10年ぐらい前に出た高野和明著「ジェノサイド」には衝撃を受けました。イラクで戦うアメリカ人傭兵と、日本で薬学を専攻する大学院生が主人公で、人類滅亡の危機に立ち向かうという冒険活劇でした。この作家の久しぶりの長編小説が「踏切の幽霊」(文藝春秋/古書900円)です。

「1994年の晩秋、箱根湯本駅の長いホームを、運転士の沢木秀男が歩いていた。」から物語は始まります。沢木は箱根と新宿を結ぶ私鉄に勤務しています。都会の片隅にある踏切で撮影された一枚の心霊写真。この踏切では、列車の非常停止が相次いでいました。物語冒頭に登場する沢木の運転する電車も、踏切に人影を見つけて急停車します。

一方、雑誌記者の松田は、読者からの投稿写真を手掛かりに心霊ネタの取材に乗り出します。当初は乗り気全くなしの状態で取材に入るのですが、調査を進めるうちに暴力団、大物政治家、翻弄される女たちの姿が浮かび上がってきます。ゴーストストーリーで出発したのに、途中からリアルな物語へと変わっていきます。

幽霊となって踏切を渡ろうとする女性の身元を調べようと奔走する松田。しかし、その女性については全く情報が得られないのです。かろうじて「いつも陰気な作り笑いを浮かべ、金のために体を売っていた性悪女」という、彼女を知っていた人たちの証言だけ。

「誰も彼女の素性を知らない。出身地はおろか、本名すら知る者はいない。身元不明のまま死んでいった女は、肉体を持ってこの世に存在していた時でさえ、実態のない幽霊のような生き方をしていたのだ。」

やがて、女性の生い立ちがわかってきます。そこには父親の性的虐待が大きく関与していました。もうこのあたりから物語は、2時間サスペンスドラマ的世界から離れて、彼女の悲しい一生へと向かっていきます。松田は、ようやく見つけた女性の母親の悲惨極まりない話を聞いたあと、母親の人生に思いを馳せます。

「あの人は、これからどうやって生きてゆくのだろう。孤愁と懐旧の狭間で老いてゆく他に、何ができるというのだろう?」

著者は性的虐待という重いテーマを選びました。その重さは読者にも伝わり、残ったまま幕を閉じます。なぜ彼女が幽霊になってでも踏切を渡ろうとしたのを知るラストは、その切なさに涙がこぼれそうでした。

昨年は一年間、三谷幸喜脚本の群像劇「鎌倉殿の13人」を楽しみました。こんな面白さを持った長編小説ないかなぁ〜と思っていたら、奥田英朗の長編小説「リバー」(古書1400円)に出会いました。

初期の「最悪」「邪魔」などから、最近の「罪の轍」まで骨太のサスペンス小説を発表し、そのつど興奮しながら読んできました。本作は、2008年に発表した「オリンピックの身代金」と同じように、様々な人間が関わってくる犯罪小説です。

 群馬県桐生市と栃木県足利市で、若い女性の遺体が相次いで発見されたところから始まります。二人とも同じような手口で殺害され、両手を縛られた上に全裸で放置されていました。発見場所はいずれも、群馬県と栃木県の県境を流れる渡良瀬川の河川敷でした。
それぞれを管轄する警察の捜査刑事たちは皆、嫌な気分がせり上がってきます。両県で十年前にも同じ渡良瀬川河川敷で若い女性の全裸遺体が発見されていて、結局犯人を逮捕できなかった苦い経験があったのです。犯人は十年前と同一犯か、あるいは、模倣犯なのか。

連続殺人事件をめぐり、両県警の刑事やかつての容疑者、その男を取り調べた元刑事、地元の新聞記者、娘を殺された父親、地元の政治家の息子、利権に絡むヤクザ、新たな容疑者などが登場し、それぞれの視点から物語が描かれていきます。まるで、上空にあるカメラがさっと降りてきてそれぞれの登場人物の行動を追いかけているような感じです。

登場する人物たちの行動と心理を細かく描きながら、物語は進んでいきます。しかし新たに浮上した容疑者の内面などは、これだけ精緻に構築した世界の中で、わざと残した空洞のように全くつかめず、その行動からしか想像することしかできません。こういう犯罪小説は、ラストに罪を犯した者の動機や心理も全てはっきり示されるのものですが、本作では最後まで読者はもどかしさに付きまとわされます。

