クリント・イーストウッドが監督した「ミリオンダラーベイビー」は女性ボクサーが主人公の傑出した映画でした。陰影のある画面、若いボクサーと年老いたトレーナーのドラマが静かに進み、やがて深刻な安楽死のテーマへと向かう、隅々まで丁寧に作られた作品でした。女性のボクサーを描いて、これほど深い感動を誘う作品はもうないだろうな、と思っていたところ………。三宅唱監督作品「ケイコ 目を澄ませて」(アップリング京都上映中)が登場しました。

聴覚に障害のある実在の女子プロボクサーがモデル。障害を乗り越えて栄光を掴み取る感動の物語か、という警戒は無用です。ホテルの客室係で生活費を稼ぎながら、古ぼけたジムで黙々とトレーニングするケイコの日々を、ストイックに描いていきます。映画には、音楽がありません。しかし、そのかわり様々な音が聞こえてきます。特にジムから聞こえてくる音、例えばサンドバッグを打つ音、ステップを踏む靴の音、パンチを繰り出す音。そんな音を聴きながら、私たちはひたすらケイコの日常に付き合います。

ケイコを育てたジムは経営が難しくなり、会長(三浦友和が実にシブい!!)は閉鎖を決めます。将来の見通しの全く見えないケイコは、葛藤を抱え込みます。しかし、映画は彼女の心の中には踏み込みません。多くを語らないケイコの本心は、私たちにも、いや彼女自身にも理解できていないかもしれません。

このジムでの最後の試合に彼女は出場します。しかし、残念ながら判定負け。その翌日、朝のトレーニングをするかどうか迷っている時、建築作業服を着た女性が寄ってきて、どうもと挨拶します。よく見ると試合の相手でした。彼女も建築現場で働きながら、ボクシングを続けているのです。きつい状態でやっているのは自分だけではないと知って、ケイコはふと微笑みます。そして土手に上がり、走り出します。

一人で生きてはいないことを実感した彼女は、職場でも私生活でも少しずつ心を開いていくように予感させます。ケイコが、今後もボクシングを続けるのかどうかわかりません。映画はやはり距離をおいた所から見つめるだけ。でも、それまでほとんど怒ったような彼女の顔が、ほころんでいくのが眩しいラストでした。何と言っても主演の岸井ゆきのに圧倒されました。