとの訴訟に関わった者の心情をつづったものなどの生々しい文章が数多く登場します。ただ誤解のないように言っておきますが、本書は、水俣病事件を再現したものではありません。国家や企業に蹂躙され、生活を破壊された、著者のいうところの”小さき者”の声を吸い上げて、真摯に耳を傾け、自分自身のこと、この国のことを考えた本なのです。
「問題の本質は、認定や補償ではない。世界に生かされて生きている。命がさまざまな命とつながって生きている。それを身近に感じられる世界が壊され、命のつながりが断ち切られた。水俣の漁民や被害者たちの『闘い』は、この尊い命のつらなる世界に一緒に生きていこうという、あらゆる者たちへの呼びかけだったのだ。」
著者は、水俣病の対策に取り組んでききた原田正純医師の著書「水俣が映す世界」の中から、「水俣病の原因のうち、有機水銀は小なる原因であり、チッソが流したことは中なる原因であるが、大なる原因ではない。水俣病事件発生のもっとも根本的な、大なる原因は『人を人とも思わない状況』いいかえれば人間疎外、人権無視、差別といった言葉でいいあらわされる状況の存在である。」という文章を取り上げています。
『人を人とも思わない状況』、これはグローバル経済という美名のもと、世界中で起こっていることです。平気で人を切り捨ててゆくことは、この国の派遣労働者や介護の現場で、日常茶飯に起こっていることです。だからといって行動を起こせ、などということは一言も本書には書かれていません。美しい言葉や甘い誘惑で擦り寄ってくる権力者たちに騙されないようにするために、過去を振り返って、見直す重要性を説いている本だと思います。
水俣出身の作家石牟礼道子著「椿の海の記」から抜粋した、「銭というものは信用で這入ってくるもんで、人の躰を絞ってとるもんじゃなか。必ず人の躰で銭とるな。」という言葉が、心に残ります。人を過労死においやってまで利益を上げる企業が蔓延る世の中への痛烈な批判です。
近代政治思想研究・中島岳志と料理研究家・土井善晴のコンビの本は「料理と利他」がすでに出版されていますが、「ええかげん論」(ミシマ社/新刊1980円)はその深化版といった趣の対談集です。
フキノトウの天ぷらの話から対談はスタートするのですが、料理、特に日本料理のことを語りながら、話は様々な世界へと広がっていきます。
「河井寛次郎も『石が歩いてくる』『石が笑っている』と書き残しています。そこには、石を自分と対等に思うような感覚があるでしょ。器に対してもそうで、こうやって、器と手をつなぐんですよ。だから、『料理と利他』でもお話ししたように、お湯飲みやお椀にも、コーヒーカップのような取手(持ち手)がないのです。私たちの手や指がそのまま取手になるんです。」
土井は、どんな器も手に持って箸で食べるという所に、人と物、人と自然をつなぐ日本的感性を見出します。また、料理研究家としての知識と経験から、土井は「一緒くたにしないというのが、本当に大昔から、日本の文化にはあると思います。それが『和える』ということにつながる。それぞれの個性を大事にして、ひとつの鉢に合わせる、『和える』という『混ぜる』とは違う文化が、日本の文化だと言えるわけですよね」と、日本文化の特質に言及します。
ところで、タイトルにもなっている「ええかげん」ですが、大阪出身の中島は、小さい時に言われた「ええかげんにしいや」について、「『ええかげん』というのは、『いいかげんな人だ』という時の『いいかげん」ではなくて、程よいかげんですよね。」と土井に語りかけます。
それに対して土井は「そうです。『自分でええかげんにしいや』と。『自分で考えや』という意味ですよね。いいところを自分で見つけて、考えてやりなさいっていうのが、『ええかげんにしいや』なんですよね。」
どうです?「ええかげん」のネガティブな響きから、違う世界が見えてくるでしょう?この本の魅力は、二人が口にする言葉が交差し、ぶつかり合い、より高い次元に連れて行ってくれることだと思うのです。