腑に落ちる答えが用意されていてこそ、小説は完了するのですが、それがありません。作者はあえてそうしなかったのだろうと思います。行き当たりばったりの殺人事件が起きる世界に生きているいまの私たちにとっては、リアルな世界に見えてきます。ゾッとする世界に生きているのだ、ということを再認識させてくれる小説です。

 

1990年北海道生まれ、帯広出身の小説家片瀬チヲルは、2012年「泡をたたき割る人魚は」で群像新人文学賞の優秀作に選ばれた作家です。その長編第二作「カプチーノ・コースト」(新刊/講談社1650円)を入荷しました。

タイトルになっている「カプチーノ・コースト」の意味をご存知の方は、少ないかもしれません。本文の中に登場するカメ姉さんが、主人公の早柚にこう説明します。

「波の花って見たことある?海外だと、カプチーノ・コーストって呼ばれるんだって」潮風が吹くと、ふわりと舞い上がり波打ち際に集まる泡。

「初めてみた時、水面に生クリームをたくさんトッッピングしたみたいだなと思ったから、カプチーノ・コーストという呼び名の方が好きなんだ、とカメ姉さんは教えてくれた。」

舞台は日本のどこにでもある海岸です。その海岸付近に住んでいる早柚は、現在休職中。彼女が海岸に行って、偶然にゴミ拾いを始めたことから物語が始まります。そして、同じようにゴミ拾いをしていたのが、広告代理店に勤務する通称カメ姉さんでした。

そうか、海岸のゴミ拾いをしながら、自分を見つめ直して社会復帰する癒し系物語か、というと違います。じゃ、社会復帰できずに、ズルズルと時間を消費する主人公の内面に入り込むお話かと思えば、それも違う。

「会社には行けない、けれど家にもいられない。右にも左にも行けないまま、暗い場所に留まって目を回しているばかりで、行動も決断もできない自分はずるいと思う。」と、自分を分析しつつ、早柚は「漂着物を拾っている間は無心になれる。自分の体が空っぽのガラス容器になるような感じが心地よくて、早柚はビーチクリーンをしていた。」のです。

同じように海岸のゴミを拾っている人たちと少しづつ交流を持ちながら、彼女は自分の心を整理していく、そのプロセスを静かに描いていきます。やがて休職期間が終わり、以前の職場であるインターネット系の会社に戻っていきます。しかし、そこで彼女は、全く新しい行動に出ます。あっけない終わり方で、昨今のヨーロッパ映画のエンディングみたいでした。

浜辺のゴミをひたすら拾う、ただそれだけの行為を丁寧に描き、その過程で起きた小さな出来事にある時は心を揺さぶられたり、ある時は傷つけたりしながら、彼女は解き放たれていきます。ラスト、網に絡め取られたカメを解放するシーンは、象徴的です。

 

☆年始年末の営業ご案内 12月30日(金)〜1月10(火)休業。 

12/27(火)は営業いたします。

第162回芥川賞受賞作品「背高泡立草」(古書700円)を読みました。舞台は、九州にある小さな島です。

大村美穂は、娘の奈美や兄と姉たちと共に、実家のある島に向かいます。目的は実家の納屋の回りに生えている草を刈ることでした。実家には母がひとりいるだけで、納屋は誰も使っていません。なぜそんなところの草刈りをするの?と奈美は疑問を持つのですが、家族行事として付き合います。

物語は、どこの家庭でも見受けられるようなやりとりを描いていきます。この小説のユニークなところは、昔この島で起こった出来事を、美穂たちの現在進行中の仕事の合間にひょいと差し込むのです。それも誰かの回想とかではなく、何の前触れもなしに話が始まります。最初は違和感を感じましたが、慣れてくると、文章のリズムの心地よさにどんどんと読んでいくことができました。

主人公たちには直接関係がないのだけれど、島の歴史を緩やかにつなげてゆくことで、もう誰もいなくなった家の記憶を描き出します。まるでフランスとか北欧の静かな映画を見ているみたいでした。たった一日だけの草刈りの背景に流れる積み重ねられた長い時間が浮き彫りにされるのです。

