岩手県大槌町。東日本大震災発災時、町庁舎に残っていた町職員幹部ら数十人は、津波接近の報を受けて屋上に避難しようとしたものの、約20人が屋上に上がったところで津波が到達。町長と数十人の職員は間に合わず、庁舎を襲った津波に呑み込まれて、そのまま消息が途絶えました。
この地に生まれ育った菊池由貴子は、震災の後、たった一人で、大槌町のことだけを伝える新聞「大槌新聞」の発行をスタートさせます。発行開始から、幕を降ろすまでの10年間を振り返ったのが「私は『ひとり新聞社』」(亜紀書房/新刊1980円)です。
震災前、彼女は様々な病気に苦しめられ、ICUで二度の心肺停止に追い込まれます。なんとか危機を脱したあと、結婚と離婚を経験します。
「離婚後は夢だった獣医のかわりにになるような仕事を見つけられず、自分の存在意義を見出すこともできないまま、ただ毎日を暮らしていました。津波が来たのは、そんな頃でした。」そのときそこに居た人の津波の描写に言葉が出ません。当然ながら町は大混乱し、正確な情報が伝わらず、住民は途方にくれます。
「大槌町の情報は、町民みずからが書くべきだと思いました。町民目線で書けるのは、そこで暮らす町民しかいません。まちづくりを住民みんなで考えるためには情報が必要です。町の情報は、まずは住民が知るべきで、みんなで共有されるべきです。」
「いつか大槌の新聞を作りたい」と決心し、ここから彼女の新聞作りが始まります。新聞編集ソフトと格闘し、慣れないインタビューをこなします。そして2012年6月30日、これからの町づくりを住民とともに学ぶ新聞が創刊されます。役所が出す公報のような上から目線ではなく、住民たちの日常目線で紙面は作られていきます。
そんなある日、京都新聞社元社長の斎藤修氏から、この新聞が読みたいという手紙が届きます。氏は、活字の大きさや「です・ます調」の文章、大半がまちづくりの情報であることに、これが新聞?と驚いたそうですが、「『これでこそ大槌の新聞だ』と思い直した」のだそうです。
町はやがて復興への道を歩み始めます。しかし、震災後の苦労を共にした町長が選挙で交代し、新しい町長に変わったところから、予期しなかった方向へと進んでいきます。後半は、新しい町長の運営方針がコロコロ変化したり、疑惑が浮上したりして暗雲が立ち込めてゆく様を時系列に追いかけたノンフィクションになっています。おそらくこういう問題は、震災後、方々の村や町で起きていたと思います。
彼女は新聞を続ける理由を三つあげています。それは、「復興情報の発信」「地域課題の取り上げ」「大槌は絶対にいい町になることを言い続けること」です。最初は郷土愛なんてなかったはずなのに、いつの間にか郷土を思う気持ちに押されて、復興の最前線を見つめた一人の女性の姿が印象に残ります。政治家もマスコミも、まるで震災のことは終わったかのような態度ですが、まだ何も終わっちゃいないという事実を教えてくれる本でした。