最後に中島がこんな文章で締めくくっています。
「『平凡であること』『ふつうであること』を丁寧に持続させる精神こそ、『非凡』な経験知が宿っている。だから、自己の能力の過信を諌め、日常を大切にすること。身近な世界に慈しみの心を持ち、身近な人との関係を丁寧に紡ぐこと。そんな何気ないことのなかに、人類の英知は潜んでいるのだと思います。 土井さんの話に耳を傾けていると、『ええかげん』という言葉以外にも。『ええ塩梅』や『あんじょうやる』という言葉が出てきます。これが土井さんの口から出てきたとき、私はうっとりしてしまいます。」
はんなりした関西弁を読むと、(私も関西人なのでそれが音として耳に届くのですが)成る程なぁ〜とうなづくことが数多くある本です。
私は「癒し」という言葉が嫌いです。書店員時代に出版営業の人が、この言葉を連発すると不機嫌になったもんです。なんか胡散臭さを感じてしまうのです。しかし、京都在住の数学者森田真生のエッセイ集「偶然の散歩」(ミシマ社/新刊2200円)には、「癒し」という言葉を使いたくなりました。
京都市動物園にいた長老ライオンのナイルが25歳で死にました。著者の3歳になった長男にこのことを伝えた時(ナイルは家族にとっては大切な存在だった)、ちょっと考えて、真剣な表情で、
「『お空の上にいくってこと?お空の上からずっといまも見てるのかな』と、最後は少し明るさを取り戻しながら、どこか遠くを見つめるような目で聞いた。」
「人は、死ぬとどこに行くのだろうか。昨年末に祖父が亡くなったとき、僕は祖父の動かなくなった身体を前に、あらためてこの問いと向き合うことになった。」と、子どもとの会話から祖父の死の話へと入り、「死後の魂は、人間の限界など軽々と超えて、木々や鳥たちと交わり、遠い時空の彼方へだって、きっと自由に飛翔していくだろう。人間らしい個性に束縛されることなく、いまは伸びやかに、万物と融け合っていてほしいと思う。」と書きます。
第1章「プロムナード」は、2017年の夏から冬にかけて日経新聞夕刊「プロムナード」コーナーに連載されていたものです。「プロムナード」は、フランス語で「散歩」という意味。著者は「週に一度、日々の『散歩』の記録を書き残していくように、言葉と向き合う半年間だった。」と言います。だからかもしれません。書斎から生まれたものではなく、子どもの声、風のささやき、めぐる季節の雰囲気など、いつにも増して優しさが溢れているのかもしれません。
本書では、日々大きくなり成長してゆく子ども達に驚き、その子どもに教えられる父親である著者自身の文書も沢山掲載されていて、どれも微笑ましいものがあります。
「花に呼びかけ、石に驚く。子どもはじっとその場で、自分にないものの声を聞く。僕たちも、いまよりももっと、人間でないものたちから学ぶことができるはずなのである。」
ダークな気分のとき、落ち込んだとき、この本を片手に散歩に出かければ、気分が少しは変わるかもしれません。そういえば、こんな素敵な言葉も見つけました。
「静かで節度ある生活は、絶え間ない不安に襲われながら成功を追い求めるよりも多くの喜びをもたらしてくれる」
これ、かのアインシュタインが来日したとき、部屋に手紙を届けにきたベルボーイにチップ代わりに手渡したメモだそうです。
小山晢と藤原辰史、二人の歴史学者による「中学生から知りたい ウクライナのこと」(ミシマ社/新刊1760円)は、長期化しそうなウクライナの戦争のことをもう一度原点に戻って、他人事ではなく考えるのにベストな一冊でした。
「歴史がくりかえしてきた重要な問題のひとつは、たとえば日本のような戦場から離れた国に住む人びとの、当事者意識の減退と、関心の低下、そして倦怠ではないか、つまり『胸の痛み』が持続しないことではないか、ということです。」と、藤原が「はじめに」で書いています。