ところで、著者の母親が長崎県平戸市の的山大島(あづちおおしま)出身ということで、この地方で話される大島弁を小説の中でも多用しています。

「綺麗かろが?あそこんにきは日の当たるもんね、それけん、ちゃんと咲くとよ」あるいは

「最初に餃子から焼きよると?お肉からの方が良いっちゃない?」といった感じです。温かな方言が、作品に一味付け加えています。

 

 

今年も、様々な優れた長編小説に出会うことができました。先月読み終えた滝口悠生「水平線」もそんな一冊でした(10/7のブログに書きました)。本日ご紹介するのは、遅子建(チー・ズジュン)の「アルグン川の右岸」(白水社/古書2250円)。著者は1964年中国生まれの作家です。

中国東北部の厳しい自然の中で、トナカイの遊牧と狩猟で生きてきたエヴェンキ族の物語です。「私」と書かれている主人公はエヴェンキ族最後の族長の妻。文明の波と共に、部族の長い遊牧生活から定住生活へと向かわざるを得なくなるまでを語っていきます。

多くの家族の誕生と死を見つめてきた「私」は90歳になっても、森の中でトナカイと暮らす道を選びます。元来、彼らはバイカル湖周辺に住んでいましたが、ロシア軍の侵攻に伴ってアルグン川右岸に移動してきます。当時、中国は清国でしたが、やがて中華民国へと変わっていきます。その後、満州国を設立した日本軍が彼らの地域に入り、部族の男たちを軍事訓練に連れ出します。やがて、中華人民共和国の時代となり、国は社会主義体制のもと医療や教育の充実のため定住生活を推進していきます。

全体は4章から成っていて、「朝」「正午」「黄昏」「半月」というタイトルが付いています。トナカイとともに広大な大地を渡っていった時代から、モンゴル自治区の一住民になるまでの「私」の人生と部族の運命を、描き切った350ページ余の力作です。

「わしらのトナカイはな、夏は、露を踏みながら道を進み、食べるときは花や蝶がそばで見守り、水を飲むときは泳ぐ魚を眺めるのさ。冬はな、積もった雪を払って苔を食べるときに、雪の下に埋もれている赤いコケモモを目にすることができるし、小鳥の声を耳にすることができるんだ。」

と、彼らにとって、トナカイがいかに高貴で大切な存在であるかを語ります。彼らの生活はとても過酷です。大人も子供も関係なく、多くの人たちが死んでいきます。それでも、この上なく優しく美しい表情を見せるのも大自然なのです。

最初は、あまり聞きなれない登場人物の名前に戸惑いましたが、部族の家系図が最初に載っているので、それを見つつ戻りつ読みましたが、飽きさせない小説です。読み終わった後も、トナカイを放牧させているエヴェンキ族の人々の姿が心に蘇ってきます。

 

やっと読破した!エライ!と自分を褒めたくなってきます。滝口悠生の長編小説「水平線」(新潮社/新刊2750円)は、全500ページの大長編で、改行も少なく、びっしりと字が詰まっている。読もうか、やめようか迷ったのですが、これは読んでよかった!と心底思える小説でした。

横多平と妹の横多来未は、それぞれ2020年自分たちのスマホにかかってきた不思議な電話を受け取ります。フリーライターでなんとか食っている平は、全く会ったことのない祖母の妹、八木皆子という名前で送られてくる「お〜い、横多くん」で始まるメールに誘われるように、小笠原諸島の父島へと向かいます。太平洋戦争末期、彼らの祖父母は、疎開で故郷の硫黄島を離れていました。もう亡くなっているはずの皆子のメールが偽物である可能性は高いのに、なぜか彼は父島を彷徨うのです。

一方、妹の来未はパン職人として独立を考えています。そんな彼女の元にかかってきたのは祖父の弟と名乗る三森忍からでした。しかし、彼は日本軍に現地徴用されて戦死しています。

「相手は七十五年前に死んだ十五歳の少年であり、まずもってそんなひとからちょこちょこ電話がかかってくることじたいが怖いのだが、かかってきてしまうものはかかってきてしまうし、応えて話せば話せてしまうもので、三森忍さんの言う通り、電話というのは本当に便利だと思う。」などというダラダラした状態で、世間話を続けていきます。

一歩間違うと怪談になってしまう設定ですが、そこから祖母イクや祖父の弟の同級生の重ルが登場し、交互に自分たちの生きた歴史を語ってゆきます。それはそのままこの国の現代史の姿へと繋がっていきます。

