話題の映画「ラム」を、京都シネマで再上映していたので観てきました。観終わってすぐの感想をタイトルにしました。

とにかく観たことのない映画でした。舞台はアイスランド、荒涼たる大自然が映し出されます。どんより曇った空、吹き付ける風、容赦無く降る雪。日本とは全く違う自然の光景に目を奪われます。

そんな土地で羊飼いとして生計を立てているイングヴァルとマリアの夫婦が主人公です。ある日、羊の出産に立ち会った二人が取りあげたもの、それは頭は羊で下半身は人間という理解不能の生き物でした。映画は、見せる、見せないの駆け引きを巧みに使って、観客を画面に引きつけます。

夫婦は、さして驚きもせず、また恐怖も感じることなく、この生き物をアダと名付けて育てていきます。下手をすれば、グロテスクな怪奇映画になるところを回避して、静かに夫婦の子育てを描いていきます。

夫婦は以前に幼子を亡くしていました。おそらく二人は、子供が帰ってきたという気持ちだったのでしょう。アダは育っていきます。やがて歩くようになり、服を着て外にも出ていきます。ここを訪れた夫の弟に、これは何だ?と問われた時に、イングヴァルは「小さな幸せ」だと答えます。

ローアングルで草原をヨチヨチ歩くアダを捉えた後ろ姿は、可愛らしさに満ちています。しかし、アダを生んだ母ヒツジが、しつこく寄ってくることに我慢しきれなくなったマリアは、母親を撃ち殺し、死体を埋めてしまうあたりから、大きな悲劇へと向かっていきます。

アダが大きくなった時どうするのか、夫婦がこの世を去ったとき、人にもなれず、羊にも戻れないアダはひとりで生きていけるのか。

そしてラスト、マリアは夫もアダも失います。でも、アダは死んだわけではありません。そうか、こういう幕切れか。これしか、ないだろうなアダが生きて行くには……。

吹き付ける風の中で、呆然と立ち尽くすマリアのアップで映画は終わります。辛い….。しばらく、席を立てませんでした。アイスランドが生み出した傑作です。

 

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セクハラ報道後、すっかり見かけなくなった香川照之ですが、「宮松と山下」(京都アップリングで上映中)は、香川の実力を遺憾なく発揮した映画でした。

「新しい手法が生む新しい映像体験」を標榜して立ち上がった監督集団「5月」は、NHK教育番組「ピタゴラススイッチ」の監修やCMデイレクターを務める佐藤雅彦と、NHKドラマ演出家として活躍してきた関友太郎、メディアデザインを手がけ多方面で活動する平瀬謙太郎の3人のチームです。過去に2本の短編映画を制作しましたが、長編映画はこれが初めて。劇場映画で複数の監督が演出するのは、極めて珍しいケースです。

香川が演じるのはエキストラ俳優の宮松。日替わりどころか、分刻みで端役を演じる日々を、カメラが追いかけます。エキストラ俳優の映画のはずが、派手な殺陣で始まるトップシーンに、あれ?違う映画かな?と思ってしまいそうなぐらい、きっちり作られています。物語が進むに従って、何度かエキストラシーンが挿入されるのですが、日々を生きる宮松なのか、それとも役者の彼自身なのか迷うところが、面白いスタイルです。

実は、宮松は記憶が全くありません。過去、どこで何をしていたのか、家族はいたのか、何も思い出せないのです。ひたすら毎日殺され続け、毎日渡される脚本の数ページに書かれている主人公ではない人生を演じているのです。そんな時、彼をTVで見た元同僚がやってきます。同僚によると宮松はタクシー運転手だったらしい。妹がいて、今は夫と暮らしていることを知ります。意を決して宮松は妹に会いにいきます。妹は、宮松も暮らしていた実家に住んでいました。

このあたりから、映画は不気味な雰囲気を醸し出します。いや別に、恐怖を誘うような演出やら音楽というのではなく、カメラがひたすら実家を見つめ、宮松が所在無げに座っているだけなのですが。