もちろん、映像などで惨状を見ると、胸が苦しくなってくるのは間違いないのですが、確かに「胸の痛み」を「持続」させていくのは、難しいことかもしれません。
さらに藤原は、「仮に戦争が終わっても、ウクライナ復興のための未来志向の投資、政治、追悼イベントが大々的にはじまるでしょう。そうやって、大切な存在を失った痛みを死ぬまで抱えつづける遺族を置き去りにして日常を回復する、第二の暴力の加担者に、テレビで胸を痛めていた人たちが加わることこそが歴史の常道であり、本書が避けたいと思っている心のありようです。」
どきっとする文章です。
本書は、両氏のオンラインでの講義と対談、藤原のウクライナ侵攻前後に発表したエッセイとで構成されていて読みやすい。複雑な政治情勢と民族問題が重なり合い、多くの情報が入り乱れている状況ですが、本書を読んでいると、押さえるべきポイントがわかり、この戦争をどう捉えるのかが明確になってきます。
例えば「ウクライナ」という名前ですが、小山によれば「ウクライナという単語には、『地域の端っこ』という意味があり、同時に『地域のなか』という風にも読めます。おそらく、今のウクライナ国民は、ウクライナという国名を『地域のなか』という意味で解釈しているんじゃないでしょうか。」
それが、「ロシアから見たウクライナとか、ポーランドから見たウクライナという場合には、ウクライナという地域の名前のもうひとつの意味、つまり、地域の端のほう、辺境にある地域、という意味で解釈する傾向が強かったし、今でも強いと思います。」
つまり、「この地域は、なかからも外からも、いろいろなところから、いろいろな角度で見られてきた地域なのです。」
そういうエリアで起こっている戦争をきちんと捉えることをせず、日本も攻撃されるから核武装をなどと言い放つ政治家の口車に乗ってはいけないと思います。そんな政治家や、マスコミなどに騙されないためにも、一読をお勧めいたします。
現在店内で展開中の「ミシマ社フェア」の本命商品、安田登「三流のすすめ」(1760円)を会期中に読むことができました。
「本書がめざす人物像は『三流の人』です。三流の人になりましょう!というのが本書の主張です。」ただし、「一流」はもちろん素晴らしいし、目指すことは価値があり、それを否定してはいるわけではありません。
では、著者のいう「三流の人」とは何か?
三流人の理論と実践を、古今東西の古典などから解説していきますが、のっけから、こんな文章にぶつかります。
「いいですか。ここのところをよく覚えておいてください。三流をめざすと、なにもものになりませんせんし、ほとんどのことは役に立ちません。」
おいおい、そんな本を読むのか、と思われるかもしれませんが、コロナでこれまでの社会のあり方や生き方、働き方を木っ端微塵にされた今、これからのあるべき姿は、一流を目指すのではなく、「三流の人」なのです。
三流の人をめざすためには、「ほめられようとしない」「そしられても気にしない」というのは大事だと書かれています。会社にいる間は、昇進を重ね仕事ぶりを認められていた男性が、退職後、地域の活動やデイケアで浮いてしまうことが多々あります。
「会社の中でほめられたり、おだてられたりする機会が多かったのでしょう。会社をやめた後でもそれを期待してしまう。そうするとこういう人になってしまいます。ですから、ある年齢になったら『もう自分はほめられることはのぞまないようにしよう』と決める。かりにほめる人がいても『本心は違うんだ』と思うようにする。」
さて、本書の肝は、第四章以降にあります。四章は「三流の聖典『論語』」です。
「『論語』が三流だなんて言うと怒る人もいると思うのですが、じつは孔子こそ三流人の代表です」と著者は断言しています。ここから、「論語」やその他の中国の古典がどんどん登場してきます。