今ここにいない者たちが、電話で、あるいはメールという実態のないものを介して、現代に繋がる存在として登場し、語らせるという手法で小説は続いていきます。細密な描写は、まるでドキュメンタリー映画の優れたカメラワークを見ているようでありリアルなのですが、魔術のように立ち上がる、戦争を生きて死んでいった者たちのモノローグに幻惑させられていきます。

こういう書き方をすると、多重的な意味を持たせた言葉や複雑な構成を持つ幻想文学の洪水に遭遇するのではないかと、躊躇されるかもしれませんが、そんな心配は全くありません。極めてリアルにリアルに描かれた世界に、ふらりと現れる死んだ者たち。この一家の人生が交差していきます。図書館で借りてでも読むべし!

 

Tagged with:
 

安倍元総理の政策の失敗は色々あったと思いますが、言葉でできた本という商品を扱っている者にすれば、この人ほど日本語の品位を傷つけた人はいません。ペラペラの薄っぺらい真実味のない言葉だけが流れ落ちていたように思います。国葬の日、うっとおしい気分をどこかにやってくれ、という思いで吉田篤弘の「遠くの街に犬の吠える」(筑摩書房/古書1050円)を手に取りました。

正解でした。

「ほとんど1日も休むことなく言葉を集めてきました。集めて、整えて、分類して、解説する。言葉の奥に隠されたその意味をより正しく解明するために研究をつづけてきました。」

とは、本書に登場する言葉の研究する白井先生の言葉です。先生が元総理の言葉を聞いたら、どんな批判をしていたものか。この長編小説は吉田ワールド満開の、不思議で、ユーモアがあって、所々に哀愁が顔を出し、最後は読者はいい表情になって終わるという世界です。

主人公は、小説を書いている吉田君。自作の朗読の録音で、「遠吠えをひろっているんです」という音響技術者の冴島君と出会い、物語は始まります。どうして録音の仕事をするようになったのかという質問に、

「世界は音で出来ているからです。吉田さんは小説を書く人だから、世界は言葉でつくられていると思われるでしょうが、そもそも、言葉は音からつくられます。というか、言葉の正体は音なんです。音がなかったら言葉は生まれなかったし、音がなかったら文字も生まれませんでした。」

と答えます。小説の後半、音が大きなモチーフになってきます。

吉田君と冴島君、編集者の茜さん、白井先生、そして代書屋をやっている夏子さんの、事件のようなそうでないような、どこまでがリアルでどこまでがファンタジーなのか判別出来ないまま、物語は進行していきます。さらに、そこへ天狗の物語まで絡んできます。でも心配ご無用。著者は、読者をまごつかせません。とても良い塩梅でラストまで連れて行ってくれます。

「新刊書店、古書店、図書館と私がめぐり歩いてきたところは、どこも無数の本棚が並び、気が遠くなるくらい大量の本が溢れ返っていた。 そのすべてが声を持っていた。 書かれているのは森羅万象さまざまだが、そこにはもれなく著者の声が付いてくる。 どれほど事務的に機械的に綴られていても、それを書いた人間がいる以上、書きながら胸中に詠じた声がきっとある。その声が文字に置き換えられて、すべてのページに閉じ込められていた。 世界は本という名の声で埋めつくされ、それらの声を発した人たちは、すでにあらかたこの世に存在していない。ただ声だけがのこされた」

本屋冥利に尽きるこんな文章に出会えば、うっとおしい気分なんてどこかに飛んでしまいました。

 

東京の深窓のご令嬢と、地方から東京へ出てきた女子大生の人生が不思議な縁で交差してゆく物語「あのこは貴族」(古書900円)は、一つ間違えば浮ついたトレンディドラマになってしまいそうな題材です。しかし著者は、その危険を回避しながら、東京という都市の息苦しさと、狭い世界に溺れかけていきそうな女性の人生を見事に描き切りました。

名家のお嬢様の華子は「もし三十を過ぎても結婚できなかったらと思うと、華子は身がすくんでしまう。できるだけ早く結婚しなくては、いい人と巡り合わなくてはと焦りを募らせる。」

着付け学校に通い、そこで仲良くなった女性たちは「なにより妻という自分の立場に対する自負はことのほか強固であり、絶対的だった。アイデンティティのほとんどが、妻であり母であることで占められていて、それは揺るぎない。」華子は婚活へと走り出します。