そして、とあることで彼は記憶を取り戻すのですが……..。さて何があったのか、これは言えません。過去に、妹の夫から突きつけられた言葉が、心の奥に食い込んでいました。あれは真実だったんだろうか、いや違うはずだ。茫洋としたままタバコを手にする香川の表情から目を離すことができません。そして、地元に引っ越しする段取りになっていたのに、急遽この地を離れ、またエキストラ稼業に戻ります。時代劇の扮装をしてロケに向かうバスの中で、微笑みを浮かべる微妙なアップで映画は終わります。この微笑みは何?見る人に様々な想像をさせるラストシーンです。

単独で映画を引っ張る香川の実力を堪能しました。

スタジオジブリ名プロデューサーの鈴木敏夫は、膨大な量の本を所蔵し、読書量も並外れています。今年京都文博で開催された「鈴木敏夫とジブリ展」で、その蔵書を見ることができました。

「読書道楽」(新刊/筑摩書房2200円)では、展覧会に先立ち、彼の心に残った本のこと、作家との出会い、読書した当時の状況など、読書から人生、時代論へと発展したロングインタビュー(全15時間)が行われました。展覧会は、このインタビューをもとに構成されたそうですが、そこに入りきれなかったエピソードを中心に作られました。

「時代ごとに夢中になった作家は何人かいるなと思ったんです。加藤周一さんはもちろん、堀田善衛さんもそう。 年代順に言えば、石坂洋次郎、寺山修司、野坂昭如、深沢七郎、山本周五郎、宮本常一、池澤夏樹、渡辺京二…….まああげだしたらきりがないけれど、小説家もいれば評論家もいる。 それから忘れちゃいけないのが漫画ですよね。ぼくら団塊の世代は大人になっても漫画を読み続けた最初の世代といわれていて、たとえば、大学時代はちばてつやさんの『あしたのジョー』からすごく影響を受けた。」

と、自分の読書体験を総括していますが、なるほど骨のある作家が並んでいます。「明日のジョー」は、私も読んでいましたが、そんなにのめりこんだ記憶はありません。どちらかと言えば、「サイボーグ009」などを熱心に読んだものです。

鈴木も「SFに夢中になるのって、ぼくらより一世代下ですよね。」と言っていました。そして、続けて、自分たちがヒーローものの第一世代であり、それは「月光仮面」だったと言います。1958年〜9年にかけて民放で放送されたTVドラマです。

大学時代、学生運動が盛んないわゆる「政治の季節」の真っ只中。そんな時に、三島由紀夫が結成した左翼に対する軍事的組織「楯の会」に勧誘された話も面白いし、三島の「潮騒」を、「ジブリで映画化しようと真剣に考えたしね。舞台となる歌島をアニメできちんと描いてみたいと思って。」と振り返っています。ジブリ版「潮騒」って見たかったなぁ〜。

第6章「我々はどこへ行くのか」で、彼は自身の引退について興味深い発言をしています。

「最大の失敗は、『風立ちぬ』ですよ。ぼくが宮さん(注:宮崎駿の事)を説得してつくってもらったんですけど、それは戦争の問題さえ片付ければ、宮さんはもうつくらないだろうと思った」

つまり『風立ちぬ』は、宮崎駿の引退映画であり、自分自身の引退にもなるはずだった。ところが中途半端になってしまった。ここで引退して、好きな本を思う存分読むはずだった鈴木のプランは頓挫しました。

「ひとつは重慶爆撃の問題ですよね。、もうひとつはファンタジーなんですよね。『風立ちぬ』にはその要素が少ないでしょう。そうすると、つくり終えたあとで、やっぱりファンタジーをやりたくなったんです。」

確かに0式戦闘機生みの親を主人公にしたこの長編アニメは、割り切れない部分が多々あったように思いました。本のこと、作家のこと、映画のことなどを縦横無尽に語り続ける鈴木敏夫の魅力満載の本です。

平野啓一郎の小説を石川慶が映画化した「ある男」は、徹底的に画面作りに拘り、力のある役者を見事に動かした骨太の映画でした。

愛して、結婚して、慎ましくも幸せな家庭を築いた里枝は、夫の大祐を事故で失います。一周忌にやってきた大祐の兄は、仏壇の写真を見て「これは弟ではない」と断言します。一体、この男は誰だったのか。里枝は、かつて自身の離婚調停で知り合った弁護士の城戸に身元調査を依頼します。