なんか、難しそう? いえいえ、そんなことは全くありません。漢字大嫌いの私が納得できたのですから、著者の教え方が巧いと言うことですね。
読み終わるのに時間がかかったのは、四章以降をゆっくりと、着実に読んだからかもしれません。
無理やり盛り上げようとキャンキャン騒ぐキャスターのTVオリンピック報道なんぞ消して(しつこく言ってますが)、中国古典の世界に入り込んでください。ミシマ社三島邦弘社長の本展挨拶文に書かれた「あら、三流って楽しいかもね」という言葉に実感が持てますよ。
本日より、安田登著「三流のすすめ」発売記念「ミシマ社フェア」が始まりました。2018年に、ミシマ社のフェアを初めて開催した時同様、今回もギャラリーの壁一面、平台も全部を使い、スタッフ五人が数時間かかって製作してくれました。ご苦労様でした。
安田登氏は能楽師ですが、能楽以外にも多くのジャンルに足を突っ込みながら、面白い著作を連発しています。今回のテーマは「三流」。ご丁寧にミシマ社三島社長が、自らも三流出版社と名乗りをあげる挨拶文を掲げてくださいました。
「三流」とは何か?は、ぜひこの本を読んでいただきたいのですが、店内に「三流人の特徴」が貼ってあります。項目は以下の通りです。
「・飽きっぽい ・ものにならない ・役に立たない ・評価をされない ・求めない ・短絡的 ・究めない」
私などは、見事に合格です。あ、私もそうかもと思われたら、ぜひ一度遊びに来てください。
「ミシマ社のここが三流」と題して具体的事例が写真と共に説明されています。曰く、「オンライン配信をすぐに事業化しちゃう」し、「いろんなジャンルに手を出しちゃう」し、「場所関係なくどこでも本を売っちゃう」し、「シリーズ物が動かず……」だし、「本作り以外のことにも手を出しちゃう」し、「本じゃないものも作っちゃう」など。でも、だからこそ、近年、とても内容のある素敵な本を世に送ることが可能だったということですね。常に楽しく、自由に本を作っている出版社の雰囲気が展示からも伝わってきます。そんな同社が誇る傑作が、所狭しと並んでいます。
そして、「京都書店MAP」の最新バージョンがお目見えです。全て手作りの京都市内地図に、点在する書店を描きこまれた地図は、もう「作品」と言ってしまいましょう。まだ、見たことのない方は、この機会に是非にも見てきてください!
このMAPには、ミシマ社とおつきあいのある京都の書店が「ミシマ社とは?」という問いに対するコメントを寄せています。
「新しい考え方、生き方を提供する柔軟思考の出版社」これは、私のコメントです。本当に、硬直した頭や心を解きほぐすのに最適の本が揃っています。
メッキのハゲたオリンピックなんか観ないで、この夏はミシマ社の本を読みましょう。本企画は、オリンピック終了の8月8日(日)まで、しつこくやってます。
ミシマ社から出た網代幸介「手紙がきたな きしししし」(新刊/1980円)は、子供が読んでも、大人が読んでも、ヒヤヒヤ、ワクワク、そしてハハハッと声を出してしまいそうな絵本です。
古い謎の洋館。そこに手紙を届ける郵便配達のおじさんは、なんか嫌だなぁ〜と思いながら、館内に入っていきます。「きししし」という不気味な音、この洋館に住むお化けたちがぞろぞろと出てきます。手紙がきたことに喜ぶお化けたちは盛り上がり、ついに手紙は最上階に住む主人のところに届くのですが……..。
奥行きと重厚感のある絵は、ファンタジーに説得力を持たせ、おどろおどろしさと、可愛らしさと、はちゃめちゃ感が絶妙にブレンドされています。夢から醒めたようなラストの展開も洒落ています。
雑誌「美術手帖」に、「網代幸介は1980年生まれ。古代文明やヨーロッパ中世に描かれた遺物や神話、寓話などから影響を受け、想像上の人や動物を描いた絵画を中心に、独自の物語を題材とした立体作品やアニメーションなどを制作。作品のなかに経年劣化による物の存在感や朽ち果てていくはかなさを投影し、幻想とリアリティのあいだを表現している。東京を拠点に活動し、これまで国内外で作品を発表。アートワークの提供や装画、演劇のヴィジュアルなども手がけている。」と横顔が紹介されていました。