「東京の街には、しきたりと常識がないまぜになったような共通認識が張り巡らされていて、それは代々ここに住み続けている人たちに脈々と共有されていた」

彼女はそんな認識を身につけた、名家のお坊ちゃん青木に出会います。「東京の真ん中にある、狭い狭い世界。とてつもなく小さなサークル。当人たち以外にはさして知られることもなく、知られる必要もなく、ひっそりしていたが、そこに属していることで生まれる信頼と安心感は、絶大だった。」

そんな安心感に乗せられて彼女は一気に結婚へ向かいます。ここまでが第一部。第二部は「外部 (ある地方都市と女子の運命)」というタイトルで始まります。とある、地方都市から慶應大学に入学した時岡美紀は、大学のゴージャスな雰囲気と、おしゃれな学生たちに目を丸くしながら、学生生活をスタートします。しかし、故郷にいる父親の仕事がうまく行かず、学費を送ってもらえなくなり、彼女はアルバイトで始めた夜の仕事にのめり込み、大学にも行かなくなります。夜の世界で出会った青木とは肉体関係があるものの、距離のある関係を保っています。

ここから、第三部「邂逅(女同士の義理、結婚、連鎖)」の始まりです。美紀は、華子の友人逸子と偶然出会い、やがて華子のことを知ります。一方華子は、豪華な結婚式を挙げたものの、無味乾燥で、ハイソサエティーな者同士の狭い世界にいなければならない状態に、アップアップしています。もともと、自分もその世界の住人だったのですが、美紀と出会い、逸子との友情を通して、見つめ直していきます。この章も下手をすれば、癒しと再生みたいなテーマになりそうですが、著者の筆さばきが見事でした。近松門左衛門の浄瑠璃「心中天網島」がベースラインになっているのです。

山内マリコは、性をテーマにした「女による女のためのR-18文学賞」で2008年読者賞を受賞し、現代女性のリアリティーを描ける作家の一人です。昨年、門脇麦(華子)、水原希子(美紀)石橋静河(逸子)、岨手 由貴子監督&脚本で映画化されました。劇場に行けなかったのですが、TV放映を録画してもらうことができました。観るのが楽しみです!

「知らせを受けて夫が駆けつけた時には、すでに息はなかった。安置室の外では、小さな娘が、靴を片方なくしたと言って泣いていた。」

岩城けい「サウンド・ポスト」(筑摩書房/古書1300円)は、こんなショッキンングな描写で始まります。舞台はオーストラリア。主人公の崇は、友人が経営するレストランのシェフです。妻を亡くした崇には、メグという名の娘がいました。物語は、母を亡くした娘が音楽に目覚め、バイオリンを習い、その道を一直線に進んでゆく姿を、父親の目を通して描いていきます。

この本に若い時に出会っていたら、特に感想を持たずに終わったかもしれません。しかし初老となってきた今日の時点で読むと、味わい深い小説を読んだ!という気分でページを閉じました。英語がよくわからない父親と、フランス語もできるのに日本語はさっぱりの娘が、異国で紡ぎ出す言葉と音楽の物語です。

「五線譜に引っかかって離れない音符も、その曲が生まれたときのことをちゃんと覚えているの。記号も音楽用語も、正確に思い出すためにあるの。メグ、楽譜に書かれていることには、ひとつひとつに意味があります。無駄な音、無駄なしるし、無駄な言葉はひとつもありません。それをどう弾くかは、あなたの心が決める。音楽は心で奏でるものなの」

と、ルーシー先生から音楽について教えられるメグは、日に日に上達していきます。父親の崇も、バイオリンは一音でそれを弾く人間がどんなやつかバレてしまう、と囁く友人の瑛二の言葉を聞いて、メグがその日をどう過ごしたか、その日をどう生きたかがわかるような感触を得ます。

岩城けいの小説は今回初めて読みましたが、登場人物たちのキャラが巧みに描かれていて、これをぜひ渋い役者で映画化して欲しいなぁ〜、と思いながら読んでいました。後半に登場するセルゲイ先生など、レッスンは極めて厳しいのに、時たま見せる優しさとチャーミングさが行間から立ち上ってきます。