なぜ、彼は大祐と名乗ったのか。どうして元の名前を捨てたのかということを解き明かしてゆく様がスリリングです。やがて明らかになるこの男の過去。他人になりたかった男の切望を、リアルに描いていきます。

私たちは、過去の膨大な記憶を元に、私たち自身になってゆくのだと思います。いつも近くにいた母親の笑顔、耳元で歌ってくれたおばあちゃんの子守唄、ワクワクドキドキしたお年玉、風を切って友達と走ったこと、初恋、等々の記憶が蓄積されて今の私を作り上げています。笑顔の素敵な人は、きっとそれを与えてくれた生活から恩恵を受けているのでしょう。しかしそんな記憶を持つことのできなかった人生、残酷で悲惨な記憶しかなかったとすれば、他人になってやり直したいという思いがあってもおかしくはありません。

映画は、男の身元を調べる弁護士に肉迫しつつ、彼の心の変化に踏み込んでいきます。城戸は在日三世でした。帰化し、裕福な生活を手に入れ幸せなはずでした。ところが、男の過去を探ってゆくうちに、もう解決したと思っていた自分の出自について考えるざるを得ない状況へと追い込まれていきます。劇中、狂言回し的な立場だった城戸が、いつの間にか主役となり、他の人生を生きたいと望む未来を示唆するラストが心に刺さります。

その一方で、里枝と息子は、数年間の大祐との生活を幸せで充実したものだったと確認して、未来を生きてゆこうとします。その姿に感動しました。

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上映時間70分少々、設定はSFのようでそうでないいい加減さ、誰もいない劇場の舞台のみで物語は進行し、登場するのは18歳の俺と48歳になった俺の二人と少し。なに?その映画??

しかしこれが、泣かせて、最後に大笑い、いや〜人生そうだよね〜と納得させてしまうというウルトラCの離れ業をやってのける。京都出身の谷健二監督「追憶ジャーニー」(京都シネマで上映中)は、基本人生応援歌的なつくりですが、お涙頂戴の湿度は0、乾燥度数は100、物語の吹っ飛ばし方は台風並みという作品なのです。

不思議な物語です。母親と喧嘩して自室でふて寝していた18歳の文也は、気づくと何故か舞台の上にいます。そして隣に見知らぬ中年男が立っていて、「ここがお前の正念場だ!ここ逃すと一生後悔するぞ」としつこく迫ってきます。すると舞台には、文也の幼馴染みで同級生のくるみと、ちょっとセクシーなユリエが登場して、文也にどちらと交際するか迫ってきます。

なんだこれは夢かと思う文也ですが、時代は進んでいきます。その場面転換はSF的、お約束を吹っ飛ばしていきます。なんせ中年男が「ここは次元がアレで、アレだから」と理解不能なことを言い続ける世界です。やがて、文也はこの中年男が自分の30年後の姿だということがわかります。

ははぁ〜これは未来からきた男が、現在の文也に向かって人生の決断を諭す映画だろうと思われるかもしれませんが、裏切られます。立場が逆転してゆくのです。うだつの上がらない未来の自分に向かって、高校生の文也が、お前こそどうなんだと迫っていくのです。48歳の現在を生きる男は、30年前の自分に、お前の今の人生はどうなんだと詰問される羽目になります。

そしてラスト、若い時に駆け落ちして家を飛び出した母が老いて、死が近いことを知った現在の文也は、病院でその母と対峙します。とてもいいシーンで涙が溢れます。が、しかし、そんなバカな〜ワハハと笑ってしまうエンドが待っています。(劇場内も方々で笑い声が聞こえました)最後のセリフで、あなたも私も自分の人生間違っていない!と確信に至るという離れ業を決めるのです。ここは言えません。ぜひ劇場で、そうだ!そうだ!と声をあげてください。素敵な70分になること間違いなしです。

監督の谷健二は1976年生まれ。映画の世界を夢見て上京し、数多くの自主映画に携わった後、2016年監督としてデビューしました。ワタクシ応援します!