トホホな表情の郵便配達人と、ドラキュラ伯爵が住んでいそうな、朽ち果てる一歩手前の洋館。次から次へと登場する妖怪たちは、手紙がきた!と舞台で踊りまくり、それにやんややんやと拍手を送る観客のお化けたち。手紙が飛び交い、郵便配達人まで、舞台に引っ張りあげられてしまいます。
子供の時、ちょっと怖いけど、スクリーンに見入っていた暗い映画館の雰囲気を思い出します。
三条京阪近くのギャラリーnowakiさんで、現在この原画を中心にした作品展が始まっています。私も観にいきましたが、やはり原画の迫力は違いますよ!! ぜひ!(7月5日まで)
数年前に「田舎のパン屋が見つけた『腐る経済』」(講談社売切れ)という本をブログで紹介しました。大量生産・大量消費システムの大きな渦の中で、これはおかしい?と思ったパン職人の渡邉格が、自らが目指すパン屋を開店させるまでを描いた本でした。その第二弾とでもいうべき本が、ミシマ社より刊行されました。それが「菌の声を聴け」(新刊/1980円)です。
自家製酵母と国産小麦で、オリジナルのビールやパンを作る著者の店「タルマーリー」。前作では、パン作りに相応しい環境を求めて岡山県真庭市に移住し、パン作りを始めるまでが描かれていました。新作の「菌の声を聴け」は、なんとこの地を離れて鳥取県智頭町へ転居するところから始まります。え?わざわざ車でパンを買いに来る人がいるほど繁盛していたお店を閉めて、さらに山奥へと移住するのは何故?と思われる方も多いと思います。
「『パン工房の外の自然環境こそが大事なのではないか』という菌たちからのメッセージを感じていたからこそ、この智頭に移転してきたのだ。きっと建物の中だけではなく、もっと広い周辺の自然環境を整える必要があるからこそ、人口最少県の中間地、町の面積の93%が森林の鳥取県智頭町に移転した。」と書かれています。
そして新天地で、新しいビール作りに七転八倒する様がユーモアたっぷりに語られていきます。読みながら、菌という存在について、様々なことを学びました。
「野生の菌で発酵させる場合、人間だけでなく菌こそが心地よく遊べるような場を作ることが重要である。具体的に言うと、パンの原料の生産現場やパン工房の周辺環境から、化学物質を排除する必要がある。森、川、田畑…….といった里山を汚染することなく、自然環境を保全していかなければならない。そして発酵に関わる職人は、生活を取り巻く化学物質ー殺虫剤、防虫剤、合成洗剤、化粧品、添加物、化学薬品などーも使わない暮らしを実践する。」
山極壽一氏が「『カビを食べる人』のパンとビール作りが未来の共生社会を拓く」と帯に推薦の言葉を書いています。菌とともに生きることで、我々がこれから自然と共生してゆく術を教えてくれます。
野生の菌は人間がコントロールできないので生産性が悪いと言うのが世間の常識だそうですが、だからこそ相手を知り、仲良くなって、美味しいものを作ってゆく。そこにパン職人の楽しさがあるといいます。
なお、この本では「タルマーリー」女将の麻里子さんがエピローグを書いています。獅子奮迅する夫を見つめながら、本当に身体と心に良い暮らしや子育てを語ってくれます。
これは、中村明珍著「ダンス・イン・ファーム」(ミシマ社/新刊2090円)の最後のページに書かれた言葉です。
著者は1978年東京生まれ。ロックミュージシャンとして活躍していましたが、2013年山口県周防大島に移住して、「中村農園」で農業に従事する一方で、僧侶もしています。この本は、それまでのミュージシャンから、180度転換した島の暮らしを選ぶまでの経緯、そして未知数だった農家としての暮らしぶりを綴ったものです。
「七十五才は新人よのう」
これ、敬老会に入っている方と、これから入る方のやり取り。
150人足らずの集落のうち、30〜40代は自分達だけで、主力の住人は70〜80代。だから、若いというだけで大歓迎されて島暮らしがスタートです。
貯金0円で34才の時に移住。島のジャム屋さんでアルバイトを開始して、移住後一週間で、「オリーブの苗木寄贈と植樹」と「寺で出家」の二つの儀式を通過します。野菜栽培になんども挑戦、寺の修行での激ヤセ、と前途多難な滑り出しですが、著者の性格なんでしょうね。切実なんだけど、おかしくて、どんどん読んでいけます。
「なせばなる」一言で言ってしまうと身も蓋もないのですが、そういうことです。
畑を耕し、島の老人たちと関わり、また、自ら様々なイベントを企画して島の魅力をアピールしたりしながら、著者は「お金」のこと、「地球環境」のこと、「老いる」ことへと視野を広げていきます。農家として、やっていきたいことを地道に続け、トライ&エラーの繰り返しの日々が、充実した人生への道を開いていく。冒頭の言葉は、そんな経験から生まれてきたのですね。
ところで、この周防大島って名前に聞き覚えがありませんか。2018年10月、島と本土を結ぶ橋にドイツ船籍の船がぶつかり、橋に掛けたあった水道管が破壊されて、島の水が出なくなった事故があった場所です。その時の様子も詳しく書かれています。
最後のページに載っている、著者の子供と飼っているヤギの後ろ姿の写真が、なんとも微笑ましく、幸せをもらいました。
西川美和監督の最新作「すばらしき世界」は、完璧な出来がりの人間ドラマでした。主演は役所広司。
闇社会で生き、挙句に殺人事件を引き起こし、刑務所に収監された三上が、刑期満了で出所するところから始まります。旭川刑務所から、身元引受人の弁護士の住む東京へやってきます。ある意味まっすぐなこの男が、どのようにして社会復帰してゆくのかを、私たち観客は固唾を飲んで見守ることになります。
直情的で、すぐに暴力をふるってしまう三上は、一方で他人の苦しみや不幸を見過ごせない正義感があります。目の前の揉め事に対して周りの人たちのように受け流すことができません。別れた妻が言うように、今の世の中では生きにくい人なのです。まして元暴力団、殺人者という経歴は、真っ当な暮らしを確保することが難しい。持病があって生活保護を受けるにも、すんなりと行かないのが現状です。
身元引受人夫婦のおかげで、やっと小さなアパートに住むことができ、職探しをするのですが、なかなか見つかりません。役所広司が、一度は社会から拒否された男の孤独や不安、もがきながら復帰しようとする刑務所から出てきたばかりの男を、それはもう巧みに演じ、三上がそこに生きているとしか見えません。役所広司は、西川監督たっての希望と聞きましたが、おそらく緻密に書き込まれた西川の脚本を、それ以上に具体化していたのではないか、と。役所広司が、積み上げてきたキャリアを、今、この年齢でしかできないという名演だと思います。泣けます。
映画は後半、なんとか希望の見えてきた三上を映し出すのですが、周囲の力と善意でなんとかなりました、とか、努力したけれどまた暴力の世界に戻って行きました、なんていう物語にこの監督がするはずがありません。
作家の角田光代は「正しいもまちがいもない。このようにしか生きられないひとりの人の姿が在る。その静かな重みに圧倒される」とコメントを寄せています。
ところでエンドクレジットの「協力」に、なんとミシマ社さんの名前がトップに出てきます。早速ミシマ社さんに聞いてみたところ、「みんなのミシマガジン」(2021年2月10日)に監督とのインタビューが載っていました。「佐木隆三の長編小説『身分帳』を原案とした本作、4年ほど前に企画が立ち上がった当初、ひょんなご縁からミシマ社も取材などに協力させていただきました。」とのことでした。