そして崇の友人の瑛二は「肩の力を抜いて楽しめとかよく言うけど、肩の力を抜いてのんべんだらりとしているやつに、バッハが、チャイコフスキーが弾けるか?リストがショパンが?譜面見りゃわかるだろ、頭の血管ブチ切れそうになりながら、あいつらが必死こいて、一音一音、自分の血で書いたってことぐらい」と言い放つ好人物として、とてもよく描かれています。

やがて思春期を迎えた娘にオタオタする父親の姿の描写も抑制があって、無理やりドラマチックにしようとしていません。一時、楽器から離れていたメグが、セルゲイ先生の猛練習に耐えて、コンテストに出場し優秀な成績を残します。奨学金を得て、母の母国であるフランスに音楽留学に旅立っていきます。

「トーチャン、音楽って言葉なんだ!」

なんと素敵な言葉でしょう。全く見ず知らずの人々の心に語りかけ、豊かな情感を呼び起こす。優れた文学にも同じ作用があるように、音楽もまたそうなのです。

ラスト、ちょっぴり寂しいシーンが用意されていますが、これもまた人生。

 

 

イタリアで大ベストセラーになった、アルプスを舞台にした長編小説「帰れない山」(新潮社クレストブックス/古書1400円)は、読み終わった時に極上の気分に浸れる小説です。二人の少年が大人になり、それぞれの道を進んでゆくところまでを、北イタリアモンテ・ローザ山麓の自然描写を交えながら描いていきます。

「光の犬」「沈むフランシス」などの著者松家仁之が、

「揺さぶられるほどに懐かしく、せつない読書体験だった。」と帯に推薦文を書いています。

登山好きの父親に連れられて山を歩いてきたミラノ育ちの内向的な少年ペリオは、牛飼いの少年ブルーノと出会います。ペリオの、ブルーノに対する最初の印象をこんな風に描いています。

「彼が来ていることは、姿を見る前に、においでわかった。少年は、家畜小屋や干し草、凝乳、湿った土、それに薪の煙といったもののにおいをまとっていた」

森や山のことを知っているブルーノに引き込まれるように、ペリオは、この地方の自然に魅入られていきます。そして二人は親友になっていきます。渓流をわたり、大自然の匂いに包まれながら、友情を深めていきますが、その一方で、ペリオと父の間には、いつしか深い亀裂が生じます。息子には理解できない父親の人生。

少年時代は終わりを告げ、ペリオはミラノに戻り、自分の人生を模索していきます。ブルーノは、生まれた場所から離れることもできず、黙々と農作業の日々をこなしていきます。そして、青年から中年へと差し掛かった二人は再会します。

「朝陽はグレノンの山頂を照らしているものの、窪地までは届いておらず、湖はまだ夜の気品を保ったままだった。夜の闇と朝の薄明かりのあわいに空があるかのように。僕は、自分がなぜ山から遠ざかっていたのか思い出せなかった。山への情熱が冷めていたあいだ、なにに夢中になっていたのかも。けれど、毎朝一人で山に登っているうちに、少しずつ山と和解できていくような気がした。」

亡くなった父親が、ペリオに残してくれた、半ば崩壊した山の家。そこをブルーノと修繕してゆくうちに父の生き方を理解してゆくようになります。

父と息子の関係、男同士の友情、そして少年が大人へと成長してゆく姿を、クラシカルな手法で、しかも野生的な描写も残しながら語ってゆきます。正統派、直球ど真ん中の作品です。

「僕にはやはり二人の父がいたのだと思った。一人はミラノという都会で二十年間一緒に暮らしたものの、その後の十年はすっかり疎遠になっていた、他人同然の父。もう一人は山にいるときの父で、僕はその姿を垣間見ることしかなかったけれども、それでも都会にいるときの父よりは良く知っていた。僕の一歩後ろから山道を登り、氷河をこよなく愛する父。その山の父が、廃墟のあった土地を僕に遺し、新しい家を建てろと言っている。ならば…..、と僕は心に決めた。都会の父との確執は忘れ、山の父を記憶にとどめるために、託された仕事をやり遂げようではないか。」

物語は終盤、過酷な運命が待ち構えているブルーノの人生へと向かいますが、山の民ブルーノらしいと納得です。山を通じて二人の人生を描く傑作でした。これ、いい役者で映画になって欲しいものです。きっと号泣します。