2020年冬、渋谷区幡ヶ谷のバス停を寝場所にしていたホームレスの女性が襲われて亡くなる事件が起きました。この事件を基に梶原阿貴が脚本を書き、高橋伴明が監督をした「夜明けまでバス停で」(京都シネマにて上映中)は、切実な映画でした。

主人公の三知子(板谷由夏)は、焼き鳥屋で住み込みアルバイトとして働いていました。決して職場環境は良いものではありませんでしたが、それなりに生活していました。しかしコロナ禍で、いきなり店は閉店、即刻解雇、その上退職金もピンハネされてしまいます。あてにしていた次の職場もやはり閉鎖。彼女は職も住む場所も一気に失ってしまいます。所持金は数千円。生理用品一つにしても、一番安く多く入っているものを必死で探して買わなければなりません。

行くあてのなくなった三知子は、最終バスが出た後のバス停のベンチを寝ぐらにします。「東京オリンピック」の旗がいたるところではためき、一方で多くのホームレスが街のあちこちに寝場所を作っているシーンが何度か登場します。偽物の繁栄の下、貧困生活を強いられる姿が対比して描かれます。

そこで三知子は公園を住処とするホームレスの、不思議な老人(柄本明)に出会います。かつて爆弾を作り、企業爆破をしていた男です。老人は、警察に捕まったとき、映画館で「仁義なき闘い第4部『頂上作戦』」を観ていたと話し出します。そして、その名ラストシーンを再現します。あ、これ、監督は意図的にやっているなと思いました。(ワタクシ、仁義なき闘いは繰り返し見ているのでかなり詳しいのです)

仁義なき闘いは、戦争に駆り出され、戦後は国に見捨てられて男たちの映画。主人公は、修羅場を生き抜き、てんでバラバラに弾ける組織をまとめようとしたものの失敗、刑務所に収監されるところがラストです。戦後のヤクザ社会を生きた男が、老いた身を振り返りながら、やはり刑務所に収監される同士から、長い刑務所暮らしを「辛抱せえや」と言われて映画は終わります。もし、こんな男が辛抱して真面目に社会に復帰したとしても、生きる道が残っていたでしょうか。きっとこのホームレスの男になっていたはずです。

本作品のファーストシーンは、バス停で眠る三知子の頭に、男がレンガを持って襲いかかるところから始まります。定石どおりなら、彼女に起こる悲劇へ突き進むのですが、監督は、安易な正義や社会的メッセージをかざすことをせず、また同情に走ることもなく、ささやかな連帯に希望に託します。そしてエンディングに登場する国会が爆破されるシーン。これは、彼女の妄想か、監督の怒りか。

社会の矛盾や歪みを、ズバリ直視した作品でした。オススメの一本です。

 

 

 

 

村上春樹が通っていた映画館の写真や大学在学中に読んでいたシナリオ、彼のエッセイや小説に登場する数多くの映画、そして小説を映画化した作品等に関する豊富な資料から、春樹文学と映画の世界を辿る「村上春樹映画の旅」(新刊/フィルムアート社2420円)。

監修は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館で、ここで開催された「村上春樹|映画の旅」展覧会の公式図録です。全5章に分けられていて、第2章「映画との旅」では、小説以外の作品で言及してきた映画を取り上げ、第3章「小説のなかの映画」では、作品に登場する映画を調べ上げ、映画のワンカットやポスターなどを紹介しています。この二つの章を読んで、こんなにも映画作品が登場してきていたことに驚きました。もともと、シナリオライターになるつもりだったから、多くの作品を観て本の中に登場させていたのは当然かもしれませんが。

「1973年のピンボール」の「マルタの鷹」、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」における「第三の男」、「ノルウェイの森」における「卒業」、「国境の南、太陽の西」における「カサブランカ」等々、ハリウッド黄金期の映画がポンポン登場しています。最近の「騎士団長殺し」には、恐怖映画「シャイニング」まで出てくるみたいです。(すみません、読んでません)春樹の多くの作品から映画に言及している文章だけを抜き出しすなんて、並大抵の努力ではありません!

