今、世界で最も重要なワードといえば、「共生」「多様性」ではないでしょうか。

「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」と、長ったらしいタイトルだけどとても面白い本を出した奥野克己の新作「文化人類学入門」(辰巳出版/新刊1760円)には、「これからの時代を生き抜くための」が、付いています。

著者は「本書で紹介する文化人類学とは、地球規模のタイムスパンの中で変化し、これからも変化し続け、遠い未来には消えてなくなってしまうかもしれない、あるいはさらに別のものになって存続するかもしれない人間を探求する学問分野」と定義しています。

第1章「文化人類学とは何か」から第2章「性とは何か」、第3章「経済と共同体」、第4章「宗教とは何か」、第5章「人新生と文化人類学」、第6章「私と旅と文化人類学」にわたり人とは何かを探っていきます。

基本的に文化人類学者は、研究対象の民族の暮らしに長期にわたって密着し、観察して研究を続けていきます。著者の場合、ボルネオ島の狩猟採集民プナンと長年行動してきた実績を持っています。なぜ、そんな私たちの社会とは全く異なる民族の暮らしや慣習が大切なのか?私たちの社会が作り上げる常識、当たり前のことを一旦白紙に戻し、そうか、こんな社会ならこんな風に人は考え、行動するのかという事実を通して、他の国の人々との共生に進めるのではないでしょうか。

「二〇世紀の文化人類学はそれぞれ異なる文化を同じ地平に置き、地続きで考え、その内部へと分け入ってゆくような視点を手に入れたのです。二〇世紀後半には、それぞれの文化を文化進化論的に縦に序列化するのではなく、横並びにしてどちらの文化より優れているのかということは問わず、いずれの文化もそれぞれ固有の価値を有しており、そのことを認める『文化相対主義』という考え方が広がってきました。これは西洋社会を最も進化した文化とする文化進化論に対する、批判と反省の中から生まれてきた考え方であり、地球上の人類諸社会の多様なあり方を民族誌をつうじて描き出すことで、文化人類学は著しい発展を遂げたのです。」

著者は、例えばシェークスピアの「ハムレット」を俎上に上げ、「相手の側から物事を考えてみるのではなく、自分が慣れ親しんだ考え方ややり方に照らして状況を一方的に判断することは、社会の分断を生み出す原因のひとつにつながります。それは人種主義に基づくヘイト・スピーチなどに簡単に結びつきます。」と論じています。

本書は教科書でもなければ、文化人類学を学ぶための参考書でもありません。だから、読みやすい。そして紹介された多くの民族の暮らしに、ヘェ〜、とかふぅ〜んとか、ええっ!?とか言いながら、多くの考え方があることを知り、それを知った上でともに生きてゆくことの意義を教えられます。

インドネシアのスラウェン島に生きるブギスの人々には、男性でも女性でもない「第三のジェンダー」ばかりか、第四、第五と、五つのジェンダーがあるなどという話にはひっくり返りそうになりますが、脳内を軟らかく、新鮮な状態にするにはもってこいかもしれません。

どこまでも刺激的で面白い本でした。

当ブログでは「マンガ人類学入門」も紹介していますので、興味を持たれた方はどうぞ。

 

人類学者の奥野克己、小説家の吉村萬壱、美学者の伊藤亜紗という手強い三人がリレー形式でコロナ禍の今を論じてゆく「ひび割れた日常」(亜紀 書房/新刊1760円)は、やはり手強く、しかし刺激に満ちていました。

「地球上の一点から飛び出たウィルスは、またたく間に地球全体を覆った。ウィルスは、感染という仕方で、地球規模の接触のネットワークを可視化して見せたのだ。途方もなく複雑なこのネットワークに人間は大きな責任を負っているはずだが、私たちはもはやその全体を想像力によって把握することができなくなっている。新型コロナウィルスは、そんな人間の想像力の果てからやってきた使者に思えた。」

とは、伊藤の主張ですが、まさに「想像力の果て」から飛来した不気味なウィルスの存在によって、それまでの日常に無数のひびが走りました。襲ってくる不安と恐怖を前にして、思考の足場をどこに、どんな風に再構築してゆくべきかを三人が語ってくれます。

生命、自然、生と死、共生、など日々様々な媒体から発せられる言葉を巡って、バトンタッチしながら展開していきます。と、さも完璧に理解しているかのように書きましたが、細部まで理解できたのかと問われれば、自信はありません。彼らの言葉を咀嚼し、ここでお伝えするには、あまりにボキャブラリーが貧弱なのですが、それぞれの論説が大きな一つの流れを形成してゆくあたりは読書の醍醐味でした。

「私たちはすでに、いのちと共生しているのではないだろうか。人が生まれ、そして生き、子を作り、死ぬという変化は、根本的には、意志や努力といった人間的な事情とは関係ないところで起こっている。いのちは自然の営みであり、それと併走することはできても、所有することはできない、生まれるとは、命の流れにノることであり、死ぬとはいのちに追い越されることなのではないか。私たちはすでに、思い通りにならないものとともにある。」

これも伊藤の論です。「生まれるとは、命の流れにノることであり、死ぬとはいのちに追い越されること」という文章が、いつまでも心に残りました。

最後に、各人が推薦する、コロナ時代を踏まえてどう考えるかを教えてくれる書籍が5冊ずつ書かれていて、伊藤さんは宮崎駿漫画版「風の谷のナウシカ全7巻」を推挙しています。

 

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文化人類学者奥野克己と漫画家MOSAのコラボ「マンガ人類学講義」(日本実業出版社/古書1300円)には「ボルネオの森の民には、なぜ感謝も反省も所有もないのか」と、めったやたらに長いサブタイトルが付いています。

奥野は2006年から約1年間、その後も何度もボルネオ島の熱帯雨林に住む狩猟民プナンの元を訪れて共に住み、共に狩猟に出かけました。共同執筆者のMOSAも、短期ではありますが、2019年に、ここを訪れています。その二人が組んで「民族誌マンガ」と命名したのが本書です。

これを読んで思ったこと。世界は広く、文化は深いという、当たり前のことの再確認でした。ボルネオのプナンの民にはモノを所有するという概念がありません。彼らの言葉には、「貸す」「借りる」という言葉がありません。だから、何かを貸しても感謝されないし、借りたものを無くしても反省しない。そう、サブタイトル通りなのです。では、欲張りなのか?と人類学者は考え、彼らの生活を見つめてゆくと、そこには深い意味が隠されていたのです。

彼らは人が死んだ時、遺品はすべて燃やして、死体は土葬し、速やかに離れる。儀式は一切ありません。死者を敬うことはないのか?やはり、ここにも彼らの死生観があるのです。

おかしかったのは、世界の民族の性に関しての調査、研究です。題して「セックスの人類学」。え?そんなんあり??と驚愕の物語がドンドン出てきます。それを未熟なというのか、ヘェ〜おおらかな考えね、と捉えるかは読者次第ですが、笑えます。

また、「アホ犬会議」という章では、「良い犬」と「アホ犬」に区別されることついてご当地の犬たちが論じる、犬好きには興味深いものも描かれています。「アホかわいい犬」を目指す犬が愛玩犬として生き延びるのかもしれません。

プナンの人々を描いたマンガを通して、私たちは生きること、働くこと、セックスのことなどを、もう一度見直してみることになる一冊です。