後半には様々な人たちによるエッセイが掲載されいますが、あ、これよくわかると思ったのが長谷正人による「サブカルチャーとしての村上春樹と自主映画」でした。

「1979年、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』が発表されたとき、私は大学一年生だった。それを読んだときの、あの新鮮な衝撃をどう説明したら分かってもらえるだろうか」

ハイ私も大学生でした。胸にグッと食い込んでくるとでもいうのか、この小説が運んでくるアメリカ西海岸的な雰囲気に酔っ払っていた気がします。数年後、大学をほっといて西海岸へ行ったのは「風の歌を聴け」のせいかもしれません。

春樹ファン、映画ファンに一読をお勧めします。

 

久々にミニマリズムに徹した映画に出会いました。登場人物は4人ほど。舞台は森にある二軒の家。音楽もなし。そして上映時間は約80分。減らせるものは全て減らしたような映画「秘密の森の、その向こう」(アップリング京都にて上映中)です。

味も素っ気もない家に佇む二人の少女を捉えるだけの映画といっても過言ではないのですが、その映画に流れる時間の豊かなこと。恐ろしく端正な美を生み出す全てのカットに、セリーヌ・シアマ監督の魂が宿っていると思います。

不思議な物語です。8歳の少女ネリーの大好きだった祖母が亡くなります。このシーンも病院の空のベッドをワンカット見せるだけ。ネリーと母親は、家財の整理のために森の奥にポツンと建つ祖母の家を訪れます。しかし、祖母の持っている品々を見るにつけ、その思い出に苦しめられる母親は不意に姿を消します。これも父親の「お母さんは出て行った」の一言だけで描かれます。

一人残されたネリーは、母親が幼かった時に遊んだ森に出かけます。そこで、同い年の少女に出会います。彼女の名前はマリオン。ネリーの母親と同じ名前です。マリオンはネリーを自宅に誘います、ここも森にポツンと建っている家で、ネリーの家同様なんの装飾もない家です。そして、そこで彼女はマリオンの母に出会います。それはネリーのおばあちゃん。

マリオンはネリーの母親の幼い姿であり、ネリーは、会えるはずのない幼少の時の母と仲良くなっているのです。え?なにその話??でもそれはあくまでも象徴的な存在でしかありません。

祖母、母、娘の三代にわたる女性の救済が根底にあると思います。監督は、そのテーマを削いで削いで作り出した映像で届けてくれました。まるで宝石のような映画です。一緒に森を走り、ボートで湖に乗り出し、二人でご飯を作る。それだけなのに、とても心が穏やかになる不思議な映画です。

コラムニストの山崎まどかが「幼心だけが理解できる悲しみがあり、かけてあげられる優しい言葉がある。二人の少女の交流に、こんがらがった関係のままでいるたくさんの母と娘が救われるはず。」とコメントを寄せています。

「かもめ食堂」や「めがね」等、独特のリズムのある映画を作ってきた荻上直子監督の最新作「川っぺりムコリッタ」は、今年観た映画の中でも印象に残る作品でした。(Movix京都で上映中)

できれば映画館で観ていただきたい作品です。で、どんな映画?と問われれば、松山ケンイチ扮する前科者の山田が、ムロツヨシ扮する明るいのか暗いのかわからん不思議な男島田幸三と二人で、炊き立てのご飯にイカの塩辛を乗せて、食事するのを見守る映画です。え?そんな映画が面白いの??と言いたくなるかもしれませんが、これがメチャメチャいいんです。

山田が、出所後、北陸のイカの塩辛工場で働き出すところから始まります。そして社長に紹介された「ハイツ・ムコリッタ」という安アパートで暮らすことになります。風呂上がりに冷えたミルクを飲む、という唯一の楽しみを、初対面の隣人の島田に邪魔されます。厚かましくも「風呂貸してよ」と顔を出し、そこから不思議な付き合いがが始まります。

息子を連れて、いつも喪服を着ているお墓のセールスマンの溝口さんとか、一風変わった人が住んでいるアパートで、最初は頑なに閉じていた山田が少しずつ、少しずつ心を開いてゆきます。そのきっかけが、島田と食べる白ご飯なのです。殺風景な部屋で、男二人がご飯にイカの塩辛を乗せて、本当に美味しそうに食べるシーンが何度も登場します。人の幸せは食にある!という事を映画は語っているようです。「足るを知る」という言葉が、ふと浮かんできました。

この映画では、扇風機の回る音、川のせせらぎ、蝉の鳴き声、鳥のさえずり、にわか雨、あるいは風の音などが見事に捉えられています。いつもそばにあるそんな音が心地よく響いてくる時、生きている小さな幸せを感じるのかもしれません。ささやかだからこそ、映画館で観て欲しいのです。

ここに生きている人々は、みんなそれぞれ心に闇があり、傷を持っています。映画の中ではいちいち詳しく語りませんが、ワケありの人たちが、友達でもなく、家族でもない、でも孤独ではない関係でいる。「ハイツムコリッタ」は、そんな居心地の良い場所なのです。生と死が柔らかくつながっているような場所でもあります。

落語家の立川志の輔の推薦の言葉が、本作品の真髄を言い当てています。「心の老廃物が全部でて、あーあ、すっきりした!ご飯が食べたい!魂のデトックスにぴったりな映画」オススメです。

ペルーの先住民族アイマラ族の言葉による長編映画として話題となり、国内外で高い評価を受け、近年のペルー映画の最高作と評された「アンデスふたりぼっち」という映画を観ました。標高5000mを越える厳しい自然の中に、ポツンと建つ家に住む老夫婦が主人公で、この二人以外の人間は出てきません。

都会に出た息子が戻るのを待つ、妻パクシと夫ウィルカ。アイマラ人の伝統的生活を営み、二人はリャマと羊と暮らしていました。寒い夜を温めてくれるポンチョを織り、コカの葉を噛み、日々の糧を母なる大地のパチャママに祈るという生活です。

穏やかな気候のもとで、毛刈りをして、畑を耕す二人。まるで小津映画に登場するような老夫婦の、穏やかな日々を描いてゆくのだと思って、その牧歌的雰囲気を安心して観ていました。

しかし暫くして、この二人は何のためにここで生きているのだろう?という疑問が湧き上がってきました。こんな辺鄙な所に住む両親に、息子はとっくに愛想をつかしていて音信はありません。豊穣な土地があるわけでもなく、牧場をするには歳を取り過ぎています。物質的金銭的幸せも、精神的幸せもないここで、生きる意味って何だろう。私たちは幸せになるために生きているのに、二人にとって幸せとは何?映画は、「生きる」という本質的な意味を問い詰められているように思えました。

しかし、後半、そんな私の個人的な思いなんぞ木っ端微塵にしてしまう展開が待っていました。ある日、リャマを伴って村に買物に向かったウィルカが、途中で怪我をして動けなくなってしまいます。探しに来たパクシに救助されるのですが、身体へのダメージは大きく、その後の生活に支障をきたします。その上、飼っていた羊が全て狐に噛み殺される惨劇が起きます。ズタズタになった子羊を抱き上げて泣くパクシ。土の中に埋められる羊をカメラが真正面から捉えます。

肉がなくなり、コカの葉も在庫が無くなってしまいます。さらに、ロウソクの火が家に燃え移り全焼してしまいます。年老いた二人にはなすすべもありません。残った納屋で何とか暖をとるのですが、食べるものはありません。ウィルカも衰弱していきます。困ったパクシは、可愛がっっていたリャマを襲い、泣きながら何度もナイフを刺して、肉を取り出します。が、ウィルカは死んでしまいます。

もう、このあたりで席を立とうと思いましたが、そうはさせじという強い力が画面から送られてくるみたいに、座席に縛り付けられました。ラスト、一人雪山にむかうパクシ。姥捨山みたいなエンディング。90分ほどの映画でしたが、これほど重く、辛く、素晴らしい映画は滅多にないと思いました。

監督はオスカル・カタコラ。ペルーのプーノ県アコラ生まれ、アイマラ族出身。本作は史上初のアイマラ語映画でした。が、第二作撮影中に亡くなりました。享年34歳、本作が初の長編映画であり遺作になってしまいました。